ハンス・クナッパーツブッシュ 指揮
バイロイト祝祭管弦楽団
ヴォータン:ハンス・ホッター(Br)
フリッカ:ゲオルギーネ・フォン・ミリンコヴィッツ(Ms)
フライア:グレ・ブロウェンスティーン(S)
フロー:ヨーゼフ・トラクセル(T)
ドンナー:アルフォンス・ヘルヴィッヒ(Br)
ローゲ:ルートヴィッヒ・ズートハウス(T)
ミーメ:パウル・キューン(T)
エルダ:ジーン・マディラ(A)
アルベリヒ:グスタフ・ナイトリンガー(Br)
ファゾルト:ヨーゼフ・グラインドル(Bs)
ファフナー:アーノルト・ヴァン・ミル(Bs)
ヴォークリンデ:ローレ・ヴィスマン(S)
ヴェルグンデ:パウラ・レンヒナー(Ms)
フロースヒルデ:マリア・フォン・イロスファイ(A)
(1956年8月13日 バイロイト祝祭劇場 録音 ORFEO DOR)
先日視聴したシェーンベルクの未完のオペラ「モーゼとアロン」は視聴した後にわき起こる感情は必ずしも快適ではなくて、孤独で不安定で本当に苦悶しながら茨の道を歩み続けるような暗さが迫ってきて、それに比べるとワーグナー作品はまだまだ健全なものではないかと思えてきました。旧約の出エジプト記や申命記、民数記自体が結構血生臭くて陰惨とも言える物語なので仕方ないとしても、その世界よりも「独りで」歩まなければならない孤独さが迫って来るので、「モーゼとアロン」は台本、思想的にも特異な内容なのではないかと思いました。そう思うと指環四部作の物語が少し気軽に接することが出来るような気がしてきました。それかモーゼとアロンの後にワーグナーを聴くとパッと明るくなるような気がしてきました(たちの悪い泥酔者がカウンターの横に居座っている時、後から客が入ってきてその泥酔者の相手から解放された時のような救われた気分に似ている)。
クナッパーツブッシュ指揮のバイロイロ音楽祭での指環は1951年の「神々の黄昏」を除くと、正規音源は1956年が唯一になっています。この年(1956年はカイルベルトと二人で担当)以外でクナが指環四部作を指揮したのは1951年にカラヤンと二人で、1957年と1958年が一人で指揮し、全部で四年だけでした。1953年以外は引退(亡くなる)するまで毎年指揮したパルジファルに比べると限られた回数です。個人的にはクナッパーツブッシュの指環に最初に大いに衝撃、感銘を受けたのはこのCDでした。しかし、クナッパーツブッシュのファン界では1956年はまだ声楽とオケがよく合ってないとか、1958年が集大成、完成した姿である、或いは1957年が一番豪華キャストであるとされ、1956年の評判は今一つのようです。
バイロイト音楽祭の実況録音はORFEOの正規音源が一番聴きやすいと思っていますが、音質の面でもそうじゃないという評もありました。しかし改めて聴くとやっぱり格別で、クナッパーツブッシュの指揮する音楽が生々しく収まって(効果音が邪魔だけれど)いると思いました。主要キャストの中ではホッターのヴォータンが特に素晴らしく(いつもこれくらいは歌っている??)、神々の長たる面だけでなく人間的な悪党の荒々しさも出て圧倒的でした。思い出せば平成20年の今頃、この指環をカーナビのHDに順番にコピーして反復して聴いていました。この録音の約10年後にあたるベームのライヴ盤を思い起こすと、音質は劣るものの今回の方が濃厚な音楽に感じられ、何となく舞台上の人物の動きがおぼろげにでも目に浮かぶくらいです。
この年に限らずクナッパーツブッシュのワーグナーは遅めのテンポが目立ち、劇的な起伏という風でもなく泰然とした演奏という印象なのに、何と言えば良いのか作品の輪郭が克明になり、強烈に印象付けられ、刻み込まれる感覚です。1956年の「ラインの黄金」でも「ワルハラ城への入場」のところで特別に強調して高揚を演出しているとは思えない(ヴォータンが歌うところも)のにかなりのド迫力です。この年はカイルベルトと二人で指環を指揮しましたが、カイルベルトの方は速目(当初は速すぎるという批判があった)の対照的な演奏のはずなので興味深いものがあります。もっとも、カイルベルトの指環は1955年のステレオ録音の他、1952年と1953年の録音があるものの1956年はまだ出ていなかったはずです。このCDは終演後の拍手が入っていますが、大きな拍手なのには変わりがないとしても、CDを聴いた印象からすればもっと即座に歓声が沸き上がっても不思議じゃないと思うのでカイルベルトの公演の際にはどうだったのかとちょっと気になります。