raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

指:アシュケナージ

14 1月

モーツァルトのピアノ協奏曲第26番 アシュケナージ弾き振り/1982年

220114 bモーツァルト ピアノ協奏曲 第26番 ニ長調 K.537「戴冠式」

ヴラディーミル・アシュケナージ   ピアノ、指揮
フィルハーモニア管弦楽団

(1982年2月 ロンドン,キングスウェイホール 録音 DECCA)

 今日、1月14日は京都市内の平野部でようやく少しは積るくらいに雪が降っています。といっても伏見区の北、鳥羽街道あたりになってようやく本降りで中京区に入るとまだ車が通っていないような道にうっすらと積もっている程度です。外気温は1℃なのでまだ底冷え級の寒さではありません。昔から正月絡みの行事が終わった真冬の風情が好きで、二月下旬になってもう冬が遠のくと思うと妙に寂しい気になっていました。夏が終わる時はせいせいするのにおかしな感情です。そう言えば秋篠宮家の長女の夫の方、ついこのあいだ二月が再試験だと騒いでいたと思えばあと半月くらいに迫っています(いいかげんそっとしておいてあげればと)。

 モーツァルトのピアノ協奏曲第26番は第1楽章が冒頭から何となく祝い事のような華やかな雰囲気にあふれて、本来個人的にはそういう作品は肌が合わないはずが、これは例外的に生理的に惹かれるものがありました。それで昨年末に箱物・残りものセールのような紹介欄で見つけたアシュケナージ弾き振りのセットを購入したので、その一枚目として第26番、第27番を聴いていました。モーツァルトのコンチェルト弾き振りと言えば、アンダ・ゲーサ(ゲサ・アンダ)とザルツブルク・モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカ
、バレンボイムとECOが有名でした。アシュケナージの方は少し長期間にわたって録音したものをセット化したのか、とにかくそれらよりも後の録音です。

 聴いた印象はオーケストラの編成が大編成なのか他の弾き振りの演奏よりもオーケストラが前面に出て、それでもピアノが目立って微妙なバランスだと思いました。「名盤鑑定百科 協奏曲篇 (吉井亜彦/春秋社)」という単行本の中でこの作品のCDが列挙された中にアシュケナージ弾き振りもあって、二重丸、丸でもなく星印(個性的をあらわす)もない無印ながら、「自らのピアノの音の美しさを信じ、楽観論的に展開していく」と評してあります。この本は多くあるCDをできるだけ載せて、一行ずつコメントするという体裁で、同じ演奏者で複数録音があるのを見つけるのに便利です。

 そのコメントの「ピアノ音の美しさ」というところは成るほどと思う半分、やや大粒な印象なのでもっと息をのむようなとか、そんな美しい音は他にもありそうだと思い、磨いた碁石くらいという印象(真珠とか宝石のような小粒な、繊細な、きらめくように美しいという感じじゃない)です。それより、かえってオーケストラの方が豪快な方向で、一瞬クレンペラーのモーツァルトを思い出したくらいでした。この作品で特に好きだったのはシフ、ヴェーグの共演盤でした(上記本では二重丸が付いている)。

13 8月

マーラー交響曲第7番 アシュケナージ、チェコPO/2000年

200813マーラー 交響曲 第7番 ホ短調

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

(2000年4月27,28日 プラハ,ルドルフィヌム,ドヴォルザーク・ホール 録音 Octavia Exton)

 八月の盆の時季になったのにコロナの感染拡大が収まらず帰省、観光の移動が減っていることで季節感が妙なことになっています。ふと昭和60年の8月12日に発生した日航機墜落事件のことが思い出され、それ以前にも昭和46年の雫石上空墜落事件やら昭和41年の松山沖墜落事故の話を子供の頃に読んだことを思い出しました。特に自分が生まれるより前の昭和41年は日本国内で5件も墜落事故が起こったと知って恐ろしくなったものでした(特に松山の事故は後の自身の誕生日と同じ)。コロナの話題で旅客機は何分か毎に客室の空気が入れ替えられているから三密になり難いという話になり、そこから事故の話題になって日付を見て御巣鷹山の惨事を思い出しました。それにしても日航機の墜落原因だった垂直尾翼の破損、一機当たりにもうひと揃え垂直尾翼の機能を持つ装備を付けられないのかと事故の記事を見るにつけそう思います。

  さて、チェコ・フィルによるマーラーはインバルの他にもアシュケナージも録音していました(第6、7、9番)。今回のアシュケナージは先日のインバルよりさらに陰な印象が後退していて、ドヴォルザーク作品に通じるような爽快さを覚えました。聴いていてこういう効果を与えるのはマーラー演奏としてどうなのか、時代は変わっているのか、それともこれでこそチェコ・フィルの演奏するマーラーなのか。各楽章の演奏時間も短めでCD一枚に収まる合計時間です。爽快な印象はこの演奏時間の影響とチェコ・フィル、会場の音色・響きのためなのでしょう。

アシュケナージ・チェコPO/2000年
①21分13②14分34③09分40④12分30⑤16分39 計74分36
シュテンツ・ケルン/2010年
①21分09②14分17③08分49④12分24⑤16分51 計73分30
インバル・チェコPO/2011年
①22分43②15分24③11分19④14分00⑤17分15 計80分41
マーツァル・チェコPO/2007年
①22分18②15分25③10分13④13分47⑤17分36 計79分19
ノイマン・チェコPO/1978年
①21分30②14分15③10分10④16分50⑤18分00 計80分45

 合計で74分強というのは短い部類かと思いますが、2000年以降ではマルクス・シュテンツとケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団が74分を切っています。新旧のチェコ・フィルの録音にして共に地元出身のノイマン、マーツァルの合計時間が近似しているのに対して、アシュケナージはかなり短くなています。アシュケナージは1996年にゲルト・アルブレヒトが辞任した後にチェコ・フィルの首席に就任していて2003年まで務めていました。2003年から2007年までがマーカル(マーツァル)、先日のインバルは2009年から2012年まで首席でした。
25 1月

ショスタコーヴィチ交響曲第7番 アシュケナージ、ロイヤルPO/1995年

200123ショスタコーヴィチ 交響曲 第7番 ハ長調 OP.60「レニングラード」

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
*1941年に包囲されたレニングラードからのショスタコーヴィチの放送付き

(1995年5月 サンクトペテルブルク・フィルハーモニア・グレートホール 録音 DECCA)

 一月もあと一週間になってきました。この年末は職場にそこそこ近かった蕎麦屋が移転したので、年越し蕎麦はスーパーで売っているパック詰めのものだけでしたがゆで方が失敗だったので普通に「不味い」蕎麦で終わりました。「一口たりとも飲み込めない」、「完食するのが実に辛かった」という段階ではなかったものの、やっぱり餅は餅屋だと思いました。そう思って職場近くに他にも手打ちを標ぼうした蕎麦専門店(うどんは出さない)があったので、京響の定期に行く前の昼に入ってみたら十割蕎麦が美味かったので今年からここを御用達にしようと思いました。ちなみにそこは北山で長く営業していたのが中京区に移転してきたそうでした。

 ホールでオーケストラの演奏を生で聴くと作品自体の余韻が長く残るもので、先日京響定期で聴けたショスタコーヴィチのレニングラード交響曲もそうでした。引退を表明したアシュケナージもソ連から亡命した音楽家の一人であり、ショスタコーヴィチの交響曲を全曲録音していました。その全集から改めて第7番を聴いてみると、極端に解釈を込めたようなタイプではなさそうでも、作品の内容が「ショスタコーヴィチの証言」について一理あると思うような抽象的な事柄を含んでいそうだと思います。CDのトラック①には「1941年、
レニングラードからのショスタコーヴィチの放送」が入っていますが、砲撃とかの効果音が付くわけでなく、ロシア語も分からない者としてはあまり影響は無いと思いました。

アシュケナージ・ロイヤルPO/1995年
①26分24②10分43③15分41④16分40 計69分28
ウィッグルスワース・1996年
①29分03②12分09③19分06④18分30 計78分52
ヤルヴィ・1988年
①25分30②11分03③17分03④15分18 計68分54
バーンスタイン・シカゴSO・1988年
①31分43②14分48③19分25④18分52 計84分48

 合計演奏時間は快速なヤルヴィに近くて第2、3楽章はアシュケナージの方が短いくらいです。中間の楽章がこうした演奏時間ということで引き締まった印象になり、あまり刺激的な印象ではなくおとなしめです。第1楽章の打楽器の音色が金属的で、何となくソ連のメロディア・レーベルを思わせるのが面白く、使用楽器を特に選んでいるのかとも思いました。第4楽章を聴いている時に不意にチャイコフスキーの悲愴交響曲を思い出し、レニングラード交響曲は悲愴の第3と第4楽章の順番を変えたような妙な相似形のような気がしました。

 定期公演に行く前にゲルギエフとマリインスキー歌劇場Oの映像ソフトに付属しているゲルギエフの解説の中で、レニングラード交響曲について単に戦闘の情景等を描写しているという考えは表面的である、とコメントしていました。その2014年2月16日のパリでの公演の演奏も爽快でなくて、作品について色々考えさせられる内容でした。何にしても交響曲というものが社会的に影響があって、ソヴィエト共産党が神経をとがらせていたということは現代の日本ではどうも考え難いことで、それだけ我々は大衆化、衆愚化が進行しているのかとも思いました。
30 5月

チャイコフスキー悲愴交響曲 アシュケナージ、NHKSO/2006年

190530チャイコフスキー  交響曲 第6番 ロ短調 作品74 「悲愴」

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
NHK交響楽団

(2006年2月28日,3月1日 すみだトリフォニーホール 録音 EXTON)

  五月が終わろうとする今頃の季節、「平年並み」がおかしくなっているとは言え一応梅雨に入る頃は個人的に悲愴交響曲が聴きたくなる旬にあたります。クレンペラーの誕生日の月(5月14日)と命日の月に挟まれた期間で、梅雨の晴れ間のようにクレンペラーの録音はお休みしていますが、このアシュケナージとNHK交響楽団の悲愴交響曲を聴いているとクレンペラーのEMI盤の記憶がよみがえってきました。

 このCDの附属冊子の解説によれば、悲愴交響曲が好きな人は「誰しもが極端な悲劇性や甘い歌いまわし、或いは音響的な迫力を求めたい心理にかられるかもしれない」ということで、全面的にそうだと言えないとしても少なくとも前半部分、「悲劇性」についてはかなり当てはまると思います。ただ、そういう趣向は先日のフェドセーエフの全集の解説に引用されたマリス・ヤンソンスの指摘、「蜜に砂糖を加えるような」演奏として戒められるタイプを誘発しそうだとも思われます。

 このアシュケナージとNHK交響楽団の悲愴は、そんな極端な悲劇性、甘美な歌いまわし、音響的な迫力を志向するのとは正反対の、「感情的に耽溺せず、奇抜な技にも走らない」、「余計な誇張の無い」演奏だと上記の解説冊子では評されています。誇張とか密に砂糖をかけるような演奏と演奏時間がどう関係するのかは一概に言えないとしても、アシュケナージとN響の合計演奏時間は自身の約四年前のフィルハーモニア管弦楽団との録音よりさらに短くなっています。

アシュケナージ・NHK/2006年
①16分57②7分25③08分37④09分51 計43分50
アシュケナージ・PO/2002年
①18分11②8分01③08分51④10分38 計45分41
ポリャンスキー・RSSO/2015年
①19分23②8分48③09分41④11分04 計48分56
ポリャンスキー・RSSO/1993年
①19分38②8分35③10分00④12分11 計50分24
スヴェトラーノフ/1990年
①18分08②7分05③08分19④12分28 計46分00
スヴェトラーノフ/1993年
①20分34②8分20③09分36④11分57 計50分27

 上記のポリャンスキー、スヴェトラーノフは自分の好きなCDですが今回のアシュケナージとN響もそれらと印象が違うものの圧倒的に魅力的です。引き締まってシベリウス作品を聴いている時のような涼しくて冷たいような美しさです。第3楽章は騒々しくなくて、少しショスタコーヴィチを思わせる鋭い響きが新鮮です。クレンペラーがアメリカ亡命時代にコンサートの興行側から悲愴交響曲を第3楽章で終わらせるよう要望があったそうですが、この演奏ならそんな完結感を伴う熱狂ではないのでむしろ第4楽章が待ち遠しいところだろうと思いました。それに終楽章も人間的な、人間固有の悲劇というより自然界の営みに含まれる厳しさ厳粛さを思わせられます。
11 4月

シベリウス交響曲第6番 アシュケナージ、ストックホルム/2006年

190410シベリウス 交響曲第6番 ニ短調 Op.104

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団

(2006年4月25-29日,2007年1月30-2月3日 ストックホルム・コンサートホール 録音 EXTON)

 先日の朝に車中でAMラジオから紙幣のデザインが変わるというニュースになり、長州の維新志士とか乃木、東郷の両元帥の肖像が入るのかと思ったら
(発想が単純)そうではありませんでした。そういえば昭和後半の紙幣、一万円と五千円札が聖徳太子、千円が伊藤博文、五百円が岩倉具視だったのを思い出しました。平成に入って勤め出して以降は口座から振込、ネットバンキングを使う頻度が上がったので消費税もあって硬貨の方が身近な気がします(それは生活水準にもよるか)。それにしても渋沢栄一で反発を招いているような昨今の極東情勢からして、伊藤博文の肖像が紙幣のデザインに復活していたら、もっとざわついたかもしれないと思いました。

 アシュケナージ(Vladimir Davidovich Ashkenazy 1937年7月6日 - )
がNHK交響楽団の音楽監督を務めたのが2004年から2007年でしたが、そのシーズン末期くらいにスウェーデンのロイヤル・ストックホルムPOとシベリウスの交響曲、管弦楽作品の録音をはじめました。ベートーヴェン、チャイコフスキーはN響と録音したのにシベリウスはそうではなく(レーベルは日本のオクタヴィア・レコードなのに)北欧のオーケストラと共演ということになりました。新譜当時はどんな評判だったか今一つ覚えがありませんが、交響曲第6番はステーンマハル(アルペンスキー選手のステンマルクと紛らわしい)に献呈されたくらいなのでスェーデンのオーケストラも本場ものに含まれるはずです。

アシュケナージ・ストックホルム/2006年
①9分04②5分22③3分37④09分01 計27分04
リントゥ・FIRSO/2015年
①9分42②6分27③3分38④11分11 計30分58
ベルグルンド・ECO/1995年
①7分54②6分09③4分10④10分04 計28分17
ベルグルンド・ヘルシンキPO/1986年
①8分14②5分31③3分55④11分12 計28分52

 実際に聴いてみると速目と思われる演奏時間を忘れさせる豊かな響きに包まれる感じで、作品解説にある俗世と隔絶とか浮世離れしたという印象はかなり薄いと思いました。二十年以上前に完成した交響曲第2番を意識させられ、昔ベルグルンドとヘルシンキPOのCDで初めてこの曲を聴いた時の感覚(第5番までとは別世界)とはかなり違っていました。これは再生環境が違うこととSACDであることも影響があるかもしれません。マルチ・チャンネルの方はある程度音量を上げるとサラウンド側の効果を意識できますが、やっぱり2チャンネルの方が分かりやすいというか、直接的だと思いました。

 振り返るとアシュケナージは指揮者として活動し出した初期にもフィルハーモニア管弦楽団とシベリウスの交響曲を録音していたので、コリン・デイヴィスや北欧系のシベリウスをレパートリーにする指揮者と同じく複数回の全集録音者だったわけです。その割には「アシュケナージ=シベリウス指揮者」とすぐには連想し難くかったなあと思います(シベリウスに限らず~指揮者という具合にめだまのレパートリーを意識し難い)。
18 10月

ベートーヴェンの田園交響曲 アシュケナージ、N響/2007年

181018ベートーヴェン 交響曲 第6番 ヘ長調「田園」Op.68

ウラディーミル・アシュケナージ 指揮
NHK交響楽団

(2007年6月29,30日 NHKホール ライヴ録音 EXTON)

 今日の午前中、路線バスに乗って河原町通を北上中、ふと気が付くと次のバス停をアナウンスしている「裁判所前」という声に気が付き、一瞬「はあ?」と思ったら河原町丸太町を既に左折にかかっていました。そのまま北上する路線に乗ったつもりが番号を間違えてしまい、次の停留所で降り、京都御苑の中を横切って再度河原町通に出ました。間違えて乗った10番の系統は宇多野の方へ行くバスで昔、予備校へ行く時に使っていました。こんな初歩的な乗り間違えは生涯初めてで我ながら驚いていました(なぜ間違えたか分からない)。御苑の中を歩いているとテニスコートやら野球場が目に入り、頭の中でブラームスの第3番と第4番、第2番が混ぜこぜに断片的に流れてきて、自分は一年中ブルックナー党のはずなのに今年はどうもおかしいと重ねて思いました。

アシュケナージ・N響/2007年
①12分58②12分23③5分27④3分57⑤09分40 計44分25
K.ナガノ・モントリオール/2011年
①11分52②11分41③4分51④3分33⑤09分05 計41分02
I.フィッシャー・ブダペスト/2010年
①11分52②13分38③5分01④3分46⑤10分58 計45分15
ド・ビリー・VRSO/2008年
①11分14②11分36③5分11④3分38⑤08分36 計40分15
ハイティンク・LSO/2005年
①11分39②11分48③4分58④3分31⑤09分36 計41分32

 気分はブラームス満々なのに既にこのCDを聴いていたので今回はこちらにしました。これはアシュケナージがNHK交響楽団の首席に就任後すぐに取り組んだベートーヴェンの交響曲集の第三弾にあたります。この田園交響曲を最初に聴いた時は、第1楽章の停滞感に戸惑い、ずっと流れてきた川が堰で止められてため池のような状態になっているとして、その溜まりに差し掛かったあたりの淀みのようで、正直長いと感じました。付属冊子に載っていた「快適なテンポで展開する推進力に富んだ」の正反対のように感じられて、その時はブログで扱わずに放置していました。しかし第2楽章は一転して魅力的で(最初の一音でと言えば大げさだとしても一気に引き込まれました)、第2楽章がこのテンポなら第1楽章もああいう感じで納得できるかとも思いました。

 第3楽章以降は何故か最初に強く感じた停滞感、長いという不満は全然なくて、生真面目なのに心地良くて春爛漫の中に置かれたような気分になりました。久しぶりに今回聴いてみると初回の印象とは違い、違和感のような感じはありませんでした。最近聴いていたのはキングスウェイホールで録音したEMIのアナログ録音のCDだからこのCDとは大分年代も機器も違うので、むしろ違和感を増してもおかしくないところですが、これは慣れかもしれません。

アシュケナージ・N響/2007年
①12分58②12分23③5分27④3分57⑤09分40 計44分25
アントニーニ/2009年
①10分55②11分20③5分01④3分35⑤08分21 計39分12
インマゼール/2006年
①10分23②11分59③4分43④4分00⑤09分15 計40分20
ヴァイル/2004年
①11分30②12分29③5分08④3分47⑤09分39 計42分33

 今世紀に入ってからの田園交響曲のCDでトラックタイムを比べるとI.フィッシャーと合計時間が似ていました。また、ピリオド・オケや折衷タイプの録音と比べると2分から4分は長くなっています。聴いていると強弱のアクセントを強調する風でもなく、できるだけなめらかに、なだらかに演奏しているという印象なので、こういう演奏時間の傾向と一致しています。ところでアシュケナージとN響のベートーヴェン交響曲は既に九曲を録音し終えていますが、新譜時にレコ芸で特選になったかどうかを調べるとどの曲、CDも特選になっていませんでした。評者が二人なので誰が交響曲の担当になっているかで結果は変わってくると言えよう。
16 8月

ショスタコーヴィチ交響曲第5番 アシュケナージ、ロイヤルPO

180816ショスタコーヴィチ 交響曲 第5番 ニ短調 op.47

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

(1987年3月 ロンドン,ウォルトハストモウ,アッセンブリー・ホール 録音 DECCA)

 今朝の九時前後、おもての方で「ギャー」又は「ガー」というしゃがれた鳥の鳴き声が聞こえてきました。姿は見てないけれどカラスでもカモでもなく、ある程度のサイズのはずなので、或いは鵜とか鷺の仲間かもしれません。鳥といえば先月のある朝、京都市役所前の地下街を歩いていると「鴨サブレ」という商品が目にはいりました。パッケージまで鎌倉の鳩サブレーに似ているのでパクリ感が満タンでしたが、そもそもなぜ鴨?と思いました。よく考えると毎年左京区の三条通北側にある要法寺から鴨川までカル鴨の親子が引っ越しするのがTVニュースで放送されるので、鴨なら幅広く好印象で川の名前にも鴨が付くからちょうど良いと思いました。もっとも、「鴨サブレ」自体は真面目に企画されたものらしく、今まで商標云々の騒ぎをきいたことはありません。

 ショスタコーヴィチの交響曲第5番、日本語で表記される場合には「革命」という標題が付くことが多くて、初演時にはソヴィエト共産党からも褒められたという話からも「革命」という二文字が刷り込まれがちです。しかし、曲を聴いていると実際のところ革命という言葉が似つかわしいのは断片的に何カ所あるだけで、例えば「悲愴」というタイトルが付けられていたら結構それに慣れ親しむかもしれないくらいです(特に第3楽章は)。

アシュケナージ・ロイヤルPO/1987年
①16分35②5分18③14分44④10分58 計47分35
インバル・フランクフルトRSO/1989年
①15分54②5分33③14分18④10分47 計46分32
インバル・VSO/1990年
①16分53②5分18③14分37④11分29 計48分07
ビシュコフ・BPO/1986
①14分47②5分56③15分29④12分10 計48分32
バルシャイ・ケルンRSO/1995年
①15分29②5分33③13分19④11分14 計45分35
ウィッグルスワース/1996年
①19分29②5分22③15分32④11分08 計51分31

 特にアシュケナージの録音は全然高揚しないので、革命の勝利とかそんな事柄とは縁遠くて、冷たい世界が広がっているレクイエムの始まる前のような印象です。終楽章冒頭でさえ、災いのタネの喧騒が突然おしかけて来たような不協和、迷惑感が漂います。合計の演奏時間はインバルの全集録音とその前のフランクフルトRSOとの録音の間くらいになりますが、何とも言えない独特の雰囲気です。もし初演に際してこの演奏が流れたらショスタコーヴィチの汚名返上は成功したかどうかあやしいものだと思いました。

 そうはいっても特別なことをしているのかどうか、録音していた現場に居て聴いたなら同じ感じ方だったか、その辺りはよく分からず、どうも不思議な録音だと思いました。アシュケナージ(Vladimir Davidovich Ashkenazy 1937年7月6日 - )は1961年にアイスランド出身のピアニストと結婚して、1963年にはロンドンへ移住し、1972年にアイスランド国籍を取得しています。この間、ショスタコーヴィチは1961年にソヴィエト共産党員になっています(党員にさせられた)。同じ時期にあって、社会的な縛りと言う点では対照的な変化を経験していたソ連出身の二人でした。
18 7月

シベリウス交響曲第7番 アシュケナージ、R.ストックホルムPO

180718シベリウス 交響曲 第7番 ハ長調 Op.105

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団

(2006年4月25-29日,2007年1月30-2月3日 ストックホルム・コンサートホール 録音 EXTON)

 「暑い、暑いと言いなさんな、よけい暑うなる」、そういうことを昔から耳にしたことがあるような。しかし限度を超えると暑いと言う気力、苛立つエネルギーも失せてきます。まったくどうでも良いことながら、逆のパターン、「寒いと言えば余計に寒くなる」ということは無かったはずで、これは何故なのか。理由を考えれば体の一部、口でも動かせば多少はあたたまる、ということなのか、多分に気分の問題なのか。その気分だけでも涼しくなりたいのでまたシベリウスです。

 これはアシュケナージとロイヤル・ストックホルムPOが短期間にシベリウスの交響曲を収録したCDからの第7番です(どうも七曲の録音年月日が全部同じようだ)。涼しい云々はさて置き、この第7番はかなり素晴らしくて、他の有名録音と並び称されても不思議じゃないと思いました。「シベリウスの作品は何もしなければオーケストラは(自然とは)鳴らない」と、ハンヌ・リントゥ(多分彼だったと)が話ていましたが、一方でシベリウスの音楽は繊細、扱いが難しいという意味の評もあったと思います。そんな考えがある中、この第7番は良い意味でオーケストラが本当によく鳴っていると思いました。

 それにごく自然で、強引な気配さえ感じさせないところも魅力的でした。先日の1984年録音の交響曲第1番はそこそこ気合を入れてオーケストラに相対している趣だったのに、20年以上経っての第7番ではいっそうなめらか、自然な呼吸とでも言える演奏になっています。交響曲第7番は長らく親しみ難い、極北の世界のように思っていましたがこの録音はしみじみと作品の方から染み入ってくる心地でした。このCDだからというわけでもないと思いますが、全曲の終わり方が簡潔今、この年齢で聴いているとすごく惹かれます。

 「名曲名盤500(レコ芸編)」の最新版でシベリウスの頁を探すと七つの交響曲が全部リストアップされていました。その中でアシュケナージの録音を探すと一種だけ、交響曲第6番のところにロイヤル・ストックホルムPOとの新録音が第11位で出ていました。旧録音は全く出ていなくて、第7番のところはベルグルンド・ECOが第1位、1点差でベルグルンド・ヘルシンキPOとバルビローリ・ハレOが共に2位になっていました。アシュケナージのシベリウスはどうもあまり評判をとっていなかったようです(自分もほとんど無視していた)。

16 7月

シベリウス交響曲第1番 アシュケナージ、PO/1984年

180716シベリウス 交響曲 第1番 ホ短調 op.39

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

(1984年10月 ロンドン,ウォルサムストウ・アッセンブリーホール 録音 DECCA)

 昨日の夕方五時過ぎにコインパーキングにとめてあった車に乗り込み、発動機を始動させると外気温計が44℃を表示して驚きました。照り返しとかの影響だと思ってしばらく車を走らせても43℃にしか下がらず、日陰が多い山沿いにさしかかっても41℃だったので正真正銘の外気温だったのでしょう。それから盂蘭盆会の案内がきていた墓地へ一日遅れで行ってみると、自分のところの画地周辺には新しい花が全く供えられておらず、人かげも犬猫も見られず蝉だけが鳴いていました。墓地周辺は土が露出した地面もあり、木陰も多いので37℃でした。

 アシュケナージもシベリウスの交響曲の全曲録音を二度完成させていました。これは初回のフィルハーモニア管弦楽団との録音です。アシュケナージはピアニストとしてクレンペラーの最晩年に共演しただけでなく、クレンペラーのレコードにも親しんでいたので俄然関心が高まります。実は指揮者としてのアシュケナージについては長らくあまり関心がわかずに、ロシアものでさえ積極的に聴く気がしませんでした。クレンペラーの没後、ムーティの時代にニュー・フィルハーモニアからフィルハーモニアに名前を戻し、1984年のシーズンからはシノーポリが首席指揮者に就任していました。

アシュケナージ・PO/1984年
①11分06②10分13③05分35④12分42 計39分36
アシュケナージ・NHKSO/1986年
①11分17②09分27③05分35④12分02 計38分24

 新旧録音のトラックタイムはあまり差が無くて、楽章ごとに新旧の長さが僅かながら逆転しています。今回の旧録音は金管、ティンパニが強調されてリズムが鮮烈に聴こえます。アシュケナージはロシア系の作曲家の他、シベリウスやマーラーも多数録音していながらブルックナーは交響曲の00番のCDがあるだけでした(アシュケナージはブルックナーを否定的に見ているらしい)。今回のシベリウスを聴いていると最近のブルックナー演奏に通じるところが感じられ、ブルックナーも演奏してみれば面白いと思いました。

交響曲第1番 ホ短調
第1楽章 Andante, ma non troppo - Allegro energico
第2楽章 Andante (ma non troppo lento)
第3楽章 Scherzo.Allegro
第4楽章 Finale(Quasi una Fantasia).Andante - Allegro molto - Andante assai - Allegro molto come prima - Andante (ma non troppo) 

 交響曲第1番はシベリウスの交響曲の中で一番大編成の作品ということですが、第1楽章の冒頭等はブルックナーの第4番「ロマンティック」に似ていると思いました。終楽章はブルックナーのようなそびえ立つ威容といった風でないものの、高揚感の点で通じるところがあり、シュケナージのこの演奏スタイルなら最近のネルソンスとちょっと似ていると思いました。

10 6月

チャイコフスキー悲愴交響曲 アシュケナージ、PO/2002年

180610チャイコフスキー  交響曲 第6番 ロ短調 作品74 「悲愴」

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

(2002年10月27日 東京,サントリー・ホール 録音 EXTON)

 昨日はラグビー日本代表の対イタリア戦とプロ野球の阪神・千葉ロッテ戦のTV中継を交互に観ながらスピーカー・ケーブルにバナナプラグを取り付けていました。フロントとセンターのスピーカーはAVアンプのバイアンプ(というよりバイワイヤリングじゃないのか)接続にしたのでケーブルが6本になりました。ケーブルの外側のビニール等の部分を先端だけ切除するわけですが、それ専用のペンチのような工具がホームセンターで売っているのを数年前に見付けて使っています。むかしはカッターナイフで切込みを入れてけっこう時間がかかりましたが
その工具を使うと簡単に出来ます。ラグビーの方はキックで逆サイドにパスをして、それを受けて中へパスを返してトライにつなげる鮮やかな攻撃のシーンが見られました。イタリア代表はラグビーもアズーリと呼ぶそうで、江戸(サッカー)の敵を長崎(ラグビー)で討つ式の心地良い快勝でした。

 
お天気の方は雨が降ったり止んだりで、いかにも梅雨らしくなってきました。こういう時季になると悲愴交響曲が頭の中にちらつきます。35年以上前の今頃、レンタルレコードでカラヤン、ベルリンPOの悲愴とピアノ協奏曲第1番が入った二枚組を借りてカセットにコピーしてよく聴いていたので、作品と天気が結びついて刷り込まれています。もっとも悲愴交響曲に対するイメージも年を重ねて変わっているので、今では単なる聴こうとする動機付け以上の意味はありません。

アシュケナージ・PO/2002年
①18分11②8分01③08分51④10分38 計45分41
スヴェトラーノフ/1990年
①18分08②7分05③08分19④12分28 計46分00
ポリャンスキー・RSSO/2015年
①19分23②8分48③09分41④11分04 計48分56

 これは2002年のフィルハーモニア管弦楽団の来日公演でアシュケナージが悲愴交響曲を録音したものです。トラックには拍手が入ってなくてライヴ録音という注記もありませんがリハーサルや公演から制作したもので、ライヴと呼び慣わしているものと同じかと。たまたま来日・東京公演の際に録音されたこの曲のCDがあるのでトラックタイムを並べると上記のようになりました。ポリャンスキー、スヴェトラーノフは来日のライヴ録音の他にセッション録音もあって、後者の方が長い演奏時間になる傾向がありました。それでもアシュケナージとポリャンスキーの演奏合計時間が3分以上差が出ています。そのわりに終楽章はあまり違わないのが面白いところです。

アシュケナージ・PO/2002年
①18分11②8分01③08分51④10分38 計45分41
アシュケナージ・NHK/2006年
①16分57②7分25③08分37④09分51 計43分50

 このアシュケナージの悲愴で一番魅力的だったのが終楽章で、引き締まって「悲愴」という言葉が無くても音楽だけで自律的に美しいものだと思いました。何となくポリャンスキー・来日公演の終楽章を思い出しました。アシュケナージは指揮者としてチャイコフスキーの作品をよく録音していて、悲愴交響曲はこの4年後にNHK交響楽団と、またロイヤルPOと1980年頃にも録音していました。
3 10月

プロコフィエフ交響曲第6番 アシュケナージ、シドニーSO

171003bプロコフィエフ 交響曲 第6番 変ホ短調 作品111

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
シドニー交響楽団

(2009年10月31日-11月25日 シドニー,オペラ・ハウス,コンサート・ホール 録音 EXTON)

171003a 十月に入ってノーベル賞の受賞者発表が続きます。日本人受賞者があった時はコンビニで新聞を買うこともありますが、今朝は政党分裂に絡んで地元議員の動きがどうなるか気になるので京都新聞を買いました。民進の現職の動きは意外なものでしたがそれよりも、「解読×現代」のコーナーの「注目される音楽と政治」というタイトルが目にとまりました。戦前、戦中(国家総動員法下かそれより少し前からか)に「音楽は軍需品なり」という海軍軍人の講演をまとめた冊子があったそうで、ぜいたく品(ぜいたくは敵だ)という批判を懸念した音楽・レコード業界はその標語を各所で用いたというのはなるほどと思います。1888年の「敵は幾万」から1904年の「広瀬中佐」、1937年の「露営の歌」から1945年「嗚呼神風特別攻撃隊」まで軍歌の年表も載っていました。体制当初は音楽に対する検閲はゆるかったということですが、軍歌のタイトルが激しくなるにつれて検閲も本格的になったことでしょう。

交響曲 第6番 変ホ短調 作品111
第1楽章 Allegro moderato 変ホ短調
第2楽章 Largo 変イ長調
第3楽章 Vivace 変ホ長調

 プロコフィエフの交響曲第6番は1944年からをスケッチ開始し、大戦後の1947年2月に完成しました。初演は翌年の1947年10月10日レニングラードで、ムラヴィンスキー指揮、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団によって行われて大成功でした。彼の作品の中で「最も美しく意気揚々とした作品の一つ」という賛辞でしたが、それから一カ月と経たない内にプロコフィエフのこの曲とショスタコーヴィチ、ハチャトリアンがソビエト共産党から「社会派リアリズムの指示に遵守しない楽曲を書いた」と糾弾されました。

 罪状は「無調性主義、メロディの侮蔑、神経症的不調和」等でしたが、まさに「はは、ついこの間まで褒めとったんと違うんか(じじいはいささか疲れた)」と言いたくなる態度の急変です。実際に聴いてみると、確かに単純にソ連万歳というノリの作風でなく戦争とその苦痛はまだ続いているような含蓄のある内容です。第3楽章はショスタコーヴィチの交響曲第10番の終楽章やらを思わせ、なおさら一筋縄でいかないものです。

 アシュケナージとシドニーSOの演奏は、神経症的という過敏な感じではなく、何となく鉛色の雲が頭上に降りて来て暗黒の日々を予兆するような印象ですが、それでもえも言われない美しさです。もっと引き締まった音質だったら、例えばベルグルンドが三度目のシベリウス全集の録音で共演したヨーロッパ室内管弦楽団とか、そういう編成で演奏可能なのかは別にして、それに似た音響をイメージしてそれならなお良かったと思えます。それにしても、交響曲第6番で党からそういうジャッジを下されるのならヴァイオリンソナタ第1番もさらに危ないのではと思います(作曲者も危惧しつつ作曲を進めていたようで)。
10 7月

シベリウス交響曲第5番 アシュケナージ、R.ストックホルムPO

170710bシベリウス 交響曲 第5番 変ホ長調 Op.82

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団

(2006年4月25-29日,2007年1月30-2月3日 ストックホルム・コンサートホール 録音 EXTON)

 京都市内は祇園祭の鉾立てが始まったので神輿とかの交通規制をチェックする季節になりました。昼過ぎに市役所の近所を歩いているとクマ蝉がひっくり返っているのが目にとまりました。これから鳴き始めるところだと思っていたら、もうダメなのか、それか一時的に木から落ちただけかもしれません(競合するアブラ蝉がいなくなって一強状態だからたるんでいるということはないか)。毎年暑さがきつくなった頃に涼しいところへ避暑に行ける身分だったらとか思いつつ、北欧なりロシアの作曲家の曲が頭の中にちらつきます。

170710a アシュケナージ(Vladimir Davidovich Ashkenazy、1937年7月6日 - )は2004年から2007年までNHK交響楽団の音楽監督を務めていたので、この録音も含めてシベリウス・チクルスを録音している期間が重なります。チャイコフスキーはN響と録音したのにシベリウスは北欧、スウェーデンのオケを選んだのはセールス効果を考慮した制作側、エックストンの意向なのか、日程が合わなかったからなのか、何となくN響のシベリウスも聴きたかったと思います。それはさておき、この交響曲第5番は大らかで魅力的な内容です。第1楽章はゆったりとしたテンポで通し、最初は氷が溶けそうな感じですが、第2、3楽章はぴったりはまってオーケストラがよく鳴っていると思いました。

アシュケナージ・ストックホルム/2006年
①13分14②08分32③09分18 計31分04
リントゥ・フィンランドRSO/2015年
①14分37②09分29③10分30 計34分36
カム・ラハティSO/2014年
①15分08②09分13③09分48 計34分25
ヴァンスカ・ミネソタO/2011年
①13分13②08分35③08分54 計30分42
ヴァンスカ・ラハティSO/1995,97年
①13分23②08分45③09分05 計31分13
ベルグルンド・ECO/1996年
①12分36②08分42③09分10 計30分36
ベルグルンド・ヘルシンキPO/1986年
①13分40②08分00③08分43 計30分23

 ゆったりした第1楽章だと思ったのに演奏時間を見れば特にアシュケナージが長いわけでもなく、合計時間でもヴァンスカの旧録音と同じくらいになり、さらに長い録音もあるので普通くらいといったところです。第1楽章をきいたところではロシアものの延長のようなシベリウスかと思えましたが、終楽章のこの曲独特の共振のような高揚がよくあらわれていて感動的でした。いったん終わったかと思うような休符がおもしろいコーダ部分も見事だと思いました。フィンランドの指揮者、作曲家のハンヌ・リントゥがシベリウス作品は何もしなかったらオケは鳴らないと言っていましたが、交響曲第5番もそんな作品ではないかと思います。

 アシュケナージは1979年から1984年にかけてフィルハーモニア管弦楽団とシベリウスの交響曲を全曲録音していました。そこから20年程経っての再録音ということになりますが、まだ東西冷戦期だった初回の方もこういう演奏傾向だったのかちょっと気になります。
17 2月

シベリウス交響曲第4番 アシュケナージ、ロイヤル・ストックホルムPO

170217aシベリウス 交響曲 第4 番 イ短調 Op.63

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団

(2006年4月25-29日,2007年1月30-2月3日 ストックホルム・コンサートホール 録音 EXTON)

 二月も半分が過ぎてしまいました。今日の昼間はようやく寒さがゆるみ、コート無しでも出歩けました。今日の国会では財務局所管の大阪府豊中市の総額10億円以上の土地が、ほとんどタダ同然で学校法人に譲渡された問題が取り上げられていました。財務局がえらく大胆なことをしたものだと、その点だけでも不思議です。この便宜の程は隣国の大統領の騒動を笑っていられない程でしょう。なんかネット上では国側をかばう内容の記事もあり、世の中は目にはさやかに見えねども着実に動いて変化しているものだと思いました。

170217b こういう厭世的な気分になりそうな時、シベリウスの交響曲第4番は個人的にぴったりきます。この曲は特に好きなので過去記事で何度か取り上げています。アシュケナージとロイヤル・ストックホルムPOの録音はこれまで聴いたものとちょっと印象が違い、特に第1楽章が自然界をイメージするような開放感よりも、個人の不安な内面を反映したようなほの暗さで始まり、開始部分はこんなだったかと、一旦止めてもう一度最初から再生したほどです(マルチチャンネルでも再生可なので久々にウーファーのスイッチをオンにした)。ウーファーを使えばさすがに低弦の厚みが増しました。しかしそれでも弱めで、ウーファー無しの時はさらに弦は薄くて不気味な木管楽器の音が前面に出ています(コンサート会場でも席によっては木管の聴こえ方も違うはずなので、一度木管がよく聴こえる場所でこの曲を聴きたくなりました)。

アシュケナージ・ストックホルム/2006年
①08分56②5分03③08分48④09分30 計32分27
ヴァンスカ・ミネソタO/2012年
①11分59②4分17③13分10④08分48 計38分14
ヴァンスカ・ラハティSO/1997年
①11分36②4分29③14分04④09分04 計39分13
ベルグルンド・ECO/1995年
①09分23②5分01③09分15④09分32 計33分11
ベルグルンド・ヘルシンキPO/1984年
①09分39②4分41③09分55④09分57 計34分12
ベルグルンド・ボーンマスSO/1975年
①10分46②4分43③11分14④10分27 計37分10

 上記の中ではベルグルンドの三回目、二回目のトラックタイムが近くて、特に三回目の方が聴いた印象も似ています。これはハンヌ・リントゥーが解説していた内容によく合うようで、新たな魅力に触れたような新鮮さです。この曲も楽譜校訂とか研究成果が近年演奏に影響しているのか、ヴァンスカも再録音の方が部分的にこのCDに近寄ってるようでもありました。

 このCDが新譜で発売された時は全くノーマークでしたがレコ芸の表紙後側に広告が載っていたような覚えがあります。ちなみに月評で特選を集めた別冊も見たらアシュケナージのシベリウスは全く特選に入っていませんでした。却って旧録音のフィルハーモニア 管弦楽団との第1番が唯一特選に入っていました。1986年の9月号のことなので選者が誰かにもよるとしても、シベリウスの交響曲に対するイメージ、好みは他の作曲家よりも変化、多様化していないのかもしれないと思いました(自分自身かなり硬直ワンパターンだったので)。
5 9月

ショスタコーヴィチ交響曲第4番 アシュケナージ、N響・2006年

160905ショスタコーヴィチ 交響曲 第4番 ハ短調 Op.43

ウラディーミル・アシュケナージ 指揮
NHK交響楽団

(2006年3月8,9日 東京,サントリー・ホール ライヴ録音 DECCA)

 昨日のお昼、たまたまテレビをつけたら「TVタックル」が映りました。ハマコーが存命の頃は夜に放送していてしばしば観ましたが、ハマコー亡き後はほとんどみなくなっていました。昨日は皇室の問題がテーマで、やっぱり日本会議の人も出演していました。 気のせいか彼一人だけが切羽詰まったような風でちょっと驚きました(なにか直接、具体的な利害に関わる事で困っているのか?と思うほど暗かった)。番組進行の阿川佐和子の実父である阿川弘之の「井上成美(海軍提督三部作)」を最近読んでいると三笠宮殿下の話も出てきました。「自分は陸軍へ入りたくなかったんだが、陛下の御命令でしかたなく入った。今の陸軍は、お上のお気持ちは踏みにじる、庶民のことは頭から馬鹿にしてかかる。どうして此のようなことが公然とまかり通るのか、一度徹底的な体質改善をする必要があるのではないかと思う」。そのようにおっしゃったとかで、その場にいた参謀本部第二部長は「殿下、もう勘弁してください」と頭を下げるところでその描写は終わっていました。三笠宮崇仁親王と言われてもとっさには思い出せないので調べると、大正天皇の第四皇男子にして今上天皇の叔父にあたります。

 さて、この録音はアシュケナージにとっては再録音にあたり、ショスタコーヴィチのフアンの間ではロイヤルPOを指揮した旧録音の方が人気が高いようです。そのためなのか、全集・BOX化に際してはこちらのN響との方が組み込まれています。今聴いていると第一楽章の激しいフガートのところとかなんかはちょっと大人しくて物足らないと思います。しかし反面、各楽章が最弱音で終わるという性格、反革命的、否、反虚勢的な作風は再録音の方がよく表れているようです。当時ソ連を訪れた独墺系の音楽も第4番の楽譜を見て称賛したということで、クレンペラーも演奏旅行(南米、ということはクロールオペラの最終公演を放り出した直後か?)で取り上げたいと申し出る程でした。ということは、逆にクレンペラーが第5番の楽譜を見たらなんと言っただろうと思います。

交響曲 第4番 ハ短調 作品43
第1楽章:Allegretto poco Moderato - Presto
第2楽章:Moderato con moto
第3楽章:Largo - Allegro

 ショスタコーヴィチの交響曲第4番は、1936年12月11日にレニングラードで初演される予定でしたが、ソヴィエト共産党機関紙の中で自作が批判されたことを受けてそれを撤回してしまいました。この年は昭和11年にあたり、2.26事件や阿部定事件があった年で、ソ連ではスターリン憲法が成立しました。今この曲を聴くと社会主義リアリズムの対極のようで、解説にあるようにマーラー作品に似た部分がたくさん出てきます。特に第三楽章の終わり方なんかは虚無的で疲れたような感じなのが面白く(おもしろいとか言うのは軽薄かもしれない)、予定通りに初演していれば当局のカンに触っただろうと思います。それにしても、先月に京響定期公演でこの作品を聴いて、何か作品に対するイメージが変わってきました。
27 4月

プロコフィエフ 古典交響曲 アシュケナージ、シドニーSO

160427プロコフィエフ 古典交響曲(交響曲 第1番)ニ長調 作品25

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
シドニー交響楽団

(2009年10月31日-11月25日 シドニー,オペラ・ハウス,コンサート・ホール 録音 EXTON)

 アシュケナージのピアノソロのレパートリーを思い出すとショパンの独奏曲の全集録音があったのを思い出しました。しかしショパンコンクール(1955年)は優勝ではなくて第2位だったのは意外というか分らないものだと改めて思います。レコード評には難曲を簡単な作品を演奏しているように楽に弾きこなす、という意味のことを時々見かけるので優勝というイメージが付きまといます。もっとも1962年のチャイコフスキー・コンクールでは優勝しているので、七年前のショパンコンクールが第2位でも一応辻褄はあいそうです。それにしてもチャイコフスキー・コンクール優勝から十年も経たない内に指揮者の方に移行していくのも興味深いものがあります。

160319a プロコフィエフの交響曲の中で録音、演奏頻度が高いのは第1番・古典交響曲と第5番ですが(多分そうだと)、古典交響曲のような簡潔な作品は何となく作曲当時の時代をあまり反映していないとか、擬古的だという先入観を持ちがちです。作曲者自身も「ハイドンが生きていたら書いたであろう作品」と言っていますが、実際に聴いているとちょっと印象は違います。特に第3楽章がバロック時代の楽曲で見られたガヴォットという表記とは裏腹に、少しマーラーとかR.シュトラウスの作風も連想させられる近代的、西欧的?な印象を受けて、結果的に擬古的とは言い難い(作曲形式はともかく)のではと思います(ショスタコーヴィチの最初の交響曲とはまた違う斬新さか)。

古典交響曲(交響曲第1番)ニ長調 作品25
第1楽章 Allegro ニ長調
第2楽章 Larghetto イ長調
第3楽章 Gavotta; Non troppo allegro ニ長調
第4楽章 Finale; Molto vivace ニ長調

 
アシュケナージは1970年代に既に指揮者としての活動を始め、プロコフィエフの交響曲も第1番(ロンドン交響楽団/1974年)と第5盤(アムセテルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団/1985年)、6番と7番(クリーヴランド管弦楽団/1993年)の四曲を録音していました。今回のCDは1974年の録音から三十年以上経ってから、シドニーで開催された「プロコフィエフ・フェスティバル:プロディガルロシアン(放蕩のロシア人) 」の演奏会でライヴ録音されたものです。

~アシュケナージの古典交響曲
シドニー/2009年
①4分20②3分49③1分32④4分14計14分55
LSO/1974年
①4分06②4分49③1分40④4分07計14分42

 短い作品なのでそもそも演奏時間はあまり変化はないはずですが、新旧録音のトラックタイムは上記のようになります。今回は新旧を連続して聴いていないので何とも言えませんが、新録音の方が余裕があり、優雅な印象です。 適当な言葉が見つからずありきたりな「優雅」という二文字をあてたら、ハイドンの作品にもそうした言葉が使われることもあり、やっぱり作曲者が言うことは本当なのかと思いました。モーリス=デュリュフレがグレゴリオ聖歌の有名な曲を前面に出したモテットを作曲していますが、あれらは専らグレゴリオ聖歌の旋律に依存したような作品なので、古典交響曲はそれよりもずっと独創的でありながらハイドンに通じる何かを表現できているのは凄いものです。
5 4月

チャイコフスキー交響曲第1番「冬の日の幻想」 アシュケナージ、N響

160405aチャイコフスキー 交響曲 第1番 ト短調 「冬の日の幻想」 作品13

ヴラディーミル・アシュケナージ 指揮
NHK交響楽団

(2006年3月1,2日 すみだトリフォニーホール 録音 EXTON)

160405b 京都市の平野部では桜が散り始めてきたのにチャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」 がちょっと気になりました。チャイコフスキーの交響曲は第4番以降の三つが有名で、第4、第5番はここ数年関西のオーケストラ定期公演では何度もプログラムに入っていました。交響曲第1番は第3番までの三曲の中では親しみやすくてネット上でもちらほらと名前を見かけます。第一楽章が「冬の旅の幻想」、第二楽章に「陰気な土地、霧の土地」という作曲者自らが付けたタイトルが付いています。しかしベートーベンの田園のようなタイトルに続く描写のような文章は無いので具体的にどんな光景がチャイコフスキーの頭の中にあったのだろうかと思います。

 これはアシュケナージ(Vladimir Davidovich Ashkenazy 1937年7月6日 - ) がNHK交響楽団の音楽監督時代に取り組んだシリーズの一つ、チャイコフスキーの交響曲全集の中の一枚です。これが出るという広告がレコ芸に載った時は特に関心がありませんでしたが、最近アシュケナージの指揮がちょっと気になってきて聴いたところかなり素晴らしいと思って感心していました(SACDのハイブリッドなのでマルチチャンネルで再生も可能です)。ロシアの民謡調の旋律が所々で出てくる作風ながら演歌的にならず、終始引き締まった演奏です。昨年夏にポリャンスキーとロシア国立交響楽団が来日して、チャイコフスキーの交響曲第4~6番を一回の公演で演奏するプログラムを各地で披露しましたが、その大阪公演を聴いてチャイコフスキーの交響曲に対する自分のイメージがすごく高貴で洗練されたものだという風に変わりました。今回のアシュケナージによる第1番はそうしたイメージの線にぴったりと来るものでした。

 アシュケナージは名前と写真が一致して、写真を見てすぐ名前を思い出す人物ですが、指揮にせよピアノにせよ、代表的なレパートリーだと自分が共感を持って挙げられるものがどうも見つからないと思っていました。このところショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、チャイコフスキーとソ連・ロシアの作品を聴いて段々と距離が縮まる思いです。

 アシュケナージが指揮に取り組み出したのは1970年代前半からで、チャイコフキーの交響曲もフィルハーモニア管弦楽団を指揮して第4番以降の三曲をEMIへ録音していました(1977、78、79年) 。その後、第4番はソ連帰国時のライヴ録音、第5番と第6番は2002年のフィルハーモニア管弦楽団の来日時のライヴ録音がありました。チャイコフスキー以外のロシア、北欧の作品もかなり録音しているのでこのチャイコフスキーの全曲録音が企画されたのも当然のことと言えるところです。
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raimund

昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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