raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2019年08月

28 8月

クレンペラー、バイエルンRSO ハイドンの時計Sym/1956年10月

190827ハイドン 交響曲 第101番 ニ長調「時計」Hob.1:101

オットー=クレンペラー 指揮
バイエルン放送交響楽団

(1956年10月18.19日 ミュンヘン,ヘルクレスザール ライヴ録音 BR Klassik)

 今年に入って「オットー・クレンペラー 最晩年の芸術と魂の解放 ―1967〜69年の音楽活動の検証を通じて (中島仁/鳥影社/2019年6月27日)」という日本人著者による単行本が出版されました。クレンペラーの実妹が亡くなり、ローマカトリック教会から離脱してユダヤ教へ戻った1967年からの二年間に着目した画期的な内容です。このブログの過去記事で冗談交じりに “ Neue Klemperichkeit
 ” と “ Neue Sachlichkeit(新側物主義) ” をもじって称したことがあった、マーラーの第7番とか極端に遅いテンポの演奏が現れる時期について、その始まりの時期、深層・真相を追求したもののようで、まだ少ししか読んでいませんが興味深いものです。ここ十年くらいで日本人著者による過去の巨匠についての単行本が出版されていますが、ついにクレンペラー本が出ました。

 さて、今回のハイドン時計交響曲は過去に別レーベルから発売されたCDで取り上げていましたが、最近同じくバイエルン放送交響楽団とのブラームス第4番とカップリングされて新リマスターで発売されました。勝手に定めたブログのオフシーズン(一年中後ろ向きな内容なので常にオフシーズンのようなもの)/再演的なネタにぴったりなので、早速聴いた上でこれを扱うことにしました。クレンペラーがバイエルン放送交響楽団を指揮したのは1956年の4月が初めてであり、オイゲン・ヨッフムの招きによるものだったそうです。ちなみにこの年の11月には夫人のヨハンナを亡くしているのでクレンペラーの節目にあたる年でした。

クレンペラー・バイエルン/1956年10月
①8分20②8分53③7分25④4分23 計29分01
クレンペラー・トリノ/1956年12月
①8分00②8分53③7分20④4分30 計28分43
クレンペラー・PO/1960年EMI
①7分29②8分37③8分11④4分41 計29分58

 改めて聴いてみると推進力に充ちて、大いに覇気が感じられます。少なくとも遅い演奏ではありません。特に第3楽章ではクレンペラーの唸り・鼻歌が所々きこえてくるので大した気合の入りようです。ただ、音質は全体的にこもったような、ややぼやけた響きなので、聴いた印象はそれにかなり影響されると思います。同じ1956年のライヴ録音であるトリノRSOよりは合計演奏時間は少し長いだけで、各楽章とも演奏時間が似ています。大火傷と後遺症の療養後にセッション録音されたEMI盤とも約1分の差でした。

 クレンペラーはハイドンの交響曲の中でも第101番「時計」が特に好きなようで、これら以外にもベルリンRSO(1956年2月12日)、エディンバラ音楽祭でのフィルハーモニアO(1958年8月24日)がありました。どれもEMI盤より以前の演奏になります。ところでクレンペラーがポストを得た歌劇場はプラハ、ハンブルク、バルメン、シュトラスブルク、ケルン、ヴィスバーデン、ベルリン、ブダペストといった都市なので、ミュンヘンとは直接に縁がなかったことになります。
24 8月

ハイドンの天地創造 カラヤン、ベルリンPO/1966年

190824ハイドン オラトリオ「天地創造」Hob.XXI-2 ~3人の独唱者,合唱,管弦楽のためのオラトリオ

ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン楽友協会合唱団

ガブリエル,エヴァ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ (S)
ウリエル:フリッツ・ヴンダーリヒ(T),ヴェルナー・クレン(T) 
アダム:D.フィッシャー・ディースカウ(Br) 
ラファエル:ワルター・ベリー(Bs) 
No.34のソロ:クリスタ・ルートヴィヒ(A)

チェロ:オットマール・ボロウィツキー
チェンバロ:ヨセフ・ネボイス

(1966年2月,1968年11月,1969年4月 ベルリン,イエス・キリスト教会 録音 DG)

 八月の15日前後、夜になったらコオロギの声がきこえだしました。それに京アニの現場に近いJR六地蔵駅あたりでヒグラシが鳴くのもきこえた日があり、こんな平坦な市街地でヒグラシの声を聞けるとは全く驚きました。滋賀や京都では地蔵盆のシーズンなのでそれが終われば夏も終わりなるのに、おっさんの世代になると全く名残惜しくなくてせいせいするくらいです。四季の歌じゃないけれどあえて選べば、冬か晩秋が好きで心身ともに快調になり、夏の暑さは年々こたえるようになります(しかし痩せない)。

 先日アーノンクールがウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの結成50年記念公演で演奏した「天地創造」のCDを聴いていて、直後にそれとは対照的なスタイルのカラヤン、ベルリン・フィルのセッション録音DG盤を聴いてみました。過去記事(ブログを分割する前、OCNブログ時代)で扱ったことがあり、中学生の頃にジャケットの写真を覚えて店頭で探したのに折り悪く見つからなかったものでした。レコ芸編の「名曲名盤500(2017年6月1日発売)」では、第1位が11P獲得したそのアーノンクール盤、カラヤンとベルリンPOは第2位で10Pを獲得していました。第2位は1995年録音のガーディナーと分け合っていました。ちなみに第4位はブリュッヘンとP.マクリーシュが分けあい、第6位にカラヤンの再録音が入っていました。ということで、古楽器アンサンブルが並ぶ中に通常のオーケストラによる演奏としてはカラヤンが何とか食い込んでいるという選ばれ方でした。

 久しぶりに聴く今回は第三部を最初に聴いてみましたが、全く格調高くて、「光あれ」の箇所を含む第一部にひけをとらない立派さにうたれました。フィッシャー・ディースカウのアダムが威厳もあって、創世記の物語でこの後に追放されることを忘れるような立派な歌唱です。通奏低音はフォルテ・ピアノではなくチェンバロとチェロ(*
最初に書いた時、ピアノと書いたのは書き間違い、たまたまLPで1938年録音の「フィガロの結婚」を聴いていてそこでセッコに使われている楽器がほとんどピアノのような音色だったので無意識にピアノと書いてしまった)を使い、レティタティーヴォの中には通奏低音だけに独唱がのっている箇所もあり、大編成と思われるコーラスとの対比でバランスを保って肥大化した印象にならないのも見事だと思いました。第一部の冒頭、混沌をあらわす序奏が妙に明朗で、既に楽園を予告しているような美しい響きでした。録音途中で急逝するヴンダーリヒは、もう少しリリックな、軽妙なタイプの歌手がキャストされることが多いウリエルを、少しタフな姿を思い描かせる力強い歌唱が印象的でした。

 これを聴いていると、世代によっては印象が違うとしてもいまだに立派な天地創造だと思いました。あらためて直近に聴いたアーノンクールの演奏をちょっと思い返してみると、コーラスがメインの楽曲ではまるでミサ曲のような得も言われない印象だったのに対して、今回のカラヤンの旧録音の方は全然そんな風では無くて、舞台作品の音楽といった感じでした。元々典礼音楽ではないのだからそれで当然ということですが、アーノンクールの方の魅力も再認識しました。
21 8月

フランクの交響曲 アンセルメ、スイス・ロマンドO/1961年

190821フランク 交響曲ニ短調

エルネスト・アンセルメ 指揮
スイス・ロマンド管弦楽団

(1961年3月25,26日 ジュネーヴ,ヴィクトリア・ホール 録音 DECCA)

 今週に入ってお昼ごろに河原町蛸薬師辺りを歩いていると、気のせいか盆休み明けのせいなのか人が少なくなったようでした。某ラーメン、某牛カツ屋をはじめ何時見てもそこそこの行列だったのが、とりあえず並ばずに入れそうなくらいでした(タピオカでさえ)。これは韓国の不買・旅行自粛傾向の影響なのかどうなのか、関連の商売をしている方々が切実でしょう。それとは関係なく、ここ何年かで佐賀県の日本酒が外国人観光客に人気だそうで、京都市内でも飲める銘柄がありました。鍋島というのは近年の自分の好みに合うと思っていたら、巫女姿のようなアニメ・デザインの女子キャラクターを前面に出したラベルの一升瓶、「おまち(雄町)売りの少女」という酒がありました。ラベル・デザインのイタさとは大違いで味はちゃんとした日本酒なので感心して飲んでいました(どうも自分の好みとしては「Dっ祭」よりずっと良いと)。

 今年はクレンペラー・命日週間が終わったらブログのオフシーズンと勝手に決めて、更新するとしても原則過去記事で扱ったCDを再度扱うくらいにしようと思っていました。それでこのアンセルメのフランクもここ二、三年の夏に取り上げ済だと思って取り出して聴いていたところ、どうも未だブログには登場させていなかったようでした。日本酒の「Dっ祭」と同じでどんな感じだったかあまり記憶に残ってなかったので勘違いしていたようでした。これはSACDハイブリッド仕様の国内盤で、タワーレコードの企画で復刻されたものでした(そのことも忘れていた)。

 SACD層と通常のCD層の両方を聴いてみましたが何となく後者、CD層の方が明晰、繊細な音に感じました。プレーヤーの表記を読み間違えているのじゃないと思いますが、クレンペラーのウィーン芸術週間のベートヴェンもSACDシングルレイヤー仕様よりもCDの方がそんな風な印象だったので案外そんな特性なのかと思いました。去年の夏に聴いて感銘深かったアンセルメの幻想交響曲に比べるとどうも地味で、CDの解説にもカップリングのサンサーンスの交響曲第3番の録音に比べると話題になることが少ないとコメントされていました。

アンセルメ・スイス/1961年
①18分18②10分46③10分32 計39分36
マルティノン・フランス国立/1968年
①18分10②11分57③10分56 計41分03
クレンペラー・ニューPO/1966年
①17分49②10分28③10分59 計39分16
モントゥー・CSO/1961年
①18分02②10分37③10分21 計39分00
パレー・デトロイトSO/1959年
①16分07②08分52③09分19 計34分18

 
聴いているとどうも響きが薄目で弦の人数を減らしているのかと思うくらいで、遅目で静水、それ以上の止水といった印象がちらつきます。演奏時間としてはマルティノンよりは短く、クレンペラー、モントゥー辺りと比べて少し長目といったところですが、それ以上の差を感じます。全然疾走、前進しないような不思議な感覚で、それでも優美で整い、決して濁って鈍重なところは無いと思いました。これまで聴いていた古い録音によるイメージとは違った方向から作品を示されたような感覚でした。なお、2017年6月1日出版のレコ芸編「名曲名盤500」でもこの録音はリストに挙がっていません。
19 8月

「冬の旅」第15曲までLP グラインドル、クルスト/1957年

190819シューベルト 歌曲集「冬の旅」Op.89, D.911

ヨーゼフ・グラインドル :バス

ヘルタ・クルスト:ピアノ

(1957年 録音 DG)

 毎年八月にはNHKを中心に日中戦争、第二次大戦に関する番組が放送されて、特にここ何年かは内外に色々反応がありました。今年、チャンネルを変えずに視聴し続けた番組は「隠された“ 戦争協力 ” 朝鮮戦争と日本人」というBS1スペシャルでした。占領下の在日米軍基地に勤務していた日本国民が朝鮮戦争に通訳や調理師として従軍して、結果的に(当初から計算ずく?)戦闘に参加し、戦死した人が一定の人数居たという内容で、当時の政府は追認していたけれど、実際には戦死したにも関わらず海難、事故死等として処理され、遺骨も戻らないという人が何人もいました。占領統治下の日本人が朝鮮戦争の国連軍に兵士として参加することは本来あってはならない事態であり、講和を急ぐ政府としては騒ぎを大きくしないためにそのようにせざるを得なかったということですが、そういう扱いである以上「実は戦死した海難事故死者」らは靖国神社に合祀されてはいないのだなと思って見ていました(番組ではふれていない)。戦前から引き続き合祀をすすめた厚生省なんかもさすがに手をだせなかったということでしょうが、日本の独立のために犠牲になったという点では維新志士級だったはずです。ある戦死者は韓国の激戦地で身元不明の多数の遺骨といっしょに慰霊・埋葬されている状態でした。

 さて、真夏でも春でも時々どうしても聴きたくなるシューベルトの「冬の旅」、これをバス歌手のヨーゼフ・グラインドル(Josef Greindl 1912年12月23日 - 1993年4月16日)が歌った録音がありました。「
ドイツ・グラモフォン、モノラル録音名演集1948-1957」というセット物のほか、単独でもCD化されたことがあったそうですが現物を見たことはありませんでした。今回聴けたのはLPレコードの一枚目のみ、第1曲から第15曲までが入ったものです。元々はLP二枚・三面にわたって収録されていたそうですが、残りの曲が入ったLPが入手できるのを待ちたいと思います。グラインドルの「冬の旅」は、「 光文社知恵の森文庫  スジガネ入りのリスナーが選ぶ クラシック名盤この一枚 」という本の中で同曲の愛聴盤としてジュール・バスタンと共に挙げられていました。隠れた名録音というのかとにかく時機に合えば強く人を惹きつける演奏だったのだろうと思います。

 実際に聴いてみると、バスという一番低い声域の男声が歌っている割に深刻過ぎず、重苦しくない、どこかしら軽やかな足取りさえ連想させる歌唱は魅力的です。これならテノールのピーター・ピアーズの方が救いようのない絶望に閉じ込められたような世界なので、高低の声域だけでは図りがたいものがあると思いました。上記の光文社知恵の森文庫の本でリストアップされたジュール・バスタンと似た演奏です。といっても連作詩の世界に対するアンチと言うほどの違和感は無くて、詩の中の青年の心情に添った情感を保っていると思います。ただ、第5曲目「菩提樹」が終わった後の楽曲はだんだんシリアスになってきました。さまよい歩くというより、確固たる目的のもと行軍しているような足取りに思え、この点はバスという声域の効果かもしれません。悲嘆にくれて自分を憐れむという風情は全然感じられない点は、この録音が日本であまり有名にならなかった理由の一つかもしれないとも思いました。「冬の旅」については当時の社会的、身分・階層に係る事柄も含めて色々な解釈、理論が展開されているので、何が作品にふさわしいのかも単純には言えないところです。

 ところでグラインドルと言えば1950年代からバイロイトの常連でしたが、今回の冬の旅を聴いていると何となくグルネマンツ(パルジファル)の声が頭の中に浮かんできました。グラインドルのグルネマンツは1954年、1956年、1960年と三度あり、いずれもクナッパーツブッシュの指揮でした。その後、1961年から1964年まえのクナのパルジファルはホッターがグルネマンツを歌いました。聖杯城とアンフォルタスの窮状を淡々と受け入れつつ現実に相対するグルネマンツと「冬の旅」の青年はあまり接点がなさそうなのに、実際に聴いていると非常に魅力的な「冬の旅」です。後半、特に第20曲以降がどうなるのか大いに気になります。
18 8月

ベートーヴェンの第九 ヴァント、ケルンGO/1955年

190818aベートーヴェン 交響曲 第9番ニ短調 Op.125

ギュンター・ヴァント 指揮 
ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
ケルン(歌劇場?)合唱団

テレサ・シュティッヒ=ランダル(S)
ローレ・フィッシャー(A)
フェルディナント・コッホ(T)
ルドルフ・ヴァツケ(B)

(1955年10月10日 ケルン 録音 Testament)

 盆の期間が終わりになりますが、そもそもカレンダー通り平日は普通に出勤しており、あまり休暇らしくなくて寝転んで野球中継を聴くくらいでした。それでもエアコンがきく部屋にオーディオの2ch機器だけを移動させることは出来て、やっと通常通り聴く環境になりました。元々置いてあった部屋は長細くて南の窓がだだっ広くて夜になっても暑くて、じっと座っているだけで大粒の汗がしたたり落ちました(昔は我慢できたのに)。それで配線や設置に間違いが無いか確認すべく、このヴァント指揮、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の第九のCDを改めて再生しました。酷暑のここ何週間かの間、発作的に第九を聴きたくなってこのCDも車中で聴いていました。

190818b ブルックナー指揮者として有名になったG.ヴァント(Günter Wand 1912年1月7日 - 2002年2月14日)
のベートーヴェンと言えば、1980年代半ば頃の北ドイツ放送交響楽団とのライヴ録音がありました。今回のものはそれよりもっと古く、ケルン放送交響楽団とのブルックナー全集に取り掛かるよりもさらに前の1950年代でした。ちょうどモントルーの音楽祭でクレンペラーがケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団に客演した1956年の1年前で、この時期にヴァントはベートーヴェンの他にもモーツァルトやシューベルトの作品を何曲も録音していました。TESTAMENTから一連の録音が出た際は、後年のヴァントのベートーヴェン演奏があまりにストイックというか、色々なものをそぎ落としたような響きだったので、若い頃はもっとそんな傾向が強いだろうと予想しました。

ヴァント・ケルン/1955年
①16分33②11分19③17分20④23分53 計69分05
ヴァント・NDRSO/1986年
①15分27②11分08③15分58④23分35 計66分08
カラヤン・PO/1955年
①15分08②10分08③16分04④24分10 計65分30
クレンペラー・PO/1957年EMI
①17分00②15分37③14分57④24分23 計71分57
クレンペラー・RCO/1956年ライブ
①16分24②14分48③13分56④22分48 計67分56

 実際に聴いていると意外に大らかで、レコードやCDで聴くことが出来る1950年代の第九から極端に違った個性という風ではないように聴こえます。音質自体が残響が大きくて、ややこもったように聴こえるので余計にヴァントの後年の演奏と違って聴こえます。同じ年のカラヤン、フィルハーモニアOのセッション録音の合計演奏時間と比べると3分半くらいも長くなっています。また、クレンペラーのライヴ盤の一つと比べても長い演奏時間になっています。

 ただ、聴いた印象は色々な部分が直線的で、深刻さと重厚さをあまり感じさせないものでした。その点ではヴァントより古い世代の指揮者と比べると、1970年代以降のベートーヴェン演奏、例えばショルティとシカゴSOの全集とか、に通じるようにも思えます。ヴァント本人はトスカニーニとクレンペラーのベートーヴェンを理想としていたそうなので、ケルン・ギュルツェニヒOの音楽監督時代(1946-1974年)にはクレンペラーの演奏も聴いていたはずです。クレンペラーの影響がヴァントの指揮からどれくらい実感できるかと思っていましたが、この第九を聴いていると微妙なところでした。
15 8月

エルガー「使徒たち」 ヒコックス、LSO/1990年

190419bエルガー オラトリオ「使徒たち」 Op.49

リチャード・ヒコックス 指揮
ロンドン交響楽団
ロンドン・シンフォニー・コーラス

祝福された乙女,天使ガブリエル:アリソン・ハーガン(S)
マグダラのマリア:アルフレーダ・ホジソン(Cont)
聖ヨハネ:デイヴィッド・レンドール(T)
聖ペトロ:ブリン・ターフェル(Br)
ユダ:ロバート・ロイド(Bs)
イエズス:スティーヴン・ロバーツ(Bs)

(1990年3月26-29日 ロンドン,セント・ジュード・オン・ザ・ヒル教会 録音 Chandos)

190419 八月十五日、ローマカトリック教会の典礼暦では大祝日「聖母被昇天」、それから聖フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した日ともされています。そして、元号が変わっても昭和20年に大日本帝国がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した日、その記念日でした。そしてその前日、十四日は「聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者」でした。とかく見て見ぬふりをして、直接自分の尻に火が付かない限り動かず、自分だけ逃げるのが精いっぱいな我々にはまぶしい聖コルベですが、昨日はそんなことを思う余裕もないくらい腰痛におそわれて歩行も困難で困りました。朝起きた時には何でもなかったのに、12時過ぎに出かけようとして歩き出すと腰と左足の根もとから左側に鈍痛があらわれ、昼食後はおとなしくしていました。その二時間前に出かけようとした際は全く症状が無くて、雨が降り出したから引き返したわけで、もしそのまま出かけてたら運転席でも足腰が痛くて困ったことでしょう。

 というところでこの日にふさわしい?エルガーのオラトリオ「使徒たち」のCDです。故ヒコックス も英国出身の作曲家の作品を多数録音していて、エルガーのオラトリオ「ゲロンティアスの夢」、「神の国」とともに「使徒たち」もセッション録音していました。過去記事で「神の国」を扱いましたが、正直この作品らしい、ふさわしい内容なのかよく分からず、ボールトよりもずっと新しくてデジタル録音ということで外せないと思ったまでです。エルガーのオラトリオはボールト晩年の録音が音質共々素晴らしいと思われ、このジャンルだからという訳でもないでしょうがえも言われない香気を放っているような気がします。それに比べると新しいヒコックスの方は夢から醒めたような感じです。

 「使徒たち」は、キリストの宣教から十字架、復活までを歌詞で扱う範囲としていて、マグダラのマリアが聖母と並んで独唱者として登場するのが特徴です。それに十字架、復活、昇天といった福音書の記事を徹底的に強調する風でもなくて、そうしたイエズスの公生涯の間に共に居た12人、聖母やマグダラのマリアら、後(聖霊降臨後)に「教会」に発展する群れ全体が核心といった様相です。受難曲とは違った構成、視点であり、エルガーの音楽もそれに共鳴して見事です。

 三部作を構成するはずだった三つ目は未完に終わったのが残念ですが、最後の審判を主な内容とする予定だった三作目も独特な歌詞、構成になってだろうと思います。最後の審判と言えばなんとなく「白黒決着付ける、覚悟せえや」、又は「これまでの仇を返したる」的なものをイメージしがちですが、エルガーの場合はかなり違ったものになるだろうと想像できます。完結して満ち足りた世界がおぼろげに夢想できる気がします。
14 8月

オルフのカルミナ・ブラーナ ポップ、アイヒホルン/1973年

190722オルフ カルミナ・ブラーナ

クルト・アイヒホルン 指揮
ミュンヘン放送管弦楽団
バイエルン放送合唱団
テルツ少年合唱団

ルチア・ポップ(S)
ヨーン・ファンケステレン(T)
ヘルマン・プライ(Br)

(1973年7月 録音 Sony Classical/eurodisc)

 細かい字が見えにくいこともあって新聞に目を通す時間、その合計がここ数年で極端に少なくなったと最近しみじみ思ったので、とうとう老眼鏡の処方箋を書いてもらって一つ眼鏡を新調しました。これは全く手元の書類とか本を読むのには具合が良い反面、PCの画面(デスクトップ)は逆に見難いので結局あまり使う頻度は高くなくて中途半端です。「ドイツの歌劇場をユダヤ化したユダヤ人クレンペラー」、ネトウヨの表現ではなく新聞記事でそんな風に書かれたということなので、なかなか木鐸として機能するのは難しいのだと思いました。先日の夜、「かくて自由は死せり ある新聞と戦争への道」という番組がNHKで放送されました。「日本新聞」、「日本主義」という言葉が近年の「日本会議」を即座に連想させられ、放送後にまたうるさいことになると思っていました。その番組のことはさて置き、CS放送では瀬長亀次郎の特集を放送していて、「この沖縄の大地は再び戦場となることを拒否する 基地となることを拒否する」と断言する場面が出てきました。予告時にもそれが映って強烈な印象でしたが、なんと国会内での発言でありさらに強い印象を受けました。

 「カルミナ・ブラーナ」が有名なカール・オルフは、ナチス政権期に退廃芸術、ユダヤ系作曲家、音楽家が排斥された後にその空白を埋めるように重用された作曲家だったそうです。ハンス・プフィッツナーなんかはナチスが栄誉を与え、重用していることを期待していたのにそうはならなかったそうなので、作品の性格やら作曲家本人の何かが明暗を分けたのでしょう。昔、一種類だけ持っていたカルミナ・ブラーナのCDをクラヲタ以外の人間に貸したところ、非常に好評だったことがありました。ホルストの組曲「惑星」以上に絶賛されたので意外に思ったことを覚えています。パンク、ヘビメタを好んでいた人が特に気に入ったので、クラシック音楽のファン層を超えた広がりがありそうでナチが重陽したのもまんざらではなさそうでした。

 さて、このCDはクルト・アイヒホルン指揮の「オルフ・エディション」の一枚目ですが、個人的にはまず第一にソプラノ歌手のルチア・ポップが出演していることが購入動機でした。オルフのオペラにポップが出演していたのは知ってましたが、カルミナ・ブラーナも録音されていたのは見逃していました。この廉価五枚組は全部含まれているので好都合です。ただ、カルミナ・ブラーナはソプラノ独唱の箇所が多くなくて、その点は残念です。元々自分自身、オルフの作品はあまり好きでもなく、カルミナ・ブラーナも今一つの印象でしたが、改めて聴いていると魅力を再発見するような気がしました。

 クルト・アイヒホルンと言えば1990年代に日本のカメラータ東京からブルックナーの交響曲のシリーズが出て評判になりました。交響曲第2番の初期稿二種(1872年稿、初演稿たる1873年稿)や第5~9番(補筆完成版)は貴重であるだけでなく、演奏も魅力的でした。特第6、7番は特別に気に入り、クレンペラーは別にすればその二曲はアイヒホルンとリンツ・ブルックナー管があれば十分くらいに思っていました。第5番はちょっと弱々しくて、全体の造形をあまり感じさせない不満がありました(当時はそう思った)。このオルフはリンツでのブルックナーより20年くらい前の録音になり、そのブルックナーと同じ指揮者によるとは思えない演奏ですが、特別に悪い印象もありません(カルミナ・ブラーナ自体をあまり聴かないからか)。
8 8月

ベートーヴェンの田園交響曲 アバド、ウィーンPO/1986年

190808ベートーヴェン 交響曲第6番 ヘ長調 作品68 「田園」

クラウディオ=アバド 指揮 
ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

(1986年9月 ウィーン,ムジークフェラインザール 録音 DG)

 八月に入ってからのある夕方、京都市内を走行する路線バスの行先表示に「すみません回送中です」と表記されているのを見かけました。市の交通局ではなく京都バスか何かの車両でした。えらい下手に出ているので感心しましたが、その一方でヘイト的な感情が蔓延しているのも時々思わぬところで実感することがあります。高校野球の京都府代表は立命館宇治ですが、その予選決勝の相手は学校教育法第一条に定められる「学校」かつ、民族教育も行う学校だったので、そこが代表でなくて良かったとか、狭量な感想をきいたこともありました。ちょっと前までは韓流ドラマでヨン様人気が凄くて、定住外国人の人はまさか我が民族の俳優が「~様」と敬称付きで呼ばれるとはと驚いていました。匿名掲示板で憂さ晴らししている内にリアルの生活に溢れ出てきたようで、戦前の恐慌時のような生活圧迫と裏表の関係なのか、とにかく恐ろし気な気配だと思いました。

 そんな世相とは関係なく、暦では立秋(日中は38℃くらいあるのに)です。早いところでは盆前後に稲刈りをする地域もあるようで、そんな時期にもベートーヴェンの田園交響曲が慕わしく感じられます。それで過去記事で扱ったものからクレンペラーは別にして、今聴くとして思いつく録音をピックアップしました。第一弾がアバドとウィーン・フィルのDG盤です。アバドのベートヴェン交響曲全集ならベルリン・フィルとの二種、特に最初の方が評判が高かったかもしれませんが、改めて聴いていると1980年代のウィーン・フィルとの方も魅力的だと思います。BOX廉価化されたセットでは、田園はCD一枚目に交響曲第1番の次に収録されていて、カーナビのSDカードにコピーしながら再生する際にまず第1番の方を聴き、むしろそっちの方が鮮烈で独自の魅力を放っているような気がしました。

アバド・VPO/1986年
①13分29②12分29③5分30④3分36⑤09分25 計44分29
ベーム・VPO/1971年
①12分10②13分52③5分47④3分41⑤09分42 計45分12
H.S.イッセルシュテット・VPO/1967年
①09分48②11分50③5分41④3分41⑤09分39 計40分39
マリナー/1986年
①11分47②13分44③5分22④3分50⑤10分01 計44分44
アバド・BPO/2001年
①11分33②10分40③5分08④3分25⑤08分34 計39分20

 
アバドとウィーン・フィルの田園は2001年のベルリン・フィルとの録音よりも全曲で5分近く長い演奏時間になっていて、古楽器奏法の影響が前面に出ていないスタイルです。それでも第2楽章(Andante molto mosso 「小川のほとりの情景」)はベームやマリナーよりも短く抑え?られて、この楽章が特に魅力的だと思いました。その楽章と対照的な第4楽章(Allegro 「雷雨、嵐」)は意外に激しく、底響きのする低音に圧倒されます。それだけに終楽章が始まった時は本当にほっとする心地がします。中学2年くらいでベーム、ウィーン・フィルの田園のレコードを買って聴いた時は作品自体に今ほどは親近がわかなかったのが思い出されますが、終楽章のコーダが終わるところは万事が回復されるような安心感を喚起します(「牧人の歌−嵐の後の喜ばしく感謝に満ちた気分」 というのは若い頃はコテコテの予定調和で何らかの反発さえ覚えました)。

 ウィーン・フィルとの田園、ベートーヴェン交響曲全集なら他にバーンスタイン、ラトルがあり、今度はネルソンスも出すようです。1980年代から90年代はちょっとベートーヴェン全集の曲がり角のような時期にも見えましたが、今になってアバドとウィーン・フィルの全集にちょっと惹かれます。それにしても自然界の風雨はやがて止むけれど、人間界の抗争は極道じゃなくても手打ちにしない限り延々と続くので始末が悪く、先月来CS放送で何度か観た邦画「連合艦隊」の中でも山本長官が戦争を終わらせるのは難しいと言っています。
4 8月

ヴォーン・ウィリアムズの田園交響曲 ボールト、LPO/1968年

190804レイフ=ヴォーン・ウィリアムズ 田園交響曲(交響曲 第3番)

サー・エードリアン・ボールト 指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

マーガレット・プライス(S)

(1968年2月14,15日 ロンドン,キングズウェイ・ホール 録音 EMI)

 七月末から本格的な酷暑になってきました。とうとう本性を現わしよった、といったところで昼間に出歩くのが億劫になってきました。祇園町北側も夜になってもあまり人が歩いていないとか、生タピオカ屋さん以外は景気もそんなに良くはないのではと思われます(こんなんで消費税率…以下略)。屋内も暑くて音響機器の設置も考えないといけないと思って、AB級のプリメインアンプとSACDプレーヤーを映像系の機器と切り離し、新しいエアコンのある部屋へ移すともりが一向に進んでいません。昔は汗をダラダラ流しながらマーラーなり天地創造を聴いていたのに、四十、五十を超えると辛抱がきかなくなってきます(そもそも部屋にエアコンなんか無かった)。

 さて、ボールト晩年の録音、ヴォーン・ウィリアムズの田園交響曲。これはことしの三月頃に何度か取り出して聴いていながら、同じボールトのヴォーン・ウィリアムズの「海の交響曲」や「ロンドン交響曲」程の感銘度ではなく、半分を聴いたところで中断することが何度かありました。作品自体はそれら先行する二つの交響曲より圧倒的に好きなのに、どうも妙な感じ方だと思いながら半年近くが過ぎました。どこがどうなのか自分でも分からないまま、この作品が第一次大戦後間もない時期に戦没者に追悼的な意味が込めて作られたということを思い出していました。

 初演時には二十年も経たないうちに大戦が勃発するとは考えていなかったはずですが、この曲の次の交響曲、第4番からは戦争の臭いが漂ってきます。この曲の第4楽章は歌詞を持たない独唱、ヴォカリーズで終わり、まだ霧か靄がかかったような空気のままになっています。田園と言えばベートーヴェンの交響曲第6番やヘンデルのメサイア第一部の降誕のところの楽曲、ヴィヴァルディ四季あたりが頭に浮かんできます。作曲者の従軍中の体験に端を発する作品なので、人間の日常的な営みと自然の関わりというのどかな内容とは思われず、それらの作品とは別物のうような印象です。そうかといってシベリウスの交響曲第4番のように原野に放り出されたような、自然の世界に包まれるといった感覚とも違っているのが不思議です。

 ボールトが1960年代半ば以降に録音したブラームスやエルガー、ホルストの作品は、劇的な表現が前面に出たタイプではないのに全く充実して、停滞感の無い素晴らしい感銘度だと思っていたところにこの田園交響曲を聴いて、そう単純なものでもなさそうだと思いました。ボールトはEMIへ全曲録音する以前に既にヴォーン・ウィリアムズの交響曲を全部(第9番の初演が1958年、同年に第9番をステレオで録音)を録音していました。その旧全集はどんな感じだったのかと、また気になってきました。人間の生活感がほとんどないのに自然の光景が迫ってくる風でもないヴォーン・ウィリアムズの田園交響曲は、第一印象以上にずっと深刻な内容なのではと思います。
1 8月

ハイドンの天地創造 ポップ、ドラティ、ロイヤルPO/1976年

190801ハイドン オラトリオ「天地創造」Hob.ⅩⅥ-2 

アンタル・ドラティ 指揮、チェンバロ 
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ブライトン・フェスティバル合唱団(合唱指揮ラスロ・ヘルティ)
デイヴィッド・ストレンジ:チェロ
ジャック・マコーマック:コントラバス

ガブリエル:ルチア・ポップ(S)
ウリエル:ヴェルナー・ホルヴェーグ(T)
ラファエル:クルト・モル(Bs)
エバ:ヘレナ・デーゼ(S)
アダム:ベンジャミン・ラクソン(Bs)

(1976年12月 ロンドン,キングズウェイホール録音 DECCCA) 

 今年も半分以上が終わり、もう八月に入ります。先日久々に京阪宇治線の六地蔵から中書島までの区間に乗車したところ、駅を出るか出ないかの位置で京アニのスタジオの無残な姿が目にとびこんできました。こんな近くにあったとはそれまで全然知りませんでした。建物の外側に非常階段が無い建物は結構あり、間口が狭くて奥行が極端に長い敷地だったりすると外側の階段があっても、炎上中の建物に遮られて道路まで出られない場合もありそうで、潜む危険を思いっきり浮かびあがらせた格好です。参院選の結果、れいわから当選した二人が注目されて案の定?議場の設備改修の費用とかで色々不満が出ています。それよりもあの事件火事のよう緊急事態、車椅子なら避難の術が無いという場所は沢山あると思われ、要するに議場も含めて重度の障碍者のことは「勘定に入って無い」場合が多いと、費用の制限があるにせよ、改めて思いました。

 さて、ハイドンのオラトリオ「天地創造」、二十年くらい前の八月に奈良の合唱団が天地創造を演奏したことがあって聴きにいきましたが、今年の八月は京響定期にダイクストラが客演してハイドンの天地創造を演奏します。それでブログのオフ・シーズン(勝手に決めた、実はネタと根気の両方が尽きてきた)の八月には、過去記事で扱ったCDも含めて天地創造のおさらいをしておくつもりです。この作品はバッハのマタイ受難曲程はシリアスでなく、フォーレのレクイエム程霊妙、神秘的でもないので三大オラトリオの割りに人気はいま一つのようです(京響定期は一日だけの公演でまだ完売でないもよう)。しかし旧約聖書の創世記冒頭の部分、混沌の世界と光が創造される箇所を描写するという、他には例のない音楽は素晴らしいと思います。

 このCDはLPレコードの時代にハイドンの交響曲全集を完結させたドラティの指揮、ルチア・ポップ、クルト・モルといったオイロディスクの録音に揃って出そうなドイツ語圏の歌手が並んでいるのがまず目につきます(フアンにとってはポップが出ているだけで良)。ルチア・ポップは
クーベリックやバーンスタインの全曲盤でも名が見られ、天地創造のレコードには結構何度も参加しています。それはともかく、ドラティの指揮は独特で、今回改めて聴いていると他にも似た天地創造の演奏がありそうでないのではと思いました。

 古楽器オケのスタイルとは違い、ベルリン・フィルらの壮大・大作スタイルとも違い、当時の交響曲全集とかのハイドンらしさを追求するような内容と、意外に優美でロマン派的な要素もあると思いました。冒頭の、混沌から「光あれ」までのところは劇的な効果はそこそこに、音楽的な美しさを追求しています。コッホとベルリンRSO、カラヤンとベルリン・フィル(ヴンダーリヒ出演)あたりを念頭に置いているとちょっと軽くてあっけなく思われます。このスタイルなら「四季」の方がもっとぴったり合いそうですが、天地創造も独唱楽曲やドラティ自らが弾く通奏低音のチェンバロが入るレティタティーヴォのところも含めて全部魅力的です。
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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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