raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2021年04月

30 4月

ブルックナー交響曲第3番第2稿 ティーレマン・VPO/2020年

210430ブルックナー 交響曲 第3番 ニ短調(1877年第2稿ノーヴァク版)

クリスティアーン・ティーレマン 指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(2020年11月28,29日 ウィーン、ムジークフェラインザール ライヴ録音 Sony Classical)

 朝のラジオ番組で1945年、昭和20年の4月30日にアドルフ・ヒトラーが自決し、その十日後にドイツが無条件降伏したと言っていました(あと1999年の同日にカンボジアがアセアンに加盟したとも)。沖縄本島への米軍上陸が1945年4月1日に始まったので、遅まきながら日本もそこで戦争を止めていたらと、後の惨状を知るにつけそう思われて仕方ありません。それから大阪府の幹部(健康医療部の医療監)から保健所へ「高齢者の入院優先順位を下げざるを得ない」というメールが送信されたところ、府の方針と異なる、誤送信だと騒ぎになっているというニュースもありました。どの部分が「誤」送信なのか、本音が、感染具合によっていずれはそうするという策が、バレた漏れたということなのか、文章の作成間違いなのか。

ティーレマン・VPO/2020年
①20分24②16分20③07分32④16分57 計61分13

ティーレマン・SKD/2016年
①21分25②16分35③07分25④15分57 計61分22
ズヴェーデン・オランダRSO/2011年
①22分05②16分02③07分08④14分18 計59分33
ギーレン・南西独RSO/1999年
①18分29②15分43③06分55④14分08 計55分30
アーノンクール・ACO/1994年
①19分29②13分26③07分02④14分37 計54分34
シノーポリ・SKD/1990年
①21分08②16分08③07分15④14分40 計59分11

 昨年来オーケストラ、オペラ、舞台の公演が自由にでき難くなり、新譜もなかなか出て来ないかと思っていたら昨年11月にライヴ録音されたティーレマンとウィーン・フィルのブルックナーの第3番が発売となりました。ライヴ録音との表記があるものの演奏終了後の拍手等は入っていません。ティーレマンの過去のブルックナー録音の中でも特にのびのびとした感じで、オーケストラがよく鳴っている録音です。映像ソフトのシュターツカペレ・ドレスデンとの演奏よりも大らかで、より好感がもてました。同じSONY、ウィーン・フィルとのベートーヴェン(演奏会場も同じ)よりも音が良いのではと思います。

 同じ第2稿のノヴァーク版を使用した録音は1990年のシノーポリ以降もけっこうありました。ギーレンとアーノンクールが55分程度の合計演奏時間で特に短い他は59~61分程度の間に収まっていて、ティーレマンは61分台です。ギーレンとアーノンクールはどこかで省略をしているのかと思いましたが、各楽章で少しずつ短くなっているのでそうではないようです。前回のウィーン・フィルとの第8番と比べるとあっさりとしていると思います。

 初期稿でも1888/89年稿ノヴァーク版でもなく、ティーレマンより年長の世代が使っていた第2稿ノヴァーク版を使用するのは自身のこだわりなのか、解説文を訳せれば何か言及しているかもしれません。ウィーン・フィルとのベートーヴェンも使用楽譜は新しい
ベーレンライター版ではなかったと指摘されていました。
29 4月

マイスタージンガー ヴァン・ダム、ショルティ、CSO/1995年

210427aワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

サー・ゲオルグ・ショルティ 指揮
シカゴ交響楽団
シカゴ交響合唱団(合唱指揮デュエイン・ヴォルフ)

ザックス:ジョゼ・ヴァン・ダム
ポーグナー:ルネ・パーペ
コートナー:アルベルト・ドーメン
フォーゲルゲザング:ロベルト・ザッカ
ナハティガル:ゲイリー・マーティン
ツォルン:ジョン・ハートン・マーレー
アイスリンガー:リチャード・バイアン
モーザー:スティーヴン・サープ
オルテル:ケヴィン・デス
シュワルツ:ステファン・モーシェク
フォルツ:ケリー・アンダーソン
ワルター:ベン・ヘップナー
エヴァ:カリタ・マッティラ
マグダレーネ:イリス・フェアミリオン
ベックメッサー:アラン・オーピー
ダヴィッド:ヘルベルト・リッペルト
夜警:ケリー・アンダーソン

(1995年9月20-27日 シカゴ,オーケストラ・ホール ライヴ録音 DECCA)

210427 昨日の朝、ラジオで「今はいってきたニュースです」と言ったので何事か?、ビルマ情勢か飛翔体がまた頭上を飛び越えるのか?と思ったら、紀州のドン・ファンの未亡人が逮捕されたという情報でした。たしか50歳くらい歳下の嫁があった資産家が急性麻薬中毒で亡くなり、他殺が疑われていた事件ですが、すっかり忘れていました。その年齢差はブルックナーが18歳の娘に求婚した時以上で、ザックスとエヴァ・ポーグナーよりも大きそうか、もっとも金細工職人の娘エヴァは父の財産を受け継いで嫁になるという条件だったので、ザックスの遺産があったとしてもそれに目がくらむことはないでしょうが。とにかく冤罪でなければと、それだけは思いました。

210427b この「ニュルンベルクのマイスタージンガー」はシカゴで行われた演奏会形式の公演時に録音したもので、ショルティの同作品二度目の全曲録音になります。個人的にウィーン・フィルとの旧盤がかなり気に入っていたのでわざわざ再録音するのは意外でした。ショルティはオペラの全曲盤も再録音している作品が結構あり、ドン・ジョヴァンニ、コジ・ファン・トゥッテ、魔笛、仮面舞踏会、ファルスタッフ等で、セッション録音を二度行ったものの場合はショルティ自身で旧録音に不満があるからと読んだことがありました。それならマイスタージンガーの旧盤も気に入らないところがあったかもしれず、ますます意外です。

 さすがに1990年代のデジタル録音だけあって明瞭な音質ですが何故か古い戦時中のバイロイトとかの音の方に惹かれます。懐古とか空想、思い入れ etcの人間的な心理の影響ですが、聴いていると陰が無い、終始日向の世界のような印象です。サヴァリッシュとミュンヘン・オペラもそっちの方に傾いていました。それは歌手の歌い方、例えば第一幕第三場の点呼からポーグナーの口上辺り、第三幕第二場のヴァルターとザックスの夢解きのやりとり、何となく直線的で味気ない気がしてしまいます。そうした部分は旧録音やカラヤンのドレスデン盤の方が面白味があったと思います。と言ってもドイツ語圏のネイティヴな人ならその時代でも全然ダメだと思ったかもしれません。

 ショルティとシカゴSOのオーケストラは速目の熱気あふれる演奏で、聴いていると渦に巻き込まれるような迫力です。第三幕のコーダ部分も変な熱気(鍵十字的、ウリナラマンセー的)ではなく、よくも悪くも健全な感じで盛り上がって終わります。客席の歓声や拍手も入っていないので余計にそんな感じです。これを聴くとティーレマンの新盤は凝ったことをしているのかと思えてきます。
27 4月

マーラー交響曲第1番 インバル、チェコPO/2011年

210424マーラー 交響曲 第1番 ニ長調「巨人」

エリアフ・インバル  指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

(2011年11月3,4日 プラハ,ルドルフィヌム,ドヴォルザーク・ホール 録音 Octavia Exton)

 このマーラー第1番は演奏中の指揮者の声、掛け声とも気合ともつかないものや鼻歌のような音声がしばしばきこえてきます。終楽章は音量が上がるのに、それに埋もれずに聞き取れるくらいに入っています。あえてそういう音声が入ることを狙ったのか、マイクの配置の効果で混入したままで製品化したのか、かなり気合が入った演奏という点が実感されます。そのかわりにセッション&ライヴ録音という表記なのに演奏後の拍手などは全く入っていません。客席に人が居ない状況で演奏している分もあるはずで、それでもこういう気合の声が漏れているのかと感心します。

 そういうことはともかくとして、ホールに響く感じも感じ取れてマーラーの第1番といえばやっぱるこういう感じの音だと、先日のミネソタ管弦楽団を思い出しながらしみじみと思っていました。しかし全体的に端正で例えば終楽章のコーダ部分はあまり強調し過ぎないでそこそこ淡々と進んで終わっています。そのかわりにティンパニの連打がコーダ部分以外でも鮮明にきこえてこの作品の面白さを再認識しました。インバルのマーラーはスコアが透けて聴こえるという評がありましたが、それでもマーラーらしい盛り上がりどころはかなり徹底的にやるとか、昔FM放送できいたおぼえがあります。

インバル・チェコPO/2011年
①14分58②07分59③09分21④18分38 計50分56
マーツァル・チェコPO/2008年
①16分27②08分29③10分43④18分56 計54分35
ノイマン・チェコPO/1992年
①12分58②08分26③10分25④18分22 計50分11

 それからマーラーの第1番の第2楽章は前楽章から切れ目なく続けて演奏するという指示があるのか、この録音ではそうなっていました(空白がほぼない)。その点の影響もあって第2楽章の時間が短めで、同じくチェコ・フィルの演奏でもマーツァルよりも3分半くらい短めの合計演奏時間です。こうなるとフランクフルト放送交響楽団との演奏が気になってきます。同時期にマーラーの声楽付き交響曲は東京都交響楽団と録音していますが、それらを聴くと旧全集のフランクフルトRSOよりもホールの空間に響く感じが強くなっています。

 インバルはマーツァルの辞任から約2年後、2009年から2012年までチェコ・フィルの首席を務め、その間にマーラーの第1、5、7番と声楽無しの交響曲を録音しています。これを聴いていると少なくとも第6、9番は続けて録音してほしかったところです。チェコ・フィルはアシュケナージ以後、どうもチェコ出身者とそれ以外からと交互に首席をまかせているようです。
26 4月

ブルックナー交響曲第5番 マズア、LGO/1976年

210426bブルックナー 交響曲 第5番 変ロ長調 WAB105(1878年稿ハース版)

クルト・マズア 指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

(1976年11月29-12月3日 ライプツィヒ,パウル・ゲルハルト教会 録音 RCA)

210426 緊急事態宣言も三度目になると耐性というか慣れが出てくるかとも思う反面、特に休業要請の対象になる業種の方はダメージが深く、大きくて、なじみの店のオーナーは心が折れると言っていました。先日事務所(個人事業主)に置いてあったミニコンポの機器を使おうとすると音が出たりでなかったり、片側からしか音が出ないという症状だったので休眠中の古い機器を持ち込んで常時BGM的にラジオやらを聴けるようにしました。元々昼間にラジオをかけながらというのは苦手でしたが、昨年来どうも調子が悪い、気分が悪すぎる気がして鎮静剤的にラジオかCDでもかけてみようと思いました。ソニーの既に生産していないSTR-DH100という安いアンプは案外出力があってチューナーまで付いて使いやすそうです(使ってた頃を思い出した)。ただ、音量の加減が難しくて効果のほどはなんともいえません。

 クルト・マズアとライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と言えば二度のベートーヴェン交響曲全集がそこそこ記憶に残っています。ブルックナーも全曲録音(第00、0番は除く)していて、ベートーヴェンの一回目が終わったくらいに連続録音していました。G.ヴァントとケルン放送交響楽団、ヨッフムのドレスデンあたりと時期的に重なったからかマズアのブルックナーはあまり取り上げられることはなかったようで、CDの方もRCAの廉価箱くらいしか知りませんでした。録音時期が近いドイツ系のレコードの演奏時間を並べるとカラヤンより少し短いで、これらの内では74分台のヴァントのが目立っています。

マズア・LGO/1976年
①21分10②17分10③14分18④25分52 計78分30
ヴァント・ケルン放送SO/1974年 
①20分10②15分49③14分13④24分08 計74分20
カラヤン・BPO/1976年
①20分42②21分34③13分44④24分48 計80分48
ヨッフム・SKD/1980年
①21分26②19分16③13分04④23分42 計77分30

 
改めてマズアの第5番を聴いてみると妙に長い、時間が経過しても曲が進行していない妙な感覚に少々戸惑いました。第2楽章も切々と迫ってくるような情感があまりなくて、これも珍しいタイプかと思いました。しかしこういう感覚でこそブルックナーの音楽だと言えなくないかもしれず、ブルックナーの作品が嫌いな人の感想からはこういう感覚がチラホラ見られそうです。終楽章のコーダ部分もティンパニの連打は規則的で明解ながら、全体的にあまり高揚せずに整然と終わり、それは良いとしても第5番らしい(と個人的におもい描いているイメージ)堅固な大構築物が組みあがったような充実はあまり余韻として残りません。

 十五年年前のコンヴィチュニーを思い出すとその時とだいぶ違っています。コンヴィチュニー、ノイマンに続いて首席に就いたマズア、ブルックナーについてどういう作品観、芸術家像をもっていたことか興味深く思われます。習作から数えて七作目になる交響曲の集大成的な第5番はマズアの録音は無色無臭な静態保存的に思えました。
23 4月

ステンカラージンの処刑 コンドラシン、モスクワPO/1965年

210423aショスタコーヴィチ ステンカ・ラージンの処刑 Op. 119

キリル・コンドラシン 指揮
モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
ソヴィエト放送合唱団

ヴィターリ・グロマツキー(Bs)

(1966年 モスクワ 録音 Melodiya/EMI)

210423b  「ばあさん その水飲んでみろ」、漫画「北斗の拳」のワンシーン、拳王の部下の大きなおっさんが婆さんに変装してケンシロウ一行を毒殺しようとするも、無精ひげで一目で見破られて冒頭のセリフとなるわけです。メルトダウン事故原発冷却水の海洋放出の件、自分の周辺で雑談の折にちょいちょいふれてみると関心が低く、仕方ない的な声が多いのは意外でした。五山の送り火の焚き木に岩手県で津波をかぶった松を使う際にあれほど過敏な反応だったのに、直接自身の身にふりかからなければ問題無しということなのか。しかし違うケースながらイギリスの核燃料再処理施設で起こった流出事故なんかは、日本では大きく報道されていなかったよう(自分も全然記憶になり)ですが、人体に影響は無いとされながらも今ネットで検索すると「海洋汚染」という言葉が冠されて出てきます。そっちはトリチウムだけではないので別の話ですが、流すつもりでない物質を流出させてしまったというのが恐ろしくて、どこででも起こり得ることでしょう。

 ショスタコーヴィチの「ステンカ・ラージンの処刑」(エフトゥシェンコの詩に基づくバス独唱と混声合唱のための「ステンカラージンの処刑」)は、1964年に作曲されて同年12月28日にモスクワで初演されました。コンドラシン指揮のモスクワ・フィル、バス独唱はグロマツキーでした。これは初演から二年に満たない間に録音されたレコードです。今回聴いたのは英国プレス(メロディアの音源、レコードをEMI系から販売していた時期があったらしい)。レニングラード交響曲とのカップリング、二枚組でステンカラージンの処刑は二枚目の最後、通算で四面目全部におさまっています。

 交響曲第13番「バビ・ヤール」の約2年後に初演されて編制も似ていて、作品の背後、根底には同じ志と情熱?が流れていいる作品でしょう。実際に聴いているとバビ・ヤールよりもさらに陰にこもって、先祖代々受け継がれた怨嗟がまだ燃えているような迫力です。火山の噴火で流れ出た溶岩流が時間の経過で冷えて固まったように見えて、よく見ると表面がひび割れて赤く熱い溶岩が見えたような、決して心地よい印象ではありません。マーラー作品の陰鬱さとも違い、物理的な攻撃を受けるような独特の印象です。ショスタコーヴィチのバビヤール、交響曲第4番、ステンカ・ラージンの処刑は聴いていると特に似た感覚になります。CDも何種か出ていてHMVのサイトにあるP.ヤルヴィのCDの紹介のところに作品解説が出ています。

 「ステンカ・ラージンの処刑」の歌詞はバビヤールと同じくエフゲニー・エフトゥシェンコの詩集からとられています。詩集の方は1964年に完成したブラーツク・ダム、発電所をテーマにした内容だそうで、その中でから政ロシアの17世紀後半に反乱を起こしたコサックの領袖が公開処刑される場面を描いた部分が使われています。今回はCDではなくLPで聴いたのでヴェネチア・レーベルから出ているコンドラシンとモスクワ・フィルのショスタコーヴィチ全集の音とは違い、もっと艶のある西側の録音に近い音質ですが演奏の迫力、妙は十分に伝わります。それと同時にヴェネチアのCDの音質はどうなんだろうということと、メロディアのCD、LPとはちょっと違うのかとも思いました。
22 4月

マスネ「ナヴァラの娘」 ポップ、アルメイダ、LSO/1975年

210422aマスネ 歌劇「ナヴァラの娘」

アントニオ・デ・アルメイダ 指揮
ロンドン交響楽団
アンブロジアン・オペラ・シンガーズ(合唱指揮ジョン・マッカーシー)

アニタ:ルチア・ポップ(S)
アラキル:アラン・ヴァンツォ(T)
ガリード:ビンセンテ・サルディネーロ(Br)
レミージョ(アラキルの父):ジェラール・スゼー(Br)
ガリード:クロード・メローニ(Bs)
ラモン:ミシェル・セネシャル(T)
ブスタメンテ:クラウデ・メローニ(Br)、他

(1975年3月 ロンドン,EMIスタジオ 録音 蘭CBS)

210422b  渡鬼のことで、嫁と姑のドラマを思い出していると何故か記憶に残っているのが「外科医 有森冴子」という連続ドラマのある回でした。二組の老婦人が入院、相部屋になり、それぞれの嫁が病室にやって来るというもので、入院患者の一人は山手、インテリ的、もう一人は下町風という設定で、息子の嫁もそれぞれの暮らしぶりと似たタイプでした。嫁姑の関係は良くなく、姑は嫁が「何をしても気に入らん」的で病室に差し入れるカステラ、煎餅がそれぞれ気に入らないときました。ある日、相部屋の片方が不在のタイミングにその不在の婦人の嫁がやってきました。山手風婦人と元ヤン嫁は気が合いそうにないはずが、その嫁が持ってきた煎餅を美味しいと言って褒め、自分のところの嫁は気が利かない、カステラは入れ歯の裏に付くとか言い出します。この演出なので逆の組み合わせ、下町婦人と山手の嫁とのやりとりも描かれ、下町のおばさんがカステラを美味い、こういう所にいたら普段と違うものを食べたくなるものだとかと褒め上げ、返す刀で自家の嫁をけなしています。各嫁が自分の姑に持って来た時はけなされていたのに、同じ年齢でも相手が姑ではない場合には褒められるという矛盾が面白いというネタでした。原発の冷却廃液を海に放出する件、中韓が同じような海洋放出をする場合は日本でも結構攻撃する人が出るんじゃないかと想像していました。

210422 ジュール・マスネのオペラ「ナヴァラの娘」は2018年1月に藤原歌劇団によって日本初演が行われました。だからその公演のサイトがネットで見ることができ、この全然知らなかったオペラの解説が読めてありがたいことです。ナヴァラ出身のアニタがヒロインで、その姑ではなくしゅうとに当たる(結婚できなかったので厳密には違う)レミージョが息子アラキルとの結婚に反対、妨害するという話でした。このレコードを購入したのは作品がどうのとかではなく、ルチア・ポップが出ているという一点だけが目当てでした。ヒロインのアニタはフィナーレの方で恋人のアラキルが死んだことを知って発狂して、狂ったような笑いかたをします。ポップはそれを堂々と演じ、歌い切っていました。こういう表現は他の作品でもなかったので珍しいパターンです。ポップは歌うだけでなく例えばR.シュトラウスのインテルメッツォのような作品での、歌いながら演技するという表現にも長けています。この録音より少し前のコジ・ファン・トゥッテ全曲盤(クレンペラー、ニューPO、EMI)で歌ったデスピーナもなかなか面白い味わいでした。

 このオペラ、「ナヴァラの娘」は
マスカーニらに代表されるヴェリズモオペラに分類される内容で、1894年6月20日にロンドンのコヴェントガーデンで初演されました。二幕で構成されてLPレコード一枚に収まっています。19世紀後半の内乱状態のスペイン、バスク地方を舞台にした物語で、ナヴァラ生まれの娘アニタが立憲君主派の兵士アラキルとの結婚を反対されて多額の持参金を条件とされたので敵方、懸賞金がかけられた絶対君主派の将軍を暗殺しようとします。見事成功して戻った時にはアラキルが瀕死の状態であり、やがて亡くなり、アニタが半狂乱となるという結末です。音楽的にはアリア部分と対話部分にはっきり分かれるのではなく、その境目が曖昧で楽劇のような進行をします。途中で軍隊のラッパを表すフレーズが出て来てマーラーの交響曲を思い出させます。

 主なキャストの中ではアラキル役、テノールのアラン・ヴァンツォ(Alain Vanzo 1928年4月2日,モンテカルロ – 1月2002年27日)も個性的な、癖がある歌唱とも言える歌手でフランス・オペラ等で有名だったようです。ジェラール・スゼーがアラキルの父、二人の結婚に反対するレミージョを歌っています。指揮のアントニオ・デ・アルメイダ(Antonio de Almeida 1928年1月20日 - 1997年2月18日)はどこかで名前を見た覚えがある程度で、オペラ以外に代表的なレコードがあったかどうか分かりません。このレコードと同じ1975年にRCAもロンドン交響楽団を起用して全曲盤を制作していました。
21 4月

マーラー交響曲第1番 ヴァンスカ、ミネソタO/2018年

210421aマーラー 交響曲 第1番 ニ長調「巨人」

オスモ・ヴァンスカ 指揮
ミネソタ管弦楽団

(2018年3月 ミネアポリス,オーケストラ・ホール 録音 BIS)

210421b 先日の午前中、衆議院選挙の前倒しが取りざたされている(?、永田町だけがザワついてるだけと思ってた)せいか支持率調査のようなアンケート電話がかかってきました。あなたは無党派層か、選挙区内の現職議員の名前と顔が一致するか等6つくらいの質問が続きました。3つ目で面倒くさくなって途中で切ろうかと思いつつ最後まで回答しました。質問の内容はその地区が属する選挙区の現役議員の顔ぶれによって違うようですが、どうも与党がクローズアップされて特にK産党のかげが薄いのが明らかでした。中選挙区時代の旧京都六区は革新系が強い地域だったので、その後M主党が大敗した選挙でも接戦になり、選挙区で敗れてもしっかり比例で復活しているような地域です。実際選挙、五輪よりもとりあえず感染抑え込みが課題な最近です。

 さてマーラーの交響曲第1番、マーラー第9番と同様にこれも自分の観賞用・体内暦の中では春が似合う作品になっていました。先月から断片的に聴いていたものの、どうも印象が弱くてコメントを付けるきっかけも思いつかずにそのままになっていました。高音質という評判があったヴァンスカとミネソタ管弦楽団のマーラーですが、この第1番はどうも地味であまり盛り上がらない、ポイントになる色々な部分強調しない演奏に思えて、時々別の作品と言わないまでも異稿か何かで演奏しているのかと思うくらいでした。

ヴァンスカ・ミネソタO/2018年
①16分06②07分25③11分23④20分57 計55分51
I.フィッシャー/2011年
①16分30②08分00③10分44④20分14 計55分28
フェルツ/2012年
①16分00②08分50③10分56④19分36 計55分22
シュテンツ・ケルン/2011年
①16分04②08分50③09分51④19分47 計52分52
マーツァル・チェコPO/2008年
①16分27②08分29③10分43④18分56 計54分35
ホーネック・ピッツバーグSO/2008年
①17分14②08分28③11分16④21分01 計57分59

 ここ十数年のマーラー第1番のCDの演奏時間、トラックタイムをいくつか並べるとマルクス・シュテンツが少し短目なくらいであとは大差ないようです。第1楽章は普通の演奏時間なのにえらくスローテンポに感じられて、もっとはじける様に大音量になったはずだと思いながら、通常より長い演奏時間のような気がしました。全楽章ともこの感覚が続き、終楽章のコーダ部分ももっとくどく大きな音で終わっていたはずだと思ったなのに、すっきりと仕しまわれるような趣です。もっと音量を上げて聴けばよいところですが夜になるとコロナ禍のもと、妙に静まりかえっているのでつい遠慮します。

 ヴァンスカと言えばラハティ交響楽団とのシベリウス、同じくミネソタ管とのシベリウスが有名でした。どちらかと言えば前者の方が好きでしたが、ミネソタとはベートーヴェンに続いてマーラー・チクルスも進行中です。このオーケストラは運営側と楽団員の契約問題でもめてヴァンスカも一度音楽監督(2003-2013年)を辞任した後、2014年から復帰しているのでかなり長期の音楽監督ということになり、評判も良いはずです。このマーラーといい、何曲か聴いたベートーヴェンといい、何かどこか違う正真正銘の真水のような不思議な響きが気になります。
19 4月

クレンペラー・イン・トリノ/1956年 未完成交響曲のLP

210420シューベルト 交響曲 第7(8)番 ロ短調 D.759「未完成」

オットー=クレンペラー 指揮
トリノRAI管弦楽団(トリノ放送交響楽団)

(1956年12月17日 RAIオーディトリアム ライヴ録音 Fonit Cetra)

210420b 先日、橋田壽賀子氏の訃報が報道されました。代表作の渡鬼は自分の周辺でもファンが多く、日本の社会を裏側から描いた云々という外国人の評を見ながら凄かったんだなと思っていました。ごくたまに渡鬼をみたときは、どうもありそうで現実にはないような話に思えてあまり面白くないと思っていました。嫁姑は生理的な溝というか、卵を食べると湿疹が出る、牛乳で下痢するとい種類に似た問題のように思えて、例えばマザー・テレサ(コルカタの聖テレサ)級の人、幼きイエズスの聖テレジア級の人でもそれぞれが嫁と姑の立場に立つと円満にはいかないのじゃないかと思うくらいです(どちらも未婚だから例えは良くない)。

 オットー=クレンペラー(
Otto Klemperer 1885年5月14日 - 1973年7月6日)の誕生日には早いですが、このブログで例年扱う誕生月期用にモノラル専用のレコード・カートリッジをセットしたので、そのテストを兼ねてクレンペラー・イン・トリノから未完成交響曲を聴きました。DENONのDL-102はMCカートリッジながらMM用のフォノ端子に直に接続できる高出力です。ただヘッドシェルに付属・接続済の線の内二本は使わないので紛らわしくなります(抜けばいいけど別のカートリッジに使う際に無くすと面倒)。クレンペラーがトリノへ客演した際の音源は過去記事でも扱ったように、ベートーヴェンの交響曲第1番、ハイドンの交響曲第101番「時計」、シューベルトの未完成交響曲、ワーグナーのニュルンベルクのマイスタージンガー「第一幕への前奏曲」、R.シュトラウス交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、ストラヴィンスキー「プルチネッラ」組曲、ショスタコーヴィチ 交響曲 第9番が入っています。

 
未完成交響曲はEMI盤の他にもニュー・フィルハーモニア管とのライヴ音源(定期公演か)やウィーン・フィルへの客演がいずれもテスタメント社からCD化されています。合計演奏時間の差として第1楽章で4分程度違っている演奏があって、これは反復の有無の違いかと思われます。1967、1968年と最晩年(仮にneue klemperichkeit期とする)にあってその第1楽章で11分台と15分台の演奏があります。今回のトリノでの演奏はEMIのセッション録音と近い演奏時間です。どの演奏も基本的に「夢のようにはかなく」的なこの作品に対するイメージ(期待されてきた美点)とは一線を画するような内容になっています。実は個人的に未完成交響曲はクレンペラーが一番好きで、例えばベートーヴェンの第九についてカラヤンやフルトヴェングラーが良いと言われて黙っているとしてもこの曲だけは引けない、くらいに思っていました。

 未完成交響曲は1823年に作曲され、初演されたのはシューベルトの没後40年以上経った1865年でした。さらに
ブライトコップフ&ヘルテル社がシューベルト作品全集として出版したのが1884年でした。その出版に際してはブラームスが校訂に係り、19世紀後半のロマン派的な趣味が加えられていると、インマゼールが自身のピリオド楽器オケを指揮したシューベルト全集録音の際に指摘していました。

~クレンペラーの未完成交響曲
トリノ/1956年
①12分58②10分31 計23分29
PO/1963年・EMI
①13分28②11分27 計24分55
ニューPO/1967年
①15分13②12分35 計27分48
ニュ-PO/1968年
①11分46②12分29 計24分15
VPO/1968年
①15分33②12分41 計28分14

 1950年代、60年代に通常のオーケストラを指揮したクレンペラーの演奏が古楽器やら手稿譜といった現代的な演奏を志向したわけではないにせよ、19世紀後半のロマン派の上塗りのようなものの下にある作品の姿に幾らかは達していたか、そうすることを目指していたような気がします。これはシューベルト、未完成交響曲に限ったことではなくクレンペラーの根本的な姿勢かもしれません。それはともかくとして、通常のレコードカートリッジとモノラル専用のカートリッジの両方で再生してみたところ、どうもわざわざカートリッジを変えるほどのことはないような気もしました。あえて違いに注意を向けるとモノラル専用の方が野太いというか力強い響きに聴こえます(どちらのカートリッジもハイエンドなものじゃないので)。価格的にも自分の耳の繊細さもここら辺でやめておいた方が良さそうです。
18 4月

「ローエングリン」 メルヒオール、ブッシュ、メト/1947年・LP

210418cワーグナー 歌劇「ローエングリン」

フリッツ・ブッシュ 指揮
メトロポリタン歌劇場管弦楽団
メトロポリタン歌劇場合唱団

ローエングリン:ラウリッツ・メルヒオール
エルザ:ヘレン・トローベル
オルトルート:マーガレット・ハーショウ
テルラムント:オジー・ホーキンス
国王ハインリッヒ:デッジョ・エルンスター
軍令使:マック・ハレル 他

(1947年 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 録音 FONIT CETRA)

   昨日の朝、日の出前後に目が覚めたらすぐ近くで鶯の鳴き声がきこえました。試し鳴きでもしているかのように「ホー」の部分と「ホケキョ」の部分に間があいて、最後は「ホケキョキョ」と我々人間が覚えているフレーズとは違う異稿が聴こえてすぐに鳴きやみました。先週は天ケ瀬ダム下流の方を通った際に車を止めて外へ出たら(立ち・ヨンでも、野・・のためでもない)、山の方から鶯の声が盛大にきこえていて今年は早いかなと思ったところでした。

210418a これは FONIT CETRA から出ていたオペラ・ライヴのシリーズの一つです。第二次大戦後間もないニューヨークのメトロポリタン歌劇場でのローエングリンの公演です。何度かCD化されたようですがたまたまチェトラのLPが見つかったので、ラウリッツ・メルヒオール(Lauritz Melchior 1890年3月20日,コペンハーゲン - 1973年3月19日,サンタ・モニカ)のローエングリンということもあって購入していました。今回モノラル用カートリッジを付けてそこそこうまく調整できたので一気に聴きました。LP四枚組ながら所々カットがあるようです。この年代なので音質は仕方ないとして、それでも独唱は鮮明に聴こえています。

210418b 主要キャストではやっぱりメルヒオールが際立っています。後年のローエングリン役でコロ、ホフマン、クラウス・フロリアン・フォークトあたりの声質を聴いていても圧倒的に魅力的です。ジークフリートやトリスタンが似合う硬く強い声、これぞヘルデンテノールという部分だけでなく甘い美声という面も感じ取れるのが魅力です。ドナルド・キーン氏の著作で紹介されていたメルヒオール、実はドイツではなくデンマーク出身で、1926年からメトロポリタン歌劇場でワーグナー歌手として活躍しました。

 それ以外のキャストではエルザのヘレン・トローベルは原作のエルザより年上でタフな印象を与えるものの立派な歌唱です。女声では彼女よりもオルトルートのマーガレット・ハーショウの方が目立っていました。男声ではテルラムントのオジー・ホーキンスの声がちょっと優男風な声質なのが面白くて、おかげで舞台を観ていなくても歌唱で人物を聴き分けられそうです。オーケストラの方は割と速目で進んで行きますが、もう少し音質が良ければと思いました。

 フリッツ・ブッシュ(Fritz Busch 1890年3月13日 - 1951年9月14日)という名前は20世紀前半のドイツ語圏の楽団の話題に名前が出てくる他、グライドボーン音楽祭でのモーツァルトのオペラがCD化されて有名でした。19世紀後半生まれの巨匠らと年齢はどれくらい違うのか覚えてなかったところ、クレンペラーよりも5年、クナより2年若いくらいでした。ただ、LPレコードが盛んになる前に急逝したので残された録音が限られているのが惜しいところです。ケルン音楽院で学んだ後、リガ、アーヘン、シュトゥットガルトの劇場の後、1922年にドレスデンの音楽監督を務めました。1933年以降はナチを嫌って国外へ出たという点はエーリヒ・クライバーと同様でなかなかの信念の人のようです。
17 4月

ヴェルディのレクイエム ヒコックス、ロンドンSO/1995年

210417aヴェルディ レクイエム

リチャード・ヒコックス指揮
ロンドン交響楽団
ロンドン交響合唱団

マイケル・クライダー(S)
マルケラ・ハツィアーノ(Ms)
ガブリエル・シャーデ (T)
ロバート・ロイド(Bs)

(1995年7月10-12,14-15日 オールセインツ教会 録音 CANDOS)

210319 コンベンツアル聖フランシスコ修道会のブラザーで、ながらく聖コルベ館の館長を務め、月刊「聖母の騎士」の編集に携わった小崎登明(1928年-2021年4月)さんの訃報が流れました。ちょうど昨日にパウロ書店の前を通り過ぎて、ブラザー小崎の引退後なんとなく聖母の騎士誌が変わったと思いつつ、最新号は来週買おうと思ったところでした。ブログ「小崎登明の93歳日記」は4月15日が最後の記事になっています(「もう、チカラが無い」の一行が目にとまります)。2006年だったか本河内教会とコルベ館を訪れたことがあり、その時はブラザーは不在の上に暑かったのでルルドに寄らずに帰るという無精な訪問だったこともあって、もう一度行きたいと思っている間に突如引退されてだいぶ経っています。

210319b 教会関係以外でも長崎の原爆と平和祈願、キリシタン関連や聖コルベ神父に関係して著作も多く、広く知られている方で訃報記事と共に業績、生涯にふれられています。コルベ館の館長の最後の方で居付いた猫のライモンド(ほかのブラザーが名を付けて接待していたようで)との係りが紹介されていたことがあり、最初はあまりお好きでなかったようなのが徐々に愛着がわいていく様子だったのが思い出されます。やがて猫のライモンドがプイと居なくなってしまいました。

210319c さて、このレクイエムは先月のコリン・デイヴィス指揮のロンドンSOのライヴ盤と関係があり、同演奏会はリチャード・ヒコックス(Richard Hickox CBE 1948年3月5日 - 2008年11月23日)
没後一年に追悼的に演奏されたものでした(ヒコックスの思い出に捧げると)。今回はそのヒコックスが生前に録音して好評だったヴェルディのレクイエムであり、独奏者の選択からしてあまりイタリア・オペラ的ではない(コテコテな伊オペラ風ではない)内容になっています。イギリスでは発売当初から評判になったそうですが日本では国内盤仕様があったかどうか、このCDの存在も長らく知りませんでした。

210319a シャンドス・レーベルはシャンドス・サウンドと呼ばれる音質でも有名で、ギブソン指揮のスコティッシュ・ナショナルOのシベリウスやヤルヴィのショスタコーヴィチ、ドヴォルザークは個人的に音質も含めて好きでした。ただ、オーケストラ録音の音質は好き嫌いが結構分かれていたようです。今回のヴェルディは広い空間に響き渡るような感じに録られ、その割にティンパニが鮮明に聴こえてきます。独唱もコーラスも大きく、克明に聴こえてきて、こういう大編成の作品の割にうるさい音ではないと思いました。その割にどこかしらオーケストラので弦が引っ込んでいるような、それか声楽が前面に出過ぎているのか何かバランスが違うようにも思いました。

 独唱者は皆名前を知らない歌手で、メゾソプラノだけイタリア系らしき名前です。独唱部分は声の威力に圧倒されるという風ではないけれど、妙にコーラスと相性が良いような落ち着いた歌唱なので終始レクイエムらしさを保っています。ヒコックスは自らオーケストラと合唱団を設立して活動を開始し、ロンドン交響合唱団の指揮者にも就任しています。声楽作品の大作ではエルガーのオラトリオ三曲が思い当たります。
15 4月

マーラー交響曲第9番 インバル、フランクフルトRSO/1986年

210414マーラー 交響曲 第9番 ニ長調

エリアフ・インバル 指揮
フランクフルト放送交響楽団

(1986年9月24-27日 フランクフルト,アルテオーパ 録音 DENON)

 科学特別捜査隊、科特隊は空想特撮ドラマ「ウルトラマン」の中で毎回登場する舞台、異星人や怪現象に対処する組織ですが、後に続くシリーズの組織と違って独特の風土だったような気がします。「ウルトラセブン」とか「帰って来たウルトラマン」では防衛軍の一組織という位置付けなので長官やら参謀と称する軍人がそれらしいいでたちでちょくちょく出て来て命令します(特に後者、「帰ってきた~」は子供心に感じ悪かった)。ただ、セブンの竹中参謀は(リアル世界の同姓の時々政府に首をつっこんでる人物と違って)なんか爽やかでした。それに対して科学特捜隊は純然たる軍隊の部隊という風でもなく、今から思えば研究機関のような柔軟さも感じられました。もっとも、作品の中で命令違反で火器を濫用したアラシ隊員が解決後にキャップから科学特捜隊の心得を延々と暗唱させられるシーンがあり、この辺は警察か軍隊の空気です。

インバル・フランクフルトRSO/1986年
①28分16②16分32③12分32④23分39 計80分59
バーンスタイン・RCO/1985年
①29分52②17分26③11分47④29分34 計88分39 
アバド・VPO・1987年
①27分19②15分15③12分28④24分32 計79分34
小澤・ボストン/1987年
①27分23②15分58③13分13④25分40 計82分14
ラトル・VPO/1993年
①27分47②15分29③12分50④24分48 計80分54

 「これくらいの時季にマーラー第9番が聴きたくなる」シリーズ第二弾、発売当時から話題になっていたインバル、フランクフルト放送交響楽団の全集からの第9番です。久しぶりに聴いてみるとこれぞマーラーの響き、としみじみと実感できる内容です。バーンスタインの1985年盤と比べると8分近く短くてラトルと似たような合計時間です。バーンスタインは1960年代に既に全集録音を手掛けていただけにマーラーらしい演奏の筆頭くらいの評判だったかもしれません。だんだん80年代が遠くなって記憶が薄まってきますが、今インバルとフランクフルトRSOのマーラーを聴いても妙に生々しくて、昔の演奏だなという感じはしません。

 今回の第9番もマイク二本で収録(B&K社製録音用マイクロホン 4006二本を基本として)という独自の制作方針で録られていて、そのことも影響しているはずですがリマスターも良好なようで、細部まで克明に響いています。マーラーらしいというのはどういうところなのか、緩徐楽章の弦でも例えばブラームスとかブルックナーとも違う、何かしら引っかかりが残るような、わずかに円満さを欠いた感触が挙げられると思いますが、この第9番でもそういうものが前面に出ている気がします。第2、3楽章は特別に激しいものではなくてもそこここに不安定さが出てきて、矛盾するようですがそこが心地よい気がします。終楽章も透明感が出ていながら妙に生気があって、告別云々の気分で塗り尽くされていないようです。

 付属の解説冊子には「インバル、マーラーを語る」という文章の訳が載っています。その中で「互いに対抗し合う音楽」、「両極端に分裂する要素」という言葉で説明していて、それがマーラーらしいと感じるポイントの大きな理由じゃないかと妙に納得しました。あと楽章ごとにトラックされているのはどのCDも同じですが、各トラック内に細かいインデックスが区分されているのも懐かしい情報で、自分が初めて買ったCDプレーヤーニハインデックスを検索する機能が付いていたのを思い出しました。
12 4月

マーラー交響曲第9番 ラトル、VPO/1993年

210412bマーラー 交響曲 第9番ニ短調

サイモン・ラトル 指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(1993年12月4,5日 ウィーン,ムジークフェライン ライヴ録音 EMI)
 
210412a ウルトラマン、仮面ライダーは平成に入ってからも制作、テレビ放映されていて、いったい何作品あるのか分かりません。自分がリアルタイムで
TV放映時に視聴したのは「帰って来たウルトラマン」から「ウルトラマン・レオ」までで、「ウルトラマン80」はチラッと観た程度で名前と顔がかろうじて分かるくらいです。ウルトラマン、ウルトラセブンは初回TV放送時は生まれておらず再放送とLDやらでさんざん観ました。そんな円谷・ウルトラシリーズの放送が一区切りつく頃に東芝オーレックス・コンサートと銘打って(毎年海外から招いてた)フィルハーモニア管弦楽団の来日公演がありました。京都会館第一ホールはネヴィル・マリナー指揮で、ドヴォルザークの第8番がメインの回に聴きに行きました。その日本公演時にはマリナーの他に若きラトルも随行していたらしく、当時天才的な若手として有名だったそうで、通な方々はむしろラトルが振る回を目当てにしていたそうでした(ラ・ヴォーチェ京都でそのようにきいた)。

 さて、そのラトルがウィーン・フィルを初めて指揮したのが定期公演であり、プログラムのメインがマーラーの交響曲第9番で大成功だったそうです。これはその機会にライヴ録音したもので、ラトルのマーラー全集として廉価BOX化されたセットに入っています。その後今世紀に入ってからラトルは同曲をベルリン・フィルと再録音していて、今ではラトルのマーラー第9番といえばそちらの方を指すようです。そちらは聴いたことがなく、今時分の旬としてマーラー第9番を聴こうとしてまだブログで扱っていないものを探してこれが見つかった次第です。桜が散ってしまった頃がこの曲の旬というのは全く根拠は無くて、自分の体内時計(近年これが狂いがち)、好みからくるものでした。

ラトル・VPO/1993年
①27分47②15分29③12分50④24分48 計80分54

アバド・VPO・1987年
①27分19②15分15③12分28④24分32 計79分34
バーンスタイン・RCO/1985年
①29分52②17分26③11分47④29分34 計88分39 
小澤・ボストン/1987年
①27分23②15分58③13分13④25分40 計82分14
ノイマン・チェコPO/1995年
①26分12②15分01③13分04④23分42 計77分59
ブーレーズ・CSO・1995年
①29分17②16分03③12分38④21分25 計79分23

 ラトル、ウィーン・フィルのマーラー第9番は当時の客席の反応は大変良くて終演後にラトルは何度もステージに出てきたという話でした。第1楽章はなるほどそんな大成功の話も納得できる入念で隅々まで光があたった素晴らしいもので、艶のある美しい内容だと思いました。しかしそれ以降は意外にあっさりというのか普通にというのか、淡々と進んで行って歪みや何らかの欠落なりそれを糊塗するような誇張のようなものは無い、健全さが前面に出ていました。第9番はそもそもがそういう作風なのかもしれませんが、中間の二つの楽章は何となく矛盾に引き裂かれるような断層を思わせる空気があり、そこのところも魅力だと思っていました。それでも終楽章はさすがウィーン・フィルなのか、消えていくような最後の部分まで魅力的でした。

 ところでマーラーの第9番とドイツ語圏のオーケストラの演奏といえばバルビローリ指揮のベルリン・フィルが名盤として有名でした。それた録音された1960年代のドイツデハマーラー作品の人気はまだまだだったようで、1967年早々にクレンペラーが第9番を録音しようとしたら既にバルビローリが録音済だから売れないとして反対されていました。それからクレンペラーがウィーン・フィルに客演してブルックナーの第5番とマーラーの第9番を指揮したのが1968年でしたが、その際のウィーン・フィルの演奏ぶりはブルックナーに対してマーラーの方はあまり良くなかったとクレンペラーは振り返り、マーラー(宮廷劇場の監督だった)をウィーンから追い出したことを引き合いに出してマーラーの需要度が十分でないようなことを言っていました。このライヴ盤には拍手等の客席の反応は入っていませんが、マーラーブームと言われてだいぶ経ち、1990年代にもなれば事情は違っているということでしょう。ただし、こういうラトルのマーラーが受ける(こういうスタイルだけということはないとしても)という点は独特なのかとも思いました。
9 4月

クレンペラー、POのベートーヴェン交響曲第5番/1955年LP

210409aベートーヴェン 交響曲 第5番 ハ短調 Op.67「運命」

オットー=クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

(1955年10月6,7日,12月17日 ロンドン,キングスウェイ・ホール 録音 英columbia 33C1051)

 コロナ禍のなかでミュージカル「レ・ミゼラブル」の上演の広告があったような覚えがあり、それが延期になったかどうかもすっかり忘れていました。映画もありましたがその後半の場面でストリートチルドレンの一人が政府軍に撃たれて死ぬところがあったはずです。第一共和政、ナポレオンの帝政、王政復古の後の七月王政が成立した二年目、1732年の六月暴動を舞台にしているシーンということですが、それから290年近く経った現在でも軍の銃撃で国民の少年が殺されるという事態が起こっています。ビルマの竪琴のミヤンマーがクーデター以来、大変なことになっています。国軍が自国民に躊躇なく?発砲して殺害しているのに誰も止めることができない現状と、国軍の自信はどこから来るのだろうかという疑問に他人事でない恐怖を覚えます。

210409 ふた昔くらい前ならクラシック音楽のレコードで一番有名、又は最初に購入する、たいしてレコードを買わない人でも持っている、そういうものはベートーヴェンの交響曲第5番とシューベルトの未完成交響曲が入ったものか、ヴィヴァルディの「四季」くらいだったでしょうか。自分が物心ついた昭和40年代に自宅にあったのは百科事典のように解説書にLPレコードを組み合わせたレコードブックセットの何点かでした。全部そろっていないのは親戚が買った(セールスマンの口上にのせられて)ものの再生する機器が無くて、あちこちに進呈したものだったからでした。交響曲編の1としてその運命・未完成がシャルル・ミュンシュ指揮、ボストン交響楽団で入っていました。

 今回のLPは直径が短いタイプなのでベートーヴェンの運命一曲だけがAB面にわたって収まっています。クレンペラーがEMIへ録音したものの一つ、運命のEMI初回録音です。第3番、第5番、第7番の三曲は1955年に録音された後に1959年、1960年にステレオ録音されました(第7番は1968年にEMI三度目のセッション録音されている)。なお1955年に録音された三曲はモノラル録音ですが、第7番だけがステレオで録音されたものがあり、CDとして初めて発売されました(ステレオテイクはLPでは未発売)。

210409b 演奏自体は過去記事(CDを聴いて)で扱っている通りですが、LPレコードで聴いてみると引き締まったというか、最初にCD化されたものではややぼやけて肥大化した響きという印象だったものから解像度があがって克明になった感じがします。これはクレンペラーのベートーヴェン・EMI盤をレコードで聴いた場合、特に1950年代に共通する感覚です。19世紀生まれのドイツ圏の指揮者の中でフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュとはだいぶ違う端正な造形というのが改めて実感できます。今回はMCカートリッジ「DENONのDL-103」を昇圧トランス無しでアンプのフォノ入力端子(MCカートリッジ対応)に接続して聴きました。DL-103は出力電圧がそこそこ高いので昇圧トランス無しで再生できるということですが、トランスを経由してMMカートリッジ用で再生も可のようです(アンプ、昇圧トランスにもよる)。カートリッジにはモノラル専用タイプもあるので試してみたいところです。
8 4月

ブルックナー交響曲第8番 クナ、BPO/1951年

210408ブルックナー 交響曲 第8番ハ短調(改訂版)

ハンス・クナッパーツブッシュ 指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(1951年1月8日 ベルリン,ティタニア・パラスト*イエス・キリスト教会管轄のゲマインデハウス? 放送用録音 キング/tahra)

 京都市伏見区の藤森神社に藤の花がいっぱい咲くのかどうか気になって神社や観光案内のHPをのぞいてみると、どうも別に藤の花の名所じゃないようで(オイッ)別の神社と勘違いしていたようでした。紫陽花の方が有名のようですが個人的にアジサイはあまり好きじゃないのでその情報も全然覚えていませんでした。そこそこ近所にあるといつでも行けるからいいかげんな覚え方のままで歳をとってしまいます。もうシーズンはほぼ終わりましたが実は桜もあまり関心は無くて、ここ十五年くらいでできれば咲いているところを見たいと思う花は山吹の花でした。街の中から外れてちょっと山の方で咲いている黄色い花はなんとなく風情があって好きでした(といってもわざわざ見に行く気もしない)。

 花が咲こうが散ろうがブルックナー、先月のフルトヴェングラーに続いてクナッパーツブッシュとベルリン・フィルの第8番改訂稿。作曲者以外の人間の手が入っている、最初に出版されたという改訂稿は第9番が特に否定的な意見が多いようで、このクナの録音集に解説では「無惨な」とまで書かれてありました。第5番は自分の感想としては聴き慣れた原典稿とはかなり違う世界じゃないかというものでしたが、改めてこのクナの放送用音源で聴いているとそこまでのマイナスの印象はありません(クレンペラーのEMI盤のカットの方が影響大か)。しかし意外にすっきりした印象でフルトヴェングラーよりもおとなしい演奏です。音質もあまり良くなくて、弦の人数を減らしているような響きなのが気になりました。クナの第8番はミュンヘン・フィルとのセッション録音があり、それの記憶と比べるとあまり彼らしくないような気もします。

クナッパーツブッシュ・BPO/1951年1月
①14分53②13分53③26分55④22分31 計78分42

フルトヴェングラー・VPO/1954年
①16分19②14分27③27分05④21分54 計79分45
クナッパーツブッシュ・バイエルン/1955年
①12分44②13分16③22分14④21分27 計69分41
クナッパーツブッシュ・VPO/1961年10月
①15分38②15分06③26分54④25分40 計83分18
クナッパーツブッシュ・MPO/1963年セッション
①15分56②15分59③27分40④26分02 計85分30
クナッパーツブッシュ・MPO/1963年1.24
①14分45②14分45③25分38④25分22 計80分30

 クナの第8番は5種類の録音が残っているそうで演奏時間に幅があります。使用している楽譜はいずれも改訂稿ですが、カット等多少の差があるかもしれません。改訂稿は作曲者の弟子がその当時に、作品が広く受け入れられるようにと良かれと思って行ったものなので、5番で特に思ったのが野生の品種を鑑賞・飼育ように扱い易く、大人しくしたような性格じゃないかということでしたが、逆にこのようにした方が見栄えがするということなのかとも思いました(履歴書とか見合いの写真)。

 クナッパーツブッシュはこれらの演奏時には原典稿のハース版は選択できたのに依然として改訂稿を使っていました。ハース版がナチ時代に出たからとかそんなことが理由でもないでしょうがやけに念が入っています。ところで元号が昭和の頃、1984年前後だったか神戸市のクラシック輸入レコード専門店はクナのTシャツかトレーナーを売り出したという広告をレコ芸で見た覚えがあります。クレンペラーのTシャツなら着られなくても買うのにと思ったなので、なんらかの企画はあったはずです。そのシャツにはドイツ語で「聴衆が居眠りするくらいに遅く」と書いてあるというのも薄っすらと覚えていますが、そっちの方は別の記事と混同しているかもしれません。とりあえず今回の第8番はそんなに遅い、得意なものではありませんでした。 
5 4月

パルジファル レヴァイン、バイロイト/1985年

210325ワーグナー 楽劇「パルジファル」

ジェイムズ・レヴァイン 指揮
バイロイト祝祭管弦楽団
バイロイト祝祭合唱団(合唱指揮ノルベルト・バラチュ)

グルネマンツ:ハンス・ゾーティン
アンフォルタス:サイモン・エステス
パルジファル:ペーター・ホフマン
クンドリー:ヴァルトラウト・マイアー
ティトゥレル:マッティ・サルミネン
クリングゾル:フランツ・マツーラ
第1の聖杯騎士:ミヒャエル・バプスト
第2の聖杯騎士:マティアス・ヘレ
第1の小姓:ルートヒルト・エンゲルト・エリー
第2の小姓:ザビーネ・フエス
第3の小姓:ヘルムート・ハンプフ
第4の小姓:ペーター・マウス、他

(1985年7,8月 バイロイト祝祭劇場 録音 /PHILIPS)

 緊急事態宣言を解除して間もないからか、それに準じる措置が大阪、兵庫他でとられるのにあわせて京都府南部で飲食店らの営業時間の短縮要請が再度実施されます。元々花見時期は解除するつもりだったんだとか色々言われていますが、自分のところでクラスターを出したら大ごとだという危機感と出口が見えない焦りやら色々あって、結局従うしかないと諦めムード(効果の程が分からないとか)です。先日レヴァインの訃報が流れてこれでまたひとつの時代が終わったような寂しい気分になりました。メトの新演出の指環で二作品だけ指揮してジークフリート、神々の黄昏はルイージにゆずったのは大分前だったのでスキャンダル発覚が無くても復帰のめはなかったのかもしれないと思い返しています。

210405 バイロイト音楽祭でレヴァインがパルジファルを指揮したのは1982年が最初でした(多分)。その直前の1981年は1975年(ハンス・ツェンダーと二人で)から七年連続で
ホルスト・シュタインでした。ユダヤ系、アメリカの指揮者がバイロイトでパルジファルを振るというのもブーレーズが指揮した後ではそんなに衝撃的でもなかったかもしれませんが、バレンボイムはパルジファル(という反ユダヤ的な作品)なんかを指揮する人間の気がしれないと言っていたとか、それでも結局バレンボイムも1987年にパルジファルを指揮しています。レヴァインの方はバイロイト以外でニューヨークのメトロポリタン歌劇場での上演の映像ソフト、CDがありました(両者が同一の内容かは未確認、CDは聴いたことがないので)。

 第一幕はゆったりと荘厳に開始していながら、前奏曲が終わって声楽が入ると何故か硬質で金属的な印象に少々違和感を覚えます。これはグルネマンツのハンス・ゾーティンの声質の影響が大きいようです。これは第三幕になっても変わらず、主要なキャストの中で目立っています。パルジファルのホフマン、クンドリのマイアー、クリンクゾールのマツーラの中では特にマイアーが素晴らしくて、1992年のレヴァイン/メト、バレンボイム/ベルリンでもこの役を歌っているように、抜きんでているようです。アンフォルタス王のエステスはどうかというと何とも言えないのが正直な感想です。映像無しで音楽、歌唱のみでアンフォルタスに感銘を受ける、共感するという程にはワグネリアンでないのでよく分かりません。アンフォルタスの苦しみは誘惑に負けて聖槍を奪われたこと、その挫折と背徳感、傷を負ってそこからの出血が止まらない痛み、というところですが、敗北することになった根源的なものがあり、そこはどうにも仕様が無いという無力感もあるはずです。

  バイロイトでレヴァインがパルジファルを指揮したのは1982年から1985年まで、1988年から1993年までと通算で十回に及んでいるので相当に好評だったということでしょう(ちなみにホルスト・シュタインは八回、クナは十三回)。パルジファルは「聖金曜日の音楽」あたりや聖餐の場面で神秘的で荘厳な音楽になるものの、物語自体はかなり鬱陶しい内容です。正味のところ苦痛と悔恨がテーマというかそれらに覆われたような作品です。去年の三密不可/ステイ・ホームのさなかに遠藤周作の「沈黙」に基づく映画を観ていて、今この時期にパルジファルを聴くと内容は違うとしても「苦しみ」という点で何か通じるものがあると思いました。それでクリンクゾル、クンドリーはそれぞれ滅び、死ぬことになり、最後にアンフォルタスも聖槍は戻り傷が塞がり苦しみは癒えています。しかし根源的に救いとなるものがあったのかどうか、そもそも作品中でそういことが表現されているのか微妙です。公演の映像を視聴すると救済らしきものがあるか、何らかの希望を持てるような清涼感を覚えるこがあります。
1 4月

ヴェルディのレクイエムLP セラフィン、ローマ歌劇場/1959年

210401bヴェルディ レクイエム

トゥリオ・セラフィン 指揮
ローマ歌劇場管弦楽団
ローマ歌劇場合唱団

シェイキー・ヴァルテニシアン(S)
フィオレンツァ・コッソット(Ms)
エウジェニオ・フェルナンディ(T)
ボリス・クリストフ(Bs)

(1959年8月17-29日,10月4日 ローマ歌劇場 録音 EMI)

 今週に入って異様に暖かくなって満開の桜がはやくも散りだしているので朝の出勤ルートを変えて、蹴上の浄水場から平安神宮前を通ってみました。浄水場の周辺、並木状の桜の大半はまだ散らずに残っていましたが、それでも所によってはほとんど散ってしまった木も見られました。仁和寺の御室桜も今週中には満開という予報を見たので早すぎるペースです。今日から四月に入り、ラジオで昭和13年4月1日は国家総動員法が公布された、昭和39年4月1日は観光目的の海外旅行が解禁されたと言っていました。それから今日は聖木曜日で、去年より感染者数は増えているのか単に検査数の違いなのか、とにかく今年は教会の閉鎖も無くて人数制限付きで典礼が行われます。

210401a セラフィン指揮、ローマ歌劇場管弦楽団他のこのヴェルディのレクイエムはセラフィンの再録音ということになり、旧録音は1939年に同じくローマ歌劇場で録音されたSP盤でした。そちらも復刻CD化されて、日本語帯に「レクイエムがオペラ化した」と銘打たれ、ピンツアやジーリといった往年の大歌手が参加しているので旧盤の方が有名だったかもしれません。今回の方はステレオ録音の割に英テスタメントのCD以外では見たことが無くて妙に露出度が低いようです。LPはモノラル版ですが生々しい鮮烈な音なので、この時期に製作発売されたLPはモノラルもかなり魅力的です。男声はジーリ、ピンツァに比べるとテノールのフェルナンディが一瞬誰?と思いますがオペラの全曲盤にはよく名前を連ねています。ソプラノのヴァルテニシアンはトルコ(アルメニア系)出身くらいしか情報が出てきません。

 改めて聴いているとオペラ化というような劇的に過ぎたり誇大感といった趣は無くて、深刻さと重々しさで迫ってくるので逆にオペラがレクイエム(死者ミサ)化したとでも言いたくなるものでした。それにレクイエムらしい切り詰められたような感覚も好印象です。何故これが名盤としてCDの再発売が繰り返されなかったのかちょっと不思議に思いますが、あるいはこうしたモノクロ的な深刻さが禍したかもしれません。それから同じくイタリアの楽団中心のものなら、1954年のデ・サバタとミラノ・スカラ座他や1963年のオケは英国でドイツ系の独奏者中心ながらジュリーニ指揮のEMI盤があったのも影響しているかもしれません。

 1980年前後の「名曲名盤500(レコ芸編)」ではアバドとミラノ・スカラ座、カラヤンとBPOといった当時の新しい録音が上位に名を連ねていて古いものは後退していたようです。かえってCDの年代になって復刻された古いものに注目されているようです(新譜が減った、売れないということもあるか)。このレクイエムは文豪マンゾーニを追悼する目的で作曲された経緯があり、社会的行事という性格も帯びてきそうで、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスに通じる典礼の枠組みを超える広がりを感じさせます。一方でヴェルディ自身は次のように書簡で書き記しているそうです。「このミサ曲(レクイエム=死者のためのミサ)をオペラと同じように歌ってはいけません。オペラでは効果のあるかも知れない音声装飾はここでは私の趣味ではないのです。
」その言葉を重視するなら独唱歌手の人選も変わってきそうです。
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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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