バイロイト祝祭管弦楽団
バイロイト祝祭合唱団(合唱指揮エバハルト・フリードリヒ)
ブリュンヒルデ:ルアナ・デヴォル
ジークフリート:ウォルフガング・シュミット
ハーゲン:ジョン・トムリンソン
グンター:ハンス=ヨアヒム・ケテルセン
アルベリヒ:ギュンター・フォン・カンネン
グートルーネ:リカルダ・メルデ
第1のノルン:メッテ・アイシング
第2のノルン:イルムガルト・ヴィルスマイヤー
第3のノルン:ユーディット・ネーメット
ヴォーグリンデ:ドロテア・ヤンセン
ヴェルグンデ:ナターシャ・ペトリンスキー
フロスヒルデ:ラウラ・ニュケーネン
(2001年8月1日 バイロイト祝祭劇場 ライヴ録音/バイエルン放送協会/NHK・FM)
八月の盆の入りに墓参へ行ったところ、盆の時季なのに管理事務所が無人のままで花や樒の切った束も売っていませんでした。コロナ禍の間にやはり常時無人化したようです。それにともなって霊園内の草刈り等の維持作業の頻度も低下して、雑草が目立っていました。それから鹿の糞に似た丸い固形物がやっぱり散らばっていて、考えてみると管理事務所の無人化と糞らしきものが目につくようになったタイミングがそこそこ合っていました。人の気配が少なくなって何らかの動物が霊園内を縄張りにし出したのでしょう。それに墓終いをしてまき石が除かれた区画も増えています。何となく地域的な衰退、黄昏を思わせる光景です。無人化といえば京阪宇治線の大半の駅が無人化され、電車もワンマン運転(車掌無し)です。そういう自分も滅多に宇治線の電車に乗らなくなったので勝手な不平はやめておきます。
さて、FM放送を録音したバイロイト音楽祭から2009年と2001年の指環を聴いています。2001年のバイロイト音楽祭の演目は第九に続いてローエングエリン、指環、マイスタージンガー、パルジファルでした。ティーレマンが第九、マイスタージンガー、パルジファルを指揮してローエングリンはパッパーノでした。ユルゲン・フリム演出だった指環の二年目はシノーポリが続いて指揮するはずだったのが、この年四月に急逝したので急遽アダム・フィッシャーが代役を務めることになりました。年末のFM放送では解説の三澤洋史氏がアダム・フィッシャーについてなかなかコメントしませんでしたが、ジークフリートの回で代役以上の出来だとしてほめていました。祝祭管弦楽団らは前年のシノーポリの強烈な個性に比べると物足らないという意見もあったようですが、その年はイタリア人に指環は無理とかグチャグチャ不平を鳴らしたのにとフィッシャーを擁護してアンチ批判をしていました。
実際に四部作全部をDATテープを再生しながらSDカードへ再録音して聴いていると、まず「ラインの黄金」の鮮烈さに大いに感銘を受けました。その次が「神々の黄昏」です。2009年の指環の解説(東条氏)では演出より指揮者の方に関心が集まるティーレマンは近年では稀として賞賛していましたが、アダム・フィッシャーも優るとも劣らない素晴らしさだと思いました。各幕の終了後、ブラボーと同時にブーの叫びも混じっていて、これは不出来な歌手か演出に対する反応なのか。指環の各作品の中でジークフリートの死の告知、ヴォータンの別れ等の場面があるワルキューレ以外はあまり生身の人間の感情が豊かではなく、運命やら呪いやらに導かれるといった硬直感が伴うと思っていましたが、2001年の指環は妙に人肌というか、生気にあふれた内容だと思いました。
主要キャストの中ではブリュンヒルデのデヴォルが特に目立っていました。往年の名歌手の名は出さないとして、これを聴いていると当時劇場で聴きたかったとしみじみ思いました。一方のジークフリートは「神々の黄昏」になってちょっと微妙な印象で、元々の声質なのか歌唱方がこんな感じなのか、地味な声にきこえます。ハーゲンのトムリンソン、アルベリヒのフォン・カンネンらの方が妙に魅力的に聴こえました。「ジークフリート」の時は違和感なく聴いていて、そんなに変わっていないはずなのに。
八月の盆の入りに墓参へ行ったところ、盆の時季なのに管理事務所が無人のままで花や樒の切った束も売っていませんでした。コロナ禍の間にやはり常時無人化したようです。それにともなって霊園内の草刈り等の維持作業の頻度も低下して、雑草が目立っていました。それから鹿の糞に似た丸い固形物がやっぱり散らばっていて、考えてみると管理事務所の無人化と糞らしきものが目につくようになったタイミングがそこそこ合っていました。人の気配が少なくなって何らかの動物が霊園内を縄張りにし出したのでしょう。それに墓終いをしてまき石が除かれた区画も増えています。何となく地域的な衰退、黄昏を思わせる光景です。無人化といえば京阪宇治線の大半の駅が無人化され、電車もワンマン運転(車掌無し)です。そういう自分も滅多に宇治線の電車に乗らなくなったので勝手な不平はやめておきます。
さて、FM放送を録音したバイロイト音楽祭から2009年と2001年の指環を聴いています。2001年のバイロイト音楽祭の演目は第九に続いてローエングエリン、指環、マイスタージンガー、パルジファルでした。ティーレマンが第九、マイスタージンガー、パルジファルを指揮してローエングリンはパッパーノでした。ユルゲン・フリム演出だった指環の二年目はシノーポリが続いて指揮するはずだったのが、この年四月に急逝したので急遽アダム・フィッシャーが代役を務めることになりました。年末のFM放送では解説の三澤洋史氏がアダム・フィッシャーについてなかなかコメントしませんでしたが、ジークフリートの回で代役以上の出来だとしてほめていました。祝祭管弦楽団らは前年のシノーポリの強烈な個性に比べると物足らないという意見もあったようですが、その年はイタリア人に指環は無理とかグチャグチャ不平を鳴らしたのにとフィッシャーを擁護してアンチ批判をしていました。
実際に四部作全部をDATテープを再生しながらSDカードへ再録音して聴いていると、まず「ラインの黄金」の鮮烈さに大いに感銘を受けました。その次が「神々の黄昏」です。2009年の指環の解説(東条氏)では演出より指揮者の方に関心が集まるティーレマンは近年では稀として賞賛していましたが、アダム・フィッシャーも優るとも劣らない素晴らしさだと思いました。各幕の終了後、ブラボーと同時にブーの叫びも混じっていて、これは不出来な歌手か演出に対する反応なのか。指環の各作品の中でジークフリートの死の告知、ヴォータンの別れ等の場面があるワルキューレ以外はあまり生身の人間の感情が豊かではなく、運命やら呪いやらに導かれるといった硬直感が伴うと思っていましたが、2001年の指環は妙に人肌というか、生気にあふれた内容だと思いました。
主要キャストの中ではブリュンヒルデのデヴォルが特に目立っていました。往年の名歌手の名は出さないとして、これを聴いていると当時劇場で聴きたかったとしみじみ思いました。一方のジークフリートは「神々の黄昏」になってちょっと微妙な印象で、元々の声質なのか歌唱方がこんな感じなのか、地味な声にきこえます。ハーゲンのトムリンソン、アルベリヒのフォン・カンネンらの方が妙に魅力的に聴こえました。「ジークフリート」の時は違和感なく聴いていて、そんなに変わっていないはずなのに。