raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

クレンペラーのドヴォルザーク

22 3月

クレンペラーの新世界交響曲・PO/1963年/SACD化

210322ドヴォルザーク 交響曲 第9番 ホ短調 作品95 「新世界より」

オットー=クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

(1963年10月30,31日,11月1,2日 ロンドン,キングスウェイホール 録音 TOWER RECORDS DEFINITION SERIES/EMI)

 山上たつひこという漫画家、小説家は「光る風」、「かぎデカ」等の漫画で有名でした。その二作品は作風が全く異なるので、がきデカとか新喜劇思想体系に転換した際には作者に何が起こったのかと不思議におもう程です。シリアスな内容の「光る風」は劇画「ゴルゴ13」で国際問題を学んだとうそぶく某大臣にはいま一度読んでほしいような作品です。その山上作品のなかで「蟇蛙 祈るかたちに 枯れつくす」という俳句が出てきました。作者自身の句なのか有名な俳人のものなのか分かりませんが、お彼岸に墓地へ行った時に墓石の下に小さな青い花の雑草があったり、枯れつくしてはいないものの葉が茶色になった雑草あって、不意にその得体の知れない俳句を思い出しました。お墓の雑草はいつもなら全部むしり取るようにしていますが、花が咲いているとちょっと遠慮してしまい、花のある草は残して帰りました。

 これはタワーレコードの企画でSACDハイブリッド仕様に復刻されたクレンペラーの録音集の一つで、ドヴォルザークの新世界交響曲、ワイルの小さな三文音楽からの組曲、クレンペラー作曲のオペラ「ゴール(目的地)」のメリー・ワルツが入っています。この新世界が録音された
1963年のクレンペラーは前年の極度の鬱状態(20キロ以上体重が減ったとか)から復活して心身ともに壮健だった時期だそうで、ウィーン芸術週間にフィルハーモニア管弦楽団を連れて参加した1960年以来の好調シーズンだったかもしれません。ちなみに鬱に苦しんだという1962年はフィラデルフィア管弦楽団へ客演した年で、その公演もCD化されています。

 既に何度かCD化されたものながら、このシリーズでSACD化される際のリマスターの具合からか、中には目の覚めたような鮮烈さに蘇ることもあるので注目しています。実際にSACD(2chのみ)層を聴いてみると、各パートがよくききとれる解像度というのか分離度にちょっと驚かされて、この新世界はこんな風にきこえていたのかと驚きました。元来クレンペラーのEMI盤はそういう傾向がありましたが、1959年(火傷休養以後)のいよいよ遅くなるテンポの効果も相まってそういうスタアイルによる美点が前面に出てきます。クレンペラーがアメリカ時代にこの曲を演奏した時はかなり速いテンポで荒っぽい演奏だったそうです。下記のように代々のチェコ・フィルによる新世界交響曲の演奏時間と比べて、クレンペラは合計で4分以上長くなり、ラルゴ楽章はターリヒやノイマンより短めになるのもクレンペラーらしい特徴です。

クレンペラー・PO/1963年
①12分39②12分07③8分34④12分17 計45分37

ターリヒ・チェコPO/1954年
①09分12②12分42③8分06④11分21 計41分21
アンチェル・チェコPO/1961年
①09分05②11分35③7分45④11分15 計38分40
ノイマン・チェコPO/1972年
①09分19②12分17③8分17④11分14 計41分07

 クレンペラーのドヴォルザーク・新世界は当然本場ものではないので、この作品の定番とは言えませんが一定の評判をとっていました。クレンペラーはどのレパートリー、作品でも例えば幻想、悲愴といった標題、固定化した作品のイメージのようなものにこだわらず、むしろあえてそれらを否定するなり無視するようなやり方で演奏していました。過去記事にも引用しましたが、国内盤ヘンデルのメサイアの解説書に新世界の録音時の話が載っていました。第1楽章の冒頭部分は “ Swing low, sweet chariot ” の主題までゆっくり、段々とテンポをあげて演奏する慣習があったところ、楽譜にはそのような指示はないとしてクレンペラーはそれに従わず、最初から同じ速さであっさり演奏させています。最初に演奏した際には団員が慣習に従ったけれどクレンペラーが改めさせたということでした。
20 1月

クレンペラーの新世界交響曲/ドヴォルザーク

ドヴォルザーク 交響曲 第9番 ホ短調 作品95「新世界より」


オットー=クレンペラー 指揮

フィルハーモニア管弦楽団


(1963年 録音EMI)


 年末がベートーベンの交響曲第9番なら、年明けの演奏会ではドヴォルザークの新世界交響曲がプログラムに載ることがしばしばありました。最近はそうでもないようです。確かに終楽章の一番最後の部分を聴いていると、何となくこれから新しい未来が開けてきそうな清々しい気分になります。

110120  この曲の冒頭は、” Swing low, sweet chariot ”の主題のところまで、だんだんとゆっくり演奏する慣習がありましたが、この録音のクレンペラーはその伝統に従わず「急いで通り抜けてしまって」います。この点について、録音時の様子がクレンペラーのヘンデル・メサイアの国内盤LPの解説書の中に書かれてあります。オーケストラが自動的に、慣習に従って冒頭からゆっくり演奏し出すとクレンペラーは当惑したように演奏を止めて「諸君はこのシンフォニーを以前演奏したことはあるか?」と尋ねました。団員の多くは当然「はい」と答えましたが、クレンペラーは明らかに当惑の色を浮かべて「私にはそうは思えない」と言いました。「何故遅くするのか?そう記されて(スコアに)いません」と言い、その部分を最初から演奏し直しました。すると、その主題に軽快な調子が、乱れの無いきちんとしたリズムで演奏されることによって、美しく演奏された時にオーケストラの音よりひときわ高い声でクレンペラーが「そうです!」と叫びました。

 つまり、伝統的に神聖視されていたその楽章に対する解釈でも、もしそれが、音楽の内なる真実を阻害するものなら、クレンペラーにとって何の意味も無いということで、戦前のベルリン・国立歌劇場(クロールオペラ)時代から同じ姿勢です。天の邪鬼的で頑固な性格でもあり、いろいろ波風も立ちましたが老いても変わりませんでした。この曲冒頭のエピソードど同様に、新世界とか幻想、英雄等交響曲に標題的な愛称が付いていても、それが作品の内容と本質的に相いれないもの、関係があると認められないのなら、それらの標題的イメージは演奏には必要ないという姿勢で、一事が万事でした。

110120a  一曲通して聴いてみると、クレンペラーの個性が行きわたって曲の隅々まで照らし出すような演奏です。それでいて冷たいと感じさせない独特の空気です。各楽章のバランス、ひとつの曲としての統一感は例によって格別です。ただ、リズム感、あるいは風が吹き抜けるような爽快さはあまり期待できません。第3楽章などはそうした要素もあってもよいところです。この録音は、1980年代に「クレンペラーの芸術」というLPのシリーズで1枚1500円で発売されていました。最新のデジタル録音の新譜が1枚2800円という時代でした。クレンペラーの芸術シリーズは、ベートーベン、モーツアルト(ジュピターと40番は除く)の交響曲、チャイコフスキー(4~6番)、フランクの交響曲、幻想交響曲、このドボルザークの新世界等がラインナップされていましたが、一番安いシリーズでした。いろいろ褒めてみても、「クレンペラー命」な人向けのレコードという面が強かったと言えます。

 新世界交響曲の第二楽章は、キャンプファイヤの時(に限ったわけではない)歌う「遠き山に日は落ちて」という歌になっている有名な旋律が登場します。この慰めに満ちたメロディーは日本のプロテスタント教会の讃美歌にも取り入れられています。なんでも天国を題材にした歌のようです。また、第四楽章はNHK教育でアニメ化されて放送されている漫画「MAJOR」の登場人物で主人公のライバル、眉村が当番前に聴いてリラックスする曲として使われています。

 この曲はバーンスタインとNYPOのミュージック・テープで最初よく聴いていて、次にFMから録音したテンシュテットとBPOをよく聴きました。後者は曲のフィナーレが特別気に入っていました。今日は大寒で、また寒さがもりかえして来ました。そのミュージック・テープはJEUJIYA・三条店(当時は河原町通)で買ったはずで、三条大橋を渡る時には越冬で鴨川に飛来しているユリカモメが沢山居ました。鳥インフルエンザ等の影響かどうか知りませんが、橋上でパン屑をやる人も見られず、このところユリカモメの数も減ったようです。

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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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