ルドルフ・ケンペ 指揮
京都市内でも置いている日本酒の銘柄が多く、地元の大手の酒よりも、店主の好みに沿って各地の酒を選んでいるところがあります。佐賀県、長崎県の酒蔵は全国的に有名なのか分かりませんが、個人的に病みつきになりそうなのもありました。佐賀はどちらも同じ酒造会社の「竹の園 おまち売りの少女」、「竹の園 パンダ出没注意」、両者とも名前とラベルの図柄はアレだけれど真面目なお酒です。酒米に雄町を使っているのが共通のようです。長崎は波佐見の「六十餘洲」、波佐見と言えば高校野球に波佐見高校が出たくらしか思いあたりませんが、この酒も後味はすっきりで味もしっかりしています(もっとも個人的な好みの話ですが)。先秋の朝方、日出前に普段通りに目がさめて、ふと「雲仙の女王」という三十年くらい前に観たTV番組を思い出しました。スマホでその雲仙の女王が経営する旅館名を入力してみると、経営者交代、破産、再開というニュースが出てきて驚きました。番組を観たのはバブル崩壊直後かこれからバブっていく時だったのでギャップに驚きました。その後職場単位の団体旅行という行事自体も下火になったはずなので大きな旅館ほどダメージがあったのか。慰安旅行に行った先で観たのだったらちょうど11月に入ったところだったのでそれで思い出したのでしょう。
これは昨年後半に聴いていたもので、クレンペラーのLPを聴いた後にケンペの箱ものがあったことを思い出して聴いていました。シュトラウスは後年自作を多数改訂(管弦楽組曲版とか)して出版しましたがケンペのセットが全部を収録していはいないようで、「影の無い女」からの組曲は含まれていません(辞書で確認してないが、オーネとかフラウ、シャッテンの語はタイトル見つからない)。「23の独奏弦楽器のための習作」と注記されるこの作品はシュトラウス晩年の作品で、作曲者と親交があったクレンペラーも良い作品だとしてフィルハーモニア管弦楽団と録音していました。弦楽器のみのこの曲は聴いていると閉ざされた城郭、館の中を思い出させるようで、時間の流れがこの場だけ止まったような魅力を感じます。皇帝が居た頃のオーストリア、ウィーン、第二帝国時代のベルリンとかプロイセン-ドイツの文化とか風土、空気がどんなものか、想像するしかありませんが、第一次世界大戦を境にすっかり変わってしまったとかクラシック音楽ネタの話でもちょいちょ出てきます。
R.シュトラウスの管弦楽作品にあまり好きなものは無くて、クレンペラーが取り上げた曲は聴いておく、くらいの位置付けで、演奏のタイプでもケンペのようなスタイルは好きでした。改めて聴くとこの曲も素晴らしくて、何らかの香気が広がる心地がします。弦楽合奏という編成なので多数ある録音でもあまり聴いた印象に違いは無さそうですが、作曲された時期を考えると録音年が古くても色々混じりけのあるタイプの演奏が面白いかもしれないと思いました。ワグネリアンとして有名なレジナルド・グッドールはコンビチュニーとケンペの両方が指揮する指環をロンドンで聴いて、前者の方により魅力を感じたと言っています。それなら、スコアに書込みが無い、極端に少ないと言われたケンペよりも、違うタイプの演奏ならどう聴こえるだろうかと思います。
日本酒の味の傾向を辛口、甘口、淡麗、芳醇とかいろいろ説明する用語がありました。二十年くらい前は「芳醇」系の酒が好きで、安くても芋焼酎も好きでしたが、だんだん歳をとるとそれらはキツくなってきました。かんねんして水でも飲んどけ、というところかもしれませんが時々鎮静剤の米のアルコールが経口でほしくなります。それはそうと新ウィーン楽派に数えられるウェーベルンの作品を作曲者自身が指揮した演奏をクレンペラーが聴いた時のことを激情的な演奏だったと振り返っていました。クレンペラーはとてもそんな風には演奏できないと言ったそうですが、シュトラウスがこのメタモルフォーゼンを自ら指揮したらどうなったことか、そもそもどういう思いを込めてこれを作曲したのか、そこだけでも聞きたくなってきます。