オットー=クレンペラー 指揮
この十年で何故かアナログ、レコードの復権が進んでいます。レコードの世界はヴァイオリンのマニアが一番コアらしく、奏者によっては一枚数十万級で取引されるものもあるそうです。これは英国盤のLPですが最初に発売されたものではなく、再発売盤のようです。英コロンビアのオリジナル盤はレコードの中心、穴の周りのラベルが薄青く灰色がかった色地に銀色の文字が印刷され、円周の一部の線模様が全体に入ったデザインですが、このLPは次の年代のデザインは穴の上部に半月型のデザインが入り、全体に赤いというデザインです。再発売でも二、三度くらいのものはかなり音が良いと言われるそうです。自分が十代の頃に聴けたのは今回のものではなく、LP末期にリマスターされた廉価盤でした。
音はそんなに違うのかとなると、あまり自信を持って言えないけれど、初期の盤で聴くと弦、管ともにうるおいがあり、生々しいような音に感じられます。クレンペラーのEMI録音は1990年代前半までに一機にCD化されました。そのCDで初めて聴くことが出来たものもありましたが、今回のシューベルトなんかは全体的に外側が肥大して密度が低いような音に聴こえる(再生機器があれだからという面もある)気がしていました。しかし改めてLP、初期の盤で聴くと、もっと繊細、緻密でかつ艶のある音で、演奏のすばらしさを再認識できました。シューベルトのグレイト交響曲はフィルハーモニア管弦楽団の定期公演で演奏した際に、客席の熱狂は大変なもの(同じ機会のプログラムに入れたバルトークの舞踏組曲は不人気だったのに対して)だったということで、その反応も頷ける気がします。この曲はフルトヴェングラーの戦中の激しい演奏があり、それを念頭に置くとクレンペラーの場合は塑像のような静物的と受け取られることもあり、内心で大いに反発しつつも一理あると認めざるを得ないと思っていました。しかしそういう表層的な差はともかく、感銘度は優るとも劣らないものだと思います。
昭和32年のLP手帖誌面に発表された田代秀穂氏のクレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団のエロイカ(1955年録音・モノラル)批評は以下のようなものでした。これは他の極の演奏にも通じるところがあり、昔はこういう熱心で真摯なレコード批評があったのかと感心するので再掲します。「 クレムペラーは堅実で真摯な解釈と勇渾な翳の濃い表現によって、この交響曲の激しい感情と豊麗な美しさと高貴な表情をよく捉えている。テムポが全体としてゆっくりしており、また音彩感が渋く暗い輝きを帯びている為に、かなり地味で武骨な感じがするけれども、ダイナミックが悠々と大きく起伏し、旋律も情感をこめてよく歌い、激しい緊迫感に支えられ、荘重でエルハーベンな( 荘厳なという意味であろう )クレムペラー独特の彫の深い持ち味が濃厚に滲み出ているばかりでなく、それがこの曲の性格にも合致している。感情が沈潜され、一字一刻もいやしくない生真面目さが厳粛な儀式めいた雰囲気を醸し出し、誠実な内的情熱を激しく感じさせる~独特の深い味わいがある。この曲の複雑な構成とスケールの大きさと均整のよくとれた古典的な形式美を充分に捉えながら、其処には激しい感情を力強く壮麗勇渾に表現している。~」
シューベルトのピアノ・ソナタ第19番を続けて聴いていて、解説の中にハ長調の交響曲にふれているものがありました。「天国的に長い」というシューマンの言葉からアファナシエフが弾くシューベルトのピアノ・ソナタを、長いという点はそのままに「天国」の対極、「冥府etc」を充てて評している解説がありました。グレート交響曲はその後のブルックナーやマーラーに比べて長いと言い切れる程ではなく、現代の実感では微妙なものがあります。しかし、グレイト交響曲の四つの楽章の性格、長さなどはピアノソナタ程は目立った違和感(村上春樹が指摘した)ではないかもしれませんが、やはり似たものがあると思います。