監督:マーティン・スコセッシ
原作:遠藤周作
脚本:ジェイ・コックス/マーティン・スコセッシ
音楽:キム・アレン・クルーゲ/キャスリン・クルーゲ
ロドリゴ:アンドリュー・ガーフィールド
フェレイラ:リーアム・ニーソン
ガルペ:アダム・ドライバー
ヴァリニャーノ:キアラン・ハインズ
キチジロー:窪塚洋介
モキチ:塚本晋也
井上筑後:イッセー・緒方
通辞:浅野忠信
イチゾウ:笈田ヨシ
モニカ:小松奈菜 他
(2017年1月12日公開 KADOKAWA)
日本でも公開されたマーティン・スコセッシ監督による映画「沈黙 Silence」は、タイトル通り遠藤周作の小説「沈黙」をもとに作られました。沈黙の映画化としては篠田正浩監督、原作者も参加した台本化による1971年の同名映画以来、二度目となりますがこちらはキリスト教圏の監督による作品ということになり、スコセッシ監督は若い時に司祭、修道者のみちを考えたことがあるそうなので、布教する側の文化圏が作った映画です。ちょうど篠田監督の映画を観た後なので両映画の違い、原作との差が浮かび上がってきます。
この映画では作品を象徴するキリストの御絵が語りかける言葉、以下の言葉が直接踏み絵ノアップ映像と共に出てきます。「 踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」ロドリゴがまさに踏み絵に足をかけるところでこれが流れます。その点では原作の小説に忠実と言えそうですが、映画を最後まで見ると決定的な敗北感よりもむしろ逆の印象であり、聖歌の CHRISTUS VINCIT がきこえると言えば言い過ぎかもしれませんが、棺の中の老いたロドリゴが手に握る粗末な十字架が見えた時、大いに共感が湧きました。ただ、原作ではそのように描いていないはずで、神の沈黙について答えも出していないので、これは宣教者を送り出してきた側にしてできた解釈かなとも思いました。
スコセッシ監督の映画でより掘り下げられたと思ったのが何度も踏み絵を踏み、ロドリゴらを密告したキチジローの姿、内面でした。踏み絵を踏んだ後のロドリゴのもとへキチジローが来て、なおも告解を聴いてくれとせがみ、痛みと苦しみを持ち続けている姿は印象的です。そして、定期的に棄教の証文を書かされるロドリゴがこれも定期的に課せられる踏み絵の際にキチジローもいっしょに居り、踏んだものの御絵を入れたお守りの札のようなものを首にかけているのを咎められ、連行する場面では、かつての怯えた態度と違い、ロドリゴにもらった物ではないと敢然と言い切る姿も軽い驚きをおぼえます。
この映画ではロドリゴが早い段階で村人らに捕まったら、生き残るために踏み絵を踏むようにと言っていました。しかし村人が転ぶと言ってもガルペやロドリゴら司祭が転ぶ、棄教すると言わない限り拷問を止めない、殺すという場面は篠田監督の映画と同じで、ロドリゴの同僚ガルペが、海に投げ入れて殺される村人の後を追って海に飛び込んで殺される描写はほぼ同じで、ガルペはまだ潔いと役人に勝手なことを言わせています。
主な人物の中ではロドリゴらの師にあたるフェレイラが弱々しくて、牢の壁に主をほめよと彫ったのは同じでも、丹波哲郎が演じた方は自らの決断と意志で踏み絵を踏んだ点が強調されて、それだけに神の沈黙ということが強調されて見えました。それに拷問などの描写がより過酷だったので、スコセッシ監督の方が多少はましに見えます。もっとも、踏み絵を踏まなかった村人をみせしめに斬首して首がとぶ場面や、キチジローの回想で家族が蓑を着せられ積み上げられて火を点けられたり、柱にしばられ火刑になる映像もありました。
この映画の最初の部分でマカオでヴァリニャーノの下で消息が絶えたフェレイラや禁教が厳しくなった日本のことを話しながら、ロドリゴとガルペが日本へ行くことを志願するところで始まります。そこで酒におぼれたようなキチジローが案内役として指名されます。それから映画のラストはロドリゴが葬られるところで終わりますが、踏み絵を踏んでからのロドリゴの生活、貿易品の中からキリスト教と関係の無い物を選別する役を果たす様子が描かれます。結論は、面従腹背的に心の中では信仰を保ち続けて死んだということを暗示しています。原作に対する答えを描いてみせたような終わり方です。
日本でも公開されたマーティン・スコセッシ監督による映画「沈黙 Silence」は、タイトル通り遠藤周作の小説「沈黙」をもとに作られました。沈黙の映画化としては篠田正浩監督、原作者も参加した台本化による1971年の同名映画以来、二度目となりますがこちらはキリスト教圏の監督による作品ということになり、スコセッシ監督は若い時に司祭、修道者のみちを考えたことがあるそうなので、布教する側の文化圏が作った映画です。ちょうど篠田監督の映画を観た後なので両映画の違い、原作との差が浮かび上がってきます。
この映画では作品を象徴するキリストの御絵が語りかける言葉、以下の言葉が直接踏み絵ノアップ映像と共に出てきます。「 踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」ロドリゴがまさに踏み絵に足をかけるところでこれが流れます。その点では原作の小説に忠実と言えそうですが、映画を最後まで見ると決定的な敗北感よりもむしろ逆の印象であり、聖歌の CHRISTUS VINCIT がきこえると言えば言い過ぎかもしれませんが、棺の中の老いたロドリゴが手に握る粗末な十字架が見えた時、大いに共感が湧きました。ただ、原作ではそのように描いていないはずで、神の沈黙について答えも出していないので、これは宣教者を送り出してきた側にしてできた解釈かなとも思いました。
スコセッシ監督の映画でより掘り下げられたと思ったのが何度も踏み絵を踏み、ロドリゴらを密告したキチジローの姿、内面でした。踏み絵を踏んだ後のロドリゴのもとへキチジローが来て、なおも告解を聴いてくれとせがみ、痛みと苦しみを持ち続けている姿は印象的です。そして、定期的に棄教の証文を書かされるロドリゴがこれも定期的に課せられる踏み絵の際にキチジローもいっしょに居り、踏んだものの御絵を入れたお守りの札のようなものを首にかけているのを咎められ、連行する場面では、かつての怯えた態度と違い、ロドリゴにもらった物ではないと敢然と言い切る姿も軽い驚きをおぼえます。
この映画ではロドリゴが早い段階で村人らに捕まったら、生き残るために踏み絵を踏むようにと言っていました。しかし村人が転ぶと言ってもガルペやロドリゴら司祭が転ぶ、棄教すると言わない限り拷問を止めない、殺すという場面は篠田監督の映画と同じで、ロドリゴの同僚ガルペが、海に投げ入れて殺される村人の後を追って海に飛び込んで殺される描写はほぼ同じで、ガルペはまだ潔いと役人に勝手なことを言わせています。
主な人物の中ではロドリゴらの師にあたるフェレイラが弱々しくて、牢の壁に主をほめよと彫ったのは同じでも、丹波哲郎が演じた方は自らの決断と意志で踏み絵を踏んだ点が強調されて、それだけに神の沈黙ということが強調されて見えました。それに拷問などの描写がより過酷だったので、スコセッシ監督の方が多少はましに見えます。もっとも、踏み絵を踏まなかった村人をみせしめに斬首して首がとぶ場面や、キチジローの回想で家族が蓑を着せられ積み上げられて火を点けられたり、柱にしばられ火刑になる映像もありました。
この映画の最初の部分でマカオでヴァリニャーノの下で消息が絶えたフェレイラや禁教が厳しくなった日本のことを話しながら、ロドリゴとガルペが日本へ行くことを志願するところで始まります。そこで酒におぼれたようなキチジローが案内役として指名されます。それから映画のラストはロドリゴが葬られるところで終わりますが、踏み絵を踏んでからのロドリゴの生活、貿易品の中からキリスト教と関係の無い物を選別する役を果たす様子が描かれます。結論は、面従腹背的に心の中では信仰を保ち続けて死んだということを暗示しています。原作に対する答えを描いてみせたような終わり方です。