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新・今でもしぶとく聴いてます

マーラーSym.10補筆版

7 5月

マーラー交響曲第10番・補筆版 ギーレン、SWRSO

マーラー 交響曲 第10番 嬰ヘ長調(クック版第3稿第1版)

ミヒャエル・ギーレン  指揮
南西ドイツ放送交響楽団(
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg

(2005年3月17-19日 フライブルク,コンツェルトハウス 録音 Hänssler)

 新年度になって、NHK・AMラジオの午前の情報番組がちょっとイメージが変わったようです。メインのパーソナリティは木曜の水道橋博士が降板しただけで他の四日間は続投なのに、なんとなくお上側からすれば「浄化」されたような妙なスッキリ感です。水道橋博士はツゥイッターを熱心にやっているそうでしたが、先月に他の曜日で twitter の再入門のようなコーナーをやっていました。しかし既に用語やら使い方を忘れてしまい、何もつぶやかず終いです。

140507  先日のオペラ「カルメル会修道女の対話」のラスト、15人分のギロチンが落ちて来る音は強い印象が残ります。それと似たような音は別の作品で聴いたことがあると思っていると、マーラーの交響曲第10番・補筆版の中でハンマーの強打のような打楽器の音が加わるところがあって、それの部分を思い出しました。第五楽章に入ったあたりで大きな打撃が現れて、居眠りしかけていたらたたき起こされます。マーラーの第10番を聴いてギロチンを連想したことは無く、氷が解けて落ちたりするむしろ前向きな光景を想像していました。「カルメル会修道女の対話」も読み替え演出によって違う描かれ方もあると思いますが、それでもマーラーの第10番と接点があるとは思い難く、ただ強い打撃音だけで繋がります。

 ギーレンは2003年中にマーラーの交響曲を第1-9番まで録音し(1988年から始めて)、全集化していました。その後に大地の歌と第10番補筆版が発売されましたが、前者は全集の九曲と録音時期が重なっています。そういうわけで第10番の補筆版がギーレンのマーラーの中で一番新しい交響曲録音ということになります。

ギーレン・SWRSO:2005年
①24分46②11分53③4分10④12分54⑤23分20 計77分03
レヴァイン・フィラデルフィア:1978年
①24分39②11分57③4分18④12分41⑤28分32 計82分09

 ギーレンは特に今世紀に入って1970-80年代の演奏とイメージが変わって人間味のある?血の通った?演奏になってきたようなことが時々指摘されます。そうした指摘に注目すればこの第10番は、かつての冷血なギーレンの演奏とは一線を画するくらいのはずですが、正直そんなに大きく変わったような驚きは感じません。あいかわらず金属の光沢を思わせる弦とかは共通のように思えます。演奏時間・トラックタイムは第五楽章以外は35年以上昔のレヴァインのセッション録音と大差ありません。補筆の稿・版はギーレン盤と同じ(確かめられないがそのように表記、紹介されている)なので、第五楽章のこの差は大きいものです。

17 6月

マーラー交響曲第10番補筆マゼッティ版第2稿 ロペス・コボス

マーラー 交響曲 第10番 嬰ヘ長調(マゼッティ版第2稿)
 
ヘスス・ロペス=コボス 指揮
シンシナティ交響楽団

(2000年2月6-7 シンシナティ・ミュージックホール 録音 TELARC)

120614  この交響曲第10番は1910年に開始されましたが、翌年のマーラーの死によって第1楽章が完成されただけに終わりました。それでも先日来扱った同い年であるフーゴー・ヴォルフが亡くなった7年後の作曲です。補筆完成版のマーラー第10番なら、デリック・クックによるものだけだと思っているとクック版に第1-3稿(第3稿には1、2版有)まであり、それ以外にもバルシャイ版、カーペンター版、マゼッティ版(第1、2稿有)、ホイーラー版、サマーレ&マッツーカ版と多数ありました。このCDはマゼッティ版第2稿の完成後間もない時期に演奏、CD化されたものです。マーラー第10番の断片的な解説をひらっていると、基本的にはクック版によっている、くらいしか分かりません。

 聴いていると全体的に響きが薄いといか静かで透明感のあるもので、マーラーの交響曲第9番第4楽章がそのまま続いているような感覚です。これはマゼッティ版のためか、ロペス・コボスの志向したものか分かりませんが、とにかく際立っています。終楽章の打楽器による強打も柔らかい、角がとれた音に聴こえます。その打楽器強打の部分は、何も無い荒涼とした大地にこれから命が生まれる予兆のような清新を感じられ、個人的には好きな部分、楽章です。この版、CDでは控えめで、もっと違う世界を想わせます。

 ヘスス・ロペス=コボスは1940年スペイン生まれで、1986年から2000年までシンシナティ交響楽団の音楽監督をつとめ、テラーク・レーベルにブルックナーやマーラーの交響曲を録音していました。ブルックナーは第4番以降の6曲が出ていましたが、マーラーは他に第9番、第3番しか確認できません。他にDENONから、ローザンヌ室内管を指揮したハイドンの交響曲集も何種か出ていました。

 ヨーロッパではサッカーのEURO2012が開催中で、A組の決勝トーナメント進出2国が決まりました。前々回、ギリシャが優勝した回は職場近くの喫茶店で予想を募っていて、全部試合的中すれば景品が出たので応募しました。優勝ギリシャは当てられず、結局応募した人の中から正解はゼロでした。今回は既にA組全部をはずしました。金曜のNHK・ビズプラスでは、ユーロ圏からギリシャが離脱すると日本にも影響が出るというこわい予測(何故この会社が?という予想外のところで倒産する企業が出るとか)もあり、経済の方の予想が深刻です。8年前のその喫茶店はマスターに顔を覚えられ、夕方に折詰のいなり寿司をもらったりしたので、仮にユーロの予想を的中させてればどんな景品があったんだろうと思います。 

21 8月

マーラー 交響曲10番・クック3稿・2版 ハーディング・VPO

110821_3   マーラー 交響曲 第10番 嬰へ長調
*デリック・クック校訂版第3稿第2版

ダニエル・ハーディング 指揮

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(2007年10月23-27日 録音DG)

110821b  BS放送を見ていると、指揮者のダニエル=ハーディングが今年の3月11日、震災当日のことを話していました。当日は新日本フィルの定期公演(11,12日)の予定だったので、すみだトリフォニーホールへ向かっている途中に地震に遭遇し、なんと当夜演奏していました。それにインタビューにこたえる彼の話が真摯で、強く印象に残りました。議事堂の群雀の声より真面目で謙虚にきこえました。ハーディングは1975年生まれなので、この録音の時は32歳だったわけで、ウィーンフィルにしてみれば、(我々が)演奏してやるだけで有難いと思え、くらいの関係だったかもしれません。今年50歳になる佐渡裕がはじめてベルリンフィルに客演したと騒がれていました。それを考えるとハーディングはこの若さで録音まで出来て大したものだと思います。

 マーラーの交響曲第10番の補筆完成版は、デリック・クックによるものが一番有名で、従来演奏されていたのが第3稿第1版でした。過去に記事投稿したザンデルリングとベルリンsoレヴァインとフィラデルフィア管ラトルとボーンマス響の他、インバル、シャイー、ギーレンらもこの版で録音しています。

 今回演奏しているのは1989年出版の第3稿第2版で、HMVのサイトにはこのCDで第2版の特徴をが以下のように列挙されています。

第2楽章コーダのシンバル第2版:有り
第4楽章冒頭部分の小太鼓とシロフォン第2版:無し
第4楽章451小節からの主旋律第2版:イングリッシュ・ホルン
第4楽章最後の大太鼓: 第2版 : f
第5楽章冒頭の大太鼓: 第2版 : sf→sf
第5楽章72小節からの大太鼓 第2版:sf→sf

 このように結構違う部分があります。しかしシンバルの有無とかなら分かりそうですが、聴き込んで記憶していなければ気が付かないだろうと思います。実は長らくマーラーの第10番の補筆完成版はわざわざCDを買ってまで聴く必要無しということにしていました。それで多数の版があるのも知りませんでしたが、録音が出ている分ではバルシャイ版、カーペンター版、マゼッティ版、ホイーラー版、サマーレ&マッツーカ版が確認されています。

                    110821a

 ハーディング盤の印象は、流麗で綺麗で特に第1楽章が印象に残ります。しかし4楽章の終わりから終楽章にかけては、前回のザンデルリンクの印象が残っているためかスマート過ぎる、健康的過ぎるように思えます。ラトルとか第10番の補筆完成版を当初から積極的に演奏している世代のマーラーなら、全般的にこういう傾向なのかもしれません。録音の特徴、音質の点では、ややこもったような音に感じられ、柔らかい印象を受け、これも演奏の性格と似ていると思えます。

 CDに付いている写真からも、ダニエル・ハーディングは外見もなかなか見栄えがします。そのせいか珍しく演奏者の写真が多数入っていました。特にひとりで座っている写真は音楽と違う分野の雑誌でも使えそうです。最初の話に戻りますが、震災当日の出来事について語るハーディングの様子、言葉の内容は本当に感銘を受けます。メディアにあふれる諸々の言葉の雑踏の中でも、振り返ってしまいます。

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8 6月

マーラー 交響曲第10番補筆版・ザンデルリング ベルリンSO

マーラー 交響曲 第10番 嬰ヘ長調(クック版)
 
クルト=ザンデルリング 指揮 ベルリン交響楽団

(1979年11月 録音)

  先日取り上げたショスタコーヴィチの第8交響曲のCDと同じく、クルト=ザンデルリング(日本語表記は問題があるかもしれませんが国内盤の表記と同じにしています)によるマーラーの交響曲第10番・補筆完成版です。東ドイツのドイツ・シャルプラッテンが企画した、複数の指揮者によるマーラー全集の一環の録音です。第1,4番(ケーゲル)、第2,5番(スウィートナー)、第3,6番(レーグナー)、第7番(マズア *第8番も予定されたが録音できず)、大地の歌、第9,10番がザンデルリングという分担でした。

110609  ザンデルリングは1973年頃には、最晩年を迎えたクレンペラーの健康状態が優れないのでフィルハーモニア管弦楽壇の客演に招かれていました。そのことと、ユダヤ系であること、生地がクレンペラーと同様当時のドイツ東端部であり、戦前にはベルリンで活動していたこともあってクレンペラーと比較されることもあったようです。また、誕生当時のソ連を訪問したクレンペラーが同国に好感を持ったことと、実際に移住したザンデルリングとでは通じるところがありそうです。そういうわけで、マーラー作品の限られた曲しか演奏しかなかったクレンペラーが、もしマーラーの10番を振ったらどうなるかという想像も掻き立てられます。

 マーラーの録音が必ずしも多く無いこのザンデルリング盤は、かなり有名だったようで録音時期からも、彼自身のクック版への独自の改訂等で、以後の録音、演奏にも影響を与えていたと解説に書かれています。過去の投稿記事のレヴァインとフィラデルフィア管(第2楽章以降は1980年に録音)ラトルとボーンマスSO(1980年録音)は、このCDの少し後なのでそれもなるほどと思わされます。ザンデルリングはデリック・クック第3稿第1版を使用していますが、第4・5楽章に自身による大幅な改訂と、ゴルトシュミットの改訂を含めて演奏しています。この部分も話題になっていたようです。

110609b  ザンデルリングのマーラーは、第9番の新旧録音を聴いたことはありますが、今ひとつな印象で、「★★★★(素晴らしい)、★★★☆(すごい)、★★☆☆(とても良い)、★☆☆☆(良い)」という四段階の好感度なら星ひとつくらいでした。何となく粘着質で、口に入れて時間が経過すると歯に絡む「F二家の Mルキー」のような微妙さでした。ザンデルリングのシベリウスではそうでもないのに不思議な印象でした。そうした第9番よりも、今回の第10番はずっと新鮮で、良い意味で聴きやすいものだと思いました。手元にあるのがリマスターされたキングの国内盤であることも影響しているのかもしれません。

 交響曲第10番・補筆完成版の第4楽章の終わりと第5楽章には、布を張った大太鼓を第6交響曲のハンマーのように強奏する部分があり、象徴的特徴的です。その大太鼓は「死の打撃」と解説されていて、実際死を念頭に作られたようなのですが、実際に演奏の中で聴いているとそういう否定的なものには感じられません(主観では)。火山の爆発とか、落石というような自然現象は誰かにぶつけてやろうとして起こされるものではなく、太古からの自然の循環の内の一つで、その大太鼓の打撃もそういうものを思い出させます。それ以上に、これから新しいものが生み出される予兆のような清々しささえ感じます(とまで言えば的外れも甚だしいか)。

 補筆完成版はマーラー自身、当然生前には聴く機会は無かったわけですが、作曲している時にどういう響きをイメージしていたのだろうかと想像を掻き立てられます。今回、このCDで唯一作曲者自身で完成させたアダージョ・第1楽章を聴くにつけ、補筆完成版はやはりマーラー自身の曲とは乖離があると思えてきます。ただ、それでもなお、魅力的な作品だとは思えます。

 クルト=ザンデルリングの息子のうち、2人(トマスとシュテファン)は指揮者で、その内シュテファン・ザンデルリングは今年の10月にPAC管弦楽団(兵庫芸術文化センター管弦楽団)の定期公演に登場します。チャイコフスキーのピアノコンチェルト第1番とショスタコーヴィチの交響曲第15番です。

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20 5月

マーラー交響曲第10番クック補筆版 ラトル・ボーンマスSO

マーラー 交響曲 第10番 嬰へ長調
(デリック・クック校訂版第3稿第1版)
 
110520 サイモン=ラトル 指揮 ボーンマス交響楽団

(1980年6月 録音 EMI)

①23分53 : Adagio
②11分26 : Scherzo
③  3分56 : Purgatorio(Allegro moderato)
④11分58 : Scherzo
⑤24分18 : Finale
 計75分21

 CD付属の解説文によると、ラトルのLPレコード録音の第1作目は、ノーザン・シンフォニアを指揮したストラヴィンスキーの「プルチネッラ」全曲他で、続いてプロコフィエフのピアノ協奏曲第1番とラベルの左手のための協奏曲(ガブリーロフ:ピアノ)だったそうです。このマーラー第10番はそれに続く録音であり、イギリス本国ではこれが実質的なデビュー盤として扱われています。当然日本でも発売(1983年9月新譜)されていましたが、レコ芸では特選になっていません。ラトルは1955年リヴァプール生まれなので、この録音の時は25歳という若さだったわけです。

 ラトルだけでなく、ショルティ、コリン・デイヴィスらは「サー・サイモン=ラトル」というように名前の前に「サー」を付けて呼ばれるます。文字だけをみれば卓球の女子選手の気合いに似ているこれは、英国王室が与えるナイトの称号で、女性の場合は「デイム」だそうです。内田光子やクレンペラーと共演した女流ピアニスト、マイラ=ヘスも「デイム」の称号をもらっていました。

 ラトルがクリーブランド管やBPOの首席に就任する直前のコンサートでこの曲を選んでいたことは全然知らず、付属の詳しい解説文でラトルのマーラ第10交響曲・クック版への傾倒ぶりを知りました。この録音ではクック版第3稿第1版を使いながら、ゴルトシュミットの意見をあおいで独自に変更を加えています。第4楽章から第5楽章への推移句における大太鼓単独強打を2回から1回に減らしているのが顕著な例です。解説文によると、その変更はクック版第3稿第2版にも引き継がれ、これはザンデルリンクとベルリンSOの録音の影響もあるということです。ラトルは年季の入ったマーラー指揮者だと改めて(今頃になって)知りました。

 ラトルはマーラーの交響曲全集を録音する時に、この第10番「クック版第3稿第2版」をベルリンフィルと再録音(1999年)しています。ちなみにその時はレコ芸で特選盤に輝いています。ベルリンPOとの各楽章ごとの演奏時間は以下の通りです。

①25分10,②11分24,③3分55,④12分06,⑤24分47 計:77分23

 第3稿の第1版と第2版の違いはあるものの、再録音が少し長くなっています。

 今回のボーンマスSOとの録音では、特に第5楽章が印象に残りました。冒頭から出現する大太鼓の音と、マーラーおきまりの葬送行進曲風の音楽は非常に鮮烈で、葬送というより新しいいのちが生まれ出るような印象を受けます。今週は月曜から田植えが始まった農村地帯をまわっていたのでそんな風に思ったのかもしれませんが、非常に魅力的です。「ふるさとのまち焼かれ~」で始まる原爆の歌は、かつての焼け土にも白い花が咲く風景が描かれています。3月以来の津波塩害やセシウム等を被った地にもそういう日が来ることを強く祈念します。

 それにしても、この録音の新譜当時は、もっと予算があってもこれを購入するところまではいかなかったと思えます。バーミンガム市SO他との全集もそうでしたが、こんな時期に、こんな演奏をしている若い指揮者がいたとは驚きです。

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13 2月

レヴァイン フィラデルフィア管 マーラー第10・クック補筆版

マーラー 交響曲第10番 嬰ヘ短調  デリック・クック第3稿第1版

ジェイムス=レヴァイン 指揮 フィラデルフィア管弦楽団

(1978年・第1楽章、1980年・2-5楽章 録音RCA-Sony Classical)

 これは昨年久々にまとめて復刻されたレヴァインのマーラー交響曲選集の中の1曲です。交響曲第10番は、マーラーの生前にアダージョだけがほぼ完成された状態で、後は楽章によって進み具合に差はあるようですが、スケッチが残っている程度でした。したがって、第1楽章のアダージョだけを国際グスタフ・マーラー協会は、全集版として出版しています。

1楽章 Adagio.
2楽章 Scherzo.Schnelle Viertel
3楽章 Purgatorio(煉獄).Allegretto moderato
4楽章 Scherzo.Allegro pesante.Nicht zu schnell
5楽章 Finale.Langsam,schwer

 現在は音楽学者デリック・クックによる補筆完成版の他にも、第10番の補筆版が複数存在して、録音される機会も増えています。19世紀生まれの指揮者や、その後のテンシュテットやベルティーニ等は、作曲の経緯からマーラー自身の手による第1楽章・アダージョだけしか認めないという姿勢でした。このブログではコモン・ローのように顔を出すクレンペラー、「クレンペラーとの対話(P.ヘイワーズ編)白水社」によれば、未完成の楽譜等はマーラーは死後に焼却するよう希望していたこと等から、クック版は取り寄せて楽譜を見ただけで演奏はしていません。「恥知らずというもの」とコメントしていました(メンデルスゾーンのスコットランド交響曲のコーダを削除して自作を付加することはどうだと思っているのだろうか)。

 それらの影響で、FMで補筆完成版を聴いたことがあってもCDではじっくり聴いたことはありませんでした。インバルとフランクフルト放送SOの全集にはクック補筆版も収録されていますが、全曲は聴いていませんでした。しかし、1楽章のアダージョを聴けば続きが聴きたくなるのが人情で、「煉獄」という言葉でいっそう好奇心が刺激されます。そこで、クレンペラーの没後37年が経過し、エジプトの政変ではありませんが、長年の方針を転換して(単にものぐさだっただけ)第10番の補筆完成版もマーラーの作品の一つとして聴いていくことにしました。その第1弾がこのレヴァインのCDです。

110213  この版で最初から聴いてみて、一つの交響曲としてまとまりを感じられるかについてですが、何とも言えない微妙さです。両端楽章が演奏じかんからも充実していますが、第5楽章が終わったところで、えっ?という物足らなさ、突然に終わったような感覚でした。「かくの如きものが人生か、ツアラトストラのために今ひとたび!」というのは、「ツアラトストラはかく語りき」の中の一節です(多分)。現実の生活では、終わりが突然虚を突いてやって来ることも多いので、51歳で世を去ったマーラーらしいと、強引に言うこともできますが、何とも不思議な空気が漂う曲です。

①24分39,②11分57,③4分18,④12分41,⑤28分32 計:82分09

 このCD・演奏のトラックタイムは上記の通りで、この選集にける他のレヴァインの演奏同様に、ゆっくりとしたテンポで念入りに表現しています。ちなみに約20年後録音のラトル・BPO盤は以下のようなトラックタイムになり、CD1枚に収まってます。特に第5楽章の違いが目立ちます。この曲の第5楽章は、第6番のアンダンテ楽章、終楽章や第9番の終楽章を思い出させる複雑な性質で、このCDでも聴きどころだと思います。なお、レヴァインは第1楽章を1978年に、残りを1980年に録音するという変則的な収録で、あるいはアダージョだけ録音する予定が変更になったとか、アダージョだけの演奏とは別に録音する予定だったとか何か事情がありそうです。レヴァインのマーラー選集はまだ全部聴いていませんが、この第10番は第9番に次ぐ素晴らしい演奏だと思いました。

①25分10,②11分24,③3分55,④12分06,⑤24分47 計:77分23

 あの静かに消えて行く終楽章の交響曲第9番の次にこの曲を構想したのは事実なので、作曲者の心中は本当のところどんなものだったのかと思えてきます。煉獄というのはほとんど西方教会・カトリック教会だけの教義のようですが、第二ヴァチカン公会議以後の現代では曖昧な位置にあり、滅多に耳にしたことはありません。概ね罪の償いをするところ、という位置づけのようです。これは死者のためにとりなしの祈りをする、という教会の古くからの習慣にも結びついています。故人を憶えて祈る、という心情は日本にも共通するものがあると思いますが、この曲ではちょっと生々しさが感じられます。マーラーは自分が煉獄に行くという自覚があったのか、それとも誰かに代わって自分が行くとかそんなことを考えたのか、想像の域を出ません。

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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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