ガブリエル・フェルツ 指揮
(2007年4月23,24日 シュトゥットガルト,リーダーハレ・ベートーヴェン・ザール ライヴ録音Dreyer-gaido )
最近のこと、朝の7時台に地下鉄の京阪三条駅(京都市営地下鉄東西線)のホームに居ると、京都精華のバスケット部一行が東方面の電車を待っているのが目に入りました。留学生とあわせてが7人が生徒で他に引率者が2名見えました。試合に行くにしては7名は少ないと思いつつ、留学生はさすがに背が高い、180センチ弱の私よりもずっと高いので女子バスケットならなおさら有利なのは容易に想像は付きます。留学生なので出入国管理局で拘束されてオラオラされることはないでしょうが、思い出せば一昨年3月に収容中に亡くなったスリランカ人女性も留学生だったはずで、本人もまさかああしたかたちで人生を終えるとは思っていなかったことでしょう。京都精華を今年卒業したイゾジェ・ウチェさんはWリーグのシャンソン化粧品に入り活躍しています。留学生も含めて前年度のメンバーが残るのでインターハイ、ウィンターカップも期待できます。
さてこの際、惰性で連続マーラーの交響曲第7番を聴き続けて、ガブリエル・フェルツの第7番。フェルツとシュトウットガルト・フィルのマーラーは過去記事で何度か取り上げていました。第5番なんかは全然ぴんと来ずに、色々凝った意図があるようですがなかなかそれを理解、感じ取ることができないでいました。一旦レコーディングのペースが落ちたと思っていたら昨年くらいに全集セットとして出ていて驚きました。第8番、第9番はドルトムント・フィルハーモニーになっています。この第7番はマーラー全集の中で最初に録音した曲でした。
付属冊子には日本語訳が付いていて、1960年代初頭からの一般的なマーラー・ルネサンスについてフェルツの考えが載っています。「主にアメリカの指揮者、作曲家のレナード・バーンスタインの功績によるのではなく、グスタフ・マーラーその人への興味が復活してきたことと彼を取り巻く時代への関心であり、このマーラー再発見の動きが最後にたどり着いたのが、この交響曲第7番である」。わざわざ名前を出す程なのでバーンスタインのマーラー演奏の反対、対極を志向するのかと思いましたがそこまで意識はしていないようです。
これを最初に聴いた十年くらい前は途中で止めてはやっぱり聴こうと、そんな具合に途切れがちに聴いていましたが、改めて聴いてみると第1~4楽章は色々な起伏や強弱、停滞も心地よくて、独特の流れで魅力的です。なにをもって「この曲らしい」というのかは難しいとしても夜の歌と第1楽章の憂さは第7番独特のものが醸し出されていると思いました。終楽章については、テオドール・W・アドルノの見解を一面的で作曲者自身の説明と相対するとしています。そして「交響曲第7番に特徴付けられる彼の歓呼と勝利を真剣に受け止める」としています。その終楽章を実際に聴いていると不思議にそこまでの四つの楽章に調和するようでしっくり来ています。演奏終了後には歓声と拍手が盛大にあがっていました。