カール・リヒター 指揮
ミュンヘン・バッハ管弦楽団
ミュンヘン・バッハ合唱団
ミュンヘン少年合唱団
T:エルンスト・ヘフリガー(福音書記者,アリア)
B:キート・エンゲン(イエス)
S:アントニー・ファーベルク(第1の女,ピラトの妻)
Bマックス・プレープストル(ユダ,ペテロ,ピラト,大祭司)
S:イルムガルト・ゼーフリート(アリア)
A:ヘルタ・テッパー(アリア,第2の女)
B:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(アリア)
(1958年6月-8月 ミュンヘン,ヘルクレスザール 録音 露 MELODIA C10 07485)
昨年の六月からレコード芸術誌を何となく毎月購入していました。特に気になる連載があるわけでもなく、情報がはやいということもないのに、クラシック音楽について何やかんやと書いてある文章が無ければ寂しいというか、今にして思えば虫の知らせだったのか、この月刊誌が休刊となるそうです。ついに来たかというのが正直な感想です。直近の四月号には「その輝きは色あせない 神盤 再聴」という企画があり、その中にリヒターのマタイ旧盤もリストアップされていました。ちょうど個人的に旧ソ連のメロディア盤LPを購入して聴いていた直後でした。
カール・リヒターがソ連に演奏旅行した際のライヴ音源がヨハネ受難曲とか何種かあったようですが、このマタイ受難曲はそうしたものではなくアルヒーフ制作のものをメロディアから発売したものです。ただ、メロディアがどこまで関わったのか、ソ連内でレコードのプレスだけして内容は全く同じなのかとか詳しいことは分かりません。メロディアのLPは旧東ドイツのエテルナ同様に素朴な、会場で聴く音に近い、あまり加工が入ってないとかで熱心に集めている層があるそうですが、ヨッフムのブルックナー・エテルナ盤を聴くとなるほどと思いました。このマタイ受難曲も聴いてみると、これまで記憶しているリヒターのマタイ旧盤と印象が違い、特に第一部前半は同じリヒターのマタイ、再録音盤(評判が悪いあれ)と同心円上というか、似た性質だと意外に思いました。それに少年合唱が目立って聴こえて、角が取れて、手で撫でてもとげが刺さらないような感触です。
と言ってもこれまでリヒター旧録音は何種類かのCDでしか聴いておらず、聴きなおす度に印象が薄くなり、雑誌の企画にケチをつけるつもりじゃないですが色褪せていく気がしていました。リヒターが録音したバッハの四大作品の中で自分が一番感銘深かったのはヨハネ受難曲(映像ソフトではない方)でした。それは感覚的に作品が、色々な部分が突き刺さって来るような感銘度で、マタイ旧盤に対する賛辞が当てはまるような気がしていました。そのヨハネ受難曲も最初に聴いてから十数年経過して廉価仕様のCDで聴くと、感銘度はそれほどではなくて、自分の感受性が鈍化したのか(それは確かにある)特に衝撃的にも感じない普通な印象でした。そういう経過だったのでメロディア盤のマタイ旧盤が気になったわけです。
改めて何度か全曲を聴いていると、古い録音なのに鮮烈な音に軽く驚かされて、少年合唱が女子も参加しているのかと思うくらいの穏やかな歌唱に聴こえ、福音書記者を歌うヘフリガーも女声かと一瞬錯覚するような憂いを帯びた声が全面に出てきます。それと福音書記述の箇所の通奏低音ではチェンバロは無しでオルガンを使っているので余計にヘフリガーの朗誦が際立って聴こえます。オルガンの音色が時には金属的なきらめきに感じられたり、同じようにフルートの音も鋭く響いて印象的です。リヒターの再録音では同じ部分の通奏低音にはチェンバロが加わり、福音書記者はペーター・シュライヤーなので、それらだけでも違って聴こえるのは確かです。あと、再録音の方ではフィッシャー・ディースカウがキリストのセリフの部分を歌っていて、それは他の追随をゆるさないほど魅力的です(クレンペラー盤でもフィッシャー・ディースカウが歌っている)。この点は旧録音でも同じ配役だったらと思いました。
再録音のことはさて置き、故磯山教授の著作の中に次のような言葉がありました。「マタイ受難曲の本質をひとことで言い表せば『慈愛』である」、さらに、「慈愛が胸いっぱいにしみわたる」、「その慈愛はバッハの音楽から与えられるようでありながら、いつのまにか、そのさらに背後から、馥郁(ふくいく)と放射されるように思いなされてくる」とありました。今回リヒターの旧盤の冒頭合唱を聴いているとしみじみとこれらの言葉が思い出されました。ヨハネ受難曲の冒頭合唱とは違う趣ですがこれは、マタイ受難曲の第一部が捕縛される場面やゲッセマネの苦悩より前の場面、最後の晩餐やその準備的なところ(香油を振りかける)から出来事ははじまり、とりわけ最後の晩餐(聖体の制定)の輝かしいキリストの歌唱も含まれるという内容が効いていると思います。リヒターの受難曲はゲッセマネ以降の苦しい場面の印象が先行しがちですが、第一部前半も魅力的だと再認識しました。それと同時にゴルゴダまでの受難の場面も特別に激ししい演奏というわけではない気がして、それこそ慈愛、いつくしみで貫かれているのではと思いました。
「いつくしみ」と言えば日本のカトリック教会のミサ、式次第が新たになりキリエの歌詞が変わりました。あわれみの賛歌がいつくしみの賛歌となり、「主よあわれみたまえ」と「キリストあわれみたまえ」が「主よいつくしみを」、「キリスト、いつくしみを」に改まりました。「あわれみ」も「いつくしみ」も日常生活でそうそう使う言葉ではないと思いますが、「いつくしみ」という言葉はえも言われず十字架、御受難にぴったりする言葉だと思えてきました。ペトロがイエズスのことを知らないと否定する場面、ルカ福音書は鶏が鳴いた後にイエズスが振り向いてペトロを見つめるという記述があります。それからペトロは泣くわけですが、そのまなざしはどんな風だったことかと思います。