ヴィットリオ・グイ 指揮
*一部カット有
今期の大河ドラマ(NHK)は昨年来の新型コロナ禍の影響で撮影が休止になったので放送開始時期がずれ込みました。しかしながらもう何年も前から大河はほとんど観なくなっていて、今期もまだ一度もみていません。あれは何年度だったか、自分がまだ小学生の時に「獅子の時代」という大河ドラマ(日曜日20:00から放送/NHK)があり、架空の人物が主人公の上に明治新政府側、幕府から在野側の人物を並行させて話が進み、最後は秩父事件で終わるという、有名人物・英雄礼賛的ではない異色の作品でした。その前年の大河ドラマは頼朝を扱った「草燃える」、翌年が「女太閤記」だったので「獅子の時代」はよけに異色さが目立ちました。50歳を超えた現在では渋沢よりも秩父困民党の方に関心が強くてもう一回最初から見たい気がしていました。
このパルジファルは歌手と指揮者やらの名前を見たらヴェルディ作品かと思ってしまいますが、戦後にバイロイトが再開される前のイタリア語によるパルジファルのライヴ音源です。ワーグナーの全曲盤というよりもマリア・カラスのファン用のCDという枠組みのようですが、アッティラ・チャンバイ、ディートマル・ホラント編の “ rororo operabücher ” の日本語版、「名作オペラ ブックス(音楽之友社)」の巻末コーナー、「ディスコグラフィについての注釈」にも取り上げられています。しかも古い音源なのに予想外の高評価であり、ヨアヒム・マッツナーは「制作したときのレコード技術がどうしようもないレベル」でなければイタリア語版であるにせよ「これは一番推奨できるパルジファルの一つ」に挙げられるとまで評しています。
ヴィットリオ・グイはグレードの高い指揮者であったと言わなければならない、(粗末な録音技術にも関わらず)ドラマティックで、峻厳で、繊細な解釈の一端を伝えているとしていて、イタリア語の歌唱であることのマイナスを特に指摘していません。その点だけは意外に感じられて、個人的にはイタリア語になるとファンタジー、非現実の世界から現実の斬った、斬られたの世界に変質するような違和感がありました。これはグルネマンツの歌唱から特に感じられる印象です。歌手に対する評の中ではマリア・カラスを特殊なケースとししつつ、ドイツ語ではなくイタリア語であることを忘れさせてくれるとして認めています。ただ、批評の内容が難しくて分からず、別格的に賛嘆しているようでした。第二幕を聴いているとこの録音の中では一番魅力的なので、それはやはりカラスによるところが大きいのでしょう。あと、クリンクゾルのモデスティもドイツ語上演の同役と変わらない性格だと思いました。
他のキャストでは、アンフォルタスのローランド・パネライを、感銘を与えてくれるアンフォルタス像が並ぶ中で傑出していると誉めています。反対にグルネマンツのボリス・クリストフを「硬質なヴィブラートによってずっと不評を買っている」としただけで弁護をしていません(グルネマンツを地味に輪郭化された人物像、主人公ほどの解釈の難しさは見られない、としている)。テノールのパルジファル役については、純粋無垢の愚か者、清祓さを感じさせるのが難しい(ジークフリートのような歌い方になってしまうとか)として、ペーター・ホフマン、ルネ・コロ、ライナー・ゴールドベルクを「誰がいったい純粋で、だれがいったい愚者だと言おうとしているのか―納得させられるパルジファルたちはめったにいない」としています。その点ではバルテッリも十分でなさそうなところですが、第二幕の後半から第三幕はかなり魅力的だと思いました。今回聴いたのはSACDのシングルレイヤー盤でしたが、それでもやはり音質は良くなくて特にオーケストラの音が残念です。