raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2019年01月

31 1月

ジョスカン・デ・プレ/3声の世俗音楽 ロンドン中世アンサンブル

190131aジョスカン・デ・プレ 3声の世俗音楽(全曲)

ロンドン中世アンサンブル
 -声楽-
パトリツィア・クウェラ(S)
マーガレット・フィルポット(A)
ロジャーズ・カヴィ・クランプ(T)
ポール・エリオット(T)
ポール・ヒリアー(Br)
デイヴィッド・ビーヴァン(Br)
 -器楽-
ロジャー・ブレンナー
(サックバット)
アンドリュー・ワッツ(リコーダー、ショーム)
レチェル・ベケット(フルート、リコーダー)
ジョナサン・モーガン(フルート)
ピーター・デイヴィス(フルート、リコーダー、ショームドゥセーヌ)
ロバート・クーパー(フィルド、レベック)
ティモシー・デイヴィス(リュート)

(1984年1月 ロンドン,ヘンリウッドホール 録音 オワゾリール)

 一月も今日で終わりになりました(平成最後の一月)。レコードプレーヤーのカートリッジを交換してふと思ったのが、そもそもこの和室は水平なのかということで、木造の家屋なので多少は傾斜があるかもしれません。器楽、オーケストラの音では問題ないのにソプラノの高音部分(R.シュトラウスのアラベラ、デジタル録音のLP)でちょっと音が震えているようで、そこがまた気になりました。昔使っていたソニーの安価なプレーヤー(半オート)ではそうしたことは気にならなかったはずで、レコードプレーヤーはデリケートなものだと思いました。

190131b このLPのジャケットの肖像画は結構色々な所で見かけ、最初はこれがジョスカン当人の顔だと思っていました。ロンドン中世アンサンブルと言えばデュファイやオケゲムの世俗音楽全集で有名でした。それらはCD化されていましたがジョスカン・デ・プレの方はCDを見た覚えがありません(一応CD化されていたようだが)。これは国内盤のLPですが、発売当時に一応レコ芸の推薦盤になっていました。LPレコードは1990年代にクレンペラーとグレゴリオ聖歌等を除いて大半を処分していたのに何故かこれは残っていました。久々に、本当に久しぶりに再生したところ第1曲目から記憶がよみがえり、十代の頃には繰り返して聴いていました。

 声楽が入る楽曲は玉が転がるような心地良さ、美しさですがちょっと洗練され過ぎな気もします。と言ってもこれらの曲がそもそもどういう場面、機会に演奏されていたのか知らないので何とも言えないところです。作曲されたのは1400年代後半以降になるはずなので、日本なら室町時代にあたります。

 ~ 収録楽曲(青字は器楽のみの楽曲
LPのA面/1.夫は私を侮辱した、2.この貧しい托鉢修道士-われは あわれなり 、3.私の愛しい女は あらゆるすぐれた才にたけ4.以前,運命の女神は、5.美しい乙女は塔の下に座り、6.私は… 、7.奥様,あなた以外には-平安に、8.ただそれだけ9.もうとてもできない…、10.ああ,マリオンが、11.茂みのかげで,朝、LPのB面/12.あなたに会うと、13.死にあって-御身,み母なること示したまえ、14.ラ・ベルナルディーナ15.絶望的な運命の女神、16.いとしい方を失ったら、17.ああ,奥様… 、18.最高のうちでも最高のひと 、19.奥様,ああ20.ジョスカンのファンタジー、21.私はものおも思いに沈んだ 、22.川のほとりの茂みのかげで・・・ 

 ジョスカン・デ・プレのCDはミサ曲等の教会音楽の方が多いようですが、世俗曲も70曲以上作曲していて、その中で3声部のものを偽作(二つ)も含めて全22曲を収録しています。歌詞にはラテン語も含まれ、世俗曲といいながら詩篇や賛歌の歌詞も使われています。

 ロンドン中世アンサンブルは1974年にピーターとティモイシーのデイヴィス兄弟によって設立されました。上記のように器楽奏者と声楽によって構成され、演奏機会・楽曲によってメンバーを入れかえています。「中世」アンサンブルという名称の割りにレコードの方ではルネサンス期の作品が目立っています。

30 1月

クレンペラー、シヴィルのモーツァルト・ホルンCn/1960年

190130モーツァルト ホルン協奏曲集

オットー=クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

アラン・シヴィル:ホルン

*LPの収録順
第2番変ホ長調 K.417
第3番変ホ長調 K.447
第1番ニ長調 K.412
第4番変ホ長調 K.495
*第3番、第4番のカデンツァはシヴィルによる部分を付け加えている

(1960年5月11-12,18-19日 ロンドン,アビー・ロード・スタジオ 録音 EMI)

 クレンペラーがEMIへ録音した作品の中でも協奏曲はごく限られたものだけでしたが、モーツァルトのホルン協奏曲が何故か含まれていました。それもEMIと契約してしばらくの期間、大やけどで休む1958年までではなく、1960年に入ってから、当時のフィルハーモニア管弦楽団の首席奏者だったアラン・シヴィル(Alan Civil OBE 1929年6月13日 – 1989年3月19日)との共演で完成された四曲のホルン協奏曲を全部録音しました。シヴィルはデニス・ブレインの父、オーブリー・ブレインに師事し、ビーチャムのロイヤル・フィル、フィルハーモニアOの次席ホルン奏者を務めました。その時に両オーケストラで首席だったのがデニス・ブレインだったわけで、フィルハーモニア管弦楽団とは1953年にカラヤン指揮で同じくモーツァルトの協奏曲四曲を録音していました。ブレインが自動車事故で急逝後にシヴィルが首席になり、クレンペラーとこの曲集を録音することになりました。

 クレンペラーとシヴィルのモーツァルトは国内盤でもCD化されたことがありましたが、その後はテスタメントのCDか廉価箱で入手できるくらいになっているはずです。今回聴いたのは独EMIのリマスターLP(オリジナル盤とか貴重なレコードではない)です。このLPの曲順は第2番、第3番の第2楽章までがA面にあり、B面が第3番の第3楽章、第1番と第4番です。自分の記憶では1990年以前に購入したはずですが、西ドイツではなくドイツ製と表記されているので1990年か1991になり、平成になってからということになります。モーツァルトのホルン協奏曲は完成(ほぼ完成されたかたちで残る)されたものが四曲あり、番号順の作曲年代ではないと考えられています。現代では第1番が一番後に作曲されたというのが有力説のようです。

 演奏の方は端正で、同じクレンペラー指揮でも交響曲第25番の時のような速目のテンポではなく、もっと後年の遅い演奏でもない小康状態、否、古典派的な美点が前面に出ていると思いました。それに協奏曲らしい?、ソリストを有無を言わせず従わせる風でない(五分かせいぜい四分六くらいの盃)控えめなオーケストラに聴こえます。もうちょっとクレンペラー色が濃くても面白いのではないかとも思います。ここまでの感想はレコードプレーヤーのカートリッジをMMカートリッジ装着で聴いていましたが、試しにMC型も付けて再生したところ音がさらに鮮烈になって(そんな気がする)、もう少し後に録音された交響曲第33番や第34番あたりと似た演奏に聴こえました。

 なお、付け替えるMC型カートリッジの重量が9gになり、ついでにヘッドシェルも一緒に替えられるようにした(四本の細いコードをいちいちつなぐの面倒で、反復すると破損のおそれもある)のでその分がさらに4gも重くなりました。それでカウンター・ウェイト、アームの端に付いている重りの重量が足らなくなり、別売りのウェイトを取り寄せることになりました。いちいち面倒ですがやむをえません。針圧計があるので針圧の方はすぐできるようになり、早速再生するとエントリー・クラスながら音の生々しさに少々驚きました。プリメインアンプなのにアナログがメインなのでMCカートリッジも使えて助かりました。
29 1月

マーラー交響曲第1番 I.フィッシャー、ブダペスト祝祭O

190128aマーラー 交響曲 第1番 ニ長調「巨人」

イヴァン・フィッシャー 指揮
ブダペスト祝祭管弦楽団

(2011年9月 ブダペスト芸術宮殿 録音 Channel)

190128b クラシック音楽のバイオリズムと言える程じゃないとしても毎年ある季節、月になるとなんとなく聴きたくなる作品というのがありました。自分の場合はちょうどこのタイミングでヴェルディの「椿姫」の前奏曲が頭の中で流れ出しました。去年あたりから段々そのパターンが崩れ気味で、今年もそれを飛び越してマーラーの第1番が気になりだしました。特に第1楽章の冒頭を聴いていると氷や霜も溶け出して暖かくなる予感がしてきます。今までは1月15日以降、2月いっぱいくらいの冬の気分が好ましいと思っていたので、段々と寒さに対する辛抱もきかなくなってきた証拠の一つかもしれません(積雪も無いのにこの性根は困ったものだ)。それで久しぶりにマーラー第1番をイヴァン・フィッシャーとブダペスト祝祭管弦楽団のSACDで聴きました(といっても昨年の秋頃から何度となく聴いている)。

 CDに付いている日本語帯や紹介記事に、I.フィッシャーの言葉、「ハンガリー人としてこの作品が聴衆に完璧で非常に美しい傑作であると確信させる道義的義務がある」を引用して彼がそんな強い使命感をもってこの曲に臨んでいるとしています。少々大げさなその言葉がどういう意味かと作曲の経緯を考えると、この作品の初稿による初演(1989年11月20日)がハンブルク・フィルによって行われて失敗だったことを指してのことかと思います。その初演時は二部からなる交響詩として五つの楽章で構成されていました。その後第2稿を経て四つの楽章による交響曲の第3稿に落ち着きました。その際に「花の章」の楽章が削除されています。

I.フィッシャー/2011年
①16分30②08分00③10分44④20分14 計55分28
フェルツ/2012年
①16分00②08分50③10分56④19分36 計55分22
シュテンツ・ケルン/2011年
①16分04②08分50③09分51④19分47 計52分52
マーツァル・チェコPO/2008年
①16分27②08分29③10分43④18分56 計54分35
ホーネック・ピッツバーグSO/2008年
①17分14②08分28③11分16④21分01 計57分59
ザンダー・PO/2004年
①14分07②07分03③11分15④19分29 計51分51

 改めて聴いてみると確かに「非常に美しい」という点ではI.フィッシャーの信念通りだと実感しました。特に第4楽章はくどさを感じさせない、細部までよく聴こえながら十分に高揚感もありました。それに第3楽章、第4楽章で時々強調されることがある不気味さ、グロテスクさ(これは大げさか)のようなものが後退しています。2000年以降の録音のトラックタイムを比べると、ザンダーやシュテンツらと比べると長目の演奏時間になっていますが、似たような合計時間のものが他にもありました。

 I.フィッシャーとブダペスト祝祭管弦楽団のマーラーは交響曲第7番の発売が予告されていたので後は第8番が残るだけとなりました。大地の歌や第10番完成版は計画に入っているのかどうか分かりませんが、何とか鬼門の第8番も出して欲しいところです。I.フィシャーはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したマタイ受難曲やベートーヴェン・チクルスの映像ソフトやネザーランド・オペラのパルジファルも素晴らしいので、ガッティがあんなことになったのでコンセルトヘボウとの共演にも期待します。
28 1月

クレンペラー・イン・トリノ R.シュトラウスのティル

190107R.シュトラウス  交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」

オットー・クレンペラー 指揮
トリノRAI管弦楽団(トリノ放送交響楽団)

(1956年12月21日 トリノ,RAIオーディトリアム ライヴ録音 Fonit Cetra)

 春の選抜高校野球の出場校が決まり、この金曜からはもう二月に入ります。このブログも2010年にOCNのサービスで始めてからまる9年が経過します。そんなに経ったという実感はないものの、体力の衰えというか年齢相応(それ以上か)の劣化は痛感します。一つ顕著なことは「歩く速度」が遅くなったことで、普段平坦な街中を歩いていても女性、そこそこ高齢な人に追い越されることがしばしばあります。それに、たいした距離を歩いていないのに足のかかと辺りが痛くなったりして(昔は一日中歩きまくった時にしか出ない症状)先が思いやられます。ブログの過去記事について段々と記憶があいまいになってきて、初期の頃のものはもうすっかり忘れていますが、R.シュトラウスの管弦楽曲はかなり手薄な分野なのはあ違いないと思います。元々好きな作品がほとんど無かったからですが、先月来クレンペラーのLPを聴いていてシュトラウスのことも思い出していました。

181216a クレンペラーもR.シュトラウスの生前に交流があり、シュトラウスの指揮を大いに賞賛していましたが、その作品の方はあまり多くは指揮していませんでした。オペラの全曲録音は一つも無く、ハンガリー国立歌劇場のライヴ音源にも入っていません(珍しいものではオッフェンバックのホフマン物語があるのにR.シュトラウスは無い)。EMIへセッション録音したR.シュトラウス作品は交響詩「ドン・ファン」、「死と変容」、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」と「メタモルフォーゼン」、「サロメから七つのベールの踊り」でした。1956年12月にクレンペラーがトリノに客演した際の公演を記録した「クレンペラー・イン・トリノ」の中に
「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」が入っていて、EMのセッション録音の約3年前(EMIは1960年3月)の演奏ということになります。

 チェトラのLPで聴くからか、先日のストラヴィンスキーやショスタコーヴィチ同様に艶のある幾分柔軟な美しさが印象的で、とかく堅苦しいイメージを持ってしまうクレンペラーの演奏にしては意外な美点を感じさせます。EMIへの録音はどんな感じだったか、あまり強い印象は覚えていませんがもっと遅くてギクシャクとした演奏だった気がします。トリノ客演のLPは全曲CD化されていますが、CDで聴くとこの曲もちょっと違った印象かもしれません(今回連続して聴いていない)。

 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」は1894年から翌年にかけて作曲されたR.シュトラウスの四作品目の交響詩でした。当初はオペラとして構想したところ、直前に作曲した歌劇「グンドラム」の初演が失敗だったこともあり交響詩として作曲しました。この曲はティルが最後に死刑になるのにそこそこ明るい作風なのが不思議で、たしか「のだめカンタービレ」の中でも登場したと思います。

 クレンペラーはシュトラウスの作品の中で晩年のものは否定的に見ている言動があり、かといって初期の歌劇・楽劇についても絶賛という風ではなくて、「ばらの騎士」も「全てが甘い砂糖水にどっぷり浸かってしまった」と評しています。交響詩
「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」はわざわざ録音しているくらいなので作品自体に愛着があるのだろうと思いますが(「死と変容」はコンサートで聴いて深い感銘を受けたと言っている)、それならナクソス島のアリアドネあたりは全曲録音していても良さそうなので、どうも判断の基準がよく分かりません(マーラー作品でも取り上げていないものがあるのと同様に不可解)。
26 1月

ベートーヴェン交響曲第1番 セル、CLO/1964年

190118ベートーヴェン 交響曲 第1番 ハ長調 Op.21

ジョージ・セル 指揮
クリーヴランド管弦楽団

(1964年10月2日 クリーヴランド,セヴェランス・ホール 録音 Sony Classical)

 渋滞、色々な順番待ち、行列とかで時間をとられる際、イライラしない方法として全く関係の無いどうでも良いような事を考えるというアドバイスをもらったことがありました。例えばタイガースの最弱メンバーとかジャイアンツの史上最貧打のメンバーとか、それが分かったところで何の損得にもならないことを思いめぐらしていると険しい表情にならないとか。そういう話を思い出して、それならニワトリとアヒルはどちらも飛べない、飛行できない家禽ですが、跳躍距離はどちらが長いのかと思いました。どちらも小学校の校庭で飼育されていて、将来は自分でも飼いたいと思うくらい好きでした。アヒルは鴨、マガモが原種なので翼の性能は良さそうですが、あまり高く飛び上がったのを見た覚えはありません。まさしくどうでもいいことで、おっさんの年齢になると、両方とも鶏なんばん、フォアグラetc と食材として見がちです。

 さて、ベートーヴェンの交響曲第1番、この曲の記憶、代表的な(自分にとって)録音となると、クレンペラー以外ではセルを思い出します。カラヤンやフルトヴェングラーといったベルリン・フィルを頻繁に指揮する者だけが独墺系シンフォニーの正統な担い手じゃないという意識からでもなく、聴いた印象、刺激、爽快さという点でかなりのものだと思っていました(トスカニーニよりもむしろ)。

 改めて聴いてみると心地よい風を顔に受けるような爽快さと、ベートーヴェンの交響曲らしい堅固さもそこそこあって、それらだけでなく何らかのプラス α が込められているような魅力を感じます。往年のロマン派的な演奏の名残なのか、その時代のベートーヴェンに対する尊崇度の違いなのか、とにかく単にフィジカル的な完成度を追求したもの以上ではないかと思います。

セル・CO/1964年
①9分16②6分54③3分48④5分46 計25分46
オーマンディ・フィラデルフィア/1964年
①9分33②7分04③3分55④6分07 計26分39
クリップス・LSO/1960年
①9分19②6分27③3分56④6分20 計26分02
レイホヴィッツ・ロイヤルPO/1961年
①8分20②6分05③3分12④5分42 計23分19
クレンペラー・PO/1957年-EMI
①9分52②8分53③4分05④6分18 計29分08
シューリヒト・パリ/1958年
①8分11②5分57③3分25④5分55 計23分28

 セルとクリーヴランド管弦楽団のレパートリーもかなり広く、ハイドンからブラームスまで、一部の作品に留まっていますがマーラー、ブルックナーも録音していました。昔の廉価盤、準廉価的なシリーズではセルの受け持ちはドヴォルザークやバルトーク、ヤナーチャク等中欧の作品を本場もの的に割り当てられる傾向がありました。しかし自分の中ではモーツァルトやベートーヴェンあたりがセルの代表的な録音という位置付けでした(単なる好み)。単にトラックタイムだけを並べると突出したものがないようで、クリップスと近似しているのは意外です。
25 1月

クレンペラー、ウィーンSO ベートーヴェン第5番/1951年

190125ベートーヴェン 交響曲 第5番 ハ短調 作品67

オットー=クレンペラー 指揮
ウィーン交響楽団

(1951年4,5月 録音 VOX)

  クレンペラーのセッション録音、レコードを制作するためにまわりに客が居ない状態で演奏、録音して、場合によっては(録った演奏を聴いた上で不都合があれば)部分的に録りなおすという一連の作業は1954年以降のEMIの他に、それ以前にVOXからも出ていました。ウィーン交響楽団との録音は1951年の3月以降という表記になっていて、EMIへ録音した楽曲と重複しています。だからVOXレコードの社長、メンデルスゾーン氏との新旧録音を実際に聴き比べて優劣を付けようとしてレコード店へ行くという笑い話、エピソードのようなネタを提供することになったわけです。基本的にEMI盤の方が優れているというのが定説ですが、今世紀に入ってウィーン交響楽団との方も見なおされてきています。京都の輸入クラシックLP・CD専門店の「ラ・ヴォーチェ京都」の店主は、二曲あるVSOとのベートーヴェンの交響曲は良い演奏だと言われていて、そう言えば第5番はLPでも買っていたことを思い出し、久しぶりに再生しました。

 この録音は過去記事で扱ったことがありますが、その時は復刻CDで聴いていました。レコード盤面の状態がやや悪く、再生するとノイズが目立つのは残念ですが、それでも弦や木管は特に美しく聴こえるので、たいした機器じゃないので断言できませんがCDで聴くよりも良さそうでした(VOXの復刻CD自体が思いっきり廉価仕様ではる)。下記のトラックタイムはその時のもので、LPの方には演奏、録音年月日も含めて詳しいデータは載っていません。改めて聴いてみると先日のハンガリー国立歌劇場のライヴ音源とくらべると余裕があるテンポで、意外な程に優雅さをそなえているのには軽く驚きます。ハンガリーの方は1948年なので年代的には隔たりがないのに大きな違いとなっています。同じセッション録音同志では1955年の初回録音とトラックタイムに大差はありません。

VSO/1951年
①07分59②10分01③05分59④11分31 計35分30
PO/1955年
①08分04②10分05③05分40④11分06 計34分55
PO/1959年
①08分55②11分11③06分13④13分17 計39分36
ケルンRSO/1966年3月7日
①08分41②11分02③05分56④11分46 計37分25
BPO/1966年5月12日
①08分38②11分09③06分02④12分14 計38分03
VPO/1968年5月25日(DGの表記)
①09分12②11分48③06分28④12分45 計40分13
バイエルンRSO/1969年5月30日:EMI
①07分37②12分12③06分53④11分03 計37分45

 ウィーン交響楽団とのVOX盤の中で何種かは国内盤のCDで復刻され、その解説にはウィーン交響楽団の使っている楽器に言及されていました。ウィーンと言えばウィーン・フィルの方をつい念頭に置きがちだとしつつ、VSO(シンフォニカ)の方も同様の楽器を使っているので独特の美しさがあるのを再認識したとありました。また、レコードジャケットや附属冊子の中でクレンペラーについて解説している文章の一つ(どこに載っているか忘れた)に、1951年以降を一つの区切りとして扱っているものがありました。今回の第5番を聴いていると確かに演奏は魅力的で、EMIの初回録音と甲乙付け難いと思いました(メンデルスゾーン社長が言うのも一理ある)。

 ハンガリー国立歌劇場の監督を辞めて1954年にEMIへの録音を開始するまでの期間、クレンペラーはアメリカの移民法律や「赤狩り」の影響で渡欧を制限されているので、ウィーン交響楽団との一連の録音を終えた後は北米大陸に活動が限定されました。だからVOXへの一連の録音は大変貴重となってきます。ただ、ブルックナーの第4番はかなり速いテンポなのでEMI盤とはかなり印象も違っていました。
24 1月

ワルキューレ ヘンヒェン、ネザーランドオペラ/1999年

190124aワーグナー 楽劇・ニーベルングの指環「ワルキューレ」

ハルトムート・ヘンヒェン 指揮
ネーデルラント・フィルハーモニー管弦楽団

ジークムント:ジョン・キース
ジークリンデ:ナディーネ・セクンデ
フンディング:クルト・リドル
ヴォータン:ヨーン・ブレッヘラー
フリッカ:ラインヒルト・ルンケル
ブリュンヒルデ:ジャニーヌ・アルトマイアー
ゲルヒルデ:イルムガルト・ヴィルスマイアー
オルトリンデ:アンネギア・ストゥンフィウス
ヴァルトラウテ:ハンナ・シャー
シュヴェルトライテ:ヘベ・ディークストラ 
ヘルムヴィーゲ:キルシ・ティーホネン
ジークルーネ:キャサリン・キーン
グリムゲルデ:レギーナ・マウエル
ロスヴァイセ:エルツビータ・アルダム

ピエール・オーディ(演出)
石岡瑛子(衣装)
ゲオルギー・ツィーピン(装置)
ヴォルフガング・ゲッベル(照明)

(1999年 オランダ,アムステルダム音楽劇場 ライヴ収録 Creative Core)

190124 気が付けばびわ湖ホールのジークフリートがあと一カ月強に迫ってきました。二時に始まって七時までという長丁場を考えると、大相撲のます席にほりコタツが付いたような席が望ましいところですがアッシジの時も腰は大丈夫だったのでなんとかなるでしょう。ヘンヒェン指揮のネザーランドオペラの指環は1999年収録の映像ソフトの他に2005年他のSACDもありました。どちらも今一つ地味な触れ込みだったようで登場当初は全くスルーしていました。昨年から両方とも視聴していると、特に映像ソフトの方が演奏、映像(演出と衣装や所作)共々に見事で、分かり易い内容で感心しています。それに新ワーグナー全集による初の収録といのも注目です。作曲者の厳格なアーティキュレーション、フレージングを再現、細かいテンポ指示を確認するという点で従来の演奏とは違った響きになったとヘンヒェン自身が書いていることが聴いているとなるほどと思います。

190124b それにオーケストラを囲むように指環の形状を模した回廊状の舞台は視覚的だけでなく、音楽と舞台が一体となる効果を狙ったとしていますが、会場に居ればそれをさらに実感できただろうと思います。今回のワルキューレではセットの大道具がほとんどない代わりに衣装が目立ちます。ドクロの形をしたヘルメット、翼を模した盾を黒ずくめのワルキューレらが着用するという衣装が印象深くて、戦、生死、という事柄が絡むストリーとも似合いそうです。ヴォータンは赤い外套を羽織っているのが戦国末期の武将のようで舞台によく映えます。第二幕前半に登場するフリッカは
山羊が引く車の表現として山羊の頭の形をした二本の杖を持って歩いてくるのが面白くて、カラヤン演出の仮面をかぶった二人よりも省力的ながら印象深く見えました。

 歌手の中ではブリュンヒルデのアルトマイヤーが一番目立ち、若い頃のヤノフスキ盤からすれば大いに貫禄が付いてタフな声になりました。きれいな声とは言い難いかもしれませんがブリュンヒルデとしては素晴らしい歌唱だと思いました。それにヴォータンのブレッケラーとフリッカのルンケルも歌唱、視覚共に印象深くて説得力(物語がよく伝わる)があります。ジークリンデのセクンデ、ジークムントのキースは上記の三人に埋もれない、聴き分けられる声質でこれも見事だと思いました。余談ながら画面が16:9なので液晶テレビ、ディスプレイで端が余らないのも結構です。

 音楽については1950年代とかの古いバイロイトと違うのは当然として、ヤノフスキの新旧録音と似ている気がしました。それに解説によると、風、雷の効果音、ウィンドマシーン、サンダーマシーンの使用は、出版された楽譜では留保付きだったけれど「細部に至る驚くべき指定」があったとあり、これはちょっと驚きました。これでネザーランドオペラ、1999年の公演で四部作を全部視聴できましたが何となく指環四部作に対するイメージが変わり、今さらながら肯定的な感情が自然とわいてきました。
22 1月

クレンペラー・ケルンRSO レオノーレ序曲第3番/1966年

190122bベートーヴェン レオノーレ序曲 第3番 作品72a

オットー=クレンペラー 指揮
ケルン放送交響楽団

(1966年3月17日 ケルン.クラウス・フォン・ビスマルクザール ライヴ録音 Weitblick)

 去年の夏くらいから京阪電鉄の宇治線を利用して中書島駅に着くとき、日本語のほかに韓国語と中国語のアナウンスが流れていました。ワンマン運転の支線にまでこういう車内放送になるとは、驚くと同時に宇治市にもインバウンドの効果が出ているんだと思いました。駅名の「ちゅうしょじま」は中国語は独自の発音をするのに韓国語は一応「チョウショジマ」と聞こえる読み方でした。地名の由来は宮中の官位である「中務少輔」の唐名が「中書」であることからきていて
、安土桃山時代にその官位だった脇坂安治の屋敷がその辺りにあったからだと、調べると由来が出てきます。その脇坂と言えば関ケ原の合戦当日に寝返ったことが七本槍以上に有名になった気がします。

 さてレオノーレ序曲第3番、歌劇「フィデリオ」の序曲は別に作曲されたのでこの曲は単独で演奏されるオーケストラ曲として定着しています。それだけでなくフィデリオの劇中の第二幕第2場の直前に演奏される演出もあり、マーラーがウィーン宮廷劇場の楽長時代の1904年に行ったもので、現代でも採用されることがあります。1980年代にFM放送でその形式で上演された実況録音を聴いて大いに盛り上がったのを覚えています。手元にあるクレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団のLPにはレオノーレ序曲第3番が第二幕第2場の前に入っていました(第5面の先頭)。

190122a 1966年3月17日にケルン放送交響楽団に客演したクレンペラーは、レオノーレ序曲第3番とベートーヴェンの交響曲第4、5番のプログラムを指揮しました。その一日だけだったのかどうか分かりませんが、ベートーヴェンだけのこういうプログラムはなかなか最近は特に組み難いのではと思います。これは昨年突然CDが発売され、その後LP化もされました。実は当初さすがにもうLPは要らないだろうと思っていたところ、最近やっぱり気になって在庫があるうちにと思って購入していました。針圧調整が完了しない間にこのLPを聴くと、他の古いLPでは気にならなかったのに、ビリビリ震える音がはっきりとして、どうも盤の溝が違うのか?と思っていました。昨夜に針圧計を使って針圧を直したらやっときれいに聴こえるようになりました。

~ クレンペラーの「レオノーレ序曲第3番」
1967年ケルン:14分45/ケルンRSO
1963年EMI:14分38/フィルハーモニアO
*1962年フィデリオ全曲盤:14分34/フィルハーモニアO
1954年EMI:13分31/フィルハーモニアO


 クレンペラーはこの曲をEMIへ複数回録音していました。上記のフィデリオ全曲盤に入っているものは全曲盤専用のものか、CD化されたものには入っていないので特定のLPにサービス的に付加されたものなのか、録音年と発売年や演奏時間が微妙なので断定はできません。それらのEMI録音と比べて今回のケルン公演は少し演奏時間が長くなり、最晩年らしくなっています。クレンペラーの友人、哲学者のエルンスト・ブロッホが指摘するクレンペラーの演奏特徴、「非情動的で、衝動性も陰気さもなくなんといっても甘味、消費にもってこいの甘味が皆無なのです」、という言葉がぴったりする内容です。だからオペラの劇中のスリルから遠いところにあるといった印象で、宇野功芳氏の言う「情熱の氷漬け」が当てはまる好例でしょう(言えよう)。
21 1月

クレンペラー、バレンボイム ベートーヴェンP.Con 第2/LP

190121bベートーヴェン ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19
 *カデンツァはベートーヴェン

オットー=クレンペラー 指揮 
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

ダニエル・バレンボイム:ピアノ

(1967年11月 ロンドン,アビー・ロード第1スタジオ 録音 EMI/独Electrola)

190121a 先月来LPレコードをしばしば聴いていますが、年末に衝動買いしたレコードプレーヤーの針圧調節がやっぱり今一つピシッと決まらずにここまで来ていました。先日、クレンペラーとバレンボイムのベートーベン・ピアノ協奏曲全集から第1番を聴いたところ、どうも所々でビリつくような音になり、針圧が強過ぎると思われてまたまた最初からやり直しました。それでも合わないのでとうとう針圧計を購入しました。このプレーヤーもエントリークラスなので針圧計は不要だと思っていたのに、ゼロバランスから目盛りの確認まで全部肉眼の目分量なのでこのままでは際限がないと思いました。早速針圧計で確かめると調整して1.8gにほぼ合っているはずが0.5g以上オーバーしていて、目分量のいい加減さを再認識しました。それで1.81gになったところで再生したらまさにぴったりで、ビリつく音は無くなりました。

ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19
第1楽章 Allegro con brio 変ロ長調
第2楽章 Adagio 変ホ長調
第3楽章 Rondo, Molto allegro 変ロ長調

 さて、針圧が何とか合ったところで気を取り直して第2番(LPの二枚目)を聴きました。クレンペラーが晩年になってバレンボイムと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲は1967年の10月に第1番と第3番から第5番まで、第2番を11月にと短期間に五曲をセッション録音しました。テスタメントから出たアラウをソリストに迎えたピアノ協奏曲第3~5番はフィルハーモニアの1957年の定期、ベートーヴェン・チクルスの一環として演奏、収録されたものでした。このセッション録音はそれからちょうど十年後ということになります。
 
 第1番、第2番は特にオーケストラが力強く豪快さを帯びて聴こえます。同時期に録音したブルックナーの第5番と似たものを感じます。クレンペラーのセッション録音はあと一年くらい後になる急に緩くなるというか別の世界にいってしまうのが面白いところです。バレンボイムのピアノは意外に透明感があるようで、クレンペラーのオーケストラとちょっと対照的です。それでも後年のピリオド楽器が浸透する時代からすればロマン派的なスタイルの演奏ということになりそうです。

 実はバレンボイムとのベートーヴェンは昔から今一つ好きではなくて、別のピアニストとの共演だったら良かったくらいに思っていました。といっても最晩年のクレンペラーならソリストのために、弾きやすく合わせるということは(或いは昔からか)難しかったので、バレンボイムくらいの年代、同じユダヤ系ということで他に居なかったのかもしれません。アシュケナージの演奏をクレンペラーが気に入っていたようですが契約の関係もあってか、ブラームスのベートーヴェンもEMIでは録音共演が実現しませんでした。ちなみに、この年にクレンペラーは公式にカトリック教会を離れてユダヤ教に復帰していました。
19 1月

コジ・ファン・トゥッテ ハイティンク、LPO/1986年

190119モーツァルト 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」 K.588

ベルナルド・ハイティンク 指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
グラインドボーン歌劇場合唱団

フィオルディリージ:キャロル・ヴェネス(S)
ドラベッラ:デローレス・ジーグラー(Ms)
グリエルモ:ダール・ドゥージング(Br)
フェルランド:ジョン・エイラー(T)
デスピーナ:リリアン・ワトソン(S)
ドン・アルフォンソ:クラウディオ・デスデーリ(Br)

(1986年2月16-27日 Abbey Road No.1 studios 録音 EMI)

 稀に府庁の本庁舎へ行くことがあり、あの辺りは府警の本部もあってそんなに大きな建物じゃないけれど独特の雰囲気です。昨年末に寄った際には改修工事中で正面から車で入れず東側へまわりました。それに駐車スペースも大幅に縮小されていて侵入禁止の箇所が広くなっていました。工事中でない時でその侵入禁止エリア、入口の真正面に堂々と大きなワンボックスカーが駐車されていることがあり、あれは誰さまがお乗り付けなさってるのかと思ってチラ見していました。出入口には複数の警備員が居て駐車場所を指示、指定しているのにあのワンボックスカーはおかまいなしということはよほどのVIPなんだろうと思いつつ、こちらも長居はしないのでスルーしていました(それにしても警備の人はそこそこの年齢ながら威圧感もあり、全員が警察のOBかなとか邪推します)。

 アナログ・ステレオのレコード時代から名前が出ていたアーティストがどんどん旅立っている中、ハイティンク(Bernard Johan Herman Haitink 1929年3月4日 - )
は高齢ながら健在です。ハイティンクのモーツァルトと言えば交響曲、オペラ等あまり録音が無かったようで、ルチア・ポップが出た魔笛が記憶に残っている程度です。しかしハイティンクは1978年から1988年までグライドボーン音楽祭の音楽監督を務めていて、フリッツ・ブッシュからヴィットリオ・グイ、ジョン・プリチャードが代々務めてモーツァルトのオペラを上演してきた音楽祭なので、それに続く監督というわけで十分モーツァルトを指揮する機会はあったということになります。

 このコジ・ファン・トゥッテは1984年録音のドン・ジョヴァンニと同様にそのグライドボーン音楽祭での公演に基づいています。これに続いて1987年にはフィガロも録音されているのに何故かCDを見かけたことがありません。それはこのシリーズのキャストがやや地味なことも影響しているかもしれません。ドン・ジョヴァンニの時(何年か前の過去記事)にも思った感想ですが、調和し過ぎというのか、まとまり過ぎるというのか、それはキャスティングだけでなくハイティンク指揮のオーケストラに対しても思うことでした。

 
しかしアンサンブル・オペラと呼ばれるからというわけでなく、今回のコジ・ファン・トゥッテのそんなスタイルの美点が発揮されて特別に魅力的だと思いました。全体的にゆったりとしたテンポで優雅に歌わせるという感じで、なんらかの形でピリオド楽器、奏法の影響下にある 現代ではなかなか聴けないモーツァルトではないかと思います。全部を聴き終わる時にはなんとなくオラトリオ作品のような感覚でした。歌手の中ではドラベッラのデローレス・ジーグラーが特に目立ちました。彼女はアーノンクール、ウィーン国立歌劇場のコジ(映像ソフト,視聴していないけれどキャストは確認)でも同役を歌っていました。
18 1月

クレンペラーのドイツ・レクイエム/1961年 復刻LP

190118ブラームス ドイツ・レクィエム Op.45

オットー・クレンペラー 指揮 
フィルハーモニア管弦楽団
フィルハーモニア合唱団

エリーザベト・シュワルツコップ(S)
ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ(Br)
ラルフ・ダウンズ(オルガン)

(1961年1月2日,3月21,23,25日,4月26日 ロンドン,キングズウェイ・ホール 録音 Vinyl Passion/EMI)

 昨日の朝は目が覚めて時計を見ると5時11分だったので阪神淡路大震災の時のことが少し思い出されました。さいわいにしてめざめた直後に地震ということにはならず、そのまま50分くらいうとうとしていました。実はこのLPについて17日に更新するつもりだったのがどうも再生具合が今一つで、針圧をちょこちょこさわっている内に冷えて来て全部再生しないで終わりました。クレンペラーのドイツ・レクイエムは三十年以上前に初めて聴いた際も、マタイ受難曲やらロ短調ミサ、メサイア程の感銘度ではなく、最近復刻されたLPで久々に聴くと印象が変わるかと思ったところ、やはり同じようなものでした。それに針圧の調整時、アームリフトのレバーを下げた状態で行ったかどうか記憶が定かでなくてまた最初からやりなおしました。どうも微妙な感じでピシッときまった感じがしないのがもどかしいところです。

 あらためて聴いているとフィッシャー・ディースカウの独唱部分が一番素晴らしいのじゃないかと思い、彼のレパートリーで歌曲以外では宗教曲が一番凄いかもしれないと思いました。そう思っている内にロ短調ミサのソロはヘルマン・プライが歌っていたはずなので、その時はフィッシャー・ディースカウを起用しなかったんだなと改めて思いました。クレンペラーのドイツ・レクイエムはかなり初期に国内盤でもCD化されたはずで、そこそこ定評があったようでした。しかし個人的には他の宗教曲を指揮している時のような重さ、剛直さ、抑制、謙抑の精神があまり前面に出ていないような気がして、その意味でクレンペラーらしくないと、やっぱり思いました。

 作品としても、例えばモーツァルトの「アヴェ・ベルム・コルプス」が人間の手によらないで天から下ったような神秘的な性格だとすれば、ドイツ・レクイエムは対極的で人間の長年の労働によって出来たような作品、様々な境遇から召集された兵士、戦友が慣れ親しんだ軍歌といった位置付けのようです。

 それにしても七つの楽曲の歌詞、対訳を見ていると不思議な構成ですが、第六曲目にはヘンデルのメサイア第三部でも使われている使徒書簡、復活に言及しているコリント人への第一の手紙第15章から歌詞が取られています(「死は勝利にのまれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」)。原文校訂の日本語訳聖書とドイツ語の歌詞を比べてみると、日本語が「死」を二度重ねているのに対してドイツ語では最初が死、“ Tod ” という訳にして、二度目が
地獄、“ Hölle ”という語を使っています。どちらにせよ同じことかと思いつつ。ブラームスの時代のドイツ語聖書は原文から直接訳したのじゃなかったのかなと思いました。
16 1月

クレンペラー・イン・トリノ ショスタコーヴィチSym.9

190116aショスタコーヴィチ 交響曲 第9番 変ホ長調 作品70

オットー・クレンペラー 指揮
トリノRAI管弦楽団(トリノ放送交響楽団)

(1956年12月21日 トリノ,RAIオーディトリアム ライヴ録音 Fonit Cetra)

190116b 昨年末から突如思い出して聴き出した「クレンペラー イン トリノ」のLP、ここでLP箱裏の演奏年月日の表記に気が付き、1955年12月17日と1956年12月21日となっていました。一方CD化されたものにはどちらも1956年と書いてありました。また、クレンペラー年表ではトリノへ客演したという記載があるのは1956年の12月のみなので、LPの記載は誤りの可能性があります。ただ、LPはチェトラなので最初にこの音源を発売したレーベルのはずなので、そんなにいい加減なのかとも思います。同じ都市の同一オケに客演するのに17日と21日というのは中途半端な間隔だとは思っていたので、違う年の客演だとしたら一応つじつまが合います。

 日付のことはこれ以上容易に確認できませんが、トリノでの演奏中で先日のストラヴィンスキーと並んで、或いはそれに次ぐ感銘深い演奏だったのが今回のショスタコーヴィチです。CD化されたものに付いている日本語帯にも両曲が特別と言う風に書いてありました。クレンペラーがショスタコーヴィチの交響曲を指揮するなら第5番や第8番が似つかわしい、諧謔味がこもった演奏と、狭いスペースに念入りに書いてありました(小さくて読めない)。全くそれはその通りだと思い、演奏の方も戦勝とは縁の無い暗くねじれたような気分で貫かれています。それと同時にトリノ公演のレパートリー、ハイドンの時計交響曲、ベートーヴェンの第1番、プルチネッラ組曲らと共に、自身の演奏のクレドで貫かれているようです。それにしても、時計交響曲でも実感しましたがこのチェトラのLPは弦の音が魅力的に聴こえ、当時のトリノRAI管弦楽団はなかなかのものだったんじゃないかと思います。

 クレンペラーは1930年代にショスタコーヴィチの交響曲第4番の楽譜を見て大いに興味を持ち、自身の南米演奏旅行で取り上げたいと言っていました。しかしそれが実現したのかどうか未確認で、結果的にトリノでの第9番がクレンペラー唯一のショスタコーヴィチの交響曲の演奏記録になっています(第1番の録音が残っていたかどうか、よく覚えていない)。昔、自分が十代の頃に聴いた際は暗すぎたことと曲自体があまり好きでなかったので印象が薄く、どういう演奏か覚えていませんでした。公演の曲目からして古典的な様式美を追求するのが主眼なのだろうと思い、クレンペラーのもっと違う面を知りたかったと思ったものでした。
14 1月

クレンペラー・ブダペスト時代 ドン・ジョヴァンニ/1948年

190114aモーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」抜粋~ハンガリー語歌唱

オットー・クレンペラー 指揮 
ドン・ジョバンニ管弦楽団
ドン・ジョバンニ合唱団

ドン・ジョバンニ:ジョルジ・ロゾンツィ(Br)
レポレロ:ミハーイ・セーケイ(Bs)
ドンナ・アンナ:ユーリア・オシュヴァート(S)
ドンナ・エルヴィーラ:ユリア・オロス(S)
ドン・オッターヴィオ:エンドレ・レスラー(T)
マゼット:シャーンドル・レメーニ(Br)
ツェルリーナ:マリア・ジュルコヴィチ(S)
騎士長:ラヨシュ・トート(Br)、他

(1948年10月22日 ブダペスト,国立歌劇場 ライヴ録音 HUNGAROTON)

190114b 正月飾りをとる頃に毎年賞味期限を少し過ぎた、正月用に準備したものがいくつか残ってきます。昔から「毒見、口役」を自認していたので今年も味、臭いを確認しながら取捨選択をしています。乾麺とか缶詰は少々過ぎても大丈夫ということにしていますが、はるか昔(一応平成の歳暮とか)の素麺はさすがにやめておきました。それにしても、知らない間に、徒に世を過ごしているうちに、断捨離に終活ということがより身近に感じられるようになり、同曲異演のCDを購入するのはそろそろ終いかなと思っていたら、年末に急にさらにかさ張るLPレコードにも関心が出てきました。棺桶の中に持っていけるわけじゃないのは当然のことながら、クレンペラーのLPでCDでしか聴いていないものはLPでも聴いておこうと思い、何とか更新のネタは続きそうです。

 これもフンガロトンから出ていたクレンペラーがハンガリー国立歌劇場の監督時代の公演を収録したシリーズの一つで、クレンペラーのオペラ公演での演奏を記録した貴重な音源(歌唱はハンガリー語だけれど)です。ドン・ジョヴァンニはEMIへのセッション録音とケルン放送交響楽団との演奏会形式のライヴ録音がありましたが、舞台上演の記録はありませんでした。ただ、今回の録音は音質が良くなくて、先日のフィデリオより大幅に聴きにくいのが残念です。それに抜粋なのでドラマの進行とその緊迫感が抜け落ちている感じなので、音は悪くても完全版で聴きたいところです。

190114 このドン・ジョヴァンニも「速い」というのがすぐに実感できて、そのために全体の印象が約七年後のケルンの演奏会形式と比べてもかなりの差があります。レポレロのカタログの歌なんかはクレンペラーのテンポに付いて行くのに苦心している風で、かなり前のめりです。しかし曲によってはゆったいと優雅なテンポのものもあって、ドン・オッターヴィオのアリア「Il mio tesoro intanto 
」は大きな拍手を受けていました。クレンペラーは前年の1947年にはウィーン国立歌劇場でドン・ジョヴァンニを指揮しているので、その公演はどんな風だったか興味がわきますが、ウィーンであろうがブダペストであろうが基本的に変わらないはずなので、この抜粋録音が手がかりになります。

 LP一枚の最後にはフィナーレ部分、地獄落ちから最後までが収録されています。ドン・ジョヴァンニが消えた後、ほとんど間を置かずに音楽が始まっているのは意外ですが、石像との対決のところはシリアスで、ワーグナー作品のような感触です。それにテンポがどうであれ、娯楽的な楽しさ、含み笑いが湧くような演奏ではないのはさすが?です。また、これを聴いているとEMIのセッション録音がちょっとぬるい演奏に思えてくるので、もう一度聴き直したくなってきます。逆に1950年代のケルンの方がもっと後年、1970年前後頃の演奏を思い出させます。クレンペラーはモーツァルトのオペラにかなりの熱意を持っていたようで、ドン・ジョヴァンニにもこだわりがあり、そのあたりはこの貧弱な音質からも伝わってきます。
12 1月

ベートーヴェン交響曲第6番 カラヤン、BPO/1962年

190112ベートーヴェン 交響曲 第6番 ヘ長調 op.68「田園」

ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(1962年2月13-15日 ベルリン,ダーレム・イエス・キリスト教会 録音 DG)

 昨夜の帰宅時に阪神高速京都線を通った際、入口で前を行く車のナンバーを見ると「領」という字が見えて、どこかの領事館の車なのに気が付きました。一般道からずっとこちらが後ろを走っており、やけにチンタ、否、制限速度を厳格に守っていると思ったので合点がいきました。昨年ネット上でマフィヤのボスが乗った車をあおったら車を止められて殺されかかるという動画を見たことがあり、この領事館の車にモサドとかIM6のエージェントが乗ってたらそんな暴行されないまでも面倒なことになったか、などと思いながら高速に入ってからは別の車線を走りました。そういえば海自の飛行機のレーダー照射の問題はやっぱりこじれていて、隣の大国があっちのケツ持ちをすると面倒なことになりそうです。

 前回のベームとウィーン・フィルの田園が最新版の「名曲名盤500(レコ芸編)」でどうなっているか確認したところ、その他大勢と同じ3ポイント獲得に留まっていました。それに対してワルターとコロンビアSOが第1位になり、第2位がアバドとベルリン・フィルのライヴ盤でした。ベームと同じポイントの中にはカラヤンの1970年代録音の田園も含まれていました。この超有名作品も毎年再発売なり新録音が出ているので、「大鵬巨人卵焼き」的に大多数が好むものを絞り込めない、打ち出せないという面もありそうです(ついでにアンチ巨人とかも)。それはともかくとして、同じような廉価仕様でカラヤン二度目の全集から田園を聴きました。これはLPもミュージックテープも買ったことはなく、どんな感じかよく覚えていませんでした。

カラヤン・BPO/1962年
①08分56②11分31③3分01④3分25⑤08分46 計34分54
オーマンディ・フィラデルフィア/1965年
①09分19②12分21③3分00④3分45⑤09分23 計37分48
シューリヒト・パリ音楽院管/1957年
①09分22②12分31③4分58④3分35⑤08分37 計39分03
E.クライバー・LPO/1948年
①09分23②13分47③2分58④3分35⑤09分30 計39分13
クリップス・ロンドンSO/1960年
①10分17②12分11③5分52④3分25⑤09分07 計40分52
レイホヴィッツ・ロイヤルPO/1961年
①11分33②12分40③5分06④3分32⑤09分30 計42分21
セル・クリーヴランド/1962年
①09分56②11分53③5分33④3分47⑤10分16 計41分25 
E.クライバー・ACO/1953年
①09分10②14分07③5分14④3分26⑤09分35 計41分32
ベーム・VPO/1971年
①12分10②13分52③5分47④3分41⑤09分42 計45分12
クレンペラー・PO/1957年EMI
①13分04②13分22③6分33④3分43⑤09分12 計45分54
クレンペラー・BPO/1964年
①13分08②13分27③6分41④3分35⑤09分47 計46分38

 改めて聴いてみると心地よくて(良くも悪くも)田園はこれくらい短い作品だったかと戸惑うくらいです。先月の交響曲第4番とは違う感触で、カラヤンに対する批判の内容で見かけるサロン音楽的とかレガート多用の影響かとおもいました。合計演奏時間は第1、2楽章の差が効いているようで、本当に流れるように進んでいきます。ベーム、ウィーン・フィルの第2楽章とでは2分以上短くなっています。リピート有無の影響もあるはずですがベームとは合計時間でも10分以上差が出ています(計算間違いじゃないか?)。もう何年も前にTVのCMで田園の終楽章が使われていたことがあり、画面下に「カラヤン、ベルリン・フィル」という表示が出ていたのでどの年代の音源かなと思って見ていました。それはやたらギラギラとした音にきこえていて、少なくとも今回のものとは違いそうです。

 ところで聴いている間の「心地良さ」はどこから来るのだろうかと思いながら、これは年季が入ったホステスとかの接客を受けている時とちょっと似ている気がしました。別段個人的に濃密な関係があるわけでもないのにそれとなく褒めたり、こちらのことを知っているわけはないのに諸々の辛苦を知っているかのような言い方だったり、そうでなくて込み入ったことは言わないまでも何となく感じが良いと思う場合は時々あると思います(とりあえずレガートしとけ、じゃないとは思う)。そういう心地良さは悪いことじゃなく、対価を払って来店するのだからそうでなくては困るところです。しかし、個人的に田園交響曲は宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」がちらついて、どうしてもそっち系の心地よさ、感動を志向してしまうので、この田園は微妙なところです(掌の上で転がされるような心地も)。
11 1月

ベートーヴェン交響曲第6番 ベーム、ウィーンPO/1971年

190111ベートーヴェン 交響曲 第6番 ヘ長調 op.68「田園」

カール・ベーム 指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(1971年5月 ウィーン,ムジークフェラインザール 録音 DG)

190111a 正月と関係の無さそうなTV番組(再放送か)で、国境を歩くとかの趣旨だった企画があってオーストリアのインスブルックが映りました。観ているとここは行ってみたいと思いながら、小学校の文集では今くらいの年齢にはヨーロッパやアフリカを旅してまわっているはずだったと現実と願望のギャップを寂しく思いました。そもそもそんな身の丈に合わない理想を思いつく一因は「兼高かおる世界の旅」をしょっちゅう観ていたからでしょう(大阪圏の方言に囲まれているので「~ですのよ」という女史の言葉にも萌えていた)。ハプスブルク家にとって影の都がインスブルックなら表の都はウィーン、年明けにラジオでクレメンス・クラウスのニューイヤーコンサートの録音を聴いて俄かにウィーンにも関心が向いてきました。今年はティーレマンだったのに録画も録音もしなかったのでちょと惜しいことをしました。

  ベームとウィーン・フィルのDG盤は超有名だったので中学生の頃、田園のレコードを最初に買おうとした時に選択しました。当時の「名曲名盤500(レコ芸編)」ではワルターとコロンビアSOと双璧ぐらいで、長らくそんな状態だったかと思います。しかし初めてこれを聴いた頃は特別に素晴らしいと思わず、「ウィーン・フィルならではの」美しさもそれほど前面に出ている風じゃない気がしました。もっとも、その当時は田園交響曲自体が九曲のベートーヴェンのシンフォニーの中で特に好きというわけでなかったので、余計に感銘を受け難かったのだろうと思います。だからこれの代わりに特に良いと思う田園のレコードも見つかりませんでした。

ベーム・VPO/1971年
①12分10②13分52③5分47④3分41⑤09分42 計45分12
H.S.イッセルシュテット・VPO/1967年)
①09分48②11分50③5分41④3分41⑤09分39 計40分39
ハイティンク・LPO/1975年
①12分04②12分10③5分28④3分29⑤09分31 計42分42
クーベリック・パリO/1973年
①10分57②14分20③5分51④4分00⑤10分13 計45分21
クレンペラー・BPO/1964年
①13分08②13分27③6分41④3分35⑤09分47計46分38
クレンペラー・PO/1957年,セッション録音
①13分04②13分22③6分33④3分43⑤09分12計45分54

 それからCD化された後、二枚組の廉価盤で聴いていてもやはり印象は変わりませんでした。その頃はベートーヴェンの交響曲からどれか一曲を選ぶなら田園だと思うくらいに傾倒していて、クレンペラーが久々にベルリン・フィルへ客演したテスタメントのライヴ録音を特別に気に入っており、いまでもそれが続いています。久々にベームの方を聴いてみると、第2楽章はうっとりするように綺麗だと感心しましたが、それ以外の楽章は普通の田園といった感想です。ベームのアンチではありませんが、同じ頃にレコードを買ったモーツァルトのレクイエムも似たような感じなので、ベーム人気の頃にごく限られた数のレコードしか買って聴けなかったことも影響しているはずです。

 主題のリピートの関係で単純に比べられないとしてもベームの田園はそこそこ演奏時間が長い方になっています。クレンペラーのEMI盤(全集の中に入っている)と近いくらいなのに「遅い」という感覚にならないのはリピートの加減なのでしょう。第3楽章だけをみると6分以上のクレンペラーが際立っています。ところで田園交響曲の各楽章に付された「田舎に到着したときの晴れやかな気分」という言葉、こういうものは親しみやすく日本人も好きな人が少なくないはずです。田園交響曲のレコードで名演として好まれるタイプはそうした標題を意識したものに傾斜するだろうと思いますが、あらためてベームの田園を聴いているとそうでもなさそうで、反標題と言わずともあまり重視しないタイプのようだと思いました。だから、人気の秘密、原因はどこにあったのだろうと思います(今でもSACDのシングルレイヤー化されるくらいなので人気は衰えていないはず)。
9 1月

マーラー交響曲第6番 クルレンツィス、ムジカエテルナ/LP

190109マーラー 交響曲 第6番イ短調

テオドール・クルレンツィス 指揮
ムジカエテルナ

(2016年7月3-9日 モスクワ 録音 Sony Classical)

 年が明けてからタワーレコードへ注文していたレコード「NATTY DREAD(BOB MARLEY & THE WAILERS)
」を受け取りに寄った際、クーポンが利用できる金額の下限の都合からもう一点購入しようと(まんまと乗せられて)したところクルレンツィスのマーラーがLPでも出ていたのでそれを購入しました(LPレコードの発売が増えていてもこういう単発の新録音でもLP版が出るとはちょっと驚き)。ちょうどカーナビのSDカードに入れてあるベルティーニとケルンRSOのマーラー第6番を聴いているところで、この曲の魅力を再認識しつつ初めて聴いた頃の感銘度を思い出していました。

 
クルレンツィスと言えばショスタコーヴィチの交響曲第14番が強烈に印象付けられる内容で、他にはフィガロも面白いと思っていました。しかしもっと似つかわしいと思ったドン・ジョヴァンニが聴いてみて微妙な印象だったので、購入して聴くのはダ・ポンテ三部作でストップして悲愴も気になってはいても見送っていたところです。なお、アンダンテ楽章は最近の主流?と違い、第3楽章に置いています。合計演奏時間はそこそこ長くて、通常のオーケストラによる演奏と変わらず、インバルと都SOよりも長くなっています。

クルレンツィス/2016年
①24分57②12分49③15分39④31分06 計84分31
パッパーノ/2011年
①24分33②14分14③15分43④30分04 計84分34
ヤルヴィ・フランクフルト/2013年映像
①23分19②14分01③15分02④30分16 計82分38
ジンマン/2007年
①23分50②14分04③13分56④29分49 計81分39
シュテンツ・ケルン/2013年
①23分40②14分47③12分47④29分49 計81分13
インバル・東京都SO/2007
①22分55②13分03③14分26④28分18 計78分42

 それに演奏そのものも思ったより普通というか、美しい演奏です。レコードジャケットのデザイのような荒れて、塗装が剥げ落ちた壁のような感触を予想したので大いに外れていました(内心、これがマーラーか?と思うような演奏を期待していました)。「第6交響曲は二十世紀の破局を本当に予測した最初のシンフォニー」という一文がジャケット裏に載っていましたが、そこまでの深刻な内容を感じさせない演奏だと思いました(英語の訳を間違えていなければちょと齟齬を感じる)。少なくとも第3楽章は緩くて悲劇的、惨事とは遠く、カウベルの音が半端な水琴窟に石を落としたような音なのが残念です。第4楽章は音楽的に美しく、ハンマーの音も角がとれてきこえます。

 それに対して前半の二つの楽章は緊迫感もあり、かなり惹きつけられました。この録音でのムジカ・エテルナの編成は弦の人数が少ないのか、奏法の影響なのかちょっと厚みが足らないようで、その分通常の録音で隠れがちなパートが不意に聴こえたりして、聴く側にも繊細さが求められそうです。だから何度か聴く内に印象も変わるかもしれません。それにレコードプレーヤーの調節がこれでOKかと思ったら、所々であれっ?と思うことがあり、その点でも繊細なようです。
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raimund

昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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