オットー=クレンペラー 指揮
先日の朝、出勤時に川端通を北上していて団栗通の交差点を過ぎた辺りで日本髪に和服の女性、どうも芸妓の普段着姿のようでした。暴露騒動の直後ながら何事もなかったかのようにか、鬱々としながらか、とにかく和装で歩いていました。既に祇園祭りの期間に入り、今年もオットー=クレンペラーの命日、クレンペラー忌がめぐってきました。冒頭のロッテ=クレンペラーの電報は二週間以上前に書き出して予約投稿にしていたので、もし7月6日より前に自分の命日がやってきてたら更新記事が未完成のままUPされるのかと思って見ていました。昨日の朝、地下鉄の京都市役所前駅から地上へ出たところでクマ蝉が盛大に鳴いていました(出てきやがった)。正真正銘今年も夏に突入です。
今回はクレンペラーがフィルハーモニアの定期で演奏したがっていたところをレッグに止められていたというブルックナーの交響曲第6番です。「第2楽章の第3主題が葬送行進曲に似ている」という諸石幸生氏の解説がCDのライナーには載っていて、そこだけでも命日にふさわしいといったところです。ただ、クレンペラーの場合はあまり情緒先行な方ではないので結構ドライな命日です。しかし重厚さも十分なので第5番と7番の狭間の作品どころか存在感は十分です。
今回はLPの独逸・初期盤を聴きました。第1楽章から遅目のテンポで起き上がるように開始するのは昔、四十年くらい前に聴いた時の感触と同じです。その時は東芝EMIの国内再発売盤、「クレンペラーの芸術/1800円」シリーズでした。その当時、はじめてこの曲を聴いた時から作品自体にすっかり魅せられて、同時に他の演奏はどうも受け付け難いような中毒症状にもかかりました。それが解けたのはアイヒホルンとリンツ・ブルックナー管の穏やかな演奏を聴いた時でした。それにしても初期盤のLPでも英国盤と独逸盤ではそんなに違うのかどうか分かりませんが、EMIなら初期盤といえば英国盤を指しているようです。
軋む(きしむ)、たわむ(撓む)、後者は少し違うとして、何かが軋み、構造や材質に関心が行くことはクレンペラーの演奏に付いて回る事柄だと思います。ブルックナーを指揮した場合でもそれは同じだろうと思いました。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の支配人が、半世紀程昔に聴いたクレンペラーの指揮、演奏を振り返っています。「並はずれて背が高く、その突き刺すような眼光がマーラーを思わせるクレンペラーが指揮台にあがったとき、会場に軋む音が走った」と。そして、「感激した聴衆は、非常に個性的で伝統的解釈とはまったく異なるものを聴いたのである」、「フィルハーモニー管弦楽団は、いつもの柔らかく豊満な音ではなく、少々無愛想ながらも、たいへん透きとおり、均整のとれたオーケストラの響きを出しはじめた」、「二十年代のベルリンでは、オットー・クレンペラーのような比較的若い指揮者が、これほどの大当たりをとることは滅多になく、彼の解釈もフルトヴェングラーやヴァルターのほとんど正反対と言えるものだった」と。最近LPを再生しているのはサブの器機(LPのプレーヤー以外はメインとそんなに価格・グレード差は無いけど)なので、何とかメインの方で音量を上げて聴きたいところです。