raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

マーラーSym.7

29 4月

マーラー交響曲第7番 フェルツ、シュトゥットガルトPO/2007年

230429aマーラー 交響曲第7番 ホ短調「夜の歌」

ガブリエル・フェルツ 指揮
シュトゥットガルト・フィルハーモニー管弦楽団

(2007年4月23,24日 シュトゥットガルト,リーダーハレ・ベートーヴェン・ザール ライヴ録音Dreyer-gaido )

230429b 最近のこと、朝の7時台に地下鉄の京阪三条駅(京都市営地下鉄東西線)のホームに居ると、京都精華のバスケット部一行が東方面の電車を待っているのが目に入りました。留学生とあわせてが7人が生徒で他に引率者が2名見えました。試合に行くにしては7名は少ないと思いつつ、留学生はさすがに背が高い、180センチ弱の私よりもずっと高いので女子バスケットならなおさら有利なのは容易に想像は付きます。留学生なので出入国管理局で拘束されてオラオラされることはないでしょうが、思い出せば一昨年3月に収容中に亡くなったスリランカ人女性も留学生だったはずで、本人もまさかああしたかたちで人生を終えるとは思っていなかったことでしょう。京都精華を今年卒業したイゾジェ・ウチェさんはWリーグのシャンソン化粧品に入り活躍しています。留学生も含めて前年度のメンバーが残るのでインターハイ、ウィンターカップも期待できます。

 さてこの際、惰性で連続マーラーの交響曲第7番を聴き続けて、ガブリエル・フェルツの第7番。フェルツとシュトウットガルト・フィルのマーラーは過去記事で何度か取り上げていました。第5番なんかは全然ぴんと来ずに、色々凝った意図があるようですがなかなかそれを理解、感じ取ることができないでいました。一旦レコーディングのペースが落ちたと思っていたら昨年くらいに全集セットとして出ていて驚きました。第8番、第9番はドルトムント・フィルハーモニーになっています。この第7番はマーラー全集の中で最初に録音した曲でした。

 付属冊子には日本語訳が付いていて、1960年代初頭からの一般的なマーラー・ルネサンスについてフェルツの考えが載っています。「主にアメリカの指揮者、作曲家のレナード・バーンスタインの功績によるのではなく、グスタフ・マーラーその人への興味が復活してきたことと彼を取り巻く時代への関心であり、このマーラー再発見の動きが最後にたどり着いたのが、この交響曲第7番である」。わざわざ名前を出す程なのでバーンスタインのマーラー演奏の反対、対極を志向するのかと思いましたがそこまで意識はしていないようです。

 これを最初に聴いた十年くらい前は途中で止めてはやっぱり聴こうと、そんな具合に途切れがちに聴いていましたが、改めて聴いてみると第1~4楽章は色々な起伏や強弱、停滞も心地よくて、独特の流れで魅力的です。なにをもって「この曲らしい」というのかは難しいとしても夜の歌と第1楽章の憂さは第7番独特のものが醸し出されていると思いました。終楽章については、テオドール・W・アドルノの見解を一面的で作曲者自身の説明と相対するとしています。そして「交響曲第7番に特徴付けられる彼の歓呼と勝利を真剣に受け止める」としています。その終楽章を実際に聴いていると不思議にそこまでの四つの楽章に調和するようでしっくり来ています。演奏終了後には歓声と拍手が盛大にあがっていました。
28 4月

マーラー交響曲第7番 ベルティーニ、東京都SO/2003年

230428bマーラー 交響曲第7番 ホ短調「夜の歌」

ガリー・ベルティーニ 指揮
東京都交響楽団

*マーラー・シリーズ200-2004の第7回
(2003年6月29日 横浜みなとみらいホール ライヴ録音 fontec)

230428a ベルティーニ(Gary Bertini 1927年5月1日 - 2005年3月17日)が亡くなってずいぶん経ちますがさすがにCD等の面で影が薄くなってきたようです。個人的にベルティーニのマーラーは大好きで、ケルン放送交響楽団との第6、第3番はよく聴いていました。1987年にはフランクフルト歌劇場の総監督(3年で辞任)に就任したのでトリスタンの全曲とか出てこないかなと勝手に期待していたこともありました。そのベルティーニが初めてマーラーの交響曲を指揮したのは1973年にベルリン放送(RIAS)交響楽団との第6番で、意外に遅くて中堅にさしかかった頃になってのことでした。若い頃から関心を持っていたけれど、マーラーを指揮する機会が向こうから来るのを待っていたと本人は語っています。その後はウィーン交響楽団と交響曲第8番を演奏(何年だったのか?)しています。

 この第7番を久しぶりに聴いて、何となくマーラーという名前から反射的に思い浮かべる音、音楽が帰ってきたような心地がして、第7番の冒頭の鬱陶しいような突き抜けないで跳ね返ってくるような世界が現れて妙な心地良さを覚えます。それと同時にケルンRSOとの全集の際よりも速目のような気がして、そこは意外な感じでした。トラックタイムを確認していないので本当にそうかは分かりませんがそんな気がしました。ちなみに同じ東京都SOとの第8番はかなり速くなっています。速目でも直線的な印象にならず、入り組んで複雑な感触が終始付いてまわり、そこがまた魅力的です。

 ところでこの曲の終楽章、特に冒頭部分は最初から批判され、作品自体の評価が分かれる原因の一つになっていました。例えば色々なところで紹介、引用されるテオドール・W・アドルノは「不気味に肯定的な何かがフィナーレを台無しにしてしまっている」としています。「不気味に肯定的な」とは面白い表現で、実際に終楽章が始まってまさしくそれだと思うことがあります。このところ続けて第7番を聴いているので慣れのせいか、その不気味さをあまり感じなくない、この演奏はどうか何とも言えません。

 東京都交響楽団が初めてマーラーの交響曲第7番を演奏したのは1974年12月の第70回定期演奏会だったとこのCD付属冊子の解説に載っています。その時は音楽監督の渡邉暁雄の指揮でした。
高関健さんの話によれば、この曲はオーケストラにとって演奏するのが難しいので1970年代頃では日本のオーケストラで演奏できるところは無いくらいだったそうなので、東京都SOもマーラー演奏が活発になる最初期から取り組んでいたことになります。その次の演奏機会は1985年6月の第218回定期でヘルベルト・ケーゲル指揮、さらに1989年にサントリーホールのマーラー・シリーズで若杉弘の指揮で演奏していました。その次が1993年12月にベルティーニ指揮で演奏しました。このCDの公演はそこから約10年後ということになり、この間にインバルも東京都SOに客演して(1996年11月)第7番を演奏していました。
26 4月

マーラー交響曲第7番 ヴァンスカ、ミネソタO/2018年

230426マーラー 交響曲 第7番 ホ短調

オスモ・ヴァンスカ 指揮
ミネソタ管弦楽団

(2018年11月 ミネアポリス,オーケストラ・ホール 録音 BIS)

 四月も残り一週間を切り、このブログとしてはクレンペラーの誕生月が早くも近づいてきました。今月に入ってFMの「音の風景」という短時間の番組の中で上毛電鉄の古い電車(昭和初期製造)、上州の野武士の走行音を扱っていて、これがどうにも懐かしくて萌える音でした。兵庫県の能勢電鉄は阪急の古い車両を使っていることがあり、昭和40年代に乗った際はその野武士と同じような音だったので妙に懐かしい気になりました。JR奈良線の複線化第二期工事が先月完了して、ようやく城陽から京都までと山城多賀と玉水間が複線化されました。単線による行き違い待ちが解消されて使い勝手がよくなりそうです。ただ、走る車両は新しいもの更新されていき、勝手なことを言うようですが何となく面白みがありません。

 先日、4月16日は大阪中之島へ東京都交響楽団のマーラー第7番を聴きに行けました。満員とまではいかず、前の方には空席もありましたが開演前に既に論争めいた話声がきこえてきて妙に熱気を帯びていました。演奏後も盛大な拍手と歓声(帰って来たブラボー)があふれていました。マーラーの交響曲第7番は終楽章が盛り上がる程に歪さといのか、終楽章だけ浮き上がるような、そんなえも言われない奇妙な感覚になりがちです。それでこそ第7番、元々そういう作品なのだとしても、違う印象の演奏はあったかなと思いました。というかマーラーの交響曲は程度の差こそあれ、みなそういう感覚が付きまとうかもしれないと思います。会場を出た後、そういえばヴァンスカとミネソタ管弦楽団との第7番に似ているかなと思い、改めて聴いていました。

 当然のことながら演奏会場で聴くのとCDでは違うもので、ヴァンスカ/ミネソタ管弦楽団の方は冷え冷えとして響いて、盛り上がらないものですが精緻さというかそういう点は似ていそうです。あと、終楽章が特徴的で、オーケストラは盛大に鳴っているはずなのに情緒的に高揚しなくて整然と進んで完結する冷静・冷徹な第7番になり、大いに好感を持ちました。不思議に交響曲として五つの楽章のつながり、結びつきを強く印象付けられる気がしました。マーラーの交響曲の中で楽章が五つあるのは第2番、第5番があり、不意にそれらを思い出しました。

 オスモ・ヴァンスカはラハティ交響楽団とのシベリウスが注目されて来日もしていて、その後ミネソタ管とシベリウスを再録音し、ベートーヴェンの交響曲も全曲録音していました。後者、ベートヴェンを少し聴いたところ、これが独特で少しも白熱しない、何とも形容しがたい演奏でした。新譜時にあまり目立っていなかった(HMVの記事では評価を高めたと書いてあるけれど)のに時々中古品で見かけるのは聴いて今一つだと思う人が少なからず居たのだろうと思われます。今回マーラーの第7番を聴いていてベートーヴェンの方が気になってきました。
16 4月

マーラー交響曲第7番 ノイマン、LGO/1968年のLP

230415 bマーラー 交響曲 第7番 ホ短調

ヴァツラフ・ノイマン 指揮
ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

(1968年5月20-24日 ライプツィヒ,ベサニー教会 録音 ETERNA826103/04)

 先日、地方選挙翌日の午前、久しぶりに大阪市役所へ行きましたが、帰りの淀屋橋駅でどこかで見たことがある紳士とすれ違ってしばらく誰だったかと考えていると、酒場放浪記のあの方だと思いました。ただ、名札が付いている(派遣会社じゃあるまいし)わけで無し、帽子やら背丈等からおそらくそうだろうと思いましたが、朝からあいてる酒場なんてと思いなおしてやっぱり別人かなと思いました(でも地下のホームでは気が付いて声をかけてほしそうな素振りにも見えた)。それから京阪特急の座席指定車に乗り込んで中川家の漫才でおなじみのアナウンスを聞いていると、中之島のフェスティバルホールに東京都交響楽団が来るのを思い出して公演前日にオンラインでチケットをとりました。2020年1月以来のコンサートです。昼の公演なので居眠り要注意です。

 そこで公演プログラムのマーラー第7番のLPです。ノイマンとゲヴァントハウスOのマーラーはCDでも購入しているのにETERNAレーベルということで例外的に購入しました。第6番と同じ会場で約二年後に録音しています。ただ、レコードの方には録音年月日とか詳しいデータは記載されておらず、タワーレコードの企画で復刻したSACDの広告に載っています。二年後だからということか音質は今回の第7番の方が良いというか、マイクがやや近いのか、マーラー特有の使用楽器の音が克明に聴こえます。第5~7番、第9番の四曲あるノイマンとLGOのマーラーは国内盤で発売されなかったものもあるようで、そもそも西側レーベルから発売されなかったものもあるかもしれません。

 この第7番もかなり素晴らしくて、色々なタイプのマーラー演奏が出てきた現代にはかえって清新に感じられるのか、第7番もやっぱり交響曲としての枠組みにおさまる作品だと改めて実感させられ、作品に対する愛着も増しました。「夜の歌」という名称にはこだわっていないような、雨上がりの朝を思わせるマーラー第7番です。ノイマンはこの曲を約十年後にチェコ・フィルとの全集で再録音していますが、それよりも作品の姿を隅々までもらさずに明らかにしようとする姿勢が徹底しているような、そんな演奏に感じられます。

  並行してクレンペラーとニュー・フィルハーモニア管弦楽団のEMI盤(独LP)を聴いていたのでテンポの違いが際立ちました。しかし意外なことにテンポ、演奏時間では対照的だとしても、改めて聴いていると両者の演奏からの作品観、聴き手が感じる作品像はあまり違わない気がしました。そのことはさて置き、このLGOとの第7番から約二年後にクーベリックとバイエルンRSOが同じく第7番をレコーディングしていました。チェコ出身の指揮とドイツのオーケストラ(東西、新旧の違いはあるとしても)という点で同じですが、クーベリックの第7番はどうだっただろうかと気になってきました。
9 5月

クレンペラーのLP マーラー第7番EMI盤

220509bマーラー 交響曲 第7番 ホ短調

オットー=クレンペラー 指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

(1968年9月 ロンドン,キングスェイホール 録音 EMI)

 クレンペラーの誕生月なのに更新頻度は上げられず、なんとか誕生日当日に一回更新できたらと思っています。ところで「ヤング・ケアラー」の問題が最近になって取り沙汰されるようになりました。ヘルパーが入る場合も24時間付けるわけじゃなく、仮に毎日だとしても(日曜は休む場合が多い)1回に1~2時間程度なので、それ以外は同居の家族があたることになります。成人ならともかく小中学生がそれにあたるとなるととてつもない負担です。こういう問題を扱うと自己責任に教育勅語ばりの忠孝で吹き飛ばされそうですが、その手の主張をする者も自身が当事者になると感じ方も変わって来るはずです。実際、コロナの検査は不要とか言ってたテレビ出演常連がしれっと優先的に検査を受けてたりというのは記憶新しいところです。何の話、タイミングかと言えば憲法記念日に関して護憲改憲について、国民の権利をさらに手厚く保護するために改憲の余地があるのかという切り口は少なくともメディアではほとんど、全く見聞きしたことがないので、ヤングケアラーのような問題はイデオロギーと関係なく大切なことじゃないかと思った次第です。

220509c クレンペラーの指揮者として最初に得たポストはプラハのドイツ歌劇場の指揮者でした。その次はハンブルク歌劇場でしたが、その二回について契約出来たのはマーラーの口添え(電報とかメッセージ付きの名刺だったか)があったからでした。その割にクレンペラーはマーラーの交響曲の中では全く指揮したことのない作品もあり、マーラーの作品が全部好きというわけではなかったようです。そのクレンペラーが交響曲第7番を戦後にレコーディングしているのはちょっと意外です。第1楽章や夜の音楽の楽章あたりは好みに合いそうですが、終楽章なんかは第5番のアダージェット(サロンの音楽だとか誰が言い出したかよく言われている)よりも通俗的に聴こえそうですが。どうも第7番をレコーディングする少し前に第8番をレコーディングするのにクレンペラーが乗り気になって、EMI側が慌てて、費用がかかる第8番の企画は無理だからそれを諦めさせるために第7番を提案したという事情があった(どこに書いてあったか忘れた)そうです。

220509a 今では多数あるこの曲の録音の中でも特に演奏時間が長いことでも知られるクレンペラーとニュー・フィルハーモニア管弦楽団の第7番、今回はクレンペラーの誕生月ということでLP初期盤(英国盤)で聴きました。CDで聴こうがLPで聴こうがテンポが違ったりしませんが、特に発売初期のLPは艶のある音であったり、CDで聴き知った演奏とはちょっと印象が違う場合がしばしばあります。今回第7番のLPを聴いていると、よく指摘される作品に没頭するようでありながら冷めた感覚で取り組むクレンペラーのマーラー演奏が冒頭から実感できました。冷え冷えとしたものを感じさせるのはLPの方が顕著だと思いました。

 仮に1950年代にクレンペラーがこの曲を録音していたら演奏時間はもう少し違っていた可能性はあり、例えばベートーヴェンの交響曲第7番は1955年、1960年、1968年と三度もEMIへセッション録音していて、その演奏を思い出すと1955年あたりのマーラー第7番だったらもっと速く、威圧的になっていそうです。ただ、各楽章のバランスとか基本的なところは同じだろうとも思われます。1968年はクレンペラーが再度ユダヤ教徒に戻り、1970年にはイスラエル国籍を取得するという最晩年期にあり、演奏スタイルも最終段階なので、このレコードの演奏を客席に座って聴いていたなら(製品化にあたっての編集はどんな感じだったろうか??)どんなだっただろうと改めて大いに興味が湧きました。
13 8月

マーラー交響曲第7番 アシュケナージ、チェコPO/2000年

200813マーラー 交響曲 第7番 ホ短調

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

(2000年4月27,28日 プラハ,ルドルフィヌム,ドヴォルザーク・ホール 録音 Octavia Exton)

 八月の盆の時季になったのにコロナの感染拡大が収まらず帰省、観光の移動が減っていることで季節感が妙なことになっています。ふと昭和60年の8月12日に発生した日航機墜落事件のことが思い出され、それ以前にも昭和46年の雫石上空墜落事件やら昭和41年の松山沖墜落事故の話を子供の頃に読んだことを思い出しました。特に自分が生まれるより前の昭和41年は日本国内で5件も墜落事故が起こったと知って恐ろしくなったものでした(特に松山の事故は後の自身の誕生日と同じ)。コロナの話題で旅客機は何分か毎に客室の空気が入れ替えられているから三密になり難いという話になり、そこから事故の話題になって日付を見て御巣鷹山の惨事を思い出しました。それにしても日航機の墜落原因だった垂直尾翼の破損、一機当たりにもうひと揃え垂直尾翼の機能を持つ装備を付けられないのかと事故の記事を見るにつけそう思います。

  さて、チェコ・フィルによるマーラーはインバルの他にもアシュケナージも録音していました(第6、7、9番)。今回のアシュケナージは先日のインバルよりさらに陰な印象が後退していて、ドヴォルザーク作品に通じるような爽快さを覚えました。聴いていてこういう効果を与えるのはマーラー演奏としてどうなのか、時代は変わっているのか、それともこれでこそチェコ・フィルの演奏するマーラーなのか。各楽章の演奏時間も短めでCD一枚に収まる合計時間です。爽快な印象はこの演奏時間の影響とチェコ・フィル、会場の音色・響きのためなのでしょう。

アシュケナージ・チェコPO/2000年
①21分13②14分34③09分40④12分30⑤16分39 計74分36
シュテンツ・ケルン/2010年
①21分09②14分17③08分49④12分24⑤16分51 計73分30
インバル・チェコPO/2011年
①22分43②15分24③11分19④14分00⑤17分15 計80分41
マーツァル・チェコPO/2007年
①22分18②15分25③10分13④13分47⑤17分36 計79分19
ノイマン・チェコPO/1978年
①21分30②14分15③10分10④16分50⑤18分00 計80分45

 合計で74分強というのは短い部類かと思いますが、2000年以降ではマルクス・シュテンツとケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団が74分を切っています。新旧のチェコ・フィルの録音にして共に地元出身のノイマン、マーツァルの合計時間が近似しているのに対して、アシュケナージはかなり短くなています。アシュケナージは1996年にゲルト・アルブレヒトが辞任した後にチェコ・フィルの首席に就任していて2003年まで務めていました。2003年から2007年までがマーカル(マーツァル)、先日のインバルは2009年から2012年まで首席でした。
31 7月

マーラー交響曲第7番 インバル、チェコPO/2011年

200731マーラー 交響曲 第7番 ホ短調

エリアフ=インバル 指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

(2011年2月24,25日 プラハ,ルドルフィヌム,ドヴォルザーク・ホール 録音 Octavia Exton

 
まだ梅雨が明けないのかと思っていたら7月31日になってようやく近畿も梅雨明けが発表されました。夕方にJR京都駅烏丸口のYバシカメラへ寄った帰り、いつものように大手電力会社京都支店の前を通ると脱原発のアピール部隊が陣取っていました(金曜恒例らしい)。ところで福島第一原発の事故現場で蓄積する低レベル汚染水、解決方法として海洋投棄をおす声が一定以上ある(滅多に報道されないけれど)中、それでは人体への影響は無いからといって自身の住む近海とか、例えば瀬田川の洗堰から投棄しても良いかと言われると大抵は認めないことだと思います。海洋だと拡散して濃度が低下するとか条件は違うにしても、生物に全く影響が無いとは言い切れず、改ざんで隠せない程の汚染が国外で判明しやしないかと不気味な気がします。先日広島の「黒い雨」の裁判で原告・住民側が勝訴していましたが、戦後75年近く経ってようやくかとしみじみ驚きました。原爆の「黒い雨」と同じ液体をバケツに入れるから頭からかぶるか?と問われたら誰でも拒否するのと同じじゃないとしても、原発事故の低レベル汚染水もやっぱり嫌なものだと思うはずです。

インバル・チェコPO/2011年
①22分43②15分24③11分19④14分00⑤17分15 計80分41
インバル・フランクフルトRSO/1986年
①22分36②14分40③10分13④13分13⑤16分49 計77分31

 何かしら鬱陶しい気分はマーラーの交響曲第7番の冒頭が全く似つかわしい、相互に共鳴する気がしてここ何週間かでちょくちょく聴いています。第1楽章を聴いている時に終楽章を念頭に置くとあれは一体何なのかと、多かれ少なかれ妙な気分になります。そんな第7番も過去にチェコ・フィルが録音したものは、鬱陶しいとかそうしたカラーが薄かったかなと思いつつ、インバルが2011年に録音したものを聴きました。交響曲第7番が1908年9月19日にプラハで初演された際のオーケストラがチェコPOだったので、他にもプラハで初演された交響曲はあるか調べると第7番だけでした。

 第7番に限らずフランクフルトRSOとの1980年代の録音の方が、もつれた糸ならそのままの様子で提示されているような生々しいような感慨があったような気がして、この新しいチェコPOとの方は洗練されたというのか、やっぱり鬱陶しいような空気が除かれて晴天の空を思わせると思いました。少しだけブルックナー的とも思えて、同時期に東京都SOとライヴ収録しているブルックナーの演奏を思い出しました。

 1980年代のCD付属冊子に載ったインバルの肖像と2000年代のものを比べると30年近い年月の隔たりは明らか(要するに老けたなあと)です。マーラーの演奏については質的に極端に変わったかなと考えると写真の差ほどは違わないのではないかと思います。どちらも演奏会場で聴いたことはないので何とも言えませんが、コロナ禍の下で演奏会場で聴くというのはしばらくかなわないのだと噛みしめているところです(演奏者側はもっと深刻)。
15 7月

マーラー交響曲第7番 インバル、フランクフルトRSO/1986年

200715マーラー 交響曲 第7番 ホ短調

エリアフ=インバル 指揮
フランクフルト放送交響楽団

(1986年5月14-17日 フランクフルト,アルテ・オーパー 録音 DENON)

 昨日の夕方、雨があがって涼しい風が吹いたと思ったら街路樹の低い位置からクマ蝉の鳴き声がきこえました。ごく短い時間で静かになったもののとうとう猛暑日、体温を上回る気温の季節がやってきたかと覚悟しました。今朝は抜け殻がいくつも地上に転がっていました。先日のクレンペラーが作曲した交響曲第2番は、CDで発売された際にはマーラーの交響曲第7番とカップリングされていました。マーラーの交響曲第7番はクレンペラーのLPを購入して聴いたのが最初だったので、この曲を思い出す時にはクレンペラーの録音が頭の中で流れ出します。

 梅雨、雨がやんだのか、また降り出すのか分からない鉛色の空の季節(災害は別として私は嫌いじゃない)には、チャイコフスキーの悲愴とマーラーの第7番のそれぞれ第1楽章は何となくぴったり来る気がします。それは聴けば気分が良くなるというのとは違い、空模様やら俗に言う鬱陶しい空気に似つかわしく感じられ、そういう意味でぴったり来ます。それでインバルとフランクフルトRSOの全集から第7番を取り出して断片的に聴いていました。スコアが透けて聴こえると評されるインバルのマーラー全集(マーラー以外でもそういう論調があった)、第7番を改めて聴いていると「夜の歌」という俗称や梅雨の鬱陶しい空気(勝手にそう思ってるだけ)だけじゃない、明解さも感じられます。明晰な断片が整頓されて流れて来るような、何も志向していないような不思議な世界が広がる心地がします。

 1980年代にマーラーのブームによって下々も何とかレコードを買って聴きたいとか思っていた頃、交響曲第7番は終楽章が変異的にそれまでの楽章と違うものを無理に移植したようだとか、否定的な解説がありました。確かに終楽章の冒頭はスーパーマンの劣化コピーが飛んできそうな感じですが、一方でマーラー作品を厳選して演奏、録音していたクレンペラーが第1、3、5、6、8番をEMIに録音していないのに、第7番を録音していたのは作品に対する価値を大いに認めてのことだと推測されます。そういう面が作品の中にあるのなら、第7番もそんなに悪く言われる程じゃない(みんなが言ってきた程悪くない)かもしれません。

 インバルとフランクフルト放送交響楽団の第7番は、終楽章がいきなり別世界という感覚はあるとしても、それほどマイナスの違和感を覚えないのはこの演奏ならではの個性なのか、いいかげん第7番に慣れた(CDとかだけじゃなくて
京響の定期でも聴けたので)からか、とにかくいい作品だと思えました。第1楽章が強烈かなと思ったほかはどの楽章もそれぞれ魅力的にきこえました。
30 4月

マーラー交響曲第7番 ハイティンク、ACO/1969年

190430bマーラー 交響曲 第7番 ホ短調

ベルナルト・ハイティンク 指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

(1969年12月 アムステルダム,コンセルトヘボウ 録音 DECCA/旧PHILIPS)

 いよいよ令和、新しい天皇の即位となります。経済のバブルと共に始まった平成が官製相場と日銀を従えたゼロ金利時代の内に終わりです。この時代の終わりにはできればバブル崩壊後のようなしっぺ返しが無ければと思います。過去の時代について百年くらいの区切りで鎌倉時代や室町時代という呼び名がありました。明治以降の現代にそういう名前を付けるとすればどうなるのか、東京時代とか霞が関時代になりそうです。仮に東京時代だとすればどういう終わり方をするのか、その時代の次の時代は何時代になるのか、さすがに自分はもう生存していないでしょうが不安と共に気になります。振り返れば平成の一時期にはインフレターゲット等がささやかれたことがあったので、それが失敗して缶ビール一本が10万円とかそんな事態にならなかったのは幸いでした。

 何となく大晦日がいくつか重なったような土壇場感から、更新間隔を詰めて平成最後の記事更新とします。前回に続いてハイティンクのマーラー全集から交響曲第7番です。この曲の終楽章は何となく平成にふさわしいようで、インバルが交響曲第8番について言及した「凱歌や喜びまたは世界の平和の、単なる仮象に過ぎない」とか、「そこに何か作為的なものがあることや、楽観的な凱歌が、実は幻想にすぎないということに気づくことでしょう」という言葉を重ねると一層そんな気がします。

ハイティンク・ACO/1969年
①20分46②14分36③09分45④12分45⑤17分51 計75分43
バーンスタイン・ニューヨークPO/1965年
①20分47②16分38③09分32④14分33⑤17分55 計79分35
クーベリック・バイエルン/1970年
①19分42②14分46③09分24④12分01⑤16分40 計72分33
ショルティ・シカゴSO/1971年
①21分35②15分44③09分14④14分28⑤16分27 計77分28
ノイマン・チェコPO/1978年
①21分30②14分15③10分10④16分50⑤18分00 計80分45
テンシュテット・LPO/1980年
①22分42②16分24③10分14④15分09⑤17分54 計81分43
マゼール・VPO/1984年
①24分25②15分39③10分18④15分45⑤20分04 計86分11

 声楽を伴わない交響曲第7番は終楽章以外が迷路をさ迷うような独特の音楽なので、ハイティンクの初回全集盤は直線的で「夜曲」の風情が弱い印象です。と言っても録音年代が近かったクーベリックやショルティもCD1枚に収まるくらいの合計演奏時間に収まっています。同じく初期の全集完成者でもバーンスタインはもっと長くなっています。ただ、どんな演奏でも全曲を通して聴いて終楽章も含めて統一感があり、終楽章に違和感を覚えない演奏はなかなか無いと思います。ここまで聴いたマーラー交響曲全集の中で、クーベリックとバイエルンRSOが特徴があって特に感銘深いと遅まきながら思いました。
22 4月

マーラー交響曲第7番 バーンスタイン、ニューヨーク/1985年

190422aマーラー 交響曲 第7番 ホ短調

レナード・バーンスタイン 指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック

(1985年11月,12月 ニューヨーク,エイヴリー・フィッシャー・ホール 録音 DG)

190412a 先週の月曜あたりは朝が結構冷えたような(朝だけ石油ストーブを使ったはず)記憶が遠のくくらい、昨日と今日は気温があがりました。おかげで?昨日は四六時中寝てばかりいて、その中で朝方に目がさめた後も鮮明に覚えている夢を見ました。四条烏丸辺りで車を運転しているとドアミラーじゃなくフェンダーミラーが付いているのに気が付き、自分の車じゃなくてタクシーであり、発車した地点へ戻ろうとユーターンのタイミングをはかっているところで目がさめました。これはやっぱり犯罪になるんだろうなと思いながら、出発地点が分かるなら何故一目見てタクシーと見分けられるこれに乗って運転しているのか、そういうことを疑問に思っていない(夢の中で)のが不思議でした。こういう夢は車の暴走事故のニュース映像が遠因になっているのかと思っていると、今度は路線バスの暴走事故なので妙に不吉な気分でした。そういえば市バスの運転手は早々と「容疑者」と表記されて顔まで映っていました。

 さて、「元号があらたまる前にいくつかのマーラー全集を全部聴いてしまう」の続き、今回はバーンスタインのDG全集から交響曲第7番です。これはレコ芸の企画「名曲名盤500」の最新合本版(2017年6月1日刊)では、アバド、ベルリンPOの2001年DG盤(12P獲得)に次いで第2位(8P獲得)になっています。この企画自体選者の年齢に偏り??があったり(選挙の投票を欠かさず行う年齢層と重なるか)、重みというか注目度が今一つな気もしますが、このバーンスタインのマーラー第7番は発売後三十年以上経つのにかなり存在感を保っているようです。

バーンスタイン・ニューヨーク/1985年
①21分38②17分08③10分32④14分47⑤18分26 計82分31

クーベリック・バイエルン/1970年
①19分42②14分46③09分24④12分01⑤16分40 計72分33
インバル・フランクフルト/1986年
①24分36②14分38③10分15④13分13⑤16分47計79分29
小澤・ボストンSO/1989年
①21分08②16分43③10分32④14分01④17分49 計80分13
ノイマン・チェコPO/1978年
①21分30②14分15③10分10④16分50⑤18分00 計80分45
テンシュテット・LPO/1980年
①22分42②16分24③10分14④15分09⑤17分54 計81分43
マゼール・VPO/1984年
①24分25②15分39③10分18④15分45⑤20分04 計86分11
クレンペラー・ニューPO/1968年
①27分37②22分01③10分24④15分39⑤24分10 計99分51

 実際今回聴いてみると相当に魅力的で、これさいあればあとは要らないとまでは言えないとしても、各楽章の結びつき、共鳴というのか、とにかく強烈に惹きつけられます。合計の演奏時間を見ると、クーベリックの72分半からクレンペラーの100分弱という広範な幅の中で中庸か、少し長目の部類に入るくらいです。しかし、第2、4楽章は時間の流れ方が違っているような独特の魅力があると思いました。それからマゼールとウィーン・フィルはこの録音よりも演奏時間が長かったのかと妙に感心しました。

 交響曲第8番についてインバルは「凱歌や喜びまたは世界の平和の、単なる仮象に過ぎない」、「そこに何か作為的なものがあることや、楽観的な凱歌が、実は幻想にすぎないということに気づくことでしょう」と説明していました。マーラーの全交響曲が11の楽章からなる巨大な交響曲、長大な物語であるというとらえ方をして、第8番は「大地の歌」、交響曲第9番との関連においてはじめて正しく理解できる、としたうえで上記のように解説しています。その考え方に従えば、第7番についても独自の見方があることでしょうが、とりあえず「仮象に過ぎない」というとらえ方は第7番、特に終楽章にあてはめるとすっきりする気がします。バーンスタインの第7番では終楽章が特別に派手で屈託の無いという風では無いので、特に仮象という考え方に説得力を感じます。
16 3月

マーラー交響曲第7番 ヤンソンス、バイエルン/2007年

190316bマーラー 交響曲 第7番 ホ短調「夜の歌」

マリス・ヤンソンス 指揮
バイエルン放送交響楽団

(2007年3月8,9日 ミュンヘン,ガスタイク・フィルハーモニー ライヴ録音 Br Klassik)

190316a 三月に入る少し前から雨がよく降り、自分の体調共々ややこしい日が続きます。この環境にマーラーの音楽がよくフィットする気がして車の中やら電車の中でも聴いていました(ワンパックの酒を手放さないアル中並みに)。今日、明日の京響定期でも交響曲第7番をやるので大いに気になりながらチケットはとっていませんでした。発売当初はマーラーという気分じゃないなあと思ったこともあり、それに第7番は高関さんの指揮で定期で何年か前にやっていました。マーラーの交響曲の中で来日オケや地元オケの公演プログラムに入っているとすれば何が何でも聴きに行きたいと思う作品はどれだろうと、誰にもきかれせんのに考えてみると目下、第2、第6、大地の歌、第9番と、あとは第4、第8くらいが挙がります。最後の二曲はここ1年半くらいで会場で聴いたからやや熱意が下がるといったところです。

 これはM.ヤンソンスとバイエルン放送SOのライヴ録音によるマーラーの第7番のSACDです。ヤンソンスのマーラーならロイヤル・コンセルトヘボウともライヴ録音がかなり出ていますが、実はその辺の事情をよく把握せずにうっかり買ってしまったものでした(コンセルトヘボウの方が全曲揃いそうな勢い)。CD一枚にぎりぎり収まる合計演奏時間というのは別に珍しくないはずですが、もっと短い演奏時間もあり微妙なところです。

ヤンソンス・バイエルン/2007年
①21分40②15分13③09分58④13分13⑤17分23 計76分40
シュテンツ・2010年
①21分09②14分17③08分49④12分24⑤16分51 計73分30
フェルツ・シュトゥットガルト・2007年
①21分47②15分06③11分09④13分47⑤17分38 計79分27
アシュケナージ・チェコPO・2000年
①21分13②14分34③09分40④12分30⑤16分39 計74分26
ギーレン・SWRSO・1993年
①21分53②16分42③09分43④12分55⑤18分10 計79分23

 この曲は「夜の歌」という通称のもとになる第2、4楽章が有名ですが個人的趣味として第1楽章も好きで、特に出だしのところのえも言われない鬱陶しさ、陰と腐(?)のとばりが降りてくるような風情がとても心地良く感じられます(但し、いつ聴いても心地良いとは限らない)。この録音を最初に再生した時はそんな思い入れ混じりの情緒がまり感じられず、あっさりし過ぎる気がして残念に思いました。しかいよく考えると上記の録音も似た性格ではなかったこと思われ、マーラーの交響曲もすっかり古典になった21世紀にあっては演奏のスタイルも変遷しているとしても不思議ではないところです。

 古典になる云々はクーベリックの来日公演(1975年、バイエルンRSO)のCDの日本語解説に載っていた言葉で、その1975年頃はマーラー・ブーム前夜くらいだったのでその作品も古典、ブラームスとかベートーヴェン並みの演奏頻度、認知度ではなかったという意味で用いられていました。レコード界ではそろそろ交響曲全集がいくつか完成し出す頃だったので、ヨーロッパでは古典になりかかっていたかもとは想像できます。
24 6月

マーラー交響曲第7番 バーンスタイン、NYPO/1965年

180624aマーラー 交響曲 第7番 ホ短調 「夜の歌」

レナード・バーンスタイン  指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック

(1965年12月14,15日 ニューヨーク,リンカーンセンター,フィルハーモニックホール 録音 ソニーミュージック)

180624 今週で今年も半分が終わることになり、毎年のことながらあっという間に過ぎてしまいました。昨夜というか今日の午前、またはっきり分かる余震(震度2)が来てまだ終わってないことを暗示するようで不気味です。先週の震度5弱の前後に行方をくらましていた野良猫母子が帰ってきたと思ったら、この余震の後にまた鳴声が聞こえなくなったので不安が再燃です(居たら居たで近所から苦情が来たりでやっかいなのに)。ネット上では「預言」の類も含めて地震の学説や情報(南海トラフ)がいっぱいなので色々考えてしまいます。

 バーンスタインのマーラーならライヴ録音によるDG盤の方が注目され(DG盤が出てからはほぼとって替わられたような)ていましたが、旧録音の方は何年か前にSACDハイブリッド化されて再発売されました。今回聴いている第7番もそのSACD仕様ですが、これも含めて他の交響曲もLPの頃には一部しか聴いたことがありませんでした(第1番は国内盤で購入したのを覚えています)。その第1番を昔聴いた時は勢いがある一方で全体的な雑な印象で、後に聴いたレコード、CDによって作品のイメージが塗り替えられていきました。それでも妙に記憶に残る演奏でした。

 今回改めて第7番を聴いていると意外な程に温和というのか明朗な演奏なので、どこかしら屈折して「なんぞ裏がある?」と警戒しそうな作品に対するイメージが払しょくされてしまいます。聴いている当人が明朗なとかそんな要素に(無意識に)飢え渇いているからなのか、バーンスタインのマーラー演奏はこんな感じだったかとちょっと不思議に思いました。視聴環境を変えたのでマルチチャンネルで再生しましたが、これの音質がそんな傾向を強調しているのかもしれません(サブウーファーは使わずに再生)。

 第1番の記憶を念頭にすると、それと比べて全体的に雑なという感じはせずに、妙に丸くなっています。この録音はクレンペラーとニュー・フィルハーモニア管弦楽団のEMI盤よりも古い録音ということになりますが、それとは比較にならないくらい健全、率直な内容なので逆に驚かされます。
5 8月

マーラー交響曲第7番 ノイマン、チェコPO/1978年

170725bマーラー 交響曲 第7番 ホ短調 「夜の歌」

ヴァツラフ=ノイマン 指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

(1978年 プラハ芸術家の家 録音 SUPRAPHON)

  「暴れはっちゃく」という連続ホームドラムがかつて放映されていました。「~屋ケンちゃん」の延長的作品でしたが東野英心が父親役を演じ、「長太郎(主人公の名前)、てめえの馬鹿さ加減にはなあ、父ちゃん情けなくて涙出て涙出てくらあ」と言いながら息子の頭をはるシーンが定番でした。そんなにぽんぽん叩くのは今ならDV、体罰の懸念があるかもしれませんが、最近チラっとニュースになりかけてる「女体盛り」、これを自分の子供なり演者が喜んで参加してたとしたら情けなくて(以下略)。それにしても東野英心、中学生日記では教師役、ウルトラマンタロウでは副隊長とこまめに出演していたものでした。

 ノイマンとチェコPOのマーラー交響曲全集は今回で最後になります(カップリングの歌曲集は残っているが)。ブログ初期に取り上げた曲は記憶も薄れていますが、この第7番はかなり素晴らしくて、同曲の録音を何種か挙げる際には欠かせないと思います。CD1枚には収まらない演奏時間というのは珍しくなくて、合計時間は同時期のテンシュテットとLPOと似ています。しかし聴いた印象は先月のクーベリックと少し似た風情が混じり、同時に独墺系の作品らしさもかなり前面に出ているようで、よい意味で聴きやすい内容じゃないかと思いました。

ノイマン・チェコPO/1978年
①21分30②14分15③10分10④16分50⑤18分00 計80分45
テンシュテット・LPO/1980年
①22分42②16分24③10分14④15分09⑤17分54 計81分43
ショルティ・シカゴSO/1971年
①21分35②15分44③09分14④14分28⑤16分27 計77分28
クーベリック・バイエルン/1970年
①19分42②14分46③09分24④12分01⑤16分40 計72分33

 柴田南雄の著作だったか新書本の「グスタフ・マーラー」の中で交響曲第7番の終楽章についてかなり批判的に解説されてありました。十代の半ば頃かそれを読みながらクレンペラーのLPを聴き、その批判ももっともかなと思ったもので、まるでスーパーマンが飛んできそうなノリだと思いました。それから何十年も経って改めてこの録音を聴いていると、そんなに軽躁で中身が無いような楽章じゃないと思えてきます(それでは何を表現した楽章なのかと問われると困りますが)。

 マーラー作品をよく演奏する指揮者がマーラーの交響曲とか歌曲全部で一つの作品である、という意味のことを言っていますが、最近何度か聴いていて第7番は第6番と裏表のような位置、性格のようにも思います。まるでとどめのような一撃で全曲を閉じる第6番とめでたい祭りで終わる第7番の終楽章が不思議に共鳴するような気がしました。全作品の配列だとか位置付けなんかは考えが及ばないとしても、第6番の行き着く先には第10番が似合いそうだと、先月の大フィルの第6番を聴きながらふと思いました。
22 7月

マーラー交響曲第7番 クーベリック、バイエルンRSO/1970年

170722マーラー 交響曲 第7番 ホ短調 「夜の歌」

ラファエル・クーベリック 指揮
バイエルン放送交響楽団

(1970年11月26,27日 ミュンヘン,ヘルクレスザール 録音 DG)

 梅雨も明けて七月の2/3が過ぎています。今日の午後、ひなたに置いてあった車に乗り込みエンジンをかけたら外気温計が41℃を表示しました。走っているうちに37℃まで下がりましたが去年並みの高温です。今年は気温以上の不快さを感じ、何かが違うような気がしています(毎年そんなことを思ってるかも)。暑さがピークになる前、午前中に庭の雑木を剪定したらクマ蝉が何匹も飛び出して、こんな低い木の細い枝にとまっているのかと驚きました。さて、このところマーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)とリヒャルト・シュトラウスを(Richard Georg Strauss 1864年6月11日 - 1949年9月8日)交互に取り上げていて、二人は四歳違いなので創作時期も重なります。今回はマーラーの交響曲第7番を聴きました。

クーベリック・バイエルン/1970年
①19分42②14分46③09分24④12分01⑤16分40 計72分33
ショルティ・シカゴSO/1971年
①21分35②15分44③09分14④14分28⑤16分27 計77分28
クレンペラー・ニューPO/1968年
①27分37②22分01③10分24④15分39⑤24分10 計99分51

 
シュトラウスが先日の「サロメ」を作曲している頃にマーラーは交響曲第7番を作曲、初演しました。二人は対照的なパーソナリティであり、作風もそうだと指摘されています(シュトラウス自身はマーラーの交響曲第4番第3楽章のような音楽は書けないと言っていたとか)が、交響曲第7番は前作の第6番と比べると同時期のシュトラウス作品にどこかしら似ているような気もします。

 先日の交響曲第6番に続いてクーベリック指揮、バイエルン放送交響楽団の全集録音からです。第7番もCD一枚に収まるというテンポ、演奏時間であり、この曲としてはかなり短い部類に入ります。あのクレンペラーのEMI盤と比べると27分以上の差が出るという異常な事態です。クーベリックの場合は単に速目というだけでなく、屈託ない明朗さなのでマーラー作品から感じられる負の感情のようなものが限りなく浄化された妙な感慨がわいてきます。

 第7番の第1楽章の冒頭辺りは「夜の」どころか鬱屈と閉塞で出口が内容なえも言われない風情という先入観(多分クレンペラーのレコードで刷り込まれている)がありました。しかしこの録音を聴いているとサラっと夜風が吹いてくるような軽さで心地良くもあります。全体的に、社会主義リアリズムに則って作った説明しても通りそうで、終楽章なんかは、革命の成功と継続によって貧富や搾取が根絶された理想世界とかそんな調子でいけそうにきこえます。それはともかくとして、第1楽章から第5楽章までの統一感という点ではこの演奏、録音は特別ではないかと思いました。
7 7月

マーラー交響曲第7番 ショルティ、シカゴ交響楽団・1971年

160707aマーラー 交響曲 第7番 ホ短調 「夜の歌」

サー・ゲオルグ・ショルティ 指揮
シカゴ交響楽団

(1971年5月 イリノイ大学クラナート・センター 録音 DECCA)

160707b 参議院選挙の投票日が近づき色んなしがらみから決起集会の類に行かざるを得ず、無料だから、とりあえず冷房が入ってるからと着席しているとお世話になった故人の冗談を思い出しました。究極の選択シリーズと称して「ランチの時に『餃子の王将』と『大阪王将』しかなかったらどっちを選ぶ?」というもので、女性にはうけていました。 その前に二つの王将の区別がつかなくて、そんなに違うのかと思ったら、だからそこがミソだということでした。先日、井上達夫著のリベ・リベ1をぱらぱらとめくっていたのでついそんな「究極の選択」のネタを思い出しました。それにしても仮にかつてのような中選挙区制に戻ったらまた特定政党の長期政権になることも考えられ、どこをどうすれば良いのか、つくづく分らなくなってきます。会場はあふれる程満員でもないようで、従来なら投票率はあまり上がらないパターンかと予測できますが、今回は選挙権が18歳以上にまで引き下げられたのでその効果はあるはずです。

ショルティ・シカゴSO/1971年
①21分35②15分44③09分14④14分28⑤16分27 計77分28
クレンペラー・ニューPO/1968年
①27分37②22分01③10分24④15分39⑤24分10 計99分51

  マーラーの交響曲第7番のレコード、CDの中で一番演奏時間が長いのはどれか、徹底的に網羅して調べたという話はきかないので分りませんがクレンペラー最晩年のマーラー第7番は多分、演奏時間がかなり長い部類に入るはずです。一方でショルティの有名な全集の中の第7番はCD一枚に収まり、78分を切るので合計演奏時間が短い方になるはずです。最近ではマルクス・シュテンツ指揮、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団が74分を切る演奏時間でしたが、だいたいが80分を超えているのでCD1枚に収録できる方が少ないようです。

 ブログをやるようになって1970年代のアナログ録音(一部でデジタルが始まっている)に妙に惹かれるようになり、ショルティやレヴァインのマーラーは魅力を再認識しました(レヴァインの方はほとんど知らなかったが)。改めて第7番を聴いているとマーラーを社会主義リアリズムで仕立て直したようでもあり、「夜の」というのがそれ程似つかわしくもない感じです。それでも終楽章は独特な凄みで、滝壺のようなこの楽章に向かって全楽章が吸いこまれるような得も言われない魅力を感じます(スピーカーをかえたところなので欲を言えばもっと音量を上げたい)。

 ところでマーラーについてクレンペラーは次のように言及していました(『指揮者の本懐 シュテファン・シュトンポア編 野口剛夫 訳・春秋社』より)。「もしマーラーが、『 世界の苦悩に身を苛まれているような 』 本性の持ち主であると思われるとすれば、それは明らかに誤りです。彼は大変に活動的な、いやそればかりか明るい天性を持っていたということです。」 このことについてマーラー夫人が書いた伝記の見解と同じだとしていますが、どうも昨夜のモーツァルトとは逆方向の指摘です。そうだとすれば、マーラーの第7番も聴こえるままに受け取っても良い(なんぞ裏があるのでは、と思いがち)ということで、ショルティのスタイルも説得力をもってくると思います。今度はもうちょっとサブウーファーをきちんと設定して、そこそこの音量で聴きたいと思いました。
15 11月

マーラー交響曲第7番 マゼール、ウィーンPO

マーラー 交響曲 第7番 ホ短調「夜の歌」


ロリン・マゼール 指揮

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


(1984年 ウィーン,ムジークフェラインザール 録音  Sony)

141115b 先日書店で「百年前の山を旅する (服部文祥 著・新潮文庫)」という薄い本を見つけました。現政権になってスキンヘッドの作家がやけに目立ってきているので一冊くらいは読んでおこうかと思って本屋に行きました。そうしたところが、「『殉』愛」という文字が広告の中に見つかってどうにも肌が合わない気がして止めにしてこの本を買いました。登山とは無縁のなまくらな生活ながら「鯖街道を一昼夜で駆け抜ける」という章が気になって読もうと思いました。本の内容は「岳人」という山岳雑誌の編集に参加している著者が、明治維新頃の装備で山に入りサバイバル登山的な行軍をした記録、旅行記です。昔、月刊・少年チャンピオンに「のざらし」という作品が連載されていて結構気に入っていました(あまり大きな声で言えない漫画)。これは週刊少年チャンピオン連載の「がきデカ」の作者が描いていたもので、無名のお寺を舞台にしてボケ役的なこまわり君の立ち位置のキャラが三人に増え、突っ込み役・優等生的なキャラが男二人、女一人で対応する話です。女性は住職の娘、それ以外の5人は修行僧という設定ががきデカと差を付けています。その「野ざらし」の中で、寺伝来の明治以前の登山装備で雪山を越えて使いに行くという回があって後々までトラウマになりました。だから「百年前の山」というのに反応してしまいました。

 さて、先日の小澤・ボストンSOの録音に続いてマーラーの交響曲第7番です。思えばマゼールのマーラーと同じポストに就いていて苦労?したわけで、亡くなられた後に今更ながらしのばれます。第1楽章は小澤盤と比べて3分以上長くて、この作品に対するイメージ通りのどんよりと曇り切った空のような重苦しく始まり、進行します。長い、遅い点では第5楽章も小澤盤よりも2分以上の差が出ています。ただ、このCDは楽章ごとではなく更に細かいトラック分けがしてあるので、下記は楽章ごとに集計したものです(だから計算違いの恐れもある)。

マゼール・VPO:1984年
①24分25②15分39③10分18④15分45⑤20分04 計86分11
小澤・ボストンSO:1989年
①21分08②16分43③10分32④14分01④17分49 計80分13
ラトル・バーミンガム市SO:1991年
①22分06②14分40③10分15④12分19④17分51 計77分11
ベルティーニ・ケルンRSO:1990年
①21分34②15分55③09分46④13分31⑤18分02 計78分48
テンシュテット・LPO:1980年
①22分42②16分24③10分14④15分09⑤17分54 計81分43

 全体の印象も小澤・ボストンSOとは対照的で、統一感よりも各楽章の様々な部分が興味深くきこえます。「夜の音楽」の二つの楽曲もいかにもという感じですが、さんざん取沙汰される終楽章は派手ではなく、どこか鬱屈した風になっています。スーパーマンが飛び出して来そうな趣とは少々違いました。それに所々でさすがにウィーン・フィル思う美しい響きが出てきます。

交響曲 第7番 ホ短調
第1楽章 Langsam (Adagio) – Allegro risoluto, ma non troppo
第2楽章 Nachtmusik I. Allegro moderato
第3楽章 Scherzo. Schattenhaft
第4楽章 Nachtmusik II. Andante amoroso
第5楽章 Rondo-Finale. Allegro ordinario

141115a ところで福井県の小浜から若狭湾で捕れた鯖を、一塩にして京都の出町柳まで一昼夜かけて運んだという「鯖街道」ですが、上記の本によると昭和50年頃から急に「鯖街道」と言い出し、それ以前は誰もそんな風に呼んでいなかったようです。それに約72キロの峠を越える険しい山道を荷物を担いで一昼夜で踏破するのは無理、というのが地元民と著者の実感のようでした。さらに言えば最近は若狭湾で鯖があまりとれないから宮城の金華山沖でとれた鯖を魚市場で売っているとか。鯖寿司を作るには当然酢が必要なわけで、一般に容易に酢が手に入るようになったのは江戸時代中期頃で、庶民にまで鯖寿司が広まったのは明治以降のはずとされています。左京区にある鯖寿司の老舗「花折」れによると、その店で鯖寿司を作るようになったのは大正二年になってからでした。結局、鯖寿司のために「鯖」を一昼夜かけて運んだという「鯖街道」の話は現実とはちょっと違い、実際に鯖をそのようにして運んで鯖寿司を作った時期があったとしてもごく短い期間だと言えそうです。ただ、ロマンをかき立てられる話だと思いました(観光振興、地域起こしのための知恵だったともいえる)。
 

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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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