raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2018年05月

30 5月

ショスタコーヴィチ交響曲第5番 インバル、VSO/1990年

180530ショスタコーヴィチ 交響曲 第5番 ニ短調 op.47

エリアフ・インバル 指揮
ウィーン交響楽団

(1990年11月26-29日 ウィーン,コンツェルトハウス 録音 DENON)

 バルトークとショスタコーヴィチの両方のファンでいることは非常に難しい、という説が本当にあったのかどうか、何年か前にラジオ番組か雑誌で読んだ記憶がありました。そういう傾向があったとされる同じ1970年代に、日本では東欧の弦楽四重奏団の方がアメリカのものよりも圧倒的に人気がある、或いは批評家の間でもてはやされるということがあったという話も同様に記憶に残っています。世相を反映してか、それと鉄のカーテンの向こうでよく分からない方が有難みが増すのかもしれません。それはともかく、ブログを始めた2010年以降、発作的に、又は何となくショスタコーヴィチの作品を聴きたいという渇きのような感覚はあってもバルトークはほとんどなかった(最初期に弦楽四重奏曲をチラッと扱った程度)ので、両方のファンでいられないというのもある程度当たっているかもしれません。

180317 新約聖書のイエズスの話の中に「神と富とに兼ね仕えることはできない」というのがありましたが、ショスタコーヴィチとバルトークの作品はそれ程質的に違う内容なのかどうかと思いました。そこでというわけでもなく、先月来の自宅大整理(解体したり処分するわけでなくガラクタをどけただけ)の際に全部の所在が分かったインバルとウィーン交響楽団のショスタコーヴィチから交響曲第5番を聴きました。これはショスタコーヴィチの作品の中でも屈指の認知度のはずで、これに相当するバルトーク作品なら「管弦楽のための協奏曲」か「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」くらいかと思いつつ、どっちも今は特に聴く気にならないと思いました。

インバル・VSO/1990年
①16分53②5分18③14分37④11分29 計48分07
インバル・フランクフルトRSO/1989年
①15分54②5分33③14分18④10分47 計46分32
ビシュコフ・BPO/1986
①14分47②5分56③15分29④12分10 計48分32
バルシャイ・ケルンRSO/1995年
①15分29②5分33③13分19④11分14 計45分35
ウィッグルスワース/1996年
①19分29②5分22③15分32④11分08 計51分31

 久しぶりにこれを聴くと、革命だとかそういう内容とは単純に思えない、当局が絶賛するような音楽らしくない複雑なものという印象で、特に第3楽章に惹かれました。インバルは全集録音の前年にフランクフルト放送交響楽団とも録音していてトラックタイム、演奏時間を比べたら1分半程の差があり、全集・VSOの方が長くなっていました。合計時間の差としては例えばウィグルスワースの51分半に比べれば大したことはないとしても、聴いた印象が冷たくて絶望を隠したような、そんな鬱屈した空気を連想させられ(そこが魅力的)、革命の勝利云々というところとは断絶(とまで言えば大袈裟か?)する質的な差を思わせました。

 インバルとウィーン交響楽団のショスタコーヴィチは確か絶賛と言える程の評判でもなくて、地味な扱いだったと思います。自分自身もDENONのクレスト1000だからとりあえず揃えておこうくらいの熱意でしたが、今回第5番を聴いて急に重みをもって響いてきました。第8番とか第7番が面白そうなので聴き直してみようと思いました(一度は聴いたはずだがよく覚えていない)。ところでDENONのCDは当初トラックの中にさらに細かいインデックス分けがしてあり、クレスト1000の冊子にもそれが載っています。1989年頃に自分が初めて買ったCDプレーヤーにはそのインデックスに対応する機能が付いていましたが、いつの間にかそういう機能が付く機器は見なくなりました。
29 5月

ベートーヴェン 交響曲 第8番 ド・ビリー、ウィーンRSO/2009年

180529ベートーヴェン 交響曲 第8番 ヘ長調 Op.93

ベルトラン・ド・ビリー 指揮
ウィーン放送交響楽団

(2009年6月24-26日 ウィーン,Studio 6,ORF Funkhaus 録音 Oehms)

 ベルトラン・ド・ビリー(Bertrand de Billy 1965年1月11日 - )もN響に客演したことがありましたが、ウィーンを去ってからあまりニュースを目にしなかったのでオフィシャル・サイトのスケジュールを見ました。最近はニューヨークのメトロポリタン歌劇場でルイザ・ミラーやトスカを指揮している他、パリやワイマール、デンマークでコンサートを指揮して、7月にはミュンヘンでさまよえるオランダ人を振る予定になっています。ウィーンに居た頃とちょっとレパートリーが違って来ているようで、ベートーヴェンやモーツァルトの演奏、上演頻度となるとウィーンは特別なのかとも思いました。まだ50代前半なのでこれからの活躍が期待されます。

 これはウィーン放送交響楽団と進めていた(まだ継続??)ベートーヴェンのシリーズですが、その中で特に魅力的だと思いました。ベートーヴェンの交響曲をピリオドオケ以外の通常のオーケストラが演奏する場合、特に今世紀に入ってからは楽器、奏法の面でピリオド楽器の要素を取り入れるなりして何らかの影響下にあることが多いはずです。あまりその要素を意識して強調すると強弱のアクセントが目立ち過ぎたり速過ぎたりして、優雅なとかそういう感覚を楽しみ難いのではと、今回これを聴いて再認識しました。
この録音を聴いていて主な旋律以外の色々なパートがよく聴こえ、交響曲第8番はベートーヴェンの交響曲の中でも特にそんな側面がある気がして、他の有名曲に負けない内容のあるものだと思いました。

 ウィーン放送交響楽団は、オーストリア放送交響楽団を改名したものでかつてはウィリー・ボスコフスキーの下でウィンナ・ワルツを演奏、レコード録音したウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団とメンバーの多くが重なっていたそうなので、改名してウィーンの名を冠するだけのことはあるのだと思いました。この録音も同オケあっての感銘度なのかと思い、どうせなら残る第1、4、9番も収録して完結させてほしいところです。とりあえずは九曲の内で何故か偶数番号の方がより魅力的のようです。

 今回これを聴いたのは普段の装置ではなく、余剰機器を集めたものにFOCALのブックシェルフ・タイプのスピーカーを追加して2chのみの再生装置としたもので再生しました。SACDプレーヤーをデジタルのopticalケーブルで接続したころ、最初はディスクを入れても再生できなかったのでアナログ接続の方を選択して再生できました。これは周波数の違いなのか、通常のCDはデジタル接続を選んでも再生できたのでややこしいものです。FOCALはこのグローバル化の時代(本国の空洞化?)に珍しく、こういうエントリークラスの製品もフランス国内で製造しているそうです。聴いていると製品レビューにある特徴はなるほどその通りだと思い、意外にも器楽曲よりこれくらいの編成のオーケストラが快適に聴こえました。ただ、スタンドにスピーカー本体をネジで固定すような絵がユーザーマニュアルに載っているのに本体にはそういう孔が見つからず?でした(スタンドに乗っているだけでいいと思うから別に構わないが)。
28 5月

H.W.ヘンツェのシンフォニア第8番 ヤノフスキ、ベルリンRSO

180528aハンス・ヴェルナー・ヘンツェ シンフォニア 第8番(Sinfonia N.8  für großes Orchester)

マレク・ヤノフスキ 指揮
ベルリン放送交響楽団

(2007年2月7-9日 ベルリン-ダーレム,イエス・キリスト教会 録音 Wergo)

  ヤノフスキ、ベルリン放送交響楽団のヘンツェ交響曲全集は当初は一枚ずつ出ていたところ、最後にBOX化されて日本語解説まで付いて再発売されたようです。最近は分売で全部発売する前に残った曲を含めてBOX化する傾向が最近ちらほら出ています(ブルックナーとか)。そのことを思えばまだ良心的?な販売ながら、最初から分売時に日本語解説を付けて欲しかったと思いました。どの程度の日本語文章が添付されているのか分かりませんが、それが後から付いて来るとは予想外、判断ミスでした(総統閣下シリーズ的に言えば、~ 足らんかったー、ちくしょうめえ)。

Sinfonia N.8 
 für großes Orchester
第1楽章. allegro(7分41)
第2楽章. allegramente(9分46)
第3楽章. adagio (8分08)

180528b 大オーケストラのためのシンフォニア第8番(交響曲第8番と表記されるものもあった)は、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(Hans Werner Henze 1926年7月1日 - 2012年10月27日)が67歳になる年、1
993年に完成した作品でした。ボストン交響楽団の委嘱により作曲され、1993年に小澤征爾指揮の同オーケストラによって初演されました。全曲を聴いた印象はショスタコーヴィチとマーラーをミックスして薄めたような感じですが、作品評にある「軽やかな拍子と豊かなメロディ」という点はどうもピンと来ません。それでも尖って難解な前衛作品でもないものでした。HMVのサイトには全集化に際してCDの説明だけでなくヘンツェの生涯と思想についても詳しい文章を載せています。このシンフォニア第8番の頃の彼は、既に左翼活動が沈静化して平和主義的な思想に落ち着いて?いる頃のようですが、どのようなメッセージを発しようとしたのか(下記のヘンツェ自身の言葉に従うと交響曲を作曲するのには何らかのメッセージがある)と思ってもすぐには分かりません。

 クレンペラーは戦後よく聴いた現代作品としてこのヘンツェを挙げていたようで、自身が作曲するものとまだ連続するものを読み取っていたかもしれません。ヘンツェ自身はこの作品について次のように述べていました(CDの広告より)。「私は交響曲を書くことをやめられない。私はここで、個人的なものを越えたメッセージのために特別に作られた音楽を多数の聴衆にむけて発信する権利がある。誰も私からこの権利を奪うことはできない、現代の文化的哲学がこの形式がもはや形骸化したと宣告しても---そしておそらくはそう宣告されている」。実際、二十世紀末になって交響曲の新作はどれくらい作られたのか(佐村河内作品くらいか?)。

 ハンス・ヴェルナー・ヘンツェは前教皇のベネディクト16世(Benedictus PP. XVI / Joseph Alois Ratzinger 1927年4月16日)とほぼ同年代でした。二人とも所謂ヒトラー・ユーゲントに加入させられていました。彼らよりも十歳程年長だったハインリヒ・ベルは自らの意志でヒトラー・ユーゲントに加わらずに通していました(召集され従軍はした)。ヘンツェの戦後の変遷をちらっとながめると平和と同じくらい「自由」の重み(自由を制限することの重みも)が浮かび上がって来る気がしました。
27 5月

ワーグナー「ローエングリン」 ビシュコフ、ケルンRSO

180527ワーグナー 歌劇「ローエングリン」

セミヨン・ビシュコフ 指揮
ケルンWDR 交響楽団
ケルンWDR 放送合唱団
NDR 合唱団
プラハ室内合唱団

ローエングリン:ヨハン・ボータ(T)
エリーザベト:アドリアンヌ・ピエチョンカ(S)
オルトルート:ペトラ・ラング(Ms)
テルラムント:ファルク・シュトゥルックマン(Br)
ハインリヒ王:クワンチュル・ユン(Bs)
伝令:アイケ・ヴィルム・シュルテ(Br)、他

(2008年5月30日-6月14日 ケルン,フィルハーモニー 録音 Profil)

 ビシュコフとケルン放送交響楽団らによるこのローエングリン全曲盤は当初から評判になっていたようですが、一昨年くらいにLPも出ることになり、その機に再発売になったようでした(その際に購入して未聴のまま)。主なキャストを見れば良さそうなのは分かり、この録音は慣習的にカットされる第二幕のコーラス等も演奏した完全全曲版ということでも言及される録音でした。作品の解説にはその箇所等も載っているはずですが今回は詳しくそれにあたって確認しませんでした。なお、コーラスのカットはバイロイロでも行われ、ヴィーラント・ワーグナーも「好きではない」という理由で(それだけが理由じゃないかもしれないがクレンペラーにはそう答えている)自分が演出する際にはカットしていました。なお、クレンペラーはヴィーラントに対して、自分もそのカットされるコーラスは好きじゃないけれど自分が指揮する時には全部やりますよ(カットしない)と言ったので、指揮者側としては全部やりたくなることもあるようです(ラインスドルフ然り、バレンボイム然り)。

 これはライヴ録音ではなく、第一幕への前奏曲からして繊細にして滑らかな美しい響きなので一気に引き込まれてしまいます。金管楽器が特に丁寧で、それ以外の楽器もくっきりと浮き上がるように鮮明に聴こえてきます。どういうマイクの配置なのか、近年のオペラ全曲録音でここまでの念入りさは他に無かったのではと思います(ティーレマンのDG盤、パルジファル、トリスタン、指環もこれくらい念入りに製作していたらと)。どういう経緯でこのローエングリンを録音することになったのか、この調子ならパルシファルも素晴らしくなるはず、とか色々思います。

 声楽もコーラスが完璧な美しさで、これならカットされる楽曲も歌わせたくなるとも考えられます。三つの合唱団の共演なのに大したものだと思いますが、マーラーの8番とかの場合もこういうケースはあるので驚くことのないかもしれません。独唱の方もそろっていて聴きごたえがあるものの、何となくアクが強くないというのかペトラ・ラングやファルク・シュトゥルックマンは違う役、演目ではもっと濃厚な、激しい歌唱もあったのではと思いました。故、ヨハン・ボーダのローエングリンは、最初、ボーダはこんな声だったか?と彼の体格を頭に思い浮かべながら配役表を確認したくらいでした。コントロールされて美しいという点では他のキャストと足並みが揃っている感じですが、グラール語りや最後のひと声のところなんかはもう少しジークフリート等の声に傾斜しててもよいかとも思いました。

 一応印象のようなものを並べたものの、全体としてはとにかく素晴らしくて、これは録音に当たってビシュコフが明確な方針、テーマを掲げて徹底させるとか、特別な準備をしたことをうかがわせる内容でした。たまたまこれを聴く直前にヤノフスキのSACDを部分的に聴いていて、短期に録音(演奏会形式に際してのライヴ録音)したヤノフスキと比べると、適当な言葉が見つからないのが残念ですが、ビシュコフの方がコーラスの隅々にまで神経が行き届いているような独特の念入りさが出ていたと思いました。
26 5月

クレンペラー・PO レオノーレ序曲第3番/1954年

180526aベートーヴェン レオノーレ序曲 第3番 作品72a

オットー=クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

(1954年11月 ロンドン,キングスウェイホール 録音 EMI)

 ベートーヴェンが歌劇「フィデリオ」のために作曲した序曲は何種も残っていて、フィデリオの序曲として定着してきたもの以外に「レオノーレ序曲」第1~3番と呼ばれる曲がありました。中でもレオノーレ序曲第3番は管弦楽曲として単独で演奏されて有名です。自分の場合も自宅にあったレコードブックスの断片、オーケストラ編の中にはこの曲が入っていました(日本のオーケストラによる)。それで小学生の頃に古いモジュラー・ステレオで何度も聴いていて結構気に入っていました。中学生になってこれがベートーヴェンの作曲だったと意識してちょっとかしこまって聴くようにもなりました。

 ~ クレンペラーの「レオノーレ序曲第3番/EMI」
1954年:13分31/フィルハーモニアO
1963年:14分38/
フィルハーモニアO

 今回の録音はクレンペラーがEMIへ録音した最初期のもので、1954年にレオノーレ序曲第2番とあわせて録音しています。CDはエロイカの初回録音(1955年,モノラル)とカップリングされたものでした。クレンペラーのこの曲の録音と言えば1963年の二度目の録音の方が有名でした。しかしエロイカの方は旧録音の方が当初から評判が高かったので、それと同時期の録音なので期待が高まるところです。

 久しぶりに聴いてみると、演奏の前に音が古い、良くないことが目立ってちょっと戸惑いました。たまたま直近に聴いたのがSACDのローエングリンだったので半世紀以上のレコード録音とはかなり違うことを再認識しました。それと同時に自分の中で「クレンペラーのレオノーレ第3番」として刻み込まれているのは再録音の方で、しかも初めて聴いたのが歌劇「フィデリオ」に挿入される形態(多分そうだったはず)なので強烈に印象付けられていました。今回の旧録音はそれに比べると簡潔過ぎる、あまり血が通わない冷たいような印象でした。同時期のエロイカ旧録音が製錬の窯から出たばかりで赤黒く輝く金属のような凄まじさだったのと比べてもちょっと軽い気がしました。この録音も確か板起こしとかリマスター盤に入っているはずなので、その内に聴き直したいと思います。

 クレンペラーはこの曲も含めてフィデリオ絡みの四つの序曲をEMIへ二度録音していました。オペラのフィデリオは一度だけ全曲録音していますがこのオペラに対する関心の高さがうかがえます。1920年代にベルリンのクロールオペラで上演したり(クロールオペラで芸術的に最も成功した上演として、オイディプス王、オランダ人、フィガロと並んでフィデリオを挙げている)、EMIと契約してからロンドンのコヴェントガーデンでも自ら演出して上演するなどかなり重要なレパートリーになっています。なお、クロールオペラで最初にフィデリオを上演した時は酷評され、アルフレート・アインシュタイン(クレンペラーが最も重要視した批評家)でさえ「精神の優雅さを欠き、インスピレーションを欠く演奏」と評したようです。不評の原因の一つとしてクレンペラーは様式化された舞台セットを挙げていて、クレンペラー自身はこれを支持していました。

24 5月

チャイコフスキー交響曲第5番 ポリャンスキー/2015年東京

180204aチャイコフスキー 交響曲 第5番 ホ短調 作品64

ワレリー・ポリャンスキー 指揮
ロシア国立交響楽団(シンフォニック・カペレ)

(2015年7月18日 東京芸術劇場 ライヴ録音 Fine Nf classic)

 これは昨年12月に急きょ発売されたポリャンスキーとロシア国立交響楽団の来日公演の中から、一回にチャイコフスキーの三曲の交響曲(第4、5、6番)を演奏するプログラムの東京公演を収録したものです。今回は最後の第5番です。既に何度か聴いていますが今回改めて第5番を聴いていると、ダーンという物音が最低二度はきこえてくるのが分かり、どうもポリャンスキーの足音のようでした。フォルテの合奏になる直前か、出番になる楽器群の方に向きを変えるタイミングかもしれません。自分が聴きに行った大阪公演の際にも指揮台を置かず、すり足のように移動して向きを変える指揮ぶりだったのでその姿を思い出しました。
 

ポリャンスキー・RSSO/2015年
①14分47②12分25③06分00④12分05 計45分17
ポリャンスキー・RSSO/1993か95
①16分15②15分11③06分10④13分27 計51分03
スヴェトラーノフ/1993年セッション
①15分34②15分11③06分03④13分37 計50分25
スヴェトラーノフ/1990年ライヴ
①14分01②14分16③05分17④12分44 計46分18

180524a 上は同じロシアの指揮者、ポリャンスキーとスヴェトラーノフがライヴとセッションの両方でこの曲を録音したCDのトラックタイムです。ライヴは二人とも東京公演の際に録音したものですが、その際の演奏がセッション録音よりも5分程度短目、速くなっているのも同じ傾向です。なお今回のポリャンスキーの終楽章には演奏直後の拍手、歓声も入っていますがそれは省いた演奏時間です。客席が埋まっている方がちからが入り、テンポが上がるという単純な原因なのか、演奏会場の音響を考慮してのテンポ設定なのか、とりあえず今回の第5番は終楽章のコーダが近づくにつれて加速していくような興の乗り方でした。

 2015年のポリャンスキーの来日公演は会場(自分が聴いたのは大阪)でも聴き、過去に聴いたレコード、CDのどれよりも感銘深くて自分の中で作品が占める重みが変わるくらいでした。第5番は悲愴交響曲と比べて心理的、精神的に迫るよりもフィジカルな方の爽快感に訴えるタイプというイメージでしたが、前回の第4番と同様にそれと同じくらいかそれ以上に前者の方にも訴える内容だとしみじみ思いました。だから解説冊子に載った「赤いカラヤン」という他の指揮者を引き合いに出した評はあまりピンと来ないと改めて思いました。

 その解説文の中に、ポリャンスキーは客演して短期にオーケストラを掌握して本領を発揮(自分の思うような演奏をする)できるタイプではなく、長期に渡り手塩にかけてオーケストラを訓練してからでなければ自分のやりたいようにできないタイプだと評しています。また、東西冷戦終結後に旧東側のオケがそれまで持っていた個性が薄まるという状況にあって、本来オーケストラの個性的な響き、その団体ならではの色あいは、本拠地のホールの音響も含めて長期に渡って指揮者とオーケストラが一体となって熟成していくものだとして、昨今の画一化、均一化を残念がっています。
23 5月

ブルックナー交響曲第3番 ネルソンス、LGO/2016年

180523aブルックナー 交響曲 第3番 ニ短調 WAB103(第3稿1888/1889年ノヴァーク版)

アンドリス・ネルソンス 指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

(2016年6月 ライプチヒ,ゲヴァントハウス ライヴ録音 DG)

 今月に入って大学スポーツのアメリカン・フットボールで大騒動になって驚いています。体育会系とは無縁の自分も新入生の時、校門をくぐったところでアメフトに勧誘されたことがありました(不合格で一年余計に勉強することになった合格発表の時も誘われた)。それにしてもネットで拡散した件の動画を見るとまるで極道映画でヒットマン・鉄砲玉が対立する組の幹部にドスを持って突っ込んで行く図にそっくり(背後から行くのまでそのまま)で、鉄砲玉に仕立てられる過程から事件後の対応までヤクザ映画を地で行くのに驚きます(組員を将棋の駒としか思うとらんようやのうetc)。ただ、学生が単独で謝罪会見に及んだ点だけが違い、堅気の感覚に引き戻してくれました。不祥事と言えば京大のアメフト部も部員が警察沙汰(逮捕、起訴、有罪確定)になって出場辞退をしたことがありましたが、今回のは試合中の事件なので異例中の異例です。

 それにしても、なにはともあれブルックナー、先日の交響曲第7番に続いてアンドリアス・ネルソンスとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のブルックナー・シリーズから交響曲第3番です。ブルックナーの交響曲一曲とワーグナーの管弦楽曲を組み合わせているこのシリーズ、今回はタンホイザーの序曲を末尾に収めています。そういう企画、構成なのに演奏自体はワーグナー風を思わせるタイプでもなくて、むしろシベリウスの後期作品のような繊細な美しさを感じさせます。

180523b 第4番が特にそういう印象が強かったので、ブルックナーの交響曲の中でも個人的に最も疎遠な第3番が親しみやすくなっていることだろうと期待しました。しかし最初に聴いた時は穏やか過ぎて戸惑うくらいで、ゆったりした日常の反復、それによる幸福感があふれる世界にブルックナーらしくないような驚きを覚えました。ブルックナーの交響曲は後期の大作でなくてもどこかしら非日常を意識する高揚(祝典的であったり典礼的のようでもあったり)、断崖か高嶺威を前にしたような圧感が特徴だと思いますが、この第3番はそうした感覚が抑えられ、目立たないようにでもしている感じです。

ネルソンス・LGO/2016年
①23分49②16分42③7分03④13分03 計60分37
ヤノフスキ・スイスロマンド/2011年
①20分48②14分26③6分25④11分37 計53分16
ヴァント・北独放送SO/1992年
①20分55②13分10③6分44④12分43 計53分32 

 同じ稿・版による演奏のCDでトラックタイムを比べると上記のようになり、第3番にしては長目の演奏時間になっています。ヴァントの演奏とは受ける印象として対照的なのでこういう時間の違いもなるほどと思います。ヴァントの第3番だったら終楽章はもっと険しくて、岩の断崖がそびえるのようで、背筋が伸びたような記憶があります。それにしても、付属冊子に載っているネルソンスの写真は嬉しそうな表情ばかりなので、やっぱりブルックナーが演奏できて幸せという本音なのかと思いました(ネルソンスの息継ぎのような音もよくきこえた)。あと、過去記事の第4、7番の時も思いましたが、このシリーズは弦の人数を減らすとか何らかの工夫をしているような響きです。
22 5月

クレンペラー、メニューインのベートーヴェンVn協奏曲/1966年

180522bベートーヴェン ヴァイオリン 協奏曲ニ長調 op.61

オットー・クレンペラー 指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

イェフディ・メニューイン:ヴァイオリン

(1966年1月30日 ロンドン,ロイヤルアルバートホール 録音 Testament)

 先日のクレンペラーとニュー・フィルハーモニア管弦楽団、メニューインによるベートーベン、ヴァイオリン協奏曲について、同じ時期の定期公演の記録がTestament から出たシリーズの中に含まれていました(1957年のシェリングとの共演以外にも録音があった)。BBCがラジオ放送するための音源のようで、当日のプログラムはフィガロの結婚序曲、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、ベルリオーズの幻想交響曲でした。クレンペラーの1966年代後半のニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのライヴを集めたこの一連のCDはモノラル録音はいいとしても音質はあまり良くないのが残念です。しかし、今回のベートーヴェン・ヴァイオリン協奏曲はセッション録音よりも少し好印象でした(同時期の演奏なのだから基本的には同じだとしても)。

 今回のライヴの方がメニューインのヴァイオリンがより魅力的で、特に第二楽章がそう思いました。しかし第一楽章は今回の方が無造作で、何か荷物を投げだすような感じがして、堂々たる威容という面ではセッション録音の方が目立っていた気がします。同じ年の一月に演奏した曲で、公演のライヴ音源とレコード録音とでは以下のように演奏時間に差が出ています(ライヴの終楽章は拍手部分をカットして換算)。かつてLPレコードの解説に載ったクレンペラーの法則、「音響効果の良いキングスウェイホールで最も遅く、最も乾燥しているロイヤル・フェスティバルホールが一番速く演奏(マタイ受難曲の冒頭合唱を例に説明していた)」、はここでも活きていました。

~1966年1月、クレンペラーとメニューインによるベートーベン
ライヴ/フェスティヴァルホール
①23分30②09分48③09分40 計41分58
EMI/キングスウェイホール
①24分19②10分21③10分05 計44分45

180522a なお、テスタメント社のサイトからこれらのCDの解説の日本語訳がダウンロード出来て、公演当時の批評が引用されているのが面白いところです。それによると Guardian 紙は事前評として「魔術師と孤高の巨人の異例の共演!」と掲載し、「巨人は単調さには手厳しいし、魔術師は時々間違った‘呪文の書’を使う」とも警 告していました。そしてレビューでは「この共演は独自のスタイルを確立した…緩徐楽章では天上の音 楽であるかのような美しさが聴かれた…終楽章はリラックスした民族舞曲のようで、《田園》交響曲を 彷彿とさせた」と評しました。Times 紙は事前評として「このような個性の強い二人のアーティストのコラボレーションは、尋常ならざる演奏を引き出す可能性がある」「失敗したとしても、それは栄光の失敗だ」と掲載し、コンサート後には「成功と言ってよい」と断じました。

 事前評まで出るとはさすがロンドンと感心しますが、事前評を出さなかった二紙も以下のように称賛しています。theDailyTelegraph 紙は「熟練しており感動的」、DailyMail 紙は「メニューインの描き出すつややかな音色の甘く清らかだったこと!かつてない内的な感動に心を奪われた」と。やっぱりメニューインも良かったとしているようです。なお、クレンペラーとメニューインの共演は1938 年11 月にロサンジェルスでシューマンのヴァイオリン協奏曲を演奏して以来だったそうです。
21 5月

クレンペラー・劇音楽「エグモント」抜粋 ニルソン、PO/1957年

180521ベートーヴェン 劇音楽「エグモント」作品84~抜粋

オットー=クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

ビルギット・ニルソン:ソプラノ

①序曲
②クレールヒェンの歌 「太鼓は響く」
③クレールヒェンの歌 「喜びに満ち、悲しみに満ち」
④クレールヒェンの死

(1957年10月21,25日,11月21日 ロンドン,キングスウェイホール録音 EMI)

 ベートーヴェンのエグモントと言えば序曲が有名で、コンサートのプログラムに入ったりアンコールで演奏されます。今回のものはベートーヴェンが演劇の「エグモント」のために書いた序曲を含んで十曲の楽曲から、序曲とクレールヒェンの歌が二曲と管弦楽曲が一曲が入っています。ベートーヴェンの交響曲と併せて収められ、田園や第九とカップリングされたCDがありましたが、今回聴いたのは国内盤SACD・シングルレイヤーで交響曲第4番とあわせて一枚に入っています。シングルライヤーならもっとディスク容量があるはずなのに通常のCDと同じくらいの時間、その上二枚分くらいの値段なので当初はスルーしていました。それがタワーレコードのワゴンセールか、店頭限定のセールのようなもので値下がりしていたので試しに買ったものでした。音質の方は確かに聴きやすいとは思うものの、全九曲をシングルレイヤーに変えるとまでは思い難い、なんとも言えない印象でした。Altus から出たウィーン芸術週間のベートーヴェン・チクルス程の改善度ではないと思いました(そちらは元々がライヴ音源だし)。

 序曲以外ではニルソンが歌う二曲はきれいでもちょっと単調な印象ですが、歌詞対訳を見ながら聴いていると悲劇的なストーリーが目にうかびそうです。クレールヒェンはネーデルランド独立運動の首魁、エグモント伯の恋人です。刑場に引かれていくエグモントの前に立ち、自らも毒をあおり死ぬというストーリーのようです。やっぱり序曲が一番強烈で、その「刑場に引かれていく」という光景が本当に似合いそうです。死刑になるのになぜか勝利の予兆のように終わるのも魅力的です。

 「情熱の氷漬け」というのは故、宇野功芳氏がクレンペラーの芸風を説明するのに使った言葉の一つでしたが、このリマスターされたエグモントは何となくその言葉がぴったりきそうでした(元来その氷漬けという評はあまり好きではなかったが)。この曲は弾むような、又はほとばしるような激しさを期待しますがクレンペラーの場合はそうではなくて、対極な水晶の巨石を積んで組まれた牢のようなのに迫真の魅力です。

 「アート・オブ・コンダクティング」と言う往年の指揮者のリハーサル映像や公演の映像を切り貼りしてメニューインらが解説するという映像ソフトがあり、その中でクレンペラーがエグモントのリハーサルをするところが出てきます。指揮台でヴァイオリンを弾く仕草をして「パンパン ぱパンパーン」と旋律を口ずさんだり、突然譜面台を叩いて「何で言われたように弾かんのじゃ?!(Why not take ・・・I ・・・)」と怒り出しています。お馴染みな場面ですが、この1957年の録音時にもそういう場面があったのかどうか。
20 5月

クレンペラーのベートーヴェンVn協奏曲 メニューイン/1966年

180519ベートーヴェン ヴァイオリン 協奏曲ニ長調 op.61

オットー・クレンペラー 指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

イェフディ・メニューイン:ヴァイオリン

(1966年1月 ロンドン,キングスウェイホール 録音 EMI)

 先月来の「開かずの間大整理」にあわせてCD(の一部)を組立式ラックに収納することにして、去年の盆前に購入していた二列九段のラックをようやく開封、組立しました。クレンペラーのCDは全部ラックに収めようとして一点ずつ確認していたら、EMIへのベートーヴェン・ヴァイオリン協奏曲が最初にCD化された版が無いのに気が付きました。確かあったはずだと思い、再度見直しても一枚1300円の国内盤しか見つかりませんでした。他の曲は同一音源につき二、三種はあるのに残念でした。メニューインのこの曲のレコードは他にも名演の誉れ高いものがあったので、クレンペラーとの共演盤は地味な扱いになりがちでした。

 クレンペラーの録音の中でセッション、ライヴ等を含めても協奏曲はそんなに多くはなくて、EMIのレコードではリストとシューマンのピアノ協奏曲、ブラームスのヴァイオリン協奏曲、モーツァルトのピアノ協奏曲第25番、ホルン協奏曲、それからベートーヴェンのピアノ協奏曲全部とヴァイオリン協奏曲くらいです(あとはブランデンブルク協奏曲)。トラブルが多いクレンペラーが最晩年にさしかかった時期にはなかなか協調?してコンチェルトのレコードを作るのは難しいというのは何となく想像できます。

 今回のベートーヴェン・ヴァイオリン協奏曲は、クレンペラーが指揮しているベートーヴェンという点では魅力的だと彼のフアンとしては思うものの、協奏曲の妙とか独奏部分の冴え等の点では今一つではないかと思いました。全体的には1959年にシェリングと共演したフィルハーモニア管とのライヴの方が立派だと、記憶をたどるとそう思えました。しかし、今回の方は特に第三楽章は田園交響曲の終楽章に通じるような、明朗で幸福感にあふれたものが前面に出て、それはメニューインにもよく合っているのではと思い、作品のジャンルは別にして独特の感動を覚えました。

 個人的にこの曲はヴァイオリン協奏曲の中でも特に好きで、中一の頃にレコードを買いに(独りで校区外へ行くのは校則違反)行き、フェラス、カラヤンのDG盤が店頭に唯一あったのが最初の一枚でした。この曲はどんな演奏、録音でも親近感が湧くという珍しい例外なので、そのカラヤンとフェラスがどんな風だったかよく覚えていません。その後長らく同局のレコードは買わなかったので多分不満は無かったものと思います。それにしてもクレンペラーがEMIへレコード録音している曲は原則的にフィルハーモニアの定期でも演奏しているので、このヴァイオリン協奏曲ももっと早期にレコード録音する可能性もありました。テスタメントのCDの紹介文の中に、1957年にベートーヴェン・チクルスの公演を行った際にはトッシー・スピヴァコフスキーの独奏でヴァイオリン協奏曲も演奏して、レコード録音の提案もあったもののクレンペラーがそれを拒否したと載っていました。そういう経緯なのでニュー・フィルハーモニア管弦楽団になってからようやく録音したということのようです。
18 5月

マーラー交響曲第8番 ド・ビリー、ウィーンRSO/2010年

180518マーラー 交響曲 第8番 変ホ長調

ベルトラン・ド・ビリー 指揮
ウィーン放送交響楽団
ウィーン・ジングアカデミー
ウィーン少年合唱団
スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団

リカルダ・メルベート(ソプラノ)
エルザ・ファン・デン・ヘーファー(ソプラノ)
エリザベータ・マリン(ソプラノ)
ステラ・グリゴリアン(アルト)
ジェーン・ヘンシェル(アルト)
ヨハン・ボータ(テノール)
ボアス・ダニエル(バリトン)
ユン・クヮンチュル(バス)

(2010年3月27日 ウィーン,コンツェルトハウス・大ホール 録音 Oehms)

 昨年三月の京響定期公演にこの曲が演奏されると決まって発売当日の夜、ちょうど年末の第九公演初日だったので窓口へ行ったところ、発売開始後50分弱で二日分が完売したと言われて唖然、茫然としました。少年合唱団の保護者がまとめ買いに走った等諸説ありましたが、東京でもないのにこの瞬殺完売は解せない(なんぞ裏があるんかいのう)とあきらめきれない気分でした。それで今年の9月30日にびわ湖ホールでこの曲が演奏されるので、友の会に入った上で先行申し込みしました。10時の15秒前に電話をしたらまだつながらず、もう一度かけ直したら今度は話し中だったのでネット経由で無事にチケットをとれました。

 そこまで情熱を燃やすくらいにこの作品について深く理解しているわけでもなく、昔から今一つよく分からないと思っていました。ここ十年でブログのかたわらで時々聴いていると、ファウストの終景や聖霊降臨の賛歌を歌詞に使っていることも意味がありそうで、思わせぶりなだけじゃない、作曲者の共感や願望に通じているような気がしてきました(もやっと、おぼろげに描かれようとしている世界が見えそうな)。

 ベルトラン・ド・ビリーとウィーン放送交響楽団のライヴ録音は、一曲だけ出ていた彼のマーラー録音で、CDは交響曲よりもオペラ(映像ソフトも含めて)の方が多かったのであまり期待せずに、珍しいからと購入していました。しかしそれが聴いてみるとかなり素晴らしくて、オーケストラ部分が美しく録音されているのでこれはやっぱり交響曲と呼ぶだけのことはあると実感していました。独唱者は特別に印象に残らないもののコーラスは弱音のところから素晴らしくて、冒頭のコーラスからして力まかせに演奏しないド・ビリーの指揮とぴったり合っています。マーラーの交響曲を順次録音していても第8番を残してしまう場合(マーツァルとか、まだ未完と決まってないけど)もあるのに、最初にこれを録音したのなら、続けてマーラーを録音して欲しいと思いました。声楽付きの作品や第6番なんかも期待できそうです。

 ところで今年の聖霊降臨は明後日に迫ってきました。聖霊降臨はクリスマスやイースターのように福音書には記載が無くて、使徒行録に出てくるもので、前二者が密かに、立ち会った人が少ないのに対して半ば公然とした出来事なのに、今一つ祭り感が希薄な大祝日です。マーラーは聖霊降臨の方に関心が強かったのか、ファウストの終景の方がメインだったのか、いずれにしても作品を聴くと二つがよく融和しているように思え、現在進行形、未来に希望が持てるような気にさせられます。
17 5月

ベートーヴェン交響曲第9番 セル、クリーヴランド管弦楽団

180517aベートーヴェン 交響曲 第9番 ニ短調 作品125

ジョージ・セル 指揮
クリーヴランド管弦楽団
クリーヴランド管弦楽団合唱団(合唱指揮ロバート・ショウ)

(1961年4月21,22日 クリーヴランド,セヴェランス・ホール 録音 Sony Classical)

180517b 昨日の深夜、日付上は5月17日の午前に何故か目が覚めて(最近日付が変わるとランランと目がさえて来る)、NHKのETV特集の再放送を見ました。これは福島第一原発の帰還困難区域に精神病院が複数あったので入院患者を転院させるため、入院患者の状況を調べたところ30年とか50年の長期に渡って入院している(させられている)人がいること、九割以上が入院の必要が無いこと、さらには本来精神病院とは無縁の知的障碍者が居る等の実態が判明したことについて、日本の精神病院・医療の在り方を問うという内容でした。日本は世界中の入院患者の二割が集中する精神病院大国として世界的にも有名であり、そのような事態になった経緯も説明されていました。

 経済成長期に突入する頃、昭和三十年代に国家的経済損失を防ぐための精神病患者を隔離する政策がとられ、1987年に国連の批判を受けて法改正が行われたものの、なかなかその体制から抜け出せないという話は、最近ようやく注目され出した強制不妊手術共々ナチ的政策が戦後日本でも活きていたことを再認識しました。戦中の国家総動員体制の価値観が目的を変えて生きながらえていたようで戦慄しますが、それはさて置き、50年!も入院させられ77歳になって車いすで退院した男性が自由は嬉しいと喜んでいる姿を見てひたすら魂が震える思いでした。

セル・CLO/1961年
①15分34②11分23③15分20④24分00 計65分17
オーマンディ・フィラデルフィア/1964年
①15分17②13分49③15分11④23分55 計68分12
クレンペラー・PO/1957年EMI
①17分00②15分37③14分57④24分23 計71分57

 さて、ベートーヴェンの第九と言えば「プラハの春音楽祭」や「バイロイト音楽祭」で演奏されたり、クレンペラー没後の追悼演奏会でも取り上げられる等、年末でなくてもここ一番で演奏されることがよくありました。クレンペラー誕生日後間もない今週は、クレンペラーとも所縁のあったセルとクリーヴランド管弦楽団の第九を聴きました。新たにリマスターされたSACDで聴いたところ、既存のセル指揮のベートーヴェンのイメージ以上に生真面目で規則正しい演奏に驚き、特に第1楽章が素晴らしいと思いました。

 その反面、第4楽章の声楽が入るところからはどうも野暮ったいというか、荘厳さのような空気が乏しいようで(本来がそういう作品なのか)、工場フル稼働の第九というイメージで微妙な印象でした。しかし、セルが歌詞を口ずさんでいると思われる声もきこえてきて、セル自身はかなり作品に没頭しているようでもありました。

 演奏、録音年が近いCDのトラックタイムをながめると、同じアメリカのオーケストラを指揮していながらオーマンディよりもセルはさらに速い、短い演奏時間になっています。スケルツォ楽章は速く、アダージョ楽章はゆったりとメリハリを強調して配分しているのが分かります。こういうパターンの演奏が多いとしても、第九を最初から通して聴くとクレンペラーのとった楽章の時間配分が効果的なのに気が付き、神童の誉れ高いもセルもそういう個性的、あるいは自分のやり方に徹しているようではないようです。
16 5月

チャイコフスキー交響曲第4番 ポリャンスキー2015年来日

180516チャイコフスキー 交響曲 第4番 ヘ短調 作品 36

ワレリー・ポリャンスキー 指揮
ロシア国立交響楽団(シンフォニック・カペレ)

(2015年7月18日 東京芸術劇場 ライヴ録音 Fine Nf classic)

 連休前から自宅の「開かずの二間」の整理をしていてようやくそこが使えるようになり、おかげで行方不明だったものも色々出てきました(ここにあったか! しかし金目のものは無し)。その中でサッカー・ワールドカップの試合を録画したブルーレイ、DVD(1998年大会はVHS)もあり、今年もワールドカップの年だということ再認識するきっかけになりました。日本のサッカーも直前に監督を更迭するとか一人前?の振舞いをできるようになったと思いながら、監督が代わってもグループ・リーグ突破は困難なことに違いないように見えます。自国代表は大らかな気持ちで応援するとして、強豪国の試合を楽しんで観たいと思います。日本と同じ組になっているコロンビア、前回は欠場だったファルカオが加わってますます強力になっているのも気がかりです。

交響曲 第4番 ヘ短調 作品36
第1楽章 Andante sostenuto - Moderato con anima 
   - Moderato assai, quasi Andante - Allegro vivo
第2楽章 Andantino in modo di canzona - Più mosso
第3楽章 Scherzo: Pizzicato ostinato. Allegro - Meno mosso
第4楽章 Finale: Allegro con fuoco

 その開催国がロシアだからというわけでもなく、今回はこれまで何度となく聴き、ブログで扱おうとしてそのままになっていたポリャンスキーの来日公演のCDから、チャイコフスキーの交響曲第4番を聴きました。この曲はチャイコフスキーの交響曲第4から第6番の中でいちばん爆演的な派手な演奏が似合うとか勝手に思っていました。しかし、2015年のポリャンスキー来日公演を会場(大阪のザ・シンフォニーホール)で聴いて、さらにこのCDで反復聴いている内にそういうイメージが薄くなり、もっと高貴で優美な内容の音楽だと思うようになりました。CDの付属冊子にはポリャンスキーの「赤いカラヤン(共産圏のカラヤン)」という呼称について、アダージョ・カラヤンのイメージのカラヤンだと評していますが、CDを聴いた印象ではもっと繊細だと感じられました。

ポリャンスキー・RSSO/2015年,東京
①18分06②09分52③05分13④08分56 計42分07
ポリャンスキー・RSSO/1993か1996年
①19分12②10分10③05分29④09分47 計44分38
スヴェトラーノフ・1993年(セッション録音の方)
①18分47②11分29③06分09④08分36 計45分01
テミルカーノフ・ROPO・1990
①18分04②11分12③05分33④08分41 計43分30
ロストロポーヴィチ・LPO・1976年
①19分30②10分32③05分31④09分13 計44分46

 ポリャンスキーは1970年代から既に西側でも知られた存在だったいうことですが、シャンドス・レーベルに1990年前後からロシア系の作品を録音していました。その中にはロシア正教の音楽やブルックナーの最初期のミサ曲も含まれていて、特に後者を録音していたのは驚きでした。この交響曲第4番も当然録音していましたが、今回の来日公演ではその旧録音よりも短めの演奏時間(第4楽章の終了後の拍手部分の時間はカット)になっています。それでも突っ走るような、雑な風にはならずに悲愴交響曲と同じ土壌から生まれたと思わせる情緒的な内容です。

 チャイコフスキーを主役にした映画、タイトルが「チャイコフスキー」だったかどうか記憶は定かでないけれど、とにかくその映画を学生時代に観たことがあり、四頭立てくらいの馬車が疾走する場面で交響曲第4番の冒頭が流れていました。映画館なので大音量であり、演奏もマッチョなタイプだったのでその演奏、音響がかなり強く刷り込まれていました。それが作品観にかなり影響していたのは間違いなく、だからポリャンスキーのCDを最初に聴いた時はどこかしら物足らない印象もぬぐえませんでした。映画を観た場所は四条大宮にあった「コマゴールド」で、トスカニーニという映画と二本立てだったかもしれません。もうその映画館もとうに閉館して、大宮にもうひとつあった東映の映画館も無くなっています。今では大宮よりも西院の方が賑わっているくらいでも西院に映画館が出来る程ではないので、街の活力という点では進化はしていないのかと寂しい気もします(映画館なんか若者よりも年配の者に似合いそう)。
15 5月

クレンペラー、PO 1957年のベートーヴェン交響曲第2番

180515bベートーヴェン 交響曲 第2番 ニ長調 op.36

オットー・クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団 

(1957年 ロイヤル・フェスティヴァル・ホール録音 Testament)

 さて、毎年恒例のクレンペラー誕生日も過ぎた翌日の今日は、「残り福」的に引き続きクレンペラーの録音を聴きました。ついでに5月15日は葵祭りの日でもありました(暑いからわざわざ行列を観に行かなかった)。先日のM治製菓のぬいぐるみ、アルマジロの他にもシリーズ的に類似品があり「くたくたジャガー」というのも持っていたのを思い出しました。そっちの方は現物が見つからず、もう廃棄してしまったようです。これらは抽選ではなくて、規定の点数を集めて応募すれば全員がもらえたのかもしれず、だいたいクジ運が悪い自分が二つも持っていたのでそうとしか考えられません。あと応募して貰えたのはN谷園のお茶漬け海苔で貰える浮世絵カードくらいでした。それはともかく、クレンペラーの同曲異演のCDも今世紀に入って急速に増えてきました。

~クレンペラーのベートーベン第2番
PO/1957年11月公演
①12分47②11分16③3分12④6分26計33分43
PO/1957年10月・EMI
①13分24②13分07③3分56④7分01 計37分28
BBC/1955年12月11日
①12分48②12分12③3分46④6分50 計35分36
PO/1960年5月29日:ウィーン芸術週間
①13分25②11分55③3分46④6分44 計35分50

 
今回のベートーヴェン交響曲第2番は、クレンペラーがEMIのレコードのためにセッション録音した直後の公演(フィルハーモニア管弦楽団の定期)をライヴ録音したものであり、当時BBC放送で放送するためのものだったようです。クレンペラーはレコード録音をする際にはフィルハーモニアの定期に合わせて、その練習期間中か公演後あたりに行っていました。例えばシューベルトのザ・グレートはレコード用に三度演奏・録音して結局三度目が採用になったとか。そういうわけでこのベートーヴェンの第2は、演奏の年月日も接近していてほぼ同時期であり客が座席に座っている公演かどうかの差と、会場がセッション録音の方がキングスウェイホールであったのに対してライヴ録音がロイヤル・フェスティバルホールだったという違いがあるだけです。

 ところが演奏時間、トラックタイムは結構差があって第2楽章だけで2分弱も違っています。この楽章は主題反復有無の影響なのか、そうでなかったとしても他の楽章も少しずつライヴ録音の方が短い(速い)ので、やはりテンポに差がでています。このように演奏会場の違いによってテンポが違うことについて、クレンペラーの国内盤LPの「メサイア」の解説冊子の中に言及されています(「オットー=クレンペラー」というタイトルであるが誰が書いたかは明記されていない)。

 マタイ受難曲の冒頭合唱を例にして、音響効果の良いキングスウェイホールで最も遅く、乾燥しているEMIのアビー・ロード・スタジオではそれより速くなり、最も乾燥しているロイヤル・フェスティバルホールが一番速く演奏したと指摘しています。それによって複雑な対位法による音楽が不明瞭になることはなかったとしていました。先日のBBC交響楽団との録音はBBCのスタジオだったので、EMIのスタジオと似た特性だとすればまさしく上記の指摘と同じテンポ設定になっています。今回の第2番はこれくらい演奏時間に差が出ているのにクレンペラーらしいベートーベンだと最初から感じられて、これなら指揮者名を伏せて聴いても当てられさそうかなと思いました(先日のブルックナーと違って)。
14 5月

クレンペラー、ニューPO ブルックナー第7番/1965年

180514ブルックナー 交響曲 第7番 ホ長調 WAB.107(ノヴァーク版)

オットー・クレンペラー 指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

(1965年11月 ロンドン,ロイヤル・フェスティヴァル・ホール ライヴ録音 TESTAMENT)

 昨夜は一旦うとうととしてから目が覚めたので日テレ系のドキュメント番組のことを思い出してTVをつけたら、南京事件Ⅱという内容で従軍した兵士の日誌、絵日記や証言を集めたシリアスな内容でした。昨年の今頃は重慶爆撃の特集だったようで、深夜枠だとしても昨今はこういう内容の番組は放送し難いので貴重だと思いました。この時間帯の番組は興味深いと思いつつも録画を忘れがちです。昨日は梅雨の大雨のような降り方だったので、また避難勧告とか宇治川に注ぐ河川の氾濫とかが発生しないかと一瞬あせりました。さて、一夜明けた今日、5月14日はクレンペラーの誕生日でした。もっと他に記憶すべき記念日はあるとしてもこのブログでは恒例の記念日です。

 このCDはテスタメント社から何点かまとめて出たクレンペラーのニュー・フィルハーモニア管弦楽団時代の公演のシリーズの一枚です。モーツァルトの交響曲第40番、ブルックナーの交響曲第7番というプログラムなので、EMIのレコード録音以外にも複数の音源が出ている曲目です。なお、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団というのは、フィルハーモニア管弦楽団の創設者であるウォルター・レッグが突如オケの解散を決めたため、団員が自主運営の団体として存続することを決意してクレンペラーに会長になってくれるよう依頼して再出発した際の名称でした(後にムーティ時代になって元のフィルハーモニアに名前は戻る)。

~クレンペラー指揮のブルックナー第7番
ニューPO/1965年11月
①18分37②20分33③09分28④12分35 計61分13
NDRSO/1966年5月3
①19分45②21分04③09分39④13分25 計63分53
フィルハーモニアO/1960年EMI
①19分49②21分49③09分36④13分39 計65分53
ベルリンPO/1958年9月
①19分08②19分16③09分31④12分59 計60分54
ウィーンSO/1958年2月23日,ウィーン
①18分16②19分45③09分10④12分12 計59分23
バイエルンRSO/1956年4月12日,ミュンヘン
①17分55②19分21③09分08④12分41 計59分05

 この第7番を聴いた印象は、まず第1楽章が軽快に、無造作に進められるのに驚いて、クレンペラーの名を伏せて聴かされたら別の指揮者による演奏と間違いかねないくらいでした。それに第2楽章がクレンペラーにしてはやけに感傷的なので、これもクレンペラーらしくない印象です。反射的にクレンペラーらしくないと思ったのは多分EMIとのセッション録音が記憶に残っているからだと思いますが、それ以前のライヴ音源では今回と似た演奏時間やもっと短いものもありました。HMVのサイトの紹介では翌年の北独放送SOとの第7番に近いという評があったのでそれを念頭に置いて聴いたところ、ちょっと違って今回独特な演奏内容のような気がしました。

 第4楽章の演奏時間には拍手はカット(a.bruckner.comのディスコグラフィの第4楽章はその拍手部分はカットされていないと思われる)しましたが、CDにはまだ残響が残っている時間帯に盛大な拍手と歓声がわき起こっていました。ブルックナー作品の人気は高くない、受容が進んでいないと言われたロンドンにあってこの盛り上りは凄いと思いました(そういえば朝比奈隆のブルックナーのライヴ盤も歓声、雄叫びが入っていることがある)。有名オケが競うロンドンでもクレンペラーがブルックナーの第6番を演奏しようとしたところ、レッグがまだ時期尚早だとして止められたり、ロンドン交響楽団がブルックナーの第5番を初めて演奏したのが1969年9月のティントナーの客演時だったとか、ことブルックナーに関しては演奏頻度はあまり高くなかったので、有名な第7番だとしてもこの盛り上りは特別かと思いました。
13 5月

クレンペラー、BBCSOのベートーヴェン第2番/1955年

180513aベートーヴェン 交響曲 第2番 ニ長調 作品36

オットー=クレンペラー  指揮
BBC交響楽団

(1955年12月11日 BBC Studios.Meida Vale 録音 ICA Classics)

180513b  アルマジロ、と言えば中南米原産のちょっとややこしい動物(だんご虫のように丸くなれる)ですがそれのぬいぐるみというものに人気があったことがありました。今から約四十年くらい前か、M治製菓のチョコレートの包み紙に付いている応募券を集めて送るともらえた(もれなく?抽選?)ぬいぐるみの一種に「アルマジロ」がありました。そのぬいぐるみが先か本物が先かは定かでないながら、個人的にアルマジロをかなり気に入っており、動物園によく連れて行ってもらった時期がありました。連休中に開かずの間(関東間の四畳半が二間)を片付けた時、タンスの上の空き箱の下からそのアルマジロが出てきました。ネットオークションで美品なら4万円以上で落札された記録があり、非売品だったためか今では貴重な物になっているのに驚きました。残念ながら見つかったのは片目の部品が欠落し、鼻のパーツがとれかかった状態でした。

 クレンペラー誕生日が近づく一週間だったのに、その開かずの間片付け余波とそこのエアコン交換工事までに作業スペースを確保するために先週は深夜に整理を続けていました。そんな先週のある朝、FMのクラシック・カフェでベートーヴェンの交響曲第2番(シャイー、ライツツィヒ・ゲヴァントハウス管)を曲の最初から聴くことが出来て、なかなか素晴らしいと思いつつ、不意にクレンペラーのLPで聴いた時の印象がよみがえってきました。それでBBCのラジオを個人がエアチェックしたクレンペラー指揮の音源をCD化したものから、ベートーヴェンの交響曲第2番を聴きました。

クレンペラー・BBC/1955年12月11日
①12分48②12分12③3分46④6分50 計35分36
クレンペラー・PO/1957年10月・EMI
①13分24②13分07③3分56④7分01 計37分28
クレンペラー・PO/1960年5月29日
①13分25②11分55③3分46④6分44 計35分50

 このBBC交響楽団との第2番は聴いた印象ではなめらかで、戦前のクレンペラー指揮のベートーヴェンを聴いた人(ティーティエンだったか)の「軋む」という言葉とは遠いと思いました。同じくらいの時期のケルンRSOとの第九と似た印象で、オーケストラも演奏場所も違うのに奇妙な一致です。合計時間でウィーン芸術週間のライヴと似ていて、EMIのセッション録音よりは短めになっています。1955年から1960年の間にはクレンペラーがベッドサイドで煙草の火が原因で大火傷する事故があり、また夫人もなくしているので健康的だけでなく、人生の上でも分岐になる出来事を経ています。その影響、肉体的限界
もあってか演奏がいっそう遅くなり出したと言われます。しかし、ウィーンでのライヴとBBC放送のスタジオでの演奏があまり違わない演奏時間になっています。

 遅いと評される一方で、「クレンペラーのテンポ」というものは無い(メニューイン)、とか「テンポは感じるもの」とクレンペラー本人が嘯く(?)ように、クレンペラーは同じ作品を演奏していてもレコード用録音か演奏会か、その会場の残響等の特性等によってテンポを替えているので、今回のベートーヴェンはそういう評を考える上で興味深い一例でした。
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raimund

昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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