フェレンツ・フリッチャイ 指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ジョルジュ・ダントン:パウル・シェフラー
カミーユ・デムーラン:ユリウス・パツァーク
リュシール(カミーユ妻):マリア・チェボターリ
ロベスピエール:ヨセフ・ウィット
エロー・ド・セシェル:ペーター・クライン
サン=ジュスト:ルートヴィヒ・ウェーバー
ヘルマン:ヘルベルト・アルセン
シモン:ゲオルグ・ハン
ユリア(ダントン妻):ギゼラ・スリー
(1947年8月6日 ザルツブルク ライヴ録音 ARCHIPEL)
これはオーストリアの作曲家アイネム(Gottfried von Einem 1918年1月24日 - 1996年7月12日)のオペラ「ダントンの死」が、1947年8月のザルツブルク音楽祭で初演された際のライヴ音源のCDです。これについて先日発売されたクレンペラーのSACD集「伝説的アムステルダム・コンサート1947-1961」の広告・解説の中の年表に興味深い話が出てきます。1947年8月6日の初演はクレンペラーが指揮するはずだったのが直前でクレンペラーがキャンセルしたのでフリッチャイが代役として指揮し、成功したという話です。
クレンペラーは、オペラ「ダントンの死」の台本が原作であるゲオルク・ビュヒナーの戯曲から乖離しすぎている、音楽も悲劇的な気分に欠けるとして作品への興味を失ってしまいキャンセルしました。そのおかげで代役したフリッチャイの名声が高まることになったという話で、何か歴史的な色々なネタが詰まった公演ながらCDとしてはソプラノのマリア・チェボターリがメインなので、ジャケットも彼女の写真がどーんと使われています。
作品を聴いた印象は、途中で指揮をキャンセルするのはダメだとしても「悲劇的な気分に欠ける」とかクレンペラーの言い分も分かる気がして、惹きつけるところが少ないと思いました。ワーグナー、R.シュトラウス、ベルクらの音楽で合い挽きミンチにしたところからスープとって希釈したような印象です(悪く言えば)。たしかにマリア・チェボターリの歌唱が一番目立っていました。フランス革命の政治家にして断頭台で処刑されたダントンが処刑されるまでの話で、裁判での弁論も含まれるので舞台を観れば印象も変わるだろうと思います。オペラの筋書きなどはネット上で、CS放送の案内やら海外で観た方の解説があってかなり詳しいので、今後もそれをチョイチョイ見たいと思いました。
アイネムはナチス・ドイツ時代に音楽家のコンラート・ラーデを救ったということで戦後にイスラエル政府からメダルをもらっているそうですが、一方でナチ時代はまだ若かったということもあり、重責のポストには就いていませんが、ナチの重鎮でもあった作曲家ヴェルナー・エックと親しかったことで兵役を逃れ、ハインツ・ティーティエン監督の助手も務め、ナチ時代のバイロイトで活躍しました。また、戦時中のベルリン・フィルで自作を初演し、ドレスデン国立歌劇場のアドバイザーにもなっていました。これもクレンペラーのSACD集「伝説的アムステルダム・コンサート1947-1961」の紹介文の年表に載っていた話ですが、G.ヴァントの潔癖な態度とはかなり違っています。
クレンペラーは、オペラ「ダントンの死」の台本が原作であるゲオルク・ビュヒナーの戯曲から乖離しすぎている、音楽も悲劇的な気分に欠けるとして作品への興味を失ってしまいキャンセルしました。そのおかげで代役したフリッチャイの名声が高まることになったという話で、何か歴史的な色々なネタが詰まった公演ながらCDとしてはソプラノのマリア・チェボターリがメインなので、ジャケットも彼女の写真がどーんと使われています。
作品を聴いた印象は、途中で指揮をキャンセルするのはダメだとしても「悲劇的な気分に欠ける」とかクレンペラーの言い分も分かる気がして、惹きつけるところが少ないと思いました。ワーグナー、R.シュトラウス、ベルクらの音楽で合い挽きミンチにしたところからスープとって希釈したような印象です(悪く言えば)。たしかにマリア・チェボターリの歌唱が一番目立っていました。フランス革命の政治家にして断頭台で処刑されたダントンが処刑されるまでの話で、裁判での弁論も含まれるので舞台を観れば印象も変わるだろうと思います。オペラの筋書きなどはネット上で、CS放送の案内やら海外で観た方の解説があってかなり詳しいので、今後もそれをチョイチョイ見たいと思いました。
アイネムはナチス・ドイツ時代に音楽家のコンラート・ラーデを救ったということで戦後にイスラエル政府からメダルをもらっているそうですが、一方でナチ時代はまだ若かったということもあり、重責のポストには就いていませんが、ナチの重鎮でもあった作曲家ヴェルナー・エックと親しかったことで兵役を逃れ、ハインツ・ティーティエン監督の助手も務め、ナチ時代のバイロイトで活躍しました。また、戦時中のベルリン・フィルで自作を初演し、ドレスデン国立歌劇場のアドバイザーにもなっていました。これもクレンペラーのSACD集「伝説的アムステルダム・コンサート1947-1961」の紹介文の年表に載っていた話ですが、G.ヴァントの潔癖な態度とはかなり違っています。