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映画

15 11月

盤外 映画「沈黙(遠藤周作)」スコセッシ監督/2016年

201115a映画「沈黙(Silence)」  マーティン・スコセッシ監督/2016年

監督:マーティン・スコセッシ
原作:遠藤周作
脚本:ジェイ・コックス/マーティン・スコセッシ
音楽:キム・アレン・クルーゲ/キャスリン・クルーゲ

ロドリゴ:アンドリュー・ガーフィールド
フェレイラ:リーアム・ニーソン
ガルペ:アダム・ドライバー
ヴァリニャーノ:キアラン・ハインズ
キチジロー:窪塚洋介
モキチ:塚本晋也
井上筑後:イッセー・緒方
通辞:浅野忠信
イチゾウ:笈田ヨシ
モニカ:小松奈菜 他

(2017年1月12日公開 KADOKAWA)

201115b 日本でも公開されたマーティン・スコセッシ監督による映画「沈黙 Silence」は、タイトル通り遠藤周作の小説「沈黙」をもとに作られました。沈黙の映画化としては篠田正浩監督、原作者も参加した台本化による1971年の同名映画以来、二度目となりますがこちらはキリスト教圏の監督による作品ということになり、スコセッシ監督は若い時に司祭、修道者のみちを考えたことがあるそうなので、布教する側の文化圏が作った映画です。ちょうど篠田監督の映画を観た後なので両映画の違い、原作との差が浮かび上がってきます。

  この映画では作品を象徴するキリストの御絵が語りかける言葉、以下の言葉が直接踏み絵ノアップ映像と共に出てきます。「 踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」ロドリゴがまさに踏み絵に足をかけるところでこれが流れます。その点では原作の小説に忠実と言えそうですが、映画を最後まで見ると決定的な敗北感よりもむしろ逆の印象であり、聖歌の CHRISTUS VINCIT がきこえると言えば言い過ぎかもしれませんが、棺の中の
老いたロドリゴが手に握る粗末な十字架が見えた時、大いに共感が湧きました。ただ、原作ではそのように描いていないはずで、神の沈黙について答えも出していないので、これは宣教者を送り出してきた側にしてできた解釈かなとも思いました。

 スコセッシ監督の映画でより掘り下げられたと思ったのが何度も踏み絵を踏み、ロドリゴらを密告したキチジローの姿、内面でした。踏み絵を踏んだ後のロドリゴのもとへキチジローが来て、なおも告解を聴いてくれとせがみ、痛みと苦しみを持ち続けている姿は印象的です。そして、定期的に棄教の証文を書かされるロドリゴがこれも定期的に課せられる踏み絵の際にキチジローもいっしょに居り、踏んだものの御絵を入れたお守りの札のようなものを首にかけているのを咎められ、連行する場面では、かつての怯えた態度と違い、ロドリゴにもらった物ではないと敢然と言い切る姿も軽い驚きをおぼえます。

201115 この映画ではロドリゴが早い段階で村人らに捕まったら、生き残るために踏み絵を踏むようにと言っていました。しかし村人が転ぶと言ってもガルペやロドリゴら司祭が転ぶ、棄教すると言わない限り拷問を止めない、殺すという場面は篠田監督の映画と同じで、ロドリゴの同僚ガルペが、海に投げ入れて殺される村人の後を追って海に飛び込んで殺される描写はほぼ同じで、ガルペはまだ潔いと役人に勝手なことを言わせています。

 主な人物の中ではロドリゴらの師にあたるフェレイラが弱々しくて、牢の壁に主をほめよと彫ったのは同じでも、丹波哲郎が演じた方は自らの決断と意志で踏み絵を踏んだ点が強調されて、それだけに神の沈黙ということが強調されて見えました。それに拷問などの描写がより過酷だったので、スコセッシ監督の方が多少はましに見えます。もっとも、踏み絵を踏まなかった村人をみせしめに斬首して首がとぶ場面や、キチジローの回想で家族が蓑を着せられ積み上げられて火を点けられたり、柱にしばられ火刑になる映像もありました。

 この映画の最初の部分でマカオでヴァリニャーノの下で消息が絶えたフェレイラや禁教が厳しくなった日本のことを話しながら、ロドリゴとガルペが日本へ行くことを志願するところで始まります。そこで酒におぼれたようなキチジローが案内役として指名されます。それから映画のラストはロドリゴが葬られるところで終わりますが、踏み絵を踏んでからのロドリゴの生活、貿易品の中からキリスト教と関係の無い物を選別する役を果たす様子が描かれます。結論は、面従腹背的に心の中では信仰を保ち続けて死んだということを暗示しています。原作に対する答えを描いてみせたような終わり方です。
9 11月

盤外 映画「沈黙(遠藤周作)」篠田正浩 監督/1971年

201113映画「沈黙」 篠田正浩 監督/1971年

監督:篠田正浩
原作:遠藤周作
脚本:遠藤周作/篠田正浩
企画:篠田正浩/マコ・岩松
音楽:武満徹

ロドリゴ:ディヴィッド・ランプソン
フェレイラ:丹波哲郎
ガルペ:ダン・ターイ
キチジロー:マコ岩松
モキチ:松橋登
井上筑後:岡田英次
通辞:戸浦六宏
老人:加藤嘉
イチゾウ:滝田裕介
岡田三衛門:入川保則
その妻菊:岩下志麻
遊女:三田佳子 他

(1971年11月13日公開 東宝)

201113a 遠藤周作の小説「沈黙」が発表されたのは1966年(昭和41年)でした。この映画はそれから約五年後に公開されてカンヌ映画祭にも出品した話題作でした。主人公であるロドリゴの師にあたる(元)司祭にして棄教したフェレイラを日本人の丹波哲郎が演じているのが注目で、台本、台詞には原作者の遠藤周作が関わっているのも特徴です。それ以上にこの作品、ファンタジーのようなものがほとんど無くて、ひたすらに暗く救いが無いことが印象付けられる映像です。海、野原といった背景がかろうじて救いのような、観ていて窒息しない助けのような緩和剤に感じられます。この映画を映画館で観たことはありませんでしたが、モノクロ写真が国語の教科書(中学か小学校か)に載っていたので強く印象付けられていました。




 
201113b 先月取り上げていたオペラの沈黙よりも二十年以上も前に作られた映画なので、オペラの方の作曲、台本化の際に何らかの影響があったかもしれません。この映画の音楽担当は武満徹でした。原作の中で問題視(教会内でか)された、キリストの御絵が語りかける「踏むがいい~」以下の言葉は映画の中では直接出てきませんでした。ロドリゴが踏絵を踏む際に絵がアップになるところでもその言葉はなく、文字通り「沈黙」が表現されていました。そのかわりに原作には無いシーンが加わっています。切支丹の武士である岡田三右衛門夫妻が拷問にかけられる場面が強調され、殴打等には屈しなかった夫妻に対して夫を頭だけ地面に出して埋め、妻にそこを騎馬で走らせて見せ、棄教しなければ馬で踏み殺させると迫ります。何度か馬が行ったり来たりして、ついに妻、菊(岩下志麻)が耐えきれず転びます。それを見てやがて掘り出された三右衛門は菊を抱きしめて自分にも踏絵を踏ませろと懇願して叫びながら、連行されてついには刺殺されます。

201113c 夫を助けるために棄教を表明した菊、後にフェレイラがロドリゴに対して踏絵を踏むことを「愛の行為」と表現する際にここの場面がよみがえってきます。ちなみに岡田三右衛門という名前は史実で日本に来て捕まり、やがて棄教したシチリア出身のイエズス会司祭のジュゼッペ・キアラに与えられた日本名でした。岡田三右衛門という下級武士も実在したらしく、殉教し、その妻をキアラに添わせるというのは映画の結末と同じです。この三右衛門夫妻の拷問シーンと共に丹波哲郎が演じたフェレイラがロドリゴを説得する場面も迫真です。穴釣りにされても決して神を呪う言葉をはかなかった、牢の壁にはフェレイラが書いたラテン語で主をほめよという言葉も残っていました。そのフェレイラが、「この場にキリストが居たなら穴釣りにされている信徒を助けるために転んだだろ」と言ったところは重みをもって迫ってきました。

 原作では「踏むがよい」以下の言葉、これによってロドリゴが慰めらているように描かれています。一方で映画の方は、フェレイラ(彼も沢野寿庵という日本名を与えられている)もロドリゴも菊も生存しているものの、世の中の渦に巻き込まれて押し流されて、映像からは心の平安を得ているようには見えません。ここへきて魂の救済とは何か、神が沈黙しないとは具体的にどのような状態を想定しているのか、例えばロドリゴらが日本へ来るまでは神は沈黙していなくて、到着してから沈黙したのかとか、色々考えさせられます。揚げ足をとるつもりはないものの、たとえばインカ帝国を征服したピサロらの前後に教会の司祭なり司教もペルーまで来ていたはずで、彼らには神が何故沈黙しているのかという葛藤がなかったのだろうかとか(異教徒だからどうでもいいとは通常思わないはずなので)、単純に具体的な助けを期待して、それが得られないことを沈黙としているのでも無さそうな気もします。余談ながら、踏絵を踏んだ後にキリストと完全に縁が切れるのかと考えるとなかなかそうならないだろうと、もっともそれは内心の問題だと思われますが、映画の中のフェレイラ、ロドリゴ、菊らの様子を見ているとそのように思えてきます。
5 9月

盤外~映画「長江」・さだまさし,中央電視台/1981年

200905a「長江」 ~ドキュメン映画

㈱さだ企画、中華人民共和国中央電視台
監督:さだまさし
演出:徳安恂
総監修:市川崑
製作:さだまさし
製作総指揮:佐田雅人
プロデューサー:さだ繁理 / 堀内博周 
構成:徳安恂 / さだまさし / 原一男
脚本:長野広生 / 菊池昭典
撮影:根本幸孝 / 木村公明 / 吉田耕司 / 並川清 / 東原三郎
音楽:さだまさし / 服部克久 / 渡辺俊幸
美術:細石照美
編集:亀田左
ナレーション:宮口精二

 今年の梅雨頃からネットのニュースに中国の三峡ダムが大放水中とか、決壊の危機だと続けて載っています。どうも見出しからは心配だけでなく興味・面白半分の関心がうかがえて、「ひとを呪わば穴二つ」というのになあと思ってチラ見していました。歌手のさだまさしが昭和50年代に、長江を遡って(最初の一滴が見たいというのがテーマらしい)撮影した中央電視台との共同制作映画「長江」は、その三峡ダムが完成する以前の流域を記録したドキュメント映像でした。公開当時に中国ではこの映画によって長江の上流地域まで初めて見ることができたという人も多かったそうです。今となっては一層貴重な映像記録は日本だけでなく中国でも反響が大きく、今世紀になって中国では続編が作られたとか。ただ、日本の映画評論家の反応は冷淡だったそうです。それは何か明確な物語、主人公が設定されているわけでなく、観ようによっては散漫に感じられるという点が影響しているからでしょう。それから上海、南京、武漢、重慶とくれば何かと古傷が疼き、つい身構えたくなるのも確かです。

200905b この映画には大きなおまけというか、その後のさだまさしに甚大、激甚な影響を与えたものがありました。それは金利を含めると35億円くらいの借金を抱えることになったことで、以後ひたすら一年中コンサートをやり、歌い続けました。数行で済ませられる程度のことではなく、毎日死にたいと思っていたというのを新聞で読んだことがありました。ただ、死にたいと思うことと死のうとする、実行することは別だとも書いてあり、励まされる言葉だと思って何年も前に思って読み返していました。それからシングルレコードになっていた「生々流転」が主題歌だとされていたので、いきなり冒頭で出てくるかと思ったらそうではなく、かなり後の方になるまで出てきませんでした。

 それはともかくとして、映像に見る中国の街には古い建物が多く残り、同年代の日本の都市とはかなりの違いを感じます。そうしたことよりも長江とその流域で暮らす人々の姿を見ていると圧倒され、人間観、世界観、文明観が揺り動かされる気がします。仮に十億人の人間が居るとして、その1%だったら一千万人にあたります。災害で死者が千人を超えた、疫病による死者が一万人を超えたとして、その一人一人には人生があり、家族があり、それが急に失われることは重大なことに違いないとしても、それでも被害は統計的には限定的として、世の中は前に進んでいく、そんな一人の人間ではどうしようもない、無力さと小ささを強く意識させられます。別にそれは大陸でなくても同じだとしても、巨大に視覚的突きつけられ有無を言わせず従わされるような妙な被征服感と、それとは裏腹にたくましさとなんとなく楽観的な感情がわいて、気力が回復する気がします。

 これを観て中国に旅行したくなるかと言えば自分の場合はそうでもなく、MンMンの餃子を食べるくらいで満足しておこうかで終わります(広すぎてどこを訪れたらいいのか絞れない)。グレープ時代の歌の「三教街(ロシア租界)」も映っていました。日本との戦争中に空爆を経験した人、兵隊に射殺された人の遺族、日本兵が書き残した壁の落書き、空爆に耐えた防空壕等も出てきましたが、それらはスルーして撮影するわけにはいかないでしょう。それにしても映画製作費が嵩んだ理由は人件費だったそうで、最初はレコードの印税やらで2億程度でいけるかという算段だったのが十倍以上に膨らみました。通常の「映画」といことを念頭に置くと戸惑うことが多い作品ですが、いろいろな物事がごった煮のように含まれた映像であり感銘深いものがありました。
11 3月

番外~映画「千利休 本覺坊遺文」熊井啓 監督/1989年

180311a千利休 本覺坊遺文

本覚坊:奥田瑛二千利休:三船敏郎
織田有楽斎:萬屋錦之介
山上宗二:上條恒彦古田織部:加藤剛
太閤秀吉:芦田伸介
東陽坊:内藤武敏、古渓:東野英治郎
千宗旦:川野太郎、大徳屋:牟田悌三、他

監督:熊井啓
原作:井上靖
脚本:依田義賢
撮影:栃沢正夫
音楽:松村禎三
美術:木村威夫

(1989年10月 東宝)

 昨日は大阪フィルの定期公演に行き、ショスタコーヴィチの交響曲第2、3番を生で聴くことができました。プログラム最初のバーバーのピアノ協奏曲も刺激的でした。指揮台で時々クネクネするミッキーさんはお元気そうでしたが、気のせいか痩せられたように見えました。電力のように脂肪を融通できるならいくらでもと思って後姿を見ていました。ミッキーさんはバーバーが終わった後の休憩時間に急きょプレトークをされ、アメリカでは絶対にやらないプログラム、ベルリンPOならやるかもしれないとのこと。一旦生で聴いてしまうとCDの音は妙に矮小に聴こえてしまいます。それは他の作品でもそうなるはずですが、「十月革命に奉ぐ」と「メーデー」は特別にそう感じます。CDになっている演奏は極端に機械的で冷たく聴こえたりするものがありますが、今回のものはそうではなくてマーラー作品のように精神的な迷路を思わせるものでした。

180311 b 帰ってから第2番のCDを複数聴いてみたものの公演の記憶の方が鮮烈でコメントし難いので取り上げませんでした。それで映画のソフトをわざわざ買って反復して観るものの中で一番頻度が高い作品をとりあげました。これは千利休四百年遠忌だった平成元年に公開された利休の映画に作品のうちの一つで、主要キャストだけでなくエキストラに至るまで男性だけに統一された異色の映画でした。しかもおっさん、爺さんが大半で、かろうじて千宗旦と回想の織部が美形といえる程度なのでモノクローム的で、目の保養という要素が限りなくゼロに近い映像です。

 それにもかかわらず、TV放送を二度録画してやっぱりDVDもと思って購入したほどなので惹かれるものがあり、それはとにかく映像が美しいということに尽きます。淀川水系の川のシーンを日本ラインでロケしているのでそう見えるのも当然で、利休が何故切腹して果てたのか、その最後の気持ちを探るという内容です。弟子の山上宗二、古田織部の死を再現しながら、三人に共通する心があきらかになっていきます。前半の方で「死」と書いた軸を掲げた茶室が出て来て、「『無』と書いた軸をかけても何も無くなりません。『死』なら無くなる」と宗二が叫んでいる場面が出てきます(この時点で利休と宗二が映り、あと一人が誰か分からないとなっている)。

 そんな求道的、禅の修行のような茶の世界が繰り広げられ、理屈で考えると「そこまでのことではないだろう」という疑問がわいて来るものの、映像の説得力が圧倒的でそれが真相だったんじゃないかという気にさせられるのが凄いところです。古田織部と言えば漫画「へうげもの」が有名なので、同じ人物を加藤剛が演じているので物凄い落差です。師の遺品である茶杓を位牌仕立てにしている描写はどちらにも出て来るのでなおさら人物の描き方が際立ってきます。映画のラストは、「これと言われる茶の湯者になるには腹を切らねばならぬのか?わしは腹は切らん、腹を切らんでも茶人だよ」と笑っていた有楽斎が臨終のおりに、布団の上でエア切腹をしてこと切れるところで終わります。
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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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