raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

バッハ

8 4月

旧ソ連LP・リヒターのマタイ受難曲の旧録音/メロディア盤

230406aJ.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV.244

カール・リヒター 指揮
ミュンヘン・バッハ管弦楽団
ミュンヘン・バッハ合唱団
ミュンヘン少年合唱団

T:エルンスト・ヘフリガー(福音書記者,アリア)
B:キート・エンゲン(イエス)
S:アントニー・ファーベルク(第1の女,ピラトの妻)
Bマックス・プレープストル(ユダ,ペテロ,ピラト,大祭司)
S:イルムガルト・ゼーフリート(アリア)
A:ヘルタ・テッパー(アリア,第2の女)
B:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(アリア)

(1958年6月-8月 ミュンヘン,ヘルクレスザール 録音 露 MELODIA C10 07485)

 昨年の六月からレコード芸術誌を何となく毎月購入していました。特に気になる連載があるわけでもなく、情報がはやいということもないのに、クラシック音楽について何やかんやと書いてある文章が無ければ寂しいというか、今にして思えば虫の知らせだったのか、この月刊誌が休刊となるそうです。ついに来たかというのが正直な感想です。直近の四月号には「その輝きは色あせない 神盤 再聴」という企画があり、その中にリヒターのマタイ旧盤もリストアップされていました。ちょうど個人的に旧ソ連のメロディア盤LPを購入して聴いていた直後でした。

 カール・リヒターがソ連に演奏旅行した際のライヴ音源がヨハネ受難曲とか何種かあったようですが、このマタイ受難曲はそうしたものではなくアルヒーフ制作のものをメロディアから発売したものです。ただ、メロディアがどこまで関わったのか、ソ連内でレコードのプレスだけして内容は全く同じなのかとか詳しいことは分かりません。メロディアのLPは旧東ドイツのエテルナ同様に素朴な、会場で聴く音に近い、あまり加工が入ってないとかで熱心に集めている層があるそうですが、ヨッフムのブルックナー・エテルナ盤を聴くとなるほどと思いました。このマタイ受難曲も聴いてみると、これまで記憶しているリヒターのマタイ旧盤と印象が違い、特に第一部前半は同じリヒターのマタイ、再録音盤(評判が悪いあれ)と同心円上というか、似た性質だと意外に思いました。それに少年合唱が目立って聴こえて、角が取れて、手で撫でてもとげが刺さらないような感触です。

 と言ってもこれまでリヒター旧録音は何種類かのCDでしか聴いておらず、聴きなおす度に印象が薄くなり、雑誌の企画にケチをつけるつもりじゃないですが色褪せていく気がしていました。リヒターが録音したバッハの四大作品の中で自分が一番感銘深かったのはヨハネ受難曲(映像ソフトではない方)でした。それは感覚的に作品が、色々な部分が突き刺さって来るような感銘度で、マタイ旧盤に対する賛辞が当てはまるような気がしていました。そのヨハネ受難曲も最初に聴いてから十数年経過して廉価仕様のCDで聴くと、感銘度はそれほどではなくて、自分の感受性が鈍化したのか(それは確かにある)特に衝撃的にも感じない普通な印象でした。そういう経過だったのでメロディア盤のマタイ旧盤が気になったわけです。

 改めて何度か全曲を聴いていると、古い録音なのに鮮烈な音に軽く驚かされて、少年合唱が女子も参加しているのかと思うくらいの穏やかな歌唱に聴こえ、福音書記者を歌うヘフリガーも女声かと一瞬錯覚するような憂いを帯びた声が全面に出てきます。それと福音書記述の箇所の通奏低音ではチェンバロは無しでオルガンを使っているので余計にヘフリガーの朗誦が際立って聴こえます。オルガンの音色が時には金属的なきらめきに感じられたり、同じようにフルートの音も鋭く響いて印象的です。リヒターの再録音では同じ部分の通奏低音にはチェンバロが加わり、福音書記者はペーター・シュライヤーなので、それらだけでも違って聴こえるのは確かです。あと、再録音の方ではフィッシャー・ディースカウがキリストのセリフの部分を歌っていて、それは他の追随をゆるさないほど魅力的です(クレンペラー盤でもフィッシャー・ディースカウが歌っている)。この点は旧録音でも同じ配役だったらと思いました。

 再録音のことはさて置き、故磯山教授の著作の中に次のような言葉がありました。「マタイ受難曲の本質をひとことで言い表せば『慈愛』である」、さらに、「慈愛が胸いっぱいにしみわたる」、「その慈愛はバッハの音楽から与えられるようでありながら、いつのまにか、そのさらに背後から、馥郁(ふくいく)と放射されるように思いなされてくる」とありました。今回リヒターの旧盤の冒頭合唱を聴いているとしみじみとこれらの言葉が思い出されました。ヨハネ受難曲の冒頭合唱とは違う趣ですがこれは、マタイ受難曲の第一部が捕縛される場面やゲッセマネの苦悩より前の場面、最後の晩餐やその準備的なところ(香油を振りかける)から出来事ははじまり、とりわけ最後の晩餐(聖体の制定)の輝かしいキリストの歌唱も含まれるという内容が効いていると思います。リヒターの受難曲はゲッセマネ以降の苦しい場面の印象が先行しがちですが、第一部前半も魅力的だと再認識しました。それと同時にゴルゴダまでの受難の場面も特別に激ししい演奏というわけではない気がして、それこそ慈愛、いつくしみで貫かれているのではと思いました。

 「いつくしみ」と言えば日本のカトリック教会のミサ、式次第が新たになりキリエの歌詞が変わりました。あわれみの賛歌がいつくしみの賛歌となり、「主よあわれみたまえ」と「キリストあわれみたまえ」が「主よいつくしみを」、「キリスト、いつくしみを」に改まりました。「あわれみ」も「いつくしみ」も日常生活でそうそう使う言葉ではないと思いますが、「いつくしみ」という言葉はえも言われず十字架、御受難にぴったりする言葉だと思えてきました。ペトロがイエズスのことを知らないと否定する場面、ルカ福音書は鶏が鳴いた後にイエズスが振り向いてペトロを見つめるという記述があります。それからペトロは泣くわけですが、そのまなざしはどんな風だったことかと思います。
6 2月

クレンペラーのバッハ管弦楽組曲第4番再録音/1969年のLP

230206bJ.S.バッハ 管弦楽組曲 第4番 ニ長調 BWV.1069

オットー=クレンペラー 指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

(1969年9月19日,10月6日,17,18日 ロンドン Abbey Road No.1 Studio 独 ELECTROLA 163-02102/3)

230206a 昔、昭和40年前後頃か、全国的に百科事典だとか文学全集のような教養的なものを販売する戸別訪問がそこそこ盛んでした。自分が子供の頃にもそういう本があり、その中でオーケストラ作品ならハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンにシューベルトの未完成交響曲の次はバッハ、ヘンデルの組曲を、聴くべき作品として紹介していました。別に何から聴こうが自由じゃないかと、現代ならそういう軽いノリかもしれませんが当時はフォークとナイフの使い方やらテーブルマナーを間違っては恥ずかしいという感覚に似た意識で、「~くらいは知らなくてはダメですか」とか、「これに感動していいですか」的な、新鮮な向上心、好奇心に加えて横並び意識のようなものがあった気がします。そういう時期にバッハの管弦楽組曲だったらリヒター、ミュンヒンガー、パイヤールあたりが有名でした。それと並んでベルリン・フィルとか通常のオーケストラもレパートリーに入っていたはずです。クレンペラーもバッハの管弦楽組曲をEMIへ二度もセッション録音した程の傾倒ぶりで、ライヴ音源にも組曲第3番は何種も出回っています。

 クレンペラー本の中で「クレンペラー 指揮者の本懐 -良き音楽の弁護人として- シュテファン・シュトンポア 著/野口剛夫 訳(春秋社)」といのがありました。何故か再発売されないでいますが内容は写真共々興味深いものがあります。その中で「交響作品について」の中でバッハの管弦楽組曲についての見解、コメントが紹介されています。1949年4月17日にブダペスト放送での話として、クレンペラーは以下のように語っています。「第四組曲は芸術的には第三組曲と同じレヴェルにあるのです。第1楽章の後半をバッハはカンタータにも使っています。~ この第四組曲の価値を放送をお聴きの皆様方には正しく判断していただきたいのです。」ちなみにブダペスト時代のクレンペラーの演奏を集めた「クレンペラー イン ブダペスト」のLP(フンガロトン)の中に、モーツアルトの交響曲第39番とバッハの管弦楽組曲第4番が入ったものがありました。

組曲第4番 ニ長調
1.序曲
2.ブーレⅰ-ⅱ
3.ガヴォット
4.メヌエット
5.レジュイサンス

 それでクレンペラー二度目のバッハ管弦楽組曲のレコードから再録音の方をドイツ盤LPで聴きました。すでにCDでも聴いているものですがレコードで改めて聴いていると感慨もあらたです(思い入れが強い分だけ)。最近ではこの組曲の「初期稿再現版」というCDが出たり、ますます古典派の作品群とは別物という流れ(古典派もピリオド系の影響が強い)が進んでいて、1960年代のクレンペラーらとは演奏スタイルとしては年代的に別世界です。それはそうだとしても、この演奏は序曲からして祝祭的な香気を感じられて、実用的、娯楽的な音楽とは一線どころか深いクレバスによって画せられる作品のような印象です。上記のブダペスト放送のプログラム、この組曲第4番とモーツァルトの交響曲第39番は、日本国内のオーケストラ定期で聴くのは難しいかもしれないと今更ながら思いました。

 ところでライプティヒ聖トーマス教会合唱団のカントルだったギュンター・ラミンによるバッハのモテット集CDの解説文にはラミンの演奏はメンゲルベルク、フルトヴェングラーらのロマン派的なバッハ演奏とは違い、より現代的なという風に評されていました。実はその大時代的なスタイルのバッハにクレンペラーの名も並んでいたわけですが、この辺りはどんなものだろうと思います。もちろん古楽器、古楽器奏法等の現代の演奏とは比較できないとしても、切って捨てられない魅力、何ものかがあるように思います。クレンペラーが指摘していたように第4番も素晴らしい内容だと思いました。
21 11月

バッハのマタイ受難曲 ドレスデン,ライプチヒ/1970年

211114aJ.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV.244

ルドルフ・マウエルスベルガー 指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
ドレスデン聖十字架教会合唱団(合唱指揮ルドルフ・マウエルスベルガー)
ライプツィヒ聖トーマス教会合唱団(合唱指揮エルハルト・マウエルスベルガー)

福音書記者:ペーター・シュライアー(T)
キリスト:テオ・アダム(Bs)
ペトロ:ジークフリート・フォーゲル(Bs)
ヨハネス・キュンツェル(Bs)
ヘルマン・クリスティアン・ポルスター(Bs)
ハンス・マルティン(Bs)
ハンス=ヨアヒム・ロッチュ(T)
アデーレ・シュトルテ(S)
アンネリース・ブルマイスター(A)
ギュンター・ライプ(Bs) 

(1970年1月22日-2月4日 ドレスデン,ルカ教会 録音 TOWER RECORDS/Berlin Classics)

211114c バッハのマタイ受難曲、シューベルトの「冬の旅」、ワーグナーのパルジファル(又は指環四部作)あたりは、ドイツ語歌詞の声楽作品の中では新譜や初出音源が出ると気になって、昔から飲み代を削っても何とか購入しようとする作品です。マタイ、冬の旅は同じような感覚で多数集めている人も居るようで、ラ・ヴォーチェ京都でオランダのナールデンのマタイ受難曲を買った際、ほぼ全録音を収集している人も居ると聞きました。オランダのナールデンで毎年行われる演奏会は、日本では海外渡航経験が乏しい我々のような層にはなじみが薄いものですが一部では有名だったようです。このマウエルスベルガー兄弟がドレスデンの聖十字架教会、ライプチヒの聖トーマス教会を動員して制作したバッハのマタイ受難曲は、歴史的録音、定番、本場・本家ものとして有名でした。日本ではリヒターの旧録音の陰に隠れそうで隠れない、微妙な尊崇度だった気がします。

 最近これがSACDハイブリッド仕様で復刻されたので、そのリマスター加減に期待して購入しました。割高なSACDながらLPレコードの初期盤はかなり高価なのでそれに比べれば安い方になります。主にSACD層を聴いていると、音質的にはより鮮明に感じられ表面を洗浄したフレスコ画のようなと言えば大げさかもしれませんが、改めて魅力を実感しました。寄宿制学校による少年合唱団は聖トーマス教会やドレスデンの十字架合唱団の他にもレーゲンスブルクやウィーンも有名です。今回このマタイ受難曲を聴いていると、J.S.バッハ以前のシュッツや1517年以前のラテン語の教会音楽からの連続というか、それらの延長線上にある作品だということを意識させられました(ドイツ語圏でもレーゲンスブルクの聖歌隊はパレストリーナの作品集を出していた)。

 それに福音書記者のパートを歌うペーター・シュライアーも感銘深く、リヒターの再録音時よりも若いシュライアーの声が印象的です。そのリヒター再録音盤ではキリストのセリフ部分をフィッシャー・ディースカウ(クレンペラー盤から10年以上後)が歌っていますが、それを思い浮かべるとテオ・アダムの歌唱は人性が後退して神性がより前に出ているような印象です。それは演奏全体から受ける印象とも重なりますが、そもそも神性、人性なんて教会外では意味のないことかもしれません。そうだとすれば作品の性格が、ユダが密告してペトロも否認するという出来事が重大となるドラマという方向になってきます。この録音はその方向とはかなり異なりそうです。

キリストは人間の姿であらわれ 死にいたるまで
しかも十字架の死にいたるまで
自分を低くして したがう者となった~

 聖週間に歌われる日本語の聖歌に上記のような歌詞があります。お馴染みの聖歌ですが、あらためて読むと「人間の姿であらわれ」というのはすごい内容です。マタイ受難曲はまさにこの聖歌の歌詞そのものだと思いました。人間の姿、という言葉に注目するとフランスの画家、ルオー(Georges Rouault 1871年5月27日 - 1958年2月13日)の描くキリストの顔を思い出します(同じテーマで多数の作品があるので当然全部を見たわけでなく、そもそも美術館で直接見てさえいない)。マタイ受難曲のキリストのパートを聴いてルオーの作品と重なる場合はあまり無いような気がして、あらためてバッハのマタイ受難曲はどういう作品なのかと、単純にははかりにくい気がしてきます。とりあえずマウエルスベルガー兄弟とドレスデン、ライプツイヒの聖歌隊によるマタイ受難曲は教会内、キリスト教界の内側から見た作品像の極致ではと思いました。
6 5月

クレンペラー、VPOのブランデンブルクNO.1/1968年

210506aJ.Sバッハ ブランデンブルク協奏曲 第1番 BWV.1046

オットー=クレンペラー 指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴァイオリン:ワルター・ウェラー
オーボエ:カール・マイヤーホファー、ハンス・ハナーク、フェルディナンド・ラアブ
ファゴット:エルンスト・パンペル
ホルン:ウォルフガング・トンボック、グンター・ホグナー
チェンバロ:フランツ・ホレットシェック

(1968年5月19日 ムジークフェライン大ホール ライヴ録音 Testament)

210506b 何となく落人のような息をひそめて過ごした連休が終わりました。今朝の六時前に局地的な濃霧が発生していて、伏見区の伏見稲荷辺りから下京区の六条辺りがフォグランプも点灯した方が良いような暗さ、濃さでした(五条通を過ぎるあたりで急に晴れて)。朝目覚める前に夢をみていて、その中で植え込みに大きな蜂の巣があり、それを触ってしまい、大きな蜂が首筋に迫ってきて「今度こそダメだ」と思って死んだふりのように静止したところで目が覚めま、後味が悪くてどうも睡眠中の夢も天候まで薄気味悪い昨今です。

 これはTestamentから出ていたクレンペラーのウィーン・フィル録音集の中の一曲です。他のレーベルからも発売されて有名だったマーラーの第9番やブルックナーの第5番、ベートーヴェンの交響曲第5番を含む1968年のウィーン芸術週間の公演を中心にしたものです。収録曲をざっとながめてみて正直ブランデンブルク協奏曲は聴くのを一番後回しにしていました。しかし、いざ聴いてみると全体的にほぐれて、のどかでありながら調和のとれた天上の世界のような軽やかさに内心驚きます。映像記録でエグモント序曲のリハーサル中に譜面台を叩いて一喝するクレンペラーの姿からはおよそ想像できないような空気です。

 この時期のクレンペラーは1966年8月にスイスの保養地サンモリッツで転倒、骨折して約半年の静養期間を経て、ユダヤ教に復帰した後、晩年の最終期にあたります。この時期も細かく分類できるかもしれませんが、これ以前、1959年に大火傷から回復して再び各地へ客演した期間、EMIへレコーディングすようになった1954年からチューリヒの自宅で大火傷する1958年秋までの充実した期間と比べると、演奏のテンポが一段と遅くなるともに質的にも変わってくる時期でした。ブランデンブルク協奏曲第1番については、1962年のフィラデルフィア客演時とくらべると1968年のウィーン・フィルへの客演では第4楽章が1分半以上長くなりましたが、それ以外の楽章は大差ありません。

ブランデンブルク協奏曲第1番
①ヘ長調 2/2
②ニ短調 Adagio 3/4
③ヘ長調 Allegro 6/8
④ヘ長調 3/4メヌエット-トリオ1-メヌエット-ポロネーズ-メヌエット-トリオ2-メヌエット

 バッハの代表作の一つ、ブランデンブルク協奏曲は1721年にブランデンブルク辺境伯クリツチャン・ルートヴィヒに献呈された六曲からなる合奏協奏曲集です。バッハがライプチヒのトーマスカントルに就任する1723年の少し前、ケーテン侯に仕えていた時期の作品です。第1番が最初に作曲されたのではないようです。独奏楽器群と合奏が交替しながら演奏する様式の「合奏協奏曲」です。

 ブランデンブルク協奏曲がウィーン・フィルのプログラムには入っているというのは現代では(1990年代でも既にそうか)珍しいのではないかと思いますが、1960年代ならまだあったということか、クレンペラーはバッハの管弦楽組曲も含めてしばしばプログラムに入れています。この1968年のウィーン芸術週間の5月19日のプログラムはブランデンブルク協奏曲第1番、モーツァルトのセレナーデ第12番、ジュピター交響曲でした。バッハと古典派の組み合わせはベルリン・フィルに客演した時にもありましたが、今回はモーツァルトのセレナーデを続けるところが楽器編成等も含めてプログラムの妙のようです。
公演の順番でバッハ、モーツァルトのセレナーデと順番に聴いていくとジュピター交響曲の威容がクローズアップされて感銘が深まります。ちなみにクレンペラーが1962年にフィラデルフィア管弦楽団へ客演した際もブランデンブルク協奏曲第1番を指揮していました。オーケストラの木管に自信があったということか、1962年11月2日のフィラデルフィアではブランデンブルク協奏曲第1、ジュピター交響曲、ベートーヴェン第7番という組み合わせでした。
25 12月

バッハの管弦楽組曲第2番 アーノンクール、CMW/1966年

201223J.S.バッハ 管弦楽組曲 第2番 ロ短調 BWV.1067

ニコラウス・アーノンクール 指揮
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス

(1966年12月 ウィーン,カジノ・テゲールニッツ 録音 ワーナーミュージックジャパン/TELDEC)

 今年も残り一週間を切り、クリスマス(主の降誕)がやってきました。しかし新型コロナ感染再、急拡大のために教会内のクリスマスも聖歌無しだったりかなり地味になっています。この一年は新型コロナ禍の影響でクラシックのLPレコードを扱う店はレコードを買い付けにヨーロッパに行けない期間が長引いたせいか、古い国内盤のLPを店頭で見かけることがありました。フェリックス・アーヨによるバッハの無伴奏ヴァイオリン、クレンペラーのエロイカetc、特に後者はジャケットのライナーノーツにどんなことが書いてあるか興味がわきますが、1959年録音のエロイカには演奏者の説明はクレンペラーの経歴くらいしか載っていませんでした。作品によっては詳しい解説やら評論、逸話が載っていることがあり、ここ十数年のCDの付属冊子よりも手が込んでいます。

 今回はCDですがクレンペラーがバッハの管弦楽組曲を再録音した1969年より前に、アーノンクールが古楽器によるアンサンブル、CMW(ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス)と録音したものの復刻CDです。ちょうど第2番をクレンペラーの旧録音LPで聴いたところだったのでにわかにこれが気になりました。 実際に聴くと当然楽器の音色からして違い、同じ作品だとしても別用途・機会の演奏といった強烈な印象です。しかし、個性的過ぎるとか、従前の演奏と違い過ぎて原形が分からないということはないと思いました。ちょうど「きよしこのよる」のオリジナル版とその後に普及したパターンの差くらいかもしれません。

 ただ、解説によると楽器、奏法だけでなく当時の最先端の演奏(フランス様式の楽曲におけるノート・イネガルの実践、舞曲リズムの入念な抽出、序曲前後半部の反復など)である一方、速い楽章は遅く、遅い楽章は速くという従来とは異なる解釈という指摘がありました。これはクレンペラーが管弦楽作品、複数の楽章をそなえた作品で実践していることと共通しています。もっとも、この録音に対する評としてはその解釈を「アーティキュレーションの深掘り」が支える支えるにはまだ若干の距離があるとしています。

 アーノンクールは管弦楽組曲のレコード録音の少し前に、同じくバッハのブランデンブルク協奏曲全曲をコンサートで演奏してから全曲録音しています。同じように管弦楽組曲も全曲演奏会、録音を勧められた際に、楽器と演奏者を必要な数だけ集められないこともあってかなりちゅうちょしたそうでした。バッハに取り組むまではもっと古い時代の音楽、ルネサンス期の作品やビーバーとかを扱っていたので、一連のバッハ作品は新たなチャレンジだったということです。
12 12月

バッハの管弦楽組曲第2番 クレンペラー、PO/1954年のLP

201214aJ.S.バッハ 管弦楽組曲 第2番 ロ短調 BWV.1067

オットー・クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

ガレス・モリス:フルート

(1954年11月19,20,22-23日 ロンドン,キングスウェイホール 録音 Columbia 33CX1239/EMI/Testament)

201214 十二月も一週間以上が過ぎたのにいまひとつ年末感が漂わないのがここ数日でしたが、ネット上で宅八郎の訃報(八月にお亡くなりに)を見つけて、なにか桐の大きな葉がバサッと落ちたような心地でした。それにしても関西、大阪以外でも新型コロナ感染がいよいよ拡大してきました(検査数が少ないとしてもどんどん増えている)。そんななか、少し前にGO TO を利用して来て京都の飲食店を利用した人が、店員や客が店内でマスクしていないと、ユーザーのレビユーにコメントしているとよく利用する店で話題になっていました。自分は空いている時間帯にしか行ってなかったから、べながらマスクを外したり付けたりしてなかったので、意識の低さを再認識しました。仮に店に入る直前にPCR検査の陰性を確認していても、店の暖簾やら戸、あるいは先客経由で感染する可能性があるわけで、無症状の感染者から拡大させないためにせめてマスクくらいしとけということかと。

 時々特定の作品をどうしても聴きたくなる発作のような感覚におそわれることがあり、最近はバッハの管弦楽組曲第2番の発作を発症しました。この組曲のたしかポロネーズが、BルボンのTVコマーシャルで使われていたので、店頭で袋入りのルマンドを見た時にこれを思い出して発症しました。それでクレンペラーの旧録音のLPがラ・ボーチェ京都にまだあったのを思い出して、立ち寄った際に購入できました。クレンペラーは後年、ニュー・フィルハーモニア管弦楽と改称した時代にも管弦楽組曲を全部録音していました。今回のものはその10年以上前、1954年のセッション録音です。

① Ouverture
② Rondo
③ Sarabanda
④ Bourree
⑤ Polonaise
⑥ Menuet
⑦ Badinerie

201214b 針を下ろして音が流れてきた瞬間驚いて、これは本当に1954年の録音なのか、もっと後年の演奏じゃないかという印象を受けましたが、それはさておき、復活祭後の教会カンタータの楽曲のような、どこか憂いを帯びながら爽やかで、包みこむような響きに感銘を受けました。BWV.6の息吹を感じるようで、ピリオド・オケ系の演奏とは違う魅力を再発見した気がしました。とか言いながら、同曲異演のCDを所持している修正の割にバッハの管弦楽組曲はクレンペラーのLP、CDしかもっていないのでこの作品のピリオド楽器の演奏は具体的には記憶に残っていませんが。

 クレンペラーは作曲家としてバッハ作品の解釈、演奏に自負するところがあるようで、かつてフルトヴェングラーがこの組曲(ロ短調の組曲と言っているからこれのことかと)を指揮した公演を聴いて、序曲のコーダ部分をカットして演奏していたので、そこが序曲全体のしめくくりになると思うのでフルトヴェングラーは作品を理解していないと、「クレンペラーとの対話(P.ヘイワーズ篇)白水社」の中でふれていました。ただ、スコットランド交響曲の終楽章コーダを自ら作ったり、ブルックナー第八番の終楽章でかなりの削除を行ったクレンペラーが「自分が指揮する時だけにこれら(削除や独自のコーダ)について責任をもてる」と言っている論法でいけば、フルトヴェングラーのバッハ組曲第2番の序曲もそういう見方をする余地はなかったのかとつっこみたくなります。

 それはともかく、現代からすればクレンペラーの世代のバッハ演奏は古いと言われて久しいものですが、この組曲第2番はその言葉で切り捨てられない魅力がなおあると思いました。ところで1954年のクレンペラーの演奏は、1970年のベートーヴェン・チクルスの映像ソフト付属の解説によると、第3期「1952年4月(モントリオール空港骨折から復帰後)~1958年9月(チューリッヒ寝室大火傷前)」の中速傾向の時期にあたります。その割に序曲のテンポと広大、深淵に響く感じは第4期「1959年9月(大火傷後復帰)~1966年7月(サン・モリッツ転倒骨折前)」の後半か、第5期「1967年2月(骨折復帰,ユダヤ教復帰)~」の演奏効果に通じるものがあると思われて、LPで聴くとその傾向が強調される気がしました。

  この管弦楽組曲の旧録音はTestamentの二枚組CDで「ラモーのガヴォットと変奏(クレンペラー編曲)」、「ヘンデルの合奏協奏曲」、「グルック トーリドノイフジェニー 序曲」、「ケルビーニ アナクレオン序曲 クレンペラーノアナウンス音声」がカップリングされています。多分再録音に隠れた形でEMIからは単独でCD化されていなかったはずです。
17 10月

エヴァークリーンLP/東芝 バッハ無伴奏 トルトゥリエ/1960年

201017バッハ 無伴奏チェロ組曲 BWV1007-1012

ポール・トルトゥリエ:チェロ

*国内盤LP
(1960年 録音 東芝/EMI)

201017a レコードの色といえば溝がある盤面は黒と相場が決まったものですが、絵本や雑誌の付録のソノシートは半透明の緑とか赤だったのを覚えています。先日たまたまバッハの無伴奏チェロ組曲の国内盤LPを購入しました。店頭で中をチェックしている際に盤面が半透明の赤だったのと、中袋にエヴァークリーンと書いてあるのが見えました。自分が購入した東芝のレコードでそういう半透明の赤色はなかったので、1970年代かそれ以前くらいの製造なのでしょう(値段が5000円と書いてありました)。帰宅して中を見ると「永久にチリやホコリが付かない」と書いてあり、だからそれによる雑音はしないということで、実際に再生してみると確かにそのようです。内心経年で盤質が変化したりでバリ、ポロッと割れたりしないか心配でしたがそんなことはありません。それにネット上の情報によると、ホコリを付かせない機能と色には関係はないようです。

201017b それに国内盤のLPの中で思いがけず音質は良好な気がします。といってもトルトゥリエの旧音もCDでしか聴いていなかったので、黒いLPと比べてどうなのかは分かりませんが、他の室内楽のレコード念頭に聴くと高音、低音ともに良好です。国内盤のレコードでその録音が最初に出た際の解説というのも気になりますが、このセット(三枚組、各面に組曲が1セットずつ入っている)は作品解説に重点を置き、トルトゥリエについてはプロフィールが少し載っている程度でした(「~いえよう」とかそっち系の文章は無かった)。各楽曲の解説には反復省略を明記してありますが、録音年月日等のデータは記載無しです。

 バッハの無伴奏チェロ組曲で最初に買ったのがポール・トルトゥリエの旧録音でした。1990年前後の当時、輸入盤しか出回ってなかったのでデジタルで再録音したほうがトルトゥリエの代表録音という位置付けのようですが、個人的には旧盤の方に愛着を感じています。今回聴いていて、速い楽曲も流れるように進行しつつも深く刻み込むようで、特に
第5、6番が印象的でした。トルトゥリエは一年ほど演奏活動を休止してイスラエルに居たという記述がありました。キブツに移住したという情報があったのでそれのことを指しているのか、この人もユダヤ系なのかその辺りのことは言及していませんでした。
30 5月

クレンペラー、PO ブランデンブルク協奏曲/1960年

200530J.Sバッハ ブランデンブルク協奏曲 BWV.1046-1051

オットー=クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

(1960年10,11月 ロンドン,Abbey Road Studios録音 EMI)

 「ああ無情=レ・ミゼラブル」の登場人物ジャン・ヴァルジャンは司教館から銀食器を盗んで官憲に捕まりかけた時、当の司教から銀食器はあげたものだから盗みじゃないと言われ助かるという話があり、子供の頃何度か聞いて読んで、アニメでもその場面だけ観た覚えがありました。なんの話かと言えば平成末期に神社の賽銭箱から金を盗んだ男が逮捕され、実刑をくらったという報道があり、そのお金は神様からの贈り物だと言われるようなうまい話にはならないのだなと思ったことがありました。その一方で所謂破廉恥犯というのかシンプルな刑法犯罪じゃないけれども0の桁数が段違いな事件で執行猶予が付いたり、書類送検だけということがあるので、世の中の不公平感というものをかみしめていました。別に検事長が賭け麻雀とか年季の入った常習じゃないのかという話とつなげるのじゃなくて、キリスト教会の会員の納める維持費、月定の献金等のお金はこのコロナ禍でどうなっているのかと時々気になってきます(ヴァルジャンが一個連隊でやって来ても大丈夫というような余裕のあるところは滅多に無いと思われるので)。

 オットー=クレンペラーの誕生月である五月も終わろうとしています。EMIへのレコーディングは序曲等の商品を除いて過去記事で扱ってきましたが、ブランデンブルク協奏曲・全曲が残っていました。クレンペラーはマタイやロ短調ミサだけでなく、管弦楽組曲とブランデンブルク協奏曲も録音していて、組曲が1969年という最晩年(ユダヤ教復帰)だったのに対してブランデンブルクの方はニュー・フィルハーモニアと改称する前、大やけど以後という時期に録音しています。これは多分最初にCD化されたものでCD3枚に分かれ、一枚目に管弦楽組曲第1番、第2番以降が三枚目に入り、ブランデンブルク協奏曲はその間に挟まれて一枚目と二枚目に収まっています。こういう変則的な収め方は違和感がありますが、一枚にめいいっぱい詰め込むにはやむを得ないのでしょう。

 古楽器、古楽器奏法の演奏(といっても一絡げにできないか)を前提にすれば肥大化した響きということになるかもしれませんが、同世代の指揮者が通常のオーケストラで演奏したものと比べると端正、ストイックな響きです。なんとなく教会カンタータのシンフォニアを思い出させ、BWV.6とか103の一曲目・合唱曲が続きそうな感じです。だから決して乾いたという印象は無くて独特のバッハです。

 クレンペラーはバッハ作品に対して思い入れが強かったようで、同年代のアーリア人指揮者が管弦楽組曲を演奏した際に最終曲をカットしたことについて、ヒンデミットか誰かにどう思うかと尋ねたら「彼はバッハを全く理解していない」と答えたという話が「クレンペラーとの対話」に出ています。そのカットされた楽曲が組曲全体の総括になるというのがクレンペラーの見解でした。交響曲でも全楽曲を通してのバランス、構成を優先させたのではないかと思われるテンポはバッハ演奏でも活きているようです。ちなみにクレンペラーは1946年にパリ・プロムジカという今では正体が分からなくなった団体を起用してブランデンブルク協奏曲をVOXレコードへ録音していました。
22 5月

クレンペラー、ベルリンPO/1964年 バッハO組曲第3番 

200522J.S.バッハ 管弦楽組曲 第3番 BWV.1068
① Ouverture
② Air
③ Gavotte I and II
④ Bourree
⑤ Gigue

オットー・クレンペラー 指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(1964年5月31日 ベルリン,フィルハーモニーザール ライヴ録音  Testament)

 厳密には休業要請が全部解除になったわけでなく、京都市内でも今月いっぱいは閉めている、23日から再開という飲食店もあるようですが、この夕方は二カ月近くごぶさたしていた日本酒を出す店に立ち寄りました。まだまだ傷は深く先行きは明るくないということでしたが、ちょっとほっとした感じでした。しかし河原町通の御池から四条までの区間を歩いているとまだ休業しているところや19時で閉める店が多く、人通りはかなり少なく、つい何カ月か前にタピオカ店の前に出来ていた行列が夢うつつのようでした。それに何故かペットショップは営業していました。もう五月もあと一週間ちょっとで終わりになります。

 バッハの管弦楽組曲といえば現代日本のクラシック音楽フアンにとってどういう位置付けなのだろうかと、「まずベートーヴェン、モーツァルト、ハイドン」の交響曲、シューベルトの未完成を聴いてから、ロマン派の作品にいく前にヘンデル、バッハの組曲作品を」という小学生の頃見た百科事典の内容が思い出され、何となく気になりました。バッハの管弦楽組曲はクレンペラーの録音以外に全曲盤は購入していないことに気が付きました。それに今回のCDのようにオーケストラの定期公演で、しかも古典派の作品と混ぜて演奏される機会は少ないはずだと思います。

 クレンペラーがベルリン・フィルに客演した1964年5月31日のプログラムはバッハの管弦楽組曲第3番、モーツァルトの交響曲第29番、ベートーヴェンの田園交響曲の三曲でした。これら三曲と田園のリハーサルがTestamentから二枚組CDになっていて、個人的にここ十数年の愛聴盤の一つです。どの曲もクレンペラーの演奏が複数残っていて、クレペラーじゃなくても有名な指揮者なら何らかの録音が残ってい超有名作品(交響曲第29番はジュピターや第40番程じゃないかもしれないので「超」とは言えないかも)です。バッハの管弦楽組曲第3番はベルリン放送交響楽団(RIAS)との録音もあり、組曲の中でもクレンペラーが特に気に入っていたようです。

 このベルリン・フィルとの演奏は時期的に最晩年の手前で一段とテンポが遅くなる頃に差し掛かっています。だから現代で当たり前になっているピリオド楽器の演奏からこの作品に入って聴き覚えた場合はかなり異質に聴こえるかもしれません。しかし序曲の厚みがあって明解な響きには圧倒され、湖底の湧水の源を目撃したような得も言われぬ感慨深いものがあります。バッハの作品だと知って聴いていてもそういう古い時代を感じさせない、新鮮なものが前面に出ています。これはマタイやロ短調ミサ以上に顕著かもしれないと思いました。
28 4月

番外・BWV.67のLP クレプス、ヘフゲン、ヴェルナー/1960年

190428J.S.バッハ カンタータ BWV.67 「 Halt im Gedächtnis Jesum Christ(死人の中から甦りしイエス・キリストを覚えよ)」 

フリッツ・ヴェルナー 指揮
プフォルツハイム室内管弦楽団
ハイルブロン・ハインリヒ・シュッツ合唱団

マルガ・ヘフゲン(A)
ヘルムート・クレプス(T)
フランツ・ケルヒ(B)

(1960年10月 イルフェルト  録音 ワーナー・ERATO)

 連休に突入した今日の朝は時間に余裕があったのでコーヒーを飲むことにしたところ、二階にもテーブル席がございますと勧められました。一階のカウンターに空席が複数あり、通常はカウンターを指定されるので聞き返したところ、なんと英語で話しかけられてさらに戸惑いました。カウンターは女性しか座ってなかったので「オッサンは二階に行け」ということか思いちょっと気を悪くしつつ、一階のカウンターで結構ですと「日本語で」返答しました。そんな今日は復活節第二主日にあたり、バッハのカンタータでは復活祭後の第一主日と分類される主日です。このジャンルの作品は他の分割した「続~,拾~」のブログで扱う(既に一度取り上げた)ものですが、三月頃にエラートのLPを見つけて購入したので感動も新たにしていてちょうど典礼暦上もタイムリーなので、レコ芸の企画であったらしい「生涯の10枚」の9枚目として加えたいと思いました。これまでの8枚はシュッツのヨハネ受難曲以外はCDで聴く前にLPを購入して聴いていたものですが、今回は逆になりました。このLPは紙のジャケットの中にもう一重に厚紙の中袋があり、その中にビニールの袋という丁寧なパッケージです。

~ 生涯の10枚(目下9枚)~
・アルヒーフのシリーズ・「グレゴリオ聖歌 その伝統の地を訪ねて」から 第2集
・アルヒーフのシリーズ・「グレゴリオ聖歌 その伝統の地を訪ねて」から 第6集
シュッツのヨハネ受難曲/エーマン、ヴェストファーレン聖歌隊、ヨハネス・ホーフリン
クレンペラー・POのメサイア ジェローム・ハインズ、グレース・ホフマン
クレンペラー・POのマタイ受難曲 D.F.ディースカウ、ピアーズ
クレンペラーのロ短調ミサ ニュー・PO、BBC合唱団
・フリッツ・ヴェルナーのバッハ,カンタータBWV.67

 
これを最初に聴いたのは今世紀に入ってから、ブログを始めて以降だったと思います。CDからカーナビのHD(現在はSDカード)にコピーして聴いてもいました。ちょうど父が亡くなる一年前くらいの春先、復活節頃に頻繁に聴いていました。ある時は桂川の堤防上を走行中に携帯に着信があり、病院経由の急報かと思ったら自動車の保険更新の話だったので拍子抜けしのを覚えています。このCDは録音、演奏も古くて、現在ならもっと巧い録音は多数あり、再発売当時も既に埋もれて過去のものになりつつありました。どこかしら、建付けが悪くて開け閉めし難い戸のような印象も伴いながら、血が通い活きた感情を感じさせるものがあり、改めてLPで聴いてみても魅力は褪せないと思いました。

①合唱曲:Halt im Gedachtnis Jesum Christ (合唱)
②アリア: Mein Jesus ist erstanden (T)
③レチタティーヴォ: Mein Jesu, heissest du (A)
④コラール: Erschienen ist der herrlich Tag(合唱)
⑤レチタティーヴォ: Doch scheinet fast (A)
⑥アリア: Friede sei mit euch! (Bs,合唱)
⑦コラール: Du Friedefurst, Herr Jesu Christ(合唱)

 このカンタータは福音書の復活後の記事に拠っていて、特にバス独唱とコーラスが対話する 第6曲目は「平安があなたがたにあるように」というイエズスの言葉が象徴的で、復活節らしい内容で魅力的です。対話の楽曲に加えて多数のカンタータに含まれる合唱曲(第1曲目)、コラールの合唱(第4、7曲目)に独唱アリアとどの楽曲も魅力的なので、ライプチヒ時代のカンタータの中で分かりやすい作品の代表だろうと思います。

 このように作品、演奏共々に自分の好みに合い、それを聴いていた当時の経験とも相まって強烈に印象付けられ、反復して聴いてきて今後も手放せないであろうというのが「生涯の10枚」の条件、共通項になっています。今回も含めて九種類とも宗教曲になってしまい、これなら宗教曲以外からも十枚を選ばないといけないくらいの偏りになってしまいました。
20 12月

番外~リリングのマタイ受難曲初回録音

181220J.S.バッハ マタイ受難曲 BWV.244

ヘルムート=リリング 指揮 
シュトゥットガルト・バッハ・コレギウム
シュトゥットガルト・ゲヒンガー・カントライ

福音書記者:アダルバート・クラウス(T)
イエス・キリスト:ジークムント・ニムスゲルン(Bs)
アーリーン・オジェー(S)
ユリア・ハマリ(A)
アルド・バルディン(T)
フィリップ・フッテンロッハー(Br)

(1978年 録音 sony)

181220a 先日の午後のこと、手土産として持参する菓子がその日は不要となって賞味期限を確認するとその中の一つだけがクリスマスまでと他のものより6日ほど短いのに気が付きました。これは後日持って行くと良くないので、完食でなくても開封しておこうと思いました。大人の握りこぶしをニこ横に並べたくらいのサイズでしたが、何を考えていたのか結局夕方までに一人で食べてしまい、後から胸やけしてむちゃくちゃになりました。つくづくあほらしいことながら、その夜にLPレコードプレーヤーをアンプのフォノ端子につなぎ変えて聴いていると、小さいフォノ機器(オーディオテクニカ)経由より良さそうで、プリメインアンプのフォノ端子もたいしたものだと思いました(もっともMMカートリッジなので)。その時不意にヘルムート・リリングのマタイ受難曲・初回録音はLPでは買えなかったなあと、問い合わせて廃盤だったことを思い出しました。

 そこで翌朝CDウォークマンにそのリリングのマタイ受難曲のCDをセットして通勤途中に聴きました。このCDは過去にOCNのサービス時代に取りあつかったことがあり、現在は別ブログ「続~」の方に保管しています。自分はリリング指揮のバッハが好きで、特に1980年代前半くらいまでのものを気に入っています。だからマタイ受難曲も初回録音の方が圧倒的に感銘深いと思っていました。多数あるマタイ受難曲の録音の中でモダン楽器オケ部門で何点かを選ぶなら、フリッツ・ヴェルナー、クレンペラーと並んでリリングの初回盤はまず外せないところです。

 リリングはその後古楽器奏法の影響を受けたのか演奏が変化していき、少なくともヨハネ受難曲やマタイ受難曲の再録音は最初のものとはかなり違っていました。リリングは自身の演奏について歌詞、その意味、内容を重視することを説き、より大編成の演奏、例えばオーマンディ指揮(オーマンディのマタイ受難曲は聴いたことがない)について過剰な表現だと特定の箇所を例示して説明していました(日本語字幕が付いた映像をTVで見た)。

 この録音のエバンジェリスト・福音書の記者の記述部分を歌うのがアダルバート・クラウスで、これ以外にマタイの同パートを歌ったレコード、CDがあったかどうかすぐには名前が出て来ないくらいで、日本なら特にヘフリガーやシュライアーのように有名ではありません。リリング旧盤が地味な扱いだったのは
エバンジェリストの知名度が一因だったかもと邪推してしまいます。しかし実際に聴いていると魅力的な歌唱であり、前半・第一部の最後の晩餐(聖体の制定)は入魂の歌で感動します。彼はリリングのカンタータ全集の初期録音にも参加していてライプチヒ以前のカンタータ等でその歌声を聴くことができます。中でも復活節のBWV.85「我は善き牧者」のアリアは今でも時々は聴きたくなります。

 
クリスマスとその後の降誕節前の四週間は待降節であり、キリスト教世界では四旬節と似た位置付けになり、ミサの時に司祭が着用する祭服の色も四旬節と同じの紫色になります。このあたりが巷のクリスマスシーズンとギャップがあるわけですが、とりあえずマタイ受難曲はそこそこタイムリーな作品だとイヤホンを介して電車の中で聴きながら思いました。
31 8月

バッハ「トッカータ、アダージョとフーガ BWV.564」 アラン

180830 J.S.バッハ 「Toccata, adagio und Fugue C-Dur(トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調) BWV.564」

マリー・クレール・アラン:オルガン
*オルガン:マルクーセン&ソン(1959年)

(1960年11月2-4日 スウェーデン,ヘルシングボリ,聖マリア教会 録音 Erato)

180831 手加減の無い猛暑だった(ついでに休暇も無い)八月も今日で終わりになります。夕方になって雷雨の後、ようやく30℃を下回り、これで峠を越してほしいとしみじみ思いました。それから先日は夜になって震度3の地震があり、震源地は大阪北部地震と同じ方面なので未だあの地震は終わってないような不気味さです。先日急にバッハのオルガン曲が聴きたくなり、この曲とシュープラー・コラール集を聴いていました。オルガンが奏でるコラールの旋律と、まるでニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲のような豪快・爽快さも備える?BWV.564のトッカータ部分は淀んで蒸し暑い空気を吹き飛ばすような気分になりました。

 「トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調 BWV.564」は、バッハがライプチヒのトーマスカントルに就任する以前、ワイマール時代(1708~1714年)に作曲されたと考えられる作品です。題名の通り、トッカータ、アダージョ、フーガと三つの部分が連続して約16分の演奏時間になります。楽曲の解説にはヴィヴァルディに代表されるイタリアの協奏曲の様式を取り入れた作品と必ず書いてあり、ブゾーニがピアノ版に編曲しているのでそちらも知られています。

 この曲はバッハのオルガン曲の中でも個人的に特に好きな作品で、十代の頃に買ったクレンペラーのLPのB面にヴァルヒャによるバッハ作品集が入っていて、それを聴いて衝撃的に好きになったのが思い出されます。この曲とトッカータとフーガ ニ短調「ドリア調」BWV. 538と何曲かが入っていて、確か1950年代のモノラル録音だったと思います。ヘルムート・ヴァルヒャのその録音は豪快というのか本当にワーグナー作品に通じるような威圧感で迫ってきました。こういう風に書けばバッハのフアンでワーグナーが嫌い(特に人物、思想が)な方は嫌な気分かもしれませんが、響き、演奏効果の面で両者の作品には何か通じるものがあるような気がしていました。

 このCDはマリー・クレール・アラン(Marie-Claire Alain 1926年8月10日 - 2013年2月26日)
のバッハ作品全集の一回目録音に入っているもので、アナログ・ステレオ録音初期ながら独特の迫力ある音質です。アランの弾くバッハは特に好きで、自分が聴いた中では彼女の演奏が一番素晴らしいと思っていましたが、それはこの全集より新しい二度目の録音の時期のものが念頭にあってのことでした。パッケージに使われているアランの写真は眼鏡もなく、相当若いのに驚かされます。これが録音開始当時の写真だったなら三十代前半なので当然そうなるわけでした。初回全集は最近CD化されたものですが、この当時のオルガンのレコード録音はみなこんな感じだったのか、会場の空間を感じさせる残響があまり入っていなくて、その分輪郭が鮮明でオルガンの音の威力がよく伝わります。
8 7月

クレンペラー、ニューPO バッハ管弦楽組曲

180708J.S.バッハ 管弦楽組曲 第1-4番 BWV.1066-1069

オットー・クレンペラー 指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

*第1番1969年9月19日、10月6日,17,18日
 第2、3番1969年9月17日、10月17日 
 第4番1969年9月18,19日
(1969年9-10月 Abbey Road No.1 Studio 録音 EMI)

 クレンペラーのライヴ音源からある機会のコンサート一回分のプログラムが分かることがあり、例えばベルリン・フィルへ客演した際にバッハの管弦楽組曲第3番、モーツァルト交響曲第29番、ベートーヴェンの田園交響曲を指揮した回がありました。現代ではバッハの組曲が通常のオーケストラの公演で演奏される機会はかなり減っているのではないかと思います。それだけでなくモーツァルトやベートーヴェンもピリオド楽器のオケと競合するレパートリーになっています。クレンペラーはそのベルリン・フィル以外でもバッハの組曲をコンサートのプログラムに入れいていることが複数見られました。組曲第2、第3はライヴ盤CDになっているものがありました。

 自分がクレンペラー指揮のバッハ・管弦楽組曲を最初に聴いたのはベルリンRSOとの第3番のLPでした。ヴァルヒャのオルガン独奏とカップリングで一枚のLPになった国内盤でしたが、壮大で深淵な世界に通じているようで単なる舞曲の組み合わせどころじゃないと感心しました。1964年のベルリン・フィルへの客演時のものも同様ですが、より柔和で田園交響曲と溶け合いそうな内容になっていました。今回のものもそれと似た内容だと思いました。今回聴いたのはリマスターされたSACD・国内盤です。

 このEMI盤の管弦楽組曲(全曲)はニュー・フィルハーモニア管弦楽団と録音したクレンペラー最晩年のもので、最後の演奏会からほぼ二年遡っただけの時点でした。映像ソフト「 OTTO KLEMPERER'S LONG JOURNEY TROUGH HIS TIMES 」の中で、フィルハーモニアのチェロ奏者の女性がクレンペラーのリハーサルについて、細かい指示のかわりにメンバーが注意深く互いの音を聴き合うようにしていて、それがオーケストラの良い伝統になったと言っていました。ニュー・フィルハーモニア時代の末期にはハイドンやモーツァルトのセレナーデを何曲か録音しているので、まさにそうした姿勢が活きる楽曲なので興味深い話です(クレンペラーの音楽的遺言)。

 ちなみに同じくEMIへ1954年にも管弦楽組曲を録音していているので作品に対する思い入れの程が察せられます。なお、「クレンペラーとの対話(P.ヘイワーズ編)」の中でフルトヴェングラーについてヘイワーズが言及するくだりがあり、そこで彼がバッハの組曲ロ短調(第2番のこと)を指揮した際に第1楽章(長い序曲のことか)のコーダを省略していて、それを聴いたヒンデミット(とクレンペラー)は「フルトヴェングラーはバッハを全く理解していない」と断じたとなっています。クレンペラーの見解ではそのコーダ部分は楽章全体の見事な総括だとしています。

 その辺りのところはクレンペラーの作曲家(自称)としての自負のあらわれかもしれませんが、この録音のような規模の編成、モダン楽器で演奏することは当時なら別に普通かもしれませんが、例えばベームやクナはこの曲をセッション録音してなかったかもしれません。「名曲名盤500(レコ芸編)」の最新版で「バッハの管弦楽組曲」を見るとカール・リヒターとミュンヘン・バッハ管弦楽団(1961年/Ar)がブランデンブルク協奏曲と共に断トツで第1位でした。古楽器全盛・当然の現代にあってバッハの管弦楽曲は別格ということなのか、これは意外な結果(別に注目しているわけじゃないけど)です。それだったらクレンペラーのこの録音も大っぴらに聴いても、少なくとも素人レベルでは問題ないでしょう。
31 1月

J.S.バッハ ガンバとチェンバロのソナタ クイケン父子

180201aJ.S.バッハ ガンバとチェンバロのソナタ
ソナタ 第1番 ト長調 BWV.1027
ソナタ 第2番 ニ長調 BWV.1028
ソナタ 第3番 ト短調 BWV.1029

ヴィーラント・クイケン:ヴィオラ・ダ・ガンバ
ピート・クイケン:チェンバロ
*ヴィオラ・ダ・ガンバ
 1705年パリ,ニコライ・ベルトラン製作
*チェンバロ
 1995年パリで再現:アントニー・サイティ,フレデリク・パル製作

(2002年6月29日-7月3日 仏,アキテーヌ地方,サン=ジャン=ド・コール教会 Arcana classic)

180201 もう二月になります。京都市内にも楽器の工房らしきものを見かけましたがチェンバロ、クラヴサンではなくて弦楽器専門のようでした。最近F.クープランのクラヴサン曲を聴いて楽器の音色にもあらためて関心がわきました。天神さんとか弘法さんの縁日に壊れたものでも売ってないかなと思っていると、新規に製作発注すれば数百万以上かかるようなので全くのおかど違い、無知の極みでした。コンサートの際にライトの熱でも調律に影響するのでデリケートな楽器というのは聞き知っていましたが、ガラクタ並みのものでもいいからあの弦をはじく音を何とかま近で聴きたいと不意に思いました。

180201b それは無理なのでチェンバロが活躍するCDですぐに取り出せるものがこのクイケン親子(チェンバロは息子のピート・クイケン)のバッハ作品集だったので、とりあえずチェンバロとガンヴァのソナタだけを聴きました。これは三枚組アルバムなので、無伴奏チェロ組曲が三枚目の途中まで入っています。当初の購入動機は無伴奏の方だったのがしばらく聴いていない間に目当てが逆転しました。ピート・クイケンは1972年にベルギーのブリュージュで生まれたヴィーラント・クイケンの息子(何番目とかの記述は無い、詮索もしないが)であり、ベルギーで学んだ後にインディアナ大学に留学し、ボザール・トリオのピアニスト、メナヘム・プレスラーに師事しまた。チェンバロ、フォルテピアノだけでなく現代ピアノも演奏し、日本でも公演を行っています。

 ソナタのBWV.1027は二本のリコーダーとチェンバロのためのソナタをガンバ用に編曲した作品でした。このソナタだけでなく三曲ともトリオ・ソナタ形式で書かれ、チェンバロは単なる伴奏ではなく対等に渡り合い、一対一で対話をするような性格になっています(演奏者はその妙味を実感するという)。BWV.1028はどこかで聴いたという覚えがそこそこ鮮明にあり、第1曲目のアダージョ、第2曲目のアレグロはバッハの別の作品から転用されたのか、とにかく別の機会で聴いた気がしました。第3曲目のアンダンテ(歩く速さで)はロ短調であることから、付属冊子の解説によると受難曲にふさわしい内容だと評しています(さしずめ Via Dolorosa をおもわせるということか
)。

 
ここまでの二つのソナタは基本的に教会ソナタの形式によっていますが、BWV.1029のソナタは三つの楽章で構成される協奏曲的なスタイルで作曲され、内容も快速な両端楽章が高度の演奏技術を要して協奏的になっています。使用楽器の種類も注記されてあり、チェンバロはフランス製の楽器を複製再現したものとなっています。古楽器のチェンバロもドイツ式、フランス式、イギリス式といった違いや年代によって色々違い、音色にも差が出るわけですが、新しいCDで聴く楽器の中には金属の枠が出すガシャガシャという音に近いものもあって、それが妙に頭の中に残っていたのでこのCDのチェンバロはもっと軽い感じなのでとりあえず好印象でした。ただ、もっと軽快でいかにもはつげん楽器らしい音色の楽器もあったのじゃないかと思いました(ぜいたくな)。
10 5月

クレンペラー、NDRSO バッハの管弦楽組曲第3番・1955年

160510J.S.バッハ 管弦楽組曲 第3番ニ長調  BWV.1068
①序曲 
②アリア(G線上のアリア)
③ガヴォット 
④ブーレー
⑤ジーグ

オットー・クレンペラー 指揮
北ドイツ放送交響楽団

(1955年9月28日 ハンブルク ライヴ録音 Music And Arts)

 「アスパラガスにチョコレートをつけるやつがいるかね?」、というのはセルが自分の指揮するモーツァルトが素っ気無さ過ぎるという意見に対しての回答だそうですが、今一つピンと来ませんでした。ドイツやフランス東部地方では春には白アスパラガスをよく食べる習慣があり、この季節のレストランには白アスパラガスの料理が沢山並ぶそうです。アスパラガスなら緑色のものが身近で、居酒屋のアスパラ・ベーコンくらいしか思いつかないのでセルの言葉の妙は分かりません。さて、そんな話題で始めながら今回はモーツァルト作品ではなく、クレンペラーが度々取り上げてEMIへセッション録音を二度も行ったバッハの管弦楽組曲の第3番です。

 バッハの管弦楽組曲なら現在では通常のオーケストラが定期公演で取り上げる頻度は低下しているはずで、ピリオド楽器のアンサンブルのレパートリーに移行しているでしょう。クレンペラーは下記のようにセッション録音以外にベルリン・フィルやバイエルンRSO、北ドイツRSOに客演したコンサートでも管弦楽組曲第3番をプログラムに入れていました。今回の北ドイツRSOとの録音は1955年9月28日のコンサートで、バッハの他はモーツァルトの交響曲第29番、ベートーベンの交響曲第7番というプログラムでした。どうも金管、トランペットが今一つなようで、所々で調子はずれになりそうに聴こえました(テープの回転のためか?)。そんなわけで、今回の録音が一番抜きんでているとは言い難いですが、約15年の演奏スタイルを確認することができるものの一つです。ちなみにベルリン・フィルの録音はバッハの管弦楽組曲第3番、モーツァルトの交響曲第29番、ベートーベンの交響曲第6番の三曲でした。

NDRSO/1955年・ライヴ
①09分03②6分16③3分27④1分16⑤2分45 計22分47
PO/1954年・EMI
①09分28②6分06③3分31④1分20⑤2分53 計23分18
バイエルンRSO/1957年・ライヴ
①09分24②6分44③3分39④1分24⑤2分59 計24分10
BPO/1964年・ライヴ
①09分17②6分28③3分32④1分22⑤3分34 計24分13
ニューPO/1969年・EMI
①10分24②6分30③4分17④1分38⑤3分31 計26分20 

 EMIのステレオ録音が1969年というクレンペラーの晩年末期の録音だったのは忘れていたのでデータを見ると驚きます(ブランデンブルク協奏曲のステレオ録音は1960年だった)。今回のものはEMIへのモノラル録音直後にあたり、それよりも演奏時間は短くなっています。演奏終了後の拍手は元から入っていないので概ね同じくらいになります。これらの中ではベルリン・フィルとの録音が一番聴く頻度が高くて、何となく気に入っていましたが、演奏時間の差はあってもどれもクレンペラーの指揮だと分かる、どこがそうだからと指摘し難いけれど、独特な呼吸、癖があると思います。

 現代ではこういうスタイルでバッハの管弦楽組曲を演奏してCD化される機会は無いだろうと考えられて、既に過去のもの、ノスタルジー以外にあまり価値は無いとしても、クレンペラーの演奏は無用な甘味をぬりたくる性質のものではないと思います。クレンペラーは、ストコフスキーがバッハのオルガン曲をオーケストラ用に編曲したものを否定的にとらえ、ひどい編曲と評していたので、管弦楽組曲の演奏はそうしたバッハの作品に対する見方の実践として興味深いものがあります。
25 3月

バッハのヨハネ受難曲による聖金曜日の夕拝 バット、ダニーデン・コンソート

160325J.S.バッハ ヨハネ受難曲 BWV.245

ジョン・バット 指揮・チェンバロ、オルガン(前奏曲)
ダニーデン・コンソート
グラスゴー大学チャペル合唱団
福音書記者:ニコラス・マルロイ(T)
キリスト:マシュー・ブローク(B)
ジョアン・ラン(S)
クレア・ウィルキンソン(A)
ロバート・デイヴィス(Br)

(2012年9月10-12,11月2日 録音 LINN)

 今日の午前中、ネットのニュースを見たらまた死刑執行の速報が出ていました。当該死刑囚はどんな事件を起こしたかを見れば今でも覚えているくらいなので複雑な感情です。終身刑を認める代わりに死刑を廃止すべきだという運動がある反面、塀のなかとは言えどもギリギリ衣食住があてがわれるのでホームレスになる心配は無いのは不公平とか辛辣な意見もあります。そんな今日の金曜日は「聖金曜日」で、今年はしっかり朝からそのことを覚えていたのでとりあえず小斎(動物の肉とかをひかえる)は守れました。いつも朝はビスケットくらいしか食べないので、昼はおろし蕎麦、夜は握り飯で済ませたので自然とそうなりました。

160325a このCDも旧OCNブログの時期に一度取り上げたものですが、特別の感銘度なので再度扱うことにしました。これはバッハのヨハネ受難曲全曲盤の一種ですが、同作品以外の楽曲を連続演奏してライプチヒの聖トーマス教会で行われたであろう聖金曜日の礼拝を再現した録音です。ルネサンス期のミサ曲の録音にはこういうかたちのものは見られますがバッハの受難曲では他に見たことはありません。単に珍しいというだけでなく、冒頭から聖金曜日の沈痛で引き締まった空気が伝わってきます。ドイツで広く浸透した御受難のコラール「イエス十字架にかかり給いし時」の旋律がオルガンとコーラスの両方の楽曲で演奏され、これで一気に引き込まれます(グラスゴー大学の学生によるコーラスもいい味を出していると思いました)。

OPENING LITURGY
1.J.S.バッハ:コラール前奏曲
 『イエス十字架にかかりたまいし時』 BWV.621
2.シャイン:会衆のコラール
 『イエス十字架にかかりたまいし時』
3.ブクステフーデ:受難への前奏曲嬰ヘ短調 BuxWV.146

~J.S.バッハ:ヨハネ受難曲 BWV.245(第1部)

CONGREGATIONAL RESPONSE TO PART 1 OF THE PASSION
J.S.バッハ:コラール前奏曲
 『おお罪なき神の小羊よ』 BWV.618
作曲者不詳:会衆のコラール『おお罪なき神の小羊よ』
J.S.バッハ:コラール前奏曲
 『われらを救いたもうキリストは』 BWV.620
SERMON SECTION (HPからダウンロード)
説教(エルトマンノイマイスター,Epistolische Nachlese)
J.S.バッハ:コラール前奏曲
 『主イエスよ、我らをかえりみ給え』
会衆のコラール
 『主イエスよ、我らをかえりみ給え』

~ J.S.バッハ:ヨハネ受難曲 BWV.245(第2部)

CLOSING LITURGY
ガルス:モテット
 『見よ、ただしき人が死にゆく様を』
作曲者不詳:応唱、特祷、祝祷
シャイン:神の恩寵われらにあり
J.S.バッハ:コラール前奏曲
 『いざもろびと神に感謝せよ』 BWV.657
クリューガー:会衆のコラール
 『いざもろびと神に感謝せよ』

160325b バッハによるヨハネ受難曲の方は第一部と第二部に分割しただけで、受難曲の各楽曲の間に別の音楽を挿入することはしてません。だから元々の作品を分解しているという風ではなく、さして違和感は無いのではないかと思います。ジョン・バットは他にバッハのマタイ受難曲、ロ短調ミサやヘンデルのメサイアもOVPPの編成で録音していました。正直それらは初期稿や珍しい稿を採用していること、最少編成で演奏していることへの注目はあっても演奏自体はあまり訴えかける力が弱いという印象でした。このヨハネ受難曲はそれらと少し違って、仮に通常のCDのようにバッハのヨハネ受難曲だけを演奏していたとしても感動的だったと思えるものでした。

 マタイ受難曲程の人気は無いとしてもヨハネ受難曲も相当数の録音が出ていてどれが一番だとかは到底決められません。個人的に何種類か印象深い録音を挙げるとすればこれは絶対外せないと思います。あと、このCDのLINN・レーベルの音質はかなり素晴らしくて、これらを聴くと同社の出しているオーディオ機器も良質なのでは?と高価でなかなか手が出ないので想像だけにしています。
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raimund

昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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