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新・今でもしぶとく聴いてます

クレンペラーのR.シュトラウス

3 2月

クレンペラー、PO R.シュトラウスのドン・ファン/1960年

150630リヒャルト・シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」作品20

オットー・クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

(1960年3月 ロンドン,キングズウェイ・ホール 録音 EMI)

 リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」は冒頭部分がたしかN響アワーのテーマとして使われたことがありました。「ドン・ファン」は1887年から翌年にかけて作曲され、1889年にR.シュトラウスの指揮によってワイマールで初演されました。マクベスに続く二作目の交響詩にあたり、クレンペラーは「ドン・ファン」、「死と変容」、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」というシュトラウスの初期作品をレコーディングしてます。ツァラトストラや英雄の生涯はやっぱり録音していませんが、ドン・ファンやティルを選んだのは意外です。これは1985年のクレンペラー生誕100年の年に発売されたリマスターされたLP、「クレンペラー・エディション」の独盤です。昨年末からLPをしばしば聴くようになったので、この曲もCD化されていますがついレコードで聴いてしまいます。

 勝手に意外な選曲だとしましたがクレンペラーがさらに後年にウィーン・フィルへ客演しいた1968年6月16日にもドン・ファンを演奏していて、未完成交響曲やマイスタージンガー第一幕への前奏曲、トリスタン第一幕への前奏曲ら、他のライヴ音源でも見慣れた曲と組み合わされていることからも、戦後のレパートリーとして自信があったのでしょう(1956年のトリノでは未完成、マイスタージンガー前奏曲と、R.シュトラウス作品はティルを選んでいる)。

 実際に聴いてみると冒頭部分が鋭く、勢いよく始まるのに驚き、マーラーの第2番にこそふさわしいような激しさだと思いました。しかし、同時にケンペとシュターツカペレ・ドレスデンのCDを聴いていたのでそれに比べるとテンポは遅く、やっぱりクレンペラーらしい演奏だと我にかえりました。クレンペラーは指揮者として意識する、ライバル的な見方をしていたのはトスカニーニ、セルあたりだったようでした。その一方で自身を作曲家としてまず位置付けているふしがあり、マーラーやシュトラウスの指揮の方こそ価値があると考えている口ぶりでもありました。セルも作曲したものが残っているようですがトスカニーニはニキシュと共に作曲をしない指揮者として特にマーラーと対照的な存在としていました。

 このドン・ファンを聴いていると徹底的にオーケストラの技巧、完璧さを追求するかに見えてそうでもなく、独自の再創造的なとらえ方で作品を見ているような印象です。これを徹底すれば後年のマーラー第7番のような演奏になるのかどうか、それはともかくとしてR.シュトラウスの初期作品にも十分な、ブルックナーやベートーヴェンらと同じように、敬意を持っているのだろうと想像されます。個人的にはシュトラウスの交響詩はあまり好きでなくて、オーケストラのコンサート曲目に入っていたら行くのは止めておくか、くらいの意識でしたが、ここ1ケ月くらいでクレンペラーのLPを聴いていて急に親近感が増しました。
28 1月

クレンペラー・イン・トリノ R.シュトラウスのティル

190107R.シュトラウス  交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」

オットー・クレンペラー 指揮
トリノRAI管弦楽団(トリノ放送交響楽団)

(1956年12月21日 トリノ,RAIオーディトリアム ライヴ録音 Fonit Cetra)

 春の選抜高校野球の出場校が決まり、この金曜からはもう二月に入ります。このブログも2010年にOCNのサービスで始めてからまる9年が経過します。そんなに経ったという実感はないものの、体力の衰えというか年齢相応(それ以上か)の劣化は痛感します。一つ顕著なことは「歩く速度」が遅くなったことで、普段平坦な街中を歩いていても女性、そこそこ高齢な人に追い越されることがしばしばあります。それに、たいした距離を歩いていないのに足のかかと辺りが痛くなったりして(昔は一日中歩きまくった時にしか出ない症状)先が思いやられます。ブログの過去記事について段々と記憶があいまいになってきて、初期の頃のものはもうすっかり忘れていますが、R.シュトラウスの管弦楽曲はかなり手薄な分野なのはあ違いないと思います。元々好きな作品がほとんど無かったからですが、先月来クレンペラーのLPを聴いていてシュトラウスのことも思い出していました。

181216a クレンペラーもR.シュトラウスの生前に交流があり、シュトラウスの指揮を大いに賞賛していましたが、その作品の方はあまり多くは指揮していませんでした。オペラの全曲録音は一つも無く、ハンガリー国立歌劇場のライヴ音源にも入っていません(珍しいものではオッフェンバックのホフマン物語があるのにR.シュトラウスは無い)。EMIへセッション録音したR.シュトラウス作品は交響詩「ドン・ファン」、「死と変容」、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」と「メタモルフォーゼン」、「サロメから七つのベールの踊り」でした。1956年12月にクレンペラーがトリノに客演した際の公演を記録した「クレンペラー・イン・トリノ」の中に
「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」が入っていて、EMのセッション録音の約3年前(EMIは1960年3月)の演奏ということになります。

 チェトラのLPで聴くからか、先日のストラヴィンスキーやショスタコーヴィチ同様に艶のある幾分柔軟な美しさが印象的で、とかく堅苦しいイメージを持ってしまうクレンペラーの演奏にしては意外な美点を感じさせます。EMIへの録音はどんな感じだったか、あまり強い印象は覚えていませんがもっと遅くてギクシャクとした演奏だった気がします。トリノ客演のLPは全曲CD化されていますが、CDで聴くとこの曲もちょっと違った印象かもしれません(今回連続して聴いていない)。

 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」は1894年から翌年にかけて作曲されたR.シュトラウスの四作品目の交響詩でした。当初はオペラとして構想したところ、直前に作曲した歌劇「グンドラム」の初演が失敗だったこともあり交響詩として作曲しました。この曲はティルが最後に死刑になるのにそこそこ明るい作風なのが不思議で、たしか「のだめカンタービレ」の中でも登場したと思います。

 クレンペラーはシュトラウスの作品の中で晩年のものは否定的に見ている言動があり、かといって初期の歌劇・楽劇についても絶賛という風ではなくて、「ばらの騎士」も「全てが甘い砂糖水にどっぷり浸かってしまった」と評しています。交響詩
「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」はわざわざ録音しているくらいなので作品自体に愛着があるのだろうと思いますが(「死と変容」はコンサートで聴いて深い感銘を受けたと言っている)、それならナクソス島のアリアドネあたりは全曲録音していても良さそうなので、どうも判断の基準がよく分かりません(マーラー作品でも取り上げていないものがあるのと同様に不可解)。
8 7月

R.シュトラウスのメタモルフォーゼン クレンペラー・PO

150708bリヒャルト・シュトラウス メタモルフォーゼン~23の独奏弦楽器のための習作

オットー・クレンペラー 指揮

フィルハーモニア管弦楽団

(1961年11月 ロンドン,キングスウェイホール 録音 EMI)


 クレンペラーが世を去った1973年7月6日金曜日にクレンペラーの娘、ロッテが親交のあったパウル・デッサウへ向けて発した電報によるとクレンペラーの葬儀は四日後の火曜日、7月10日の午前中に行われました。クレンペラーは戦前のケルン時代にカトリック教会で洗礼を受け(ユダヤ系だったので誕生直後にキリスト教の洗礼を受けることは無かった)ていましたが、1967年2月に公式に教会を離れたと言っています。ユダヤ教に戻る手続きのようなものを何時行ったか、そもそも誕生直後にユダヤ人(教徒)の男子が受ける割礼を受けていたのか未確認ですが、ともかくユダヤ教の墓地へ葬られています。こういう事柄は日本ではあまり縁が無く、鎖国時代が長かったので実感がわかない問題です。とにかくクレンペラーの葬儀があったとされる10日まで、もう少しだけクレンペラーの録音を聴きつつ遺徳を偲びたいと思います。

150708a リヒャルト・シュトラウスが1944年から1945年にかけて作曲し、ドイツ敗戦の直前に完成させたメタモルフォーゼン(Metamorphosen)、23の独奏弦楽器のための習作はクレンペラーが録音を残した数少ないシュトラウス作品の一つでした。EMIへの録音の機会以外でも演奏したことがあるはずですが、クレンペラーはブダペストのハンガリー国立歌劇場時代に演奏したと語っています。そうだとすればそれは作曲後二年から五年以内に演奏したことになり、晩年のシュトラウス作品にネガティヴな見解だったクレンペラーにしては素早い行動です。実際、「クレンペラーとの対話 P.ヘイワーズ編」の中でメタモルフォーゼンについて、「戦争とともに彼の創作がぱったりとまってしまった」、「つまり晩年の作品はたいして重要ではないのです」としながらも、「ただ、『メタモルフォーゼン』は基本的にはかなり良い作品だと思いますがね」と言及しています。

 このCDでメタモルフォーゼンを聴いていると「四つの最後の歌」と似ているようで、まるで夕映えの明るさのような得も言われない寂しい輝きを放っています。戦争とともにシュトラウスの創作が止まった、枯れたことを不思議だとクレンペラーは言ったようですが、それは嫌味なのか本音なのか。もし後者だったらクレンペラーもまた、クレンペラーがシュトラウスをマーラーと比較してそう称していたように、何かが欠けている人物だったかもしれません。ただ、クレンペラーのこの演奏を聴いていると燃えるような美しさで圧倒されます。だから、シュトラウスがこういう作品を作った心情への共感も十分あったと考えられます。共感どころか、在りし日のドイツを想って惜しんでいることにかけてはシュトラウス以上にそうである(聖パウロの使徒書簡の表現を借りれば「気が変になったように言う」)、とでも言いたげな入魂の演奏です。

 クレンペラーと親交があった哲学者のエルンスト・ブロッホは、クレンペラーは全く論理的な人間でないけれど指揮をはじめるやいなや、とたんにものすごく論理的になると評していました。言われてみて成るほどそうかもしれないと思う指摘です。クレンペラーのシュトラウスに対する感情も複雑そうです。ところで、リヒャルト・シュトラウスの戦後の境遇ですが、彼はドイツの敗戦によって印税等は全て敵国資産として押収されたものの、スイスの保養地のポントレシーナの最高級のホテルに滞在してブージー・アンド・ホーク社(シュトラウス作品を出版する会社)の社長エルンスト・ホークから月々に手当を受けていたのでそこそこ不自由のない暮らしは送っていました。

30 6月

R.シュトラウス「死と変容」 クレンペラー、フィルハーモニアO

150630リヒャルト・シュトラウス 交響詩「死と変容」作品24


オットー・クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団


(1960年10-11月 録音 EMI)

 クレンペラーはハンブルクに住んでいた15歳の頃、母親に連れていかれたコンサートでリヒャルト・シュトラウスの交響詩「死と変容(浄化)」を聴いて、強烈な印象を受けてこの作品を素晴らしいと思ったと後年振り返っています(オーケストラの響き、全体の構成)。それがハンブルクでの初演(各都市についていちいち初演と言えばきりがないと思うが)だったらしく、そのコンサートの印象がよほど強かったのか、シュトラウスの作品は第一次大戦までのものを気に入り、認めているようです。そのように「死と変容」に感銘を受けたとしながらも、録音の面ではEMIへのセッション録音が唯一になっています。「ドン・ファン」はライヴ音源が何種かありました。

 エルンスト・ブロッホからオットー・クレンペラーへの手紙、1967年11月26日
 ラジオで君の指揮する「死と変容」を聴いたところだ。すばらしい。これまで聴いたことのなかった声部、最後で盛り上がっていく安息というパラドクス、三度にわたる掛留。リヒャルト・シュトラウスは途方もないことを達成している。深遠さだ。ありがとう。君の手を握るよ。この変容が僕らのものとなりますように。君のエルンスト。 ~ 「オットー・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生 (エーファ・ヴァイスヴァイラー)」

 クレンペラーが残したR.シュトラウスの録音は、交響詩「ドン・ファン」、「死と変容」、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、サロメから「七つのヴェールの踊り」、「メタモルフォーゼン~23の独奏弦楽器のための習作」くらいでした。他にも有名な作品はあるのに、マーラー作品に対するのと同じで取り上げる曲を選んでいます。

150630a 実はリヒャルト・シュトラウス作品はジャンルを問わず大半はあまり好きでなく、今世紀に入る頃から「四つの最後の歌」と「カプリッチョ」、「アラベラ」等のオペラ、交響的幻想曲「イタリアから」、アルプス交響曲くらいが積極的に好きと思うようになりました。だからクレンペラーのEMI録音であってもリヒャルト・シュトラウス作品は聴く頻度はかなり低く、関心も湧きませんでした。それでも「クレンペラーとの対話 P.ヘイワーズ編 」にも載っていたクレンペラーが15歳の経験があったので、既に国内盤LPが入手困難になっていた頃に輸入・廉価盤を取り寄せて聴けました(上の写真がそのジャケット、ザ クレンペラー エディション)。そのことを命日が近づいた最近思い出したのと、ブロッホの手紙が目にとまってそんなにすごかったかと急に気になり、CDとLPレコードを取り出して聴いてみました。そもそも他の演奏者も含めて作品自体を聴いた回数が少ないので多くのコメントは出できませんが、遅まきながら食わず嫌い的なR.シュトラウスへの偏見を矯正させられる感銘度です。クレンペラーが演奏するシューベルトやベートーベンと同じ響きで、木漏れ日のように聴こえる木管の特徴的な音色も同じです。

 交響詩「死と変容」作品24は1889年に完成し、1890年6月21日に作曲者自身の指揮によってアイゼナハ市立劇場で初演されました。シュトラウスはドン・ファンに続くこの曲で決定的な成功を手にし、クレンペラーが言うには1890年代のシュトラウスはドイツ人にとって希望の新人であり、神聖侵すべからざる存在だったということです。「死と変容」は交響詩と言いながら、詩や物語をもとにして作曲されたのではなく、標題もありませんでした。曲ができてから詩人のアレクサンダー・リッターに相応しい詩を作るように頼んで、作詞者の名を伏せて総譜の冒頭に冠せられました。こういう経緯は最後のオペラ「カプリッチョ」のテーマにも通じるようで面白く、シュトラウスも晩年までぶれなかった?ような姿勢がうかがわれます。

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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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