エリアフ・インバル 指揮
ウィーン交響楽団
(1990年11月26-29日 ウィーン,コンツェルトハウス 録音 DENON)
バルトークとショスタコーヴィチの両方のファンでいることは非常に難しい、という説が本当にあったのかどうか、何年か前にラジオ番組か雑誌で読んだ記憶がありました。そういう傾向があったとされる同じ1970年代に、日本では東欧の弦楽四重奏団の方がアメリカのものよりも圧倒的に人気がある、或いは批評家の間でもてはやされるということがあったという話も同様に記憶に残っています。世相を反映してか、それと鉄のカーテンの向こうでよく分からない方が有難みが増すのかもしれません。それはともかく、ブログを始めた2010年以降、発作的に、又は何となくショスタコーヴィチの作品を聴きたいという渇きのような感覚はあってもバルトークはほとんどなかった(最初期に弦楽四重奏曲をチラッと扱った程度)ので、両方のファンでいられないというのもある程度当たっているかもしれません。
新約聖書のイエズスの話の中に「神と富とに兼ね仕えることはできない」というのがありましたが、ショスタコーヴィチとバルトークの作品はそれ程質的に違う内容なのかどうかと思いました。そこでというわけでもなく、先月来の自宅大整理(解体したり処分するわけでなくガラクタをどけただけ)の際に全部の所在が分かったインバルとウィーン交響楽団のショスタコーヴィチから交響曲第5番を聴きました。これはショスタコーヴィチの作品の中でも屈指の認知度のはずで、これに相当するバルトーク作品なら「管弦楽のための協奏曲」か「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」くらいかと思いつつ、どっちも今は特に聴く気にならないと思いました。
バルトークとショスタコーヴィチの両方のファンでいることは非常に難しい、という説が本当にあったのかどうか、何年か前にラジオ番組か雑誌で読んだ記憶がありました。そういう傾向があったとされる同じ1970年代に、日本では東欧の弦楽四重奏団の方がアメリカのものよりも圧倒的に人気がある、或いは批評家の間でもてはやされるということがあったという話も同様に記憶に残っています。世相を反映してか、それと鉄のカーテンの向こうでよく分からない方が有難みが増すのかもしれません。それはともかく、ブログを始めた2010年以降、発作的に、又は何となくショスタコーヴィチの作品を聴きたいという渇きのような感覚はあってもバルトークはほとんどなかった(最初期に弦楽四重奏曲をチラッと扱った程度)ので、両方のファンでいられないというのもある程度当たっているかもしれません。
新約聖書のイエズスの話の中に「神と富とに兼ね仕えることはできない」というのがありましたが、ショスタコーヴィチとバルトークの作品はそれ程質的に違う内容なのかどうかと思いました。そこでというわけでもなく、先月来の自宅大整理(解体したり処分するわけでなくガラクタをどけただけ)の際に全部の所在が分かったインバルとウィーン交響楽団のショスタコーヴィチから交響曲第5番を聴きました。これはショスタコーヴィチの作品の中でも屈指の認知度のはずで、これに相当するバルトーク作品なら「管弦楽のための協奏曲」か「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」くらいかと思いつつ、どっちも今は特に聴く気にならないと思いました。
インバル・VSO/1990年
①16分53②5分18③14分37④11分29 計48分07
インバル・フランクフルトRSO/1989年
①15分54②5分33③14分18④10分47 計46分32
ビシュコフ・BPO/1986
①14分47②5分56③15分29④12分10 計48分32
バルシャイ・ケルンRSO/1995年
①15分29②5分33③13分19④11分14 計45分35
ウィッグルスワース/1996年
①19分29②5分22③15分32④11分08 計51分31
久しぶりにこれを聴くと、革命だとかそういう内容とは単純に思えない、当局が絶賛するような音楽らしくない複雑なものという印象で、特に第3楽章に惹かれました。インバルは全集録音の前年にフランクフルト放送交響楽団とも録音していてトラックタイム、演奏時間を比べたら1分半程の差があり、全集・VSOの方が長くなっていました。合計時間の差としては例えばウィグルスワースの51分半に比べれば大したことはないとしても、聴いた印象が冷たくて絶望を隠したような、そんな鬱屈した空気を連想させられ(そこが魅力的)、革命の勝利云々というところとは断絶(とまで言えば大袈裟か?)する質的な差を思わせました。
インバルとウィーン交響楽団のショスタコーヴィチは確か絶賛と言える程の評判でもなくて、地味な扱いだったと思います。自分自身もDENONのクレスト1000だからとりあえず揃えておこうくらいの熱意でしたが、今回第5番を聴いて急に重みをもって響いてきました。第8番とか第7番が面白そうなので聴き直してみようと思いました(一度は聴いたはずだがよく覚えていない)。ところでDENONのCDは当初トラックの中にさらに細かいインデックス分けがしてあり、クレスト1000の冊子にもそれが載っています。1989年頃に自分が初めて買ったCDプレーヤーにはそのインデックスに対応する機能が付いていましたが、いつの間にかそういう機能が付く機器は見なくなりました。
久しぶりにこれを聴くと、革命だとかそういう内容とは単純に思えない、当局が絶賛するような音楽らしくない複雑なものという印象で、特に第3楽章に惹かれました。インバルは全集録音の前年にフランクフルト放送交響楽団とも録音していてトラックタイム、演奏時間を比べたら1分半程の差があり、全集・VSOの方が長くなっていました。合計時間の差としては例えばウィグルスワースの51分半に比べれば大したことはないとしても、聴いた印象が冷たくて絶望を隠したような、そんな鬱屈した空気を連想させられ(そこが魅力的)、革命の勝利云々というところとは断絶(とまで言えば大袈裟か?)する質的な差を思わせました。
インバルとウィーン交響楽団のショスタコーヴィチは確か絶賛と言える程の評判でもなくて、地味な扱いだったと思います。自分自身もDENONのクレスト1000だからとりあえず揃えておこうくらいの熱意でしたが、今回第5番を聴いて急に重みをもって響いてきました。第8番とか第7番が面白そうなので聴き直してみようと思いました(一度は聴いたはずだがよく覚えていない)。ところでDENONのCDは当初トラックの中にさらに細かいインデックス分けがしてあり、クレスト1000の冊子にもそれが載っています。1989年頃に自分が初めて買ったCDプレーヤーにはそのインデックスに対応する機能が付いていましたが、いつの間にかそういう機能が付く機器は見なくなりました。