クルト=ザンデルリンク 指揮
ベルリン交響楽団
マイナンバー制度、昨今のトラブルはさて置きまだまだ不便な点はあります。この三月に母を見送ったのでその後、介護保険料の過払い分とか色々あって、それを払い戻しますので同封の書類を返送するよう求められました。その中に死亡による除去の戸籍謄本の写しも送れというのもあって複数回郵送しました。しかし、戸籍謄本を発行するのは市町村、区役所なので、コピーを何度も郵送するのは二重手間な気がします(そもそも死亡を把握したから払い戻しの手続きが始まって郵送してきている)。相続人筆頭が本物かどうかについても戸籍謄本で分かるのだから余計にそう思いますが、まあ、職員はみだりに戸籍情報を閲覧しないということのあらわれ、と理解しておこうと思います。この辺りを身を切って徹底的に人員削減して(派遣丸投げ)省力化すると、入力ミスやらまたトラブルが発生して我々の身の方がさらに深く斬られることになりかねません。
気温が上り、不平不満が蓄積されると個人的な感情として、ショスタコーヴィチ作品の響きが何故か恋しくなりました。これは一面的な見方のあらわれだろうと思いつつも、例えば交響曲第10番の第2楽章なんかは聴いていて「負けてられるか」という気分がじわじわとわいてきます。クルト・ザンデルリンクとベルリン交響楽団は東西冷戦のただ中の時期にショスタコーヴィチの交響曲を第1、5、6、8~10、15番を連続録音していました。特に第15番は有名で、1991年にクリーヴランド管弦楽団と再録音しています。第10番はカラヤンが二度もセッション録音したので東側のザンデルリンクはちょっと地味な存在ですが、かなり魅力的です。
フィルハーモニア管弦楽団とのベートーヴェンはこれより後、1980年代の録音で、興味深いと思いながら、粘り絡み付くような感触から今一つ好きではありませんでした。しかし、そういうものがショスタコーヴィチ、特に第10番にはぴったりだと今回改めて思いました。第2楽章とか激しい曲のところよりも、静か(表面的に静か)なところの方が魅力的です。それから終楽章、最後の部分は率直に肯定するような精神で完結しているのか、上辺だけ勝利、肯定なのか、そんな風な解釈の違い、見解は分かれるようで、今回聴いているとますます後者の方じゃないかと思えてきます。それはこの曲だけに限らず、例えば交響曲第6番も微妙な終わり方、コーダから受ける余韻も似ている気がします。
ザンデルリングが交響曲第2番、3番、11番、第12番を録音しなかったのは単に日程的にチャンスが無かっただけなのか、個人的に作品への共感が少なかったからなのか(クレンペラーがマーラーの第5、6を指揮しなかったような関係)、真意が気になります。それから第4番や第13番も。第13番なんかは政府の干渉はどうだったのかとか。