raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2018年04月

30 4月

ワーグナー「ラインの黄金」 クナ、バイロイト1956年

180430ワーグナー 楽劇・ニーベルングの指環 「ラインの黄金」

ハンス・クナッパーツブッシュ 指揮
バイロイト祝祭管弦楽団 

ヴォータン:ハンス・ホッター(Br) 
フリッカ:ゲオルギーネ・フォン・ミリンコヴィッツ(Ms) 
フライア:グレ・ブロウェンスティーン(S)
フロー:ヨーゼフ・トラクセル(T) 
ドンナー:アルフォンス・ヘルヴィッヒ(Br)
ローゲ:ルートヴィッヒ・ズートハウス(T)
ミーメ:パウル・キューン(T) 
エルダ:ジーン・マディラ(A) 
アルベリヒ:グスタフ・ナイトリンガー(Br) 
ファゾルト:ヨーゼフ・グラインドル(Bs)
ファフナー:アーノルト・ヴァン・ミル(Bs) 
ヴォークリンデ:ローレ・ヴィスマン(S) 
ヴェルグンデ:パウラ・レンヒナー(Ms) 
フロースヒルデ:マリア・フォン・イロスファイ(A) 

(1956年8月13日 バイロイト祝祭劇場 録音 ORFEO DOR

 先日視聴したシェーンベルクの未完のオペラ「モーゼとアロン」は視聴した後にわき起こる感情は必ずしも快適ではなくて、孤独で不安定で本当に苦悶しながら茨の道を歩み続けるような暗さが迫ってきて、それに比べるとワーグナー作品はまだまだ健全なものではないかと思えてきました。旧約の出エジプト記や申命記、民数記自体が結構血生臭くて陰惨とも言える物語なので仕方ないとしても、その世界よりも「独りで」歩まなければならない孤独さが迫って来るので、「モーゼとアロン」は台本、思想的にも特異な内容なのではないかと思いました。そう思うと指環四部作の物語が少し気軽に接することが出来るような気がしてきました。それかモーゼとアロンの後にワーグナーを聴くとパッと明るくなるような気がしてきました(たちの悪い泥酔者がカウンターの横に居座っている時、後から客が入ってきてその泥酔者の相手から解放された時のような救われた気分に似ている)。

180430a クナッパーツブッシュ指揮のバイロイロ音楽祭での指環は1951年の「神々の黄昏」を除くと、正規音源は1956年が唯一になっています。この年(1956年はカイルベルトと二人で担当)以外でクナが指環四部作を指揮したのは1951年にカラヤンと二人で、1957年と1958年が一人で指揮し、全部で四年だけでした。1953年以外は引退(亡くなる)するまで毎年指揮したパルジファルに比べると限られた回数です。個人的にはクナッパーツブッシュの指環に最初に大いに衝撃、感銘を受けたのはこのCDでした。しかし、クナッパーツブッシュのファン界では1956年はまだ声楽とオケがよく合ってないとか、1958年が集大成、完成した姿である、或いは1957年が一番豪華キャストであるとされ、1956年の評判は今一つのようです。

180430b バイロイト音楽祭の実況録音はORFEOの正規音源が一番聴きやすいと思っていますが、音質の面でもそうじゃないという評もありました。しかし改めて聴くとやっぱり格別で、クナッパーツブッシュの指揮する音楽が生々しく収まって(効果音が邪魔だけれど)いると思いました。主要キャストの中ではホッターのヴォータンが特に素晴らしく(いつもこれくらいは歌っている??)、神々の長たる面だけでなく人間的な悪党の荒々しさも出て圧倒的でした。思い出せば平成20年の今頃、この指環をカーナビのHDに順番にコピーして反復して聴いていました。この録音の約10年後にあたるベームのライヴ盤を思い起こすと、音質は劣るものの今回の方が濃厚な音楽に感じられ、何となく舞台上の人物の動きがおぼろげにでも目に浮かぶくらいです。

 この年に限らずクナッパーツブッシュのワーグナーは遅めのテンポが目立ち、劇的な起伏という風でもなく泰然とした演奏という印象なのに、何と言えば良いのか作品の輪郭が克明になり、強烈に印象付けられ、刻み込まれる感覚です。1956年の「ラインの黄金」でも「ワルハラ城への入場」のところで特別に強調して高揚を演出しているとは思えない(ヴォータンが歌うところも)のにかなりのド迫力です。この年はカイルベルトと二人で指環を指揮しましたが、カイルベルトの方は速目(当初は速すぎるという批判があった)の対照的な演奏のはずなので興味深いものがあります。もっとも、カイルベルトの指環は1955年のステレオ録音の他、1952年と1953年の録音があるものの1956年はまだ出ていなかったはずです。このCDは終演後の拍手が入っていますが、大きな拍手なのには変わりがないとしても、CDを聴いた印象からすればもっと即座に歓声が沸き上がっても不思議じゃないと思うのでカイルベルトの公演の際にはどうだったのかとちょっと気になります。
29 4月

マーラー交響曲第9番 ホーレンシュタイン、VSO/1952年

180429マーラー 交響曲 第9番 ニ長調 

ヤッシャ・ホーレンシュタイン 指揮
ウィーン交響楽団

(1952年 ウィーン 録音 Venias)

 連休の前半に突入して晩春から初夏になってしまったような気候です。マーラーの第9番は個人的に晩春の頃に聴きたくなり、今年はそういう気分になる気候がすっ飛ばされたようで調子が狂います。ホーレンシュタイン(Jascha Horenstein 1898年5月6日 - 1973年4月2日)といえばロンドン交響楽団とのマーラーの交響曲第1、3、6番の録音がLPで出ていて確か国内盤もあったはずです。名曲名盤500の企画(1980年頃か)でも三浦淳史が交響曲第6番でホーレンシュタイン盤を推していたような覚えがあります(国内盤はトリオからか?)。その後CD化されてその第6番を聴いてかなり気にいりました。

 今回の交響曲第9番はそれらのロンドンSOとの録音よりも古い1952年の録音です。ネット上の情報では元々はVOX社の制作したレコードということですが、1951年まではクレンペラーもウィーン交響楽団を指揮してマーラーの復活や大地の歌を録音していて、メンデルスゾーンの録音に際して別人が指揮した楽章と混ぜて発売したことに立腹したクレンペラーが契約を解除したので、もしそのトラブルや米国の旅券上の問題が無ければクレンペラーが第9番を録音していた可能性も考えられます。

ホーレンシュタイン・VSO/1952年
①29分14②17分25③13分15④25分13 計85分07
クレンペラー・ニューPO/1967年
①28分13②18分43③15分21④24分17 計86分34
クレンペラー・VPO/1968年
①27分25②17分27③14分11④24分46 計83分49
レヴァイン・フィラデルフィア/1979年
①29分36②18分02③14分16④29分50 計91分44
テンシュテット・LPO・1979年
①30分44②16分21③12分58④25分31 計85分34

 それはともかくとして、このマーラー第9番は華やかというのか妖艶というのか、どこかで見た弘前の満開の桜と、びっしり花びらが積もった花筏をシンクロしそうでした。また聴いていると1930年代末のワルター、ウィーンPOによる同曲の録音を思い出させました。合計演奏時間としてはCD1枚には収まらない長目の方で、奇しくもクレンペラーと似ていました。また、第2楽章の印象や各楽章のバランス(第3楽章はそうでもない)も何となく共通のものを感じます。奇しくもというよりは上記の指揮者は全員ユダヤ系でした。国際化が進む現代では演奏者の民族、出自がどうのとあまり言わないとしても、前大戦を経験した世代、ワルターやクレンペラーや彼らに近い世代は何かと気になります(ナチスを逃れて亡命とか)。

 各楽章、合計の演奏時間はクレンペラーに似ているとしても演奏効果、響きの面ではワルター(戦前)の方に傾斜していそうです。ホーレンシュタインも新即物主義の影響下にあるとされながら、クレンペラーとは対照的に明るく艶やかに感じられます。それはオーケストラがウィーンの団体、古い時代のウィーンの楽団員が占めていてからか、クレンペラーが指揮した同楽団とのマーラー以上にそういう情緒を強く感じさせます。この録音が素晴らしいので、ステレオ録音で第9番を再録音していればと思いました(音はさすがに古いので)。
28 4月

ブルックナー交響曲第4番 ネルソンス、LGO/2017年

180427bブルックナー 交響曲 第4番 変ホ長調(1878/1880年第2稿ノヴァーク版)

アンドリス・ネルソンス 指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

(2017年5月 ライプチヒ,ゲヴァントハウス ライヴ録音 DG)

 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(Gewandhausorchester Leipzig
)の楽長(カペルマイスター)に就任したアンドリス・ネルソンス(Andris Nelsons, 1978年11月18日 - )は昨年、音楽監督を務めるボストン交響楽団と来日しました。その時の演目にはショスタコーヴィチの交響曲第11番が入って(大阪公演も)いましたが、そのショスタコーヴィチをボストンSOと、ベートーヴェンの交響曲をウィーンPOとそれぞれ全曲録音する予定のようです(後者はまだ発売されていない)。それと並行してライプツィヒとブルックナーの交響曲の全曲録音が始まり、この第4番が第二弾でした。ここまで第3、4、7番と三曲がリリース済で、いずれもがワーグナーの管弦楽曲とカップリングされています。

170427a 実は最初そのワーグナーと組み合わせるという企画が気に入らないので購入していませんでしたが、ネルソンスがバイロイトでローエングリンを指揮していたことを思い出して何となく聴いてみる気になりました。このCDはそのローエングリンの第一幕への前奏曲がカップリングされていて印象深いものがありました。それはさて置きブルックナーの第4番も鮮烈な印象で、自分の中でこのコンビのブルックナーも追跡することに即決しました。第4番は曲の各楽章で魅力的な部分があると思いながらも、一曲を連続して聴くのは大変だと感じていて、個人的にブルックナーの呼応教曲の中では第3番と並んで聴く頻度が低いグループになっていました。第3楽章が単調で鈍重だとか、第4楽章だけが突出して威圧的と感じられると思いましたが、この演奏はそうしたマイナスの印象が払しょくされて、本当に快適(よい意味で)に聴けると思いました。

ネルソンス・LPG/2017年
①19分55②17分16③10分54④21分45計69分50
ブロムシュテット・LGO/2010年
①18分59②15分04③11分11④21分03 計66分17
ヤノフスキ・スイスROM/2012年
①18分15②15分30③10分53④18分46 計63分24
ズヴェーデン/2007年
①20分51②17分13③10分26④23分05 計71分35

 使用している稿・版は普通で、演奏時間も方も同稿による最近の録音と比べても突出している風ではありません。同じオーケストラを七年前に指揮して録音したブロムシュテットの演奏を思い起こすと、そこから弦の編成を減らしたようなより清澄でおとなしい印象でした。その分だけ盛り上り、特に終楽章の高揚は抑えられていますが第1楽章からそういう内容なので全く統一されています。こういう演奏スタイルならワーグナー作品とあわせて録音しなくてもいいのにとも思いますが、とりあえず先入観は禁物だと再認識しました。

 ネルソンスはバルト三国のラトビアのリガ出身、まだ三十代なのに写真を見ると貫禄もあり、もうちょっと年長に見えています(約10歳年長の私は頭髪だけがかろうじて勝っている)。プロフィールを見ると母国の国立歌劇場で首席指揮者になった後はオペラハウスよりもオーケストラのポストを歴任しています。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は歌劇場のピットでも演奏するのでオペラの全曲盤の方も気になります。とりあえずショスタコーヴィチの方は「ムツェンスク郡のマクベス夫人」も計画に入っているそうなので期待が持てます。
26 4月

ブルックナー交響曲第1番 ティーレマン、SKD/2017年

180426aブルックナー 交響曲 第1番 ハ短調 WAB101(1877年リンツ稿・Thomas Roeder 版)*ソフトには版の明記はなく1868年リンツ稿とのみ表記

クリスティアン・ティーレマン 指揮
シュターツカペレ・ドレスデン

(2017年9月6日 ミュンヘン,ガスタイク・フィルハーモニー 収録 C Major)

 あっという間に4月も終わりが近づき連休がやってきます。先週くらいだったか夜に和食の店に入ったら「そら豆」が籠に入って置いてありました。どうやって食べるのかと聞くとさやごと焼いて(あぶって)食べるのでさっそく注文しました。むかし自分の家でそら豆も栽培していた(自家用に)ので五月頃には大量に家にあり、たいていはゆでて食べていたのを思い出しました。しかしその当時はゆで方が悪かったか、残ったものばかりを食べたせいか味は良くなくて、渋みというのかえぐさのような雑味が目立ってそら豆自体が嫌いになっていました。それが焼いて食べると薄皮もむきやすくて、さわやかな味だったのでおかわりの注文しました。あんまり美味かったのであやうくそら豆だけで延々と酒をのみそうになるのを我慢しました。豆の品質の影響もあるかもしれないと思いました。

 ブルックナーの交響曲第1番の映像ソフトがついに発売されました。ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンによるブルックナー・チクルスの映像付が交響曲第3番以降が出そろっていたのでこれで打ち止めかと思ったらなんと第1番も出て来たので、これは少なくとも第2番も出るはずで映像付の全集完結の予感です。今回の第1番はリンツ稿の中でも2016年出版の新しい版を使っているようです(a. bruckner. com のディスコグラフィによる)。バレンボイムも第3番以降しか映像収録していないので、使用楽譜からして気合が入っています。

180426b 実際に聴いてみると第3、4楽章が速目のテンポになり、第2楽章のアダージョとの対比が鮮明になっています。それに終楽章のコーダ部分ではかなり盛り上がり、後期作品並みの威容で迫ります。特に第1~2番までの初期交響曲ということを意識せずに、ブルックナー作品共通のスタイルで演奏しているようです。第1番のブルーレイ・DVDの発売予告が出て時にはウィーン稿で演奏するのかと想像していましたが、そうではなくて版の方も最新のものを使い、その分演奏自体はティーレマンらしい内容だと思いました(ブルックナー演奏の際だけ特にスタイルが変わる風でもなく)。

 ただ、後半の二つの楽章のところで何となく思ったのは、インテンポで泰然としたいわゆるブルックナーらしさが前面に出るよりも、古典派かシューベルトの交響曲の演奏のように変化を付けているようでした。だからコーダにかけて高揚していくのが感じられましたが、そんなに強引に高揚を演出しているような不自然さはなく、好印象でした。ワーグナー作品を演奏する時程の自在さ?でなく、控え目にしているのかもしれません。と言っても第1番は個人的に聴いた回数が多くはないので、第2番が出た時にブルックナーらしさ云々がより実感できると期待しています。
25 4月

マーラー交響曲第5番 ガッティ、ロイヤルPO/1997年

180425aマーラー 交響曲 第5番 嬰ハ短調

ダニエレ・ガッティ 指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

イアン・バルメイン:トランペット
ジョン・ビムソン:オブリガートホルン

(1997年11月15-17日 ロンドン,ヘンリー・ウッド・ホール 録音 Ariola Japan/RCA)

 昨日、プロ野球の元広島カープの衣笠選手の訃報が流れました。改めて最近の写真をみると年齢以上の老いというか弱りが見てとれ、衝撃が走りました。現役時代の衣笠選手といえば近鉄との日本シリーズや、外木場、北別府、大野、川口、高橋、正田らが居た頃のカープが記憶に残っていて、それくらいで時間が止まったような感覚なのでカープフアンじゃないのにショックを受けました。市民球場時代のカープの応援はしゃもじを叩く音がラジオ中継からも聞こえたような覚えがあり(間違いかもしれん)、改めて年月が流れたことを思い知りました(ジャイアント馬場の訃報を聞いた時と同じくらい)。

180425b ダニエレ・ガッティと同じくイタリア出身(あるいはイタリア系)のファビオ・ルイージやアントニオ・パッパーノは同世代であり、ガッティが少し若くて1961年の生まれでした。ティーレマンやウェルザー・メストも同じくらいの年代の生まれでしたが、何となくティーレマンが抜きん出て年長のような(外見は別にして)先入観がありました。このCDの解説にはガッティとウェルザー・メストとティーレマンがウィーン国立歌劇場の若手三羽烏的な存在云々と書いてあり、こういう世代が共通していることに気が付きました。これは店頭でたまたま見つけた国内盤で、実はそれまで存在自体を全く知りませんでした。平成9年録音ということは翌年くらいの新譜なので自身が苦境にある時期だったことが思い出されます。

 新譜当時話題になったCDだそうですが「名曲名盤500(レコ芸編)」最新版ではリストにもれていました。しかし「月評特選盤1980-2010年 交響曲編の下巻」をめくってみると、レコ芸1998年6月号では特選になっていました(評者:小石、宇野の両氏)。宇野氏は前半の三つの楽章を非常な名演として第4、5楽章に不満がある批評になっていました。その有名なアダージェット楽章について小石氏の方はトスカニーニやカンテルリが指揮すればこうなるのではないかと評してあり、なるほどとと特にカンテルリの方がそうかもしれないと思いました。

ガッティ・ロイヤルPO/1997年
①13分06②14分12③17分19④10分13⑤14分57 計69分47
ブーレーズ・VPO/1996年
①12分52②15分02③18分12④10分59⑤15分12 計72分17
ギーレン・SWRSO/2003年
①13分10②14分50③16分10④08分30⑤15分37 計68分17

 
今回初めて(正真正銘これが初めて)これを聴いてみると終楽章がおとなしめで、ちょっと物足らない印象でしたが第4楽章とちょうどいいバランスだと思い、この曲の演奏として珍しいタイプではないかと思いました。第4楽章のアダージェットがどういうわけか第9番の終楽章に似た音楽に聴こえて、時々この楽章に対する批判として聞かれる「サロン音楽のように」通俗的とかそうした印象の対極の格調高いものだと思いました。そういうわけで個人的には第3、4楽章が特に素晴らしいと思い、既存の作品に対するイメージが変わるような刺激がありました。演奏時間、トラックタイムを見てみると冷血系の二人、ギーレンとブーレーズの間に収まっていました。

 ガッティはオペラの映像ソフトが色々出ている他はCDの方ではフランス国立管弦楽団との録音があるくらいで、一人の作曲についてまとまった規模の録音はないようですが、今頃になってこのマーラーを聴いて、あらためて彼のマーラー演奏が気になりだしました。
24 4月

ベートーヴェンの田園交響曲 ド・ビリー、ウィーンRSO

180424bベートーヴェン 交響曲 第6番 ヘ長調 op.68 「田園」

ベルトラン・ド・ビリー 指揮
ウィーン放送交響楽団

(2008年2月 ウィーン,ORFオーストリア放送ラディオクルトゥアハウス 録音 Oehms)

180424a 先日OPPO社がAV家電の開発から撤退するらしいというニュースを見かけて、まだ箱から出していなかったブルーレイ・プレーヤー(四カ月放置)を
思い出し、どげんかせんといかんと思いました。PC用のディスプレイのIOデータ製55インチディスプレイ(TVチューナーが付いていない)とあわせて設置して、今度こそちゃんと5.1chのスピーカーで稼働させようと発起して部屋の片づけを始めました。二階の半分がガラクタが積まれて開かずの間というか、座れずの間状態になって十年が過ぎ、毎年「もうちょっと涼しくなったら片付けよう」、次の三連休、温かくなったら、梅雨になる前にと先延ばししまくって結局片付かずに放置してしまいました(失われた十年)。全く手つかずでもなくて、壁に沿って本やCDなんかを置く棚を置いていたので、取り付く島はあって、軽そうな物から動かしてやっと半分近くを撤去できました。古着、空き箱等ゴミばかりの中、バイロイト音楽祭のLDも出てきましたが既にDVDで買ったものばかりなので一瞬喜んだだけで終わりました。

交響曲第6番ヘ長調
第1楽章Allegro ma non troppo ヘ長調
「田舎に到着したときの晴れやかな気分」
第2楽章Andante molto mosso 変ロ長調
「小川のほとりの情景」
第3楽章 Allegro - Presto ヘ長調
「農民達の楽しい集い」
第4楽章Allegro ヘ短調 
「雷雨、嵐」 
第5楽章Allegretto 
「牧人の歌−嵐の後の喜ばしく感謝に満ちた気分」 

 既に最高気温が30℃近くなっているので1、2回運び出してはTVの阪神巨人戦を観て休憩し、間をあけて観る度に点差が開いていました(10:1か・・・)。この気温はまるで田植えが始まるくらいの時期のようで、今年も酷暑を予感しながら急に田園交響曲のメロディーが頭の中にチラつきました。こういう脳内で流れる旋律の季節感も今年は狂っていて、トラヴィアータやバッハの受難曲、マーラーの第9番がすっとんでいました。これはベルトラン・ド・ビリーとウィーン放送交響楽団によるベートーヴェン・チクルスの一枚で第5番と第6番が一枚のCDに収まっています。ド・ビリーはウィーン国立歌劇場と決裂して以来あまりニュースが入って来なくなって、ベートーヴェンの方も交響曲第1、4、9番を残して止まっているようです。

 これくらいの年代の録音なら原典志向、ピリオド楽器・奏法の影響をある程度は受けているものだと予測され、実際に聴くと極端なピリオド奏法志向でないものの、かつてのオーケストラを大らかに鳴らすタイプの田園とは違いました。それにもかかわらずこの録音では第2楽章が目立って魅力的と思えて、通して一曲を聴いてから第2楽章だけを反復して聴きました。第3、4楽章はそれほど強弱のアクセントを強調していなくて総じて穏やかな響きで通しています。これは一応SACDでマルチチャンネルでも収録しているのでサブウーファーも点けて聴いたのにティンパニも特に目立っていません。

ド・ビリー:VRSO/2008年
①11分14②11分36③5分11④3分38⑤08分36 計40分15
アントニーニ/2009年
①10分55②11分20③5分01④3分35⑤08分21 計39分12
インマゼール/2006年
①10分23②11分59③4分43④4分00⑤09分15 計40分20
K.ナガノ・モントリオール/2011年
①11分52②11分41③4分51④3分33⑤09分05 計41分02
ヴァイル/2004年
①11分30②12分29③5分08④3分47⑤09分39 計42分33
I.フィッシャー・ブダペスト/2010年
①11分52②13分38③5分01④3分46⑤10分58 計45分15
I.フィッシャー・RCO/2014年
①12分06②14分09③5分28④3分56⑤11分21 計47分00

 今世紀に入ってからの録音のトラックタイムをながめると、ド・ビリーと一番似ていたのは最も原典志向が強いインマゼールのセッション録音でした。主題反復の影響もあるのか聴いた印象とはちょっと違って、イヴァン・フィッシャーの録音とは合計時間で結構差が出ていました。響きの厚みの面では最近の演奏のスタイルで速目の演奏のはずなのに、もっと古い時代の演奏を聴くような大らかな印象を受けるのはオーケストラ、場所がウィーンだからなのか、とにかく魅力的なベートーヴェンだと思いました。ここ一カ月の間に同じベートーヴェンの交響曲第5、7番のズヴェーデンとニューヨーク・フィルのCDを何度か聴いていて、どうも印象が弱くてコメントのしようがないと思っていたのでよけいにこっちのCDが目立ちました。
23 4月

1961年バイロイト・マイスタージンガー クリップス

180423bワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

ヨゼフ・クリップス 指揮
バイロイト祝祭管弦楽団
バイロイト祝祭合唱団

ハンス・ザックス:ヨゼフ・グラインドル(Bs)
ポーグナー:テオ・アダム(Bs)
ヴァルター:ヴォルフガング・ヴィントガッセン(T)
エファ:エリーザベト・グリュンマー(S)
ダヴィッド:ゲルハルト・シュトルツェ(T)
ベックメッサー:カール・シュミット=ヴァルター(Br)
フォーゲルゲザング:ヴィルフリート・クルーク(T)
マグダレーナ:エリーザベト・シェルテル(A)
コートナー:ルートヴィヒ・ウェーバー(Bs)、他

(1961年7月23日 バイロイト祝祭劇場 録音 Myto)

180423 戦後再開されたバイロイト音楽祭での「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、最初の1951年にクナッパーツブッシュとカラヤン、翌1952年がクナッパーツブッシュが指揮した後、1956年から三年間続けてクリュイタンスが指揮しました。その後は1959年にエーリヒ・ラインスドルフ、1960年がまたクナッパーツブッシュ、そして1961年が今回のヨゼフ・クリップスがそれぞれ指揮しました。実はこの1959年から1961年あたりでクレンペラーがマイスタージンガーを指揮する計画がありました。しかし第三幕が長時間に及ぶことと高齢の上に大火傷事件から間もないこともあって健康状態がすぐれず、結局実現しませんでした(配役の相談までしたらしい)。さらに1963年はトーマス・シッパーズが単年で指揮しているのでこれくらいの時期まではクレンペラー登場の猶予期間だったかもしれません。結果的にクレンペラーはバイロイト音楽祭で指揮することなく終わってしまいました。

180423a それはともかくとして、この1961年のクリップス指揮のマイスタージンガーはかなり魅力的で、何となくクリップスのカラーに染め上がっている印象です(意外にも)。というのは全体的に穏やかでのどかな空気に覆われていて、何らかの雪解けを暗示するかのように感じられました。特に第三幕第1場でダヴィッドとザックス師弟のやりとりの場面で、ダヴィッドが聖ヨハネ祭の口上を試しに歌う際に前晩の騒動のきっかけとなったベックメッサーの歌のメロディーにのせて歌ったところ、師匠のザックスが “ Was ?(wが重なっているか??) ” と、ききとがめるわけですが、この録音では少し笑いながら歌っているのが印象的です。同じ箇所で険しい口調で歌うパターンもあり、程度の差こそあれセッション録音ではそっちの趣向の方が多いのではと思うので妙に感心しました。笑いながら「何を歌ってる?ちゃんとやれ」という調子の場面が鮮明に浮かびあがり、そういうやりとりが自然に出てくるような舞台に感じられました。

 主なキャストは前年と同じでザックスはグラインドルが歌っています。彼はバイロイトではハーゲンやファーフナー、ファーゾルトの役をつい思い出しますがハンス・ザックスも合計で四年も歌っていました。この公演を聴いているとザックスが抜け目ない人物、特にマイスターらの中で抜きんでた器量というより、仲間とうまくやって溶け込んでるくらいの空気に思われて、これも穏やかで雪解けを思わせることの理由の一つかと思いました。上記の第三幕冒頭の部分について、
先日の1951年のマイスタージンガーの該当箇所を聴くとザックスは笑うでもなくかといって怒る風でもなく、間違いに真剣に反応しているという歌唱でした。

 ヴァルターとエヴァはヴィントガッセンとグリュンマーが歌い、文句の無いキャストながらこの年代になるとあまり初々しさが感じられず、再婚同士のカップルといった威容?です(グリュンマーの声がきのせいか低く太く感じられた)。ポーグナーのアダムは堅い印象で、ザックスやヴォータンを歌っている声とは違って聴こえます。クリップスの指揮は意外と言っては失礼ながら重厚さも十分発揮して、ひと昔前のこの作品の上演もこういう感じだったかもと想像をかき立てられる立派さです。ヴァルターやザックスのアリア的な部分ではかなりテンポをおとしてゆったり、朗々と歌わせているのが印象的で、コンビチュニー指揮のタンホイザー・EMI盤とちょっと似た演奏です。それでもだれて緩いというマイナスの印象は無く、終始堂々とした音楽でした。この演奏ならばフィリップスかオルフェオで正式な音源を残していればと思いました。
21 4月

ワーグナー「ワルキューレ」 ティーレマン、ドレスデン2017年

180421ワーグナー 楽劇・ニーベルングの指環「ワルキューレ」

クリスティアーン・ティーレマン 指揮
シュターツカペレ・ドレスデン

ジークムント:ペーター・ザイフェルト(T)
フンディング:ゲオルク・ツェッペンフェルト(Bs)
ヴォータン:ヴィタリー・コワリョフ(Br)
ジークリンデ:アニヤ・ハルテロス(Ms)
フリッカ:クリスタ・マイア(Ms)
ブリュンヒルデ:アニヤ・カンペ(S)
ゲルヒルデ:ヨハンナ・ヴィンケル(S)
オルトリンデ:ブリット・トーネ・ミュラーツ(S)
ワルトラウテ:リスティーナ・ボック(Ms)
シュヴェルトライテ:カタリーナ・マギエラ(A)
ヘルムヴィーゲ:アレクサンドラ・ペーターザマー(Ms)
ジークルーネ:ステパンカ・プカルコヴァ(Ms)
クリムゲルデ:カトリン・ヴントザム(Ms)
ロスワイセ:ジモーネ・シュレーダー(A)

演出:ヴェラ・ネミロヴァ
舞台:ギュンター・シュナイダー=ジームセン
舞台再構築、衣装:ジェンス・キリアン
照明:アラフ・フリーゼ

(2017年4月5-17日 ザルツブルク祝祭大劇場 ライヴ収録 C Major)

180421b 
これは昨年のザルツブルク復活祭で上演されたワルキューレを収録したもので、夏の音楽祭ではないこともありティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンが中心になっています。復活祭の方の音楽祭は1967年にカラヤンが創設したもので、契約が打ち切られるまではベルリンPOが中心でした。この年は50周年の節目にあたりカラヤン自身が50年前に演出したワルキューレを再現する上演ということで注目されました。舞台上の環状の回廊は見覚えがあると思いましたが解説を見るまではカラヤンの演出だとは分かりませんでした。カラヤンは1951年と1952年にバイロイト音楽祭に出演した後は、新バイロイト様式の演出が気に入らないとか色々あって二度と出演しませんでした。そういうカラヤンがバイロイトに対抗する意味もこめて創設した音楽祭の初回なので演出も手掛けたのか、今回再現された舞台は強烈な読み替えはなくて、見やすいというのか、音楽に集中できるものでした。それに衣装がなかなか効果的だと思いました。

180421a 素晴らしいと思ったのは第二幕で、特にフリッカとヴォータンが争う第1場、その結果に鬱屈するヴォータンとそれに相対するブリュンヒルの第2場が歌唱共々強烈に印象付けられました。フリッカが登場する際は単独で、山羊が引く車とやらから降りた後として歩いて来る演出の方に慣れています。ここでは山羊の角が付いた仮面を被った半裸の男二人が大きなソファのような椅子を持ってフリッカと共に出てきます。ヴォータンとのやりとりの間も舞台に居て、ヴォータンらが立ち位置を変える度にそのソファを近くまで持ち運ぶのが目立ちました。ジークムントを殺すという結末に落ち着いてフリッカが退場する際はそのソファを残して山羊仮面と退場しますが、第2場の最後にヴォータンがブリュンヒルデに命じて退場した後にフリッカと山羊仮面が再度やって来てソファを回収して帰ります。その時にフリッカは勝ち誇ったような満足そうな笑いを浮かべているので、ヴォータンがブリュンヒルデに命じている間もそこをフリッカが支配していることをそのソファ(椅子)が象徴しているようで効果的でした。それに第二幕の最後、フンディングとジークムントの亡骸が横たわるところにフリッカがやって来て満足そうな表情を見せ、物語上のフリッカの存在が強調されています。(*当初ジークムントの名を「ジークフリート」と書いていたのは当然間違い、シレッと書き変えました。)

 これだけ活躍するフリッカなのに付属冊子の大き目の写真はジークリンデとブリュンヒルデだけでした。カンペのブリュンヒルデとハルテロスのジークリンデはキャストの中でも目立っていて、特に前者は次夜作品が楽しみな余裕の歌唱でした。クリスタ・マイアのフリッカは二人に負けない歌唱、存在感で、ヴォータン相手に全く引かずあくまで極道、否、神々の秩序の筋を通させる姿に圧倒させられます。ヴォータンのコワリョフも高貴さと悪辣さを併せ持つヴォータンらしさが充分出ていました。それに比べるとジークムントのザイフェルトはやや弱くて、特に第一幕は声も今一つな印象ですが、第二幕の死の予告辺りは素晴らしいと思いました(それでもよっと衰えたか?)。第三幕のヴォータンとブリュンヒルデのやりとり、別れと魔の炎の音楽も素晴らしく、このところソフト化された指環の映像の中でも抜きん出ていると思いました。

 最初ティーレマンのワルキューレの発売予告が出た時はドレスデンでの公演かと思いましたがザルツブルク音楽祭の公演だったので、続いて指環四部作が映像ソフトとして出るかどうか分からず残念でした。とりあえず2018年のザルツブルク復活祭音楽祭でティーレマンは指環を指揮していないようなので見通しは暗いようです。ティーレマンはバイロイト音楽祭ではピット内での団員の信任、人気も高くて、拍手代わりに譜面台を軽くたたくのが長く続くと年末のFM放送の解説で言及されていました。それならこの音楽祭でなくてもベルリン・フィルとワーグナー作品というわけにはいかないものかと、今回視聴していて思いました。
18 4月

ワーグナー「ラインの黄金」 ベーム、バイロイト1966年

180418aワーグナー 楽劇・ニーベルングの指環「ラインの黄金」

カール・ベーム 指揮
バイロイト祝祭管弦楽団

ヴォータン:テオ・アダム
フリッカ:アンネリース・ブルマイスター
フライア:アニア・シリア
フロー:ヘルミン・エッサー
ドンナー:ゲルト・ニーンシュテット
ローゲ:ヴォルフガング・ヴィントガッセン
ミーメ:エルヴィン・ヴォールファルト
エルダ:ヴィエラ・ソウクポヴァ
アルベリヒ:グスタフ・ナイトリンガー
ファゾルト:マッティ・タルヴェラ
ファフナー:クルト・ベーメ
ヴォークリンデ:ドロテア・ジーベルト
ヴェルグンデ:ヘルガ・デルネシュ
フロースヒルデ:ルート・ヘッセ

(1966年7月26日 バイロイト祝祭劇場 録音 PHILIPS

180418b バイロイト音楽祭の実況録音による指環四部作、それも正式なステレオ録音と言えば長らくベーム指揮のフィリップス盤がまず挙がりました。と言うよりもバレンボイムのものが出るまではベーム盤が唯一だったはずです。その後は1955年のカイルベルト指揮の全曲録音がステレオ録音で残っていて、TESTAMENTからCD化されました。その影響でベームのバイロイト指環全曲盤の存在がかすみかかりました(バイロイトの録音ばかりを集めた超廉価箱に含まれるなど)が、それでも主要キャストの顔ぶれもあって貴重な存在ということには変わりありません。

 個人的にはこのベームの指環はかなり好きで、ヤノフスキのセッション録音の次に分売で購入して聴いていました。特にテオ・アダムのヴォータンが好きだったのと、その当時(1980年代末)はショルティ、カラヤンの指環があまり好きで無かったので同じくらいの録音年代となると必然的にベームが残るということもありました。それに舞台上の音、足音等の騒音も含まれているので、客席に座っている状態の何分の一かの高揚を味わいもしていました。最近になって改めてこれを聴いてみると(とりあえずラインの黄金)、アダムの声の圧力、威力が思った程でもなくて、特に第二場の最後、ワルハラ城への入場の辺りは十年以上後のヤノフスキ盤がかえって迫力があるような気がしました。しかし前半の「ヴォータンの目覚め(登場するところ)」以下、フリッカとのやりとり辺りはさすがに神々の長といった迫力がありました。

 ローゲをヴィントガッセンが歌っていますがこういうパターン、ミーメを歌うような声のテノールではなくてヘルデンテノール(ピークを過ぎてきた)が歌う場合はミーメと聴き分け易い声質という点では良いとしても、役柄・人物の性質を表現するということではちょっと弱いという印象です。バイロイトに限らずこのパターンは行われていますが、「ラインの黄金」ではミーメよりもローゲも方が話の筋からも重要ではないかと思われ、ワルキューレや神々の黄昏でもミーメの存在が思い出され(出番は無いが)るので、第二夜「ジークフリート」でミーメを歌うタイプ(微妙に違うかもしれない)の歌手をローゲに充ててほしいと好みとしてはそう思います。これはヤノフスキ盤ではペーター・シュライヤーがローゲを歌っていて、それが素晴らしかくてその印象が刷り込まれているからでした。

 それとベームの指揮の方は改めて聴いてみると、これ以前に指環を指揮したケンペやカイルベルトの方に好感を持ち、特別にどうとも思わないところでした。これ以外にもオランダ人やトリスタンのバイロイト録音があるのにベームは個人的に印象が弱くて、その名声と人気を思うと自分のセンスの無さを実感するところです。ベームがバイロイト音楽祭で指揮したのは1962年の「トリスタンとイゾルデ」が最初のはずで、それ以降は1971年の「さまよえるオランダ人」までその二作品と指環、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮しています。カイルベルトやケンペよりも年長なのにバイロイトに登場したのが遅く、回数を多くないのは意外でした。
15 4月

ワーグナー「ローエングリン」 ヴァイグレ、バルセロナ

180415ワーグナー 歌劇「ローエングリン」

セバスティアン・ヴァイグレ 指揮
バルセロナ・リセウ劇場交響楽団
バルセロナ・リセウ劇場合唱団

ローエングリン:ジョン・トレレーヴェン(T)
ドイツ王ハインリッヒ:ラインホルト・ハーゲン(Bs)
テルラムント:ハンス=ヨアヒム・ケテルセン(Br)
エルザ:エミリー・マッジ(S)
オルトルート:ルアナ・デヴォル(Ms)
伝令:ロベルト・ボルク(Br)、他

演出:ペーター・コンヴィチュニー
装置,衣裳:ヘルムート・ブラーデ

(2006年7月24,25日 バルセロナ,リセウ大劇場 ライヴ収録)

180415c ペーター・コンビチュニー演出の、舞台を小学校か中学校に置き換えたローエングリンは1998年のプレミエ(ハンブルク国立歌劇場)だったので、もう二十年くらい前のことになります。ワーグナー作品の読み替え演出は珍しくないとしても、この演出はけっこう話題になっていて、2000年夏刊行の「クラシックプレス3」の記事、「絶対邪悪2 許光俊」でも触れられて絶賛されていました。余談ながらその本が出た当時の自分は人生で最大の受難の時期でしたが、クラシックプレスには「エピソードの王様」というクレンペラーの連載記事が載ったので欠かさず買っていました。当時はローエングリンはワーグナー作品の中でもあまり好きな方じゃなかったものの、小学校の教室に置き換えという説明を読んで否定的な感想も持っていました(上演を観てないけれど)。

180415a このソフトはその後2006年にバルセロナのリセウ大劇場でハンブルクとの共同制作として上演された「教室のローエングリン」演出による上演を収録したものです。第一幕の前奏曲、エルザの夢、ローエングリンの登場と浮世離れして神秘的な音楽が続くその舞台が、小学校の教室になり登場人物が半ズボンの制服を着ている、そういう演出は全くちぐはぐな印象です。もしドイツ王ハインリヒが王冠(ボール紙で作ったおもちゃ感が強烈な王冠)を付けてなければ絵だけではローエングリンの舞台だとは分からないものです。そしてローエングリンは床の穴(四角い出入り口)からせり上がって来て、就学前後の少年が両手を羽ばたかせて白鳥の役を演じています。徹底的に神秘的な要素を潰そうとしているような念入りさに感心させられます。ついでに第三幕のフィナーレでローエングリンが帰る時もその穴に入っていきます。

180415b 演出の上ではかなり強引な描き方なのに対して音楽の方は立派で、第二幕の前にヴァイグレがピットに入って来る時にブラヴォーの声が上がっていました(近年のティーレマン級か?)。歌手は女声が見事で、オルトルート役のルアナ・デヴォルが表情も豊か(顔芸)で冒頭から悪童感を発散しています。エルザのミリー・マッジと二人が絡むと対照的な歌声なのでよく引き立っています。演出がどんなものであれ、この二人なら成功だと思いました。ただ、小学校の制服を着ているのがどう見ても不似合いで、男声陣よりも浮いて見えました(それが狙いなのかどうか)。

180415d 演出上ローエングリン一人が長いコートを着て大人として登場しています。しかしこの上演ではオルトルートの存在感の前にちょっとかすんで見えました(学級崩壊の教室に現れた新任教師という絵に見える)。教室の黒板横にある戸棚は、最初エルザがそこに潜んでいて、戸を少し開けては閉め、そこから出てもすぐに戻ってしまうという行動なので、ブラバント公女とかそういう高貴なイメージは皆無であり、矮小な世界に見えました。客席の反応は良好で、第一幕の後でさえも拍手、歓声の方が大きく聴こえました(よく分からないけれど一部ブーイングらしき声がきこえた)。具体的にどういう事柄を描こうとしているのかは難解ですが、三幕を通して強い意志のようなもので貫かれていて散漫な印象はありませんでした。ただ、第三幕の結婚と寝室の場面はどうにも教室の光景とは調和せず、何となく限界を感じます。そうだとしてもこういう演出の映像が、ローエングリンという作品ときいて第一番に念頭に想起されるのなら、ナチス時代のイメージが払しょくされるのではと思えました。
12 4月

1951年バイロイト・マイスタージンガー カラヤン、エーデルマン他

180412ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮
バイロイト祝祭管弦楽団
バイロイト祝祭合唱団(合唱指揮ヴィルヘルム・ピッツ)

ハンス・ザックス:オットー・エーデルマン
ファイト・ポーグナー:フリードリッヒ・ダールベルグ
クンツ・フォーゲルゲザング:エーリッヒ・マイクート
コンラート・ナハティガル:ハンス・ベルク
ジクストゥス・ベックメッサー:エーリッヒ・クンツ
フリッツ・コートナー:ハインリッヒ・プランツル
バルタザール・ツォルン:ヨゼフ・ヤンコ
ウルリッヒ・アイスリンガー:カール・ミコライ
アウグスティン・モーザー:ゲルハルト・シュトルツェ
ヘルマン・オルテル:ハインツ・タンドラー
ハンス・シュワルツ:ハインツ・ポルスト
ハンス・フォルツ:アーノルド・ファン・ミル
ヴァルター・フォン・シュトルツィング:ハンス・ホップ
ダヴィッド:ゲルハルト・ウンガー
エヴァ:エリザベート・シュヴァルツコップ
マグダレーネ:イラ・マラニウク
夜警:ヴェルナー・ファウルハーバ

(1951年7月27日,8月5,16,19,21日 バイロイト祝祭劇場 ライヴ録音 EMI)

 「ヒトラー 〜最期の12日間(Der Untergang)」という映画が2004年に公開されてヒトラー役の俳優の外見共々話題になりました。現在はその中のシーンを使い、ドイツ語の音声が空耳的に全く別の意味の日本語に聞こえなくもないことを利用した日本語字幕(足らんかったー、大嫌いだばーか、ちくしょうめ etc)を付けたパロディ動画が量産されてそちらの方が目立つくらいです。映画自体はシリアスな内容なのでそこそこ肯定的な評判だったようですが、イスラエルは厳しい見方がありました。ところでバイロイト音楽祭について、大戦中も開催されており、戦渦が過酷になって行く1943、1944年も演目をマイスタージンガーにしぼって上演されました。さすがに1945年は同盟国の大日本帝国がまだ降伏していなかったことでもあり、音楽祭どころではありませんでした。

 この録音は戦後再開されたバイロイト音楽祭でニュルンベルクのマイスタージンガーが最初に上演された1951年の記録です。戦後初のバイロイトのマイスタージンガーはクナッパーツブッシュとカラヤンの二人が指揮しています(戦時中の1943、1944年に指揮したアーベントロートとフルトヴェングラーが指揮したわけではなかった)。二人の立場からカラヤンが練習の大半を受け持ったようで、テンポ等も後年のセッション録音とは違い、カラヤンらしいようでもそうでなくて徹底し切れないスタイルに聴こえます。なお、録音データの年月日は付属冊子のまま転記しましたが、8月21,24日だけが表記されたものを見たことがあり、複数の音源・演奏があるのかもしれません(5日もあればクナの振った日も含まれないのか?という疑問もあるが)。

 もっとも音質もあまり良くなくて会場の熱気、盛り上りがあまり感じられないと思いました。にもかかわらず熱気とか勝手に言うのは第三幕の終わりの部分、まだオーケストラが演奏しているのに大きな拍手がわき起こり、これは事故ではなく客席も参加するようなあえてそうしているという状態に聴こえるからでした。音質の点を考慮しても、歌手、オーケストラも没頭して高揚しまくるという印象でないのが意外、不思議に思えます。つまりこれを聴いてそんな反応になるものなのかというのが正直なところです。

 演奏、音楽だけなら1943年のアーベントロート指揮の全曲盤の方が充実していて迫真の内容だと思いました。興味深いのがその録音と今回の録音で同じ役、ベックメッサーをエーリヒ・クンツが歌っている点です。今回の録音ではベックメッサーが結構目立っていて、ザックスが今一つ地味に聴こえています。この8年間は単に時間的な差ではなくて、環境的にも質的にも甚大な変動があったはずなので、1943年に自身がバイロイトで歌っていた時のことを思えば戸惑いのようなものがあっても不思議ではないと思いますが、その1943年の方は今回聴き直していないのでにわかに気になってきました。ところで「ニュルンベルクのマイスタージンガー」がニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演する際には第三幕の最後、ザックスが「マイスターをあなどらないで~」以下の部分(その一部か?)をカットする習慣があったとか、シッバースのライヴ盤の広告に載っていました。どれだけの分量がカットされているのか未確認ながら、ユダヤ系が隠然として力を持っていることの影響かとか思っていました。
10 4月

ブルックナー交響曲第7番 グッドオール、BBCSO/1971年

180410aブルックナー 交響曲 第7番ホ長調 WAB.107(ノヴァーク版)

レジナルド・グッドオール 指揮
BBC交響楽団

(1971年11月3日 ロイヤル・フェスティヴァルホール 録音 Bbc Legends)

180410b 桜がほぼ散ったと思ったら松尾大社のやまぶきが満開だとか、その他民家の藤も咲いていてどうも季節の進み方がいつになく加速しているようで戸惑います。それはともかくとして久しぶりにブルックナーのCDを再生したところ、やっぱり身に染みわたるような心地よさなので何だかんだといっても自分の本筋はブルックナーかなと再認識しました。この録音はグッドオールが残した数少ない録音の一つで、BBC交響楽団に客演した際のライヴ録音です。これを聴いていると常設のオケで毎週必ずブルックナー作品を演奏する団体が身近にあればと、贅沢、或いは無茶なことを妄想しました。ロンドンならロンドンSO、ロンドンPO、ロイヤルPOにフィルハーモニアO、BBCSOとレコードになって日本でも発売されるようなオーケストラが競っているのでシーズン中なら、毎週は無理でも毎月くらいならどこかが取り上げることは可能かと思います(マーラーのブームの頃ならマーラー作品の演奏頻度はそれくらいか?)。

 この第7番、聴いていると第2、3楽章が魅力的で、特に磨きもせず盛り上げもしないような素朴な印象ながら妙に新鮮に思えました。何となくグッドオールが指揮したパルジファルと似た感じかもしれませんが、例えばクナッパーツブッシュのワーグナー録音のような重厚さ、うねるような圧力の演奏とは違って風通しの良さも感じられました。第3楽章は特に明朗に感じられてシューベルトやハイドンの頃のスケルツォにも通じる世界がちらつき、ブルックナーのスケルツォ楽章を聴いてそんな風に思うのは滅多に無いので本当に感銘深いと思いました。ただ、全曲を通して聴くと交響曲としての一体感というのか、全体像があまり迫ってこない散漫さも感じます。

グッドオール・BBCSO/1971年
①21分05②22分14③11分24④13分01 計67分44
クレンペラー・NDRSO/1966年5月3
①19分45②21分04③09分39④13分25 計63分53
クレンペラー・フィルハーモニアO/1960年EMI
①19分49②21分49③09分36④13分39 計65分53
クレンペラー・ベルリンPO/1958年
①19分08②19分16③09分31④12分59 計60分54

 グッドオールはクレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団がレコードを制作する際の下準備的な練習で指揮していた時期がありました。それはクレンペラーが自身で演出も手掛けたコヴェントガーデンでのフィデリオ公演以降でした。グッドオールは指揮の技術はあまり巧くなくて、コヴェントガーデンのオーケストラ団員からは「もっと上に上げろよ(見え難い)」とぞんざいにダメ出しされたり、プッチーニのリハーサルの時にわざとマイスタージンガーを演奏されたりと、かなり軽侮されていたようです。そんな中でもクレンペラーはグッドオールの指揮者としての能力を評価しして、フィデリオの公演以降も関わりを持ち続けていました。グッドオールの方は元々クレンペラーには関心が無かったところがま近で彼の指揮するベートーベンを聴いて感心し、ベートーベンに関してはクナよりは上という心証を持ったとか。

 この録音の頃はまだクレンペラーは生存していたので、あるいはラジオ放送でこれを聴いたかもしれません。ただ、演奏のスタイルとしてはクレンペラーのブルックナーとはかなり遠いというのか質的に違っていそうです。スケルツォ楽章が遅め、というのは似ていてもグッドールはアダージョ楽章も遅いので各楽章のバランスは違っています。ちなみに同じ曲を1950年代にクレンペラーがBBC交響楽団を指揮した音源も出てきているので、二人が同じオケを指揮したということが感慨深く感じられます。
9 4月

シェーンベルク「モーゼとアロン」 ジョルダン、パリ・オペラ座

180409aシェーンベルク 歌劇「モーゼとアロン」

フィリップ・ジョルダン 指揮
パリ・オペラ座管弦楽団
パリ・オペラ座合唱団
オー・ド・セーヌ聖歌隊
パリ・オペラ座児童合唱団
ホセ・ルイス・バッソ(合唱指揮)
アレッサンドロ・ディ・ステファーノ(合唱指揮アシスアント)

モーゼ:トーマス・ヨハネス・マイヤー(語り手)
アロン:ジョン・グラハム=ホール(T)
若い娘:ジュリー・ディヴィス(S)
病気の女:キャサリン・ウィン=ロジャーズ(A)
若い男:ニッキー・スペンス(T)
裸の男:ミヒャエル・プフルム(Br)
一人の男:イム・チェウク(Br)
エフライム:クリストファー・パーヴス(バリトン)
司祭:ラルフ・ルーカス(Bs)
4人の裸の少女…
ジュリー・デイヴィス
マーレン・ファヴエラ
ヴァレンティナ・クツァロヴァ
エレナ・スブロヴァ
3人の老人…
キン・シンハエ
オリビエ・エヨー
ツァオ・ジャンホン 他

演出・装置・衣装・照明:ロメオ・カステルッチ
アーティスティック・コラボレーション:シルビア・コスタ
ドラマトゥルギー:ピエルサンドラ・ディ・マッテオ、クリスティアン・ロンチャンプ

(2015年10月 パリ,バスティーユ歌劇場 ライヴ収録 Bel Air)

180409b シェーンベルクの未完のオペラ、「モーゼとアロン」は1930年から1932年にかけて第一幕から第二幕が作られ、翌年の1933年にナチスに追われてアメリカへ移住してその間に中断となり、制作途中であった第三幕は結局完成しないままに終わりました。台本も作曲者自身が書き、旧約聖書というかユダヤ教の聖典と言った方が適切かもしれない「出エジプト記」をもとにしてユダヤ人(ユダヤ系ドイツ人)のアイデンティティを探求するような内容になっています。原典の物語とは異なりエジプトのファラオと対決する点、紅海が割れたりするスペクタルはほぼカットされ、目に見えない神を信じるkと、偶像を廃することという葛藤が主軸になっています。

180409 第一幕は、モーセが神の召し出しを受けてイスラエルの民を解放するために再び民衆のもとへ行こうと、兄のアロンと悩みながら相談する場面と、モーセとアロンが民衆のもとへ行き目に見えない全能の神について語る場面で構成されています。第二幕は、モーセが十戒の石板を受け取るためにシナイ山頂きへ行っている間に民衆が不安になり、アロンがそれをなだめるために偶像を作ってそれを拝む場面、モーセが戻って来てアロンらを咎めながら苦悩する場面で構成されています。第三幕が未完成なので、結果的に何かが解決して終わるわけでなく、葛藤、苦悩がそのまま残り、旧約聖書の見方のように「偶像=悪」という厳然とした二元論的な価値とは違って相克するように見えています。

 音楽としては12音技法によって作曲しているので歌詞、内容共々に簡単に楽しめるものではありません。ナチスが強制収容所まで作った当時、同じくらいの時期にヒンデミットが書いたオペラ「画家マティス」(1934から1935年)を思うと、色々な意味で対照的でもあり共鳴もするような感慨深いものがあります。その時代背景に注目すると作品の中のモーゼよりもアロンが言う「私は民衆をまもりたい」というところにむしろ共感を覚えます。

 このソフトは日本語字幕が付くことと新しい上演(完成している第二幕までで終わる)だということで昨年購入していたものでした。しかし正直視覚的には汚くて、視聴している間にえも言われない不快感に包まれてしまいます。それは特に第二幕の偶像の場面で白い服を着た民が黒い液体を浴びて汚れていき、舞台の大半がそんな色の人物でいっぱい(牛にも黒い液がかけられる)になるからでした。それに象徴的なのは第一幕冒頭に出て来たオープンリールのデッキと長いテープ、ロケットか人工衛星の機関部のようなシャフトに部品が付いた長い物体ですが、それが具体的に何を現わしているのか分かり難くて自身の理解不足をはじるところです。テープの方は第二幕でアロンの体中に巻き付いて偶像のような着ぐるみになっていました。最初は「テープ=神の言葉?」と見えましたが第二幕のそれを見ればちょっと違うように見えました。何にしてもヒンデミットの「画家マティス」のように、その時代における一種のレジスタンスのようなシンプルさとは異質で、引き裂かれたような精神世界を想像させられます。
7 4月

シューベルト交響曲「ザ・グレート」 ツェンダー、SWRSO

180406aシューベルト 交響曲第8(9)番 ハ長調 D.944「ザ・グレート」

ハンス・ツェンダー 指揮
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg(南西ドイツ放送交響楽団)

(2003年1月28-30日 ハンス・ロスバウト・スタジオ 録音 Hanssler Swr Music)

180406 昨日は予報通りに昼頃から雨になりました。春の嵐とまではいかないまでも強目の風も吹き、これで桜も散ってしまいました。今日宇治市の自衛隊の裏を通ると「桜祭り」の看板の後ろの桜がほぼ全部散り切っているのが目に入りました。天気予報がそうだったので昨日は午前中に平日にも関わらず仁和寺の御室桜をみに行きました(要するにさぼり)。「御室桜」は木の高さが低く成人の背丈より低いくらいなのでま近く花が見ることが出来るのと、ソメイヨシノよりも満開のピークが遅れるのが特徴でした。個人の趣味として桜についても特別に思い入れはないのに、この桜だけはそれだけのために足を運んで見たくなります。去年は行かなかったので今年こそはと思い、花散らしの雨が来る直前に間に合いました。

180406b 境内には清水焼の馥郁窯の出店もあり、瓢箪が大小で六つ描かれた茶碗を買って帰りました。瓢箪が六つで「
瓢=むびょう」、「無病息災」に通じるというベタな絵柄ながら一定の年齢になると妙に親近感がわいてきます。この窯は宇治市の炭山地区にあるようですが何故か毎年仁和寺でも出店しています。さて、そういう名残りの桜と先日聴いたシェーンベルクの12音技法による作品から不意にシューベルトのザ・グレートを思い出しました。ここ数年はシューベルトの作品の中でもこれを最初から続けて聴くのがどうも敬遠気味というか、根気が無いというかとにかく疎遠でした。

交響曲 ハ長調 D.944「グレート」
1楽章:Andante. Allegro ma non troppo
2楽章:Andante con moto
3楽章:Scherzo. Allegro vivace
4楽章:Finale. Allegro vivace


 そうこうしている間に通常のオーケストラがシューベルトの交響曲を録音する頻度はかなり低下していて、ピリオド楽器のオケか室内オケによるピリオド奏法、楽器との折衷的な演奏が増えていました。今回のハンス・ツェンダーと南西ドイツ放送交響楽団のものは今世紀に入ってすぐの頃に話題になっていました。
ツェンダーと言えば「冬の旅」の管弦楽伴奏版もさらに注目されましたが、そっちの方は何度か聴いて個人的に拒否反応が出てしまいました。久しぶりに交響曲の方を聴いてみると、かつての後期ロマン派的なスタイルとも古楽奏法的な演奏ともちょっと違うタイプに聴こえて作品自体も新鮮に感じられました。

ツェンダー・SWRSO/2003年
①12分44②14分20③10分16④11分33 計48分53

ヴァント・ミュンヘンPO/1993年
①14分13②16分23③10分53④12分16 計54分45
シュタイン・バンベルク/1985年
①13分50②16分07③10分49④12分11 計52分57
クレンペラー・PO/1960年
①14分35②14分57③09分54④12分42 計52分28

 過去記事であつかったCDとあわせてトラックタイムを並べると上記のようになり、合計で49分を切り、抜き出て短い合計演奏時間になっています。これは実際に聴いた印象とあまり違わないとしても、ツェンダーが速過ぎるとか軽すぎる、騒々しいというマイナスの印象は無くて、独特の重心というのか安定感を感じるのが不思議です。それと同時に長いなあとか、そんな退屈さも全く無くて、これは演奏にどういうコツ、秘密があるのだろうと思いました。
4 4月

シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲 ブラッハー、シュテンツ

180404aシェーンベルク ヴァイオリン協奏曲 Op.36

マルクス・シュテンツ 指揮 
ケルン・ギュルツェニッヒ管弦楽団

コーリャ・ブラッハー:Vn

(2013年9月7-11日 ケルン,スタジオ・シュトルベルガー・シュトラーセ 録音 Oehms)

  シェーンベルク(Arnold Schönberg 1874年9月13日 - 1951年7月13日)と言えばとりあえず「十二音技法」と、意味がよく分からないながらもその名前を思い出します。シェーンベルクが1934年から1936年にかけて作曲したヴァイオリンヴァイオリン協奏曲作品36も十二音技法によって作られています。初演の方は1940年12月6日にストコフスキー指揮のフィラアデルフィア管弦楽団と、ルイス・クラスナーによって行われました。この協奏曲が一枚もののCDになっているのはあまり多くないようで、ブーレーズの録音集の「シェーンベルク」編に入っているのを思い出す程度です。三楽章からなり、演奏時間は30分程度ですが、聴いていると草も木も生えていない山岳地帯に鉛色の空といった光景が頭に浮かぶ、日常から隔絶された印象を受けます。それは十二音技法の効果なのか、同じシェーンベルクのモーゼとアロンも似た印象でした。


ヴァイオリン協奏曲 作品36
第1楽章:Poco allegro
第2楽章:Andante grazioso
第3楽章:Finale・ Allegro

 この曲の初演に参加した
クラスナーはベルク(Alban Maria Johannes Berg 1885年2月9日 - 1935年12月24日)のヴァイオリン協奏曲の初演でもヴァイオリンを弾いていました。ベルクの方が10年以上も若いのにヴァイオリン協奏曲については一足先、彼が亡くなる直前の1935年8月に完成させて翌年に初演されていました。シェーンベルクの初期作品にはこのCDにカップリングされた交響詩「ペレアスとメリザンド」や「グレの歌」等の後期ロマン派的な作風でした。その後無調から十二音音楽を確立していきましたが、ユダヤ系であったのでアメリカに渡ることになりました。クレンペラーはシェーンベルクに自身が作曲したものを見せたところ冷淡に酷評されたとかで落胆し、怒りもしたそうですがそれはまだ十二音技法で作曲する前の時代かそろそろ模索しているくらいだったようです。

 その後クレンペラーはロスPO時代に同じくロスに居たシェーンベルクに作曲のレッスンを受けた際には12音技法には全く触れなかったそうですが、「仲間から金は受け取れない」と全部無料で通していました(気難しいとも言われたシェーンベルクにしては大変好意的だと、これまた奇人でならしたクレンペラーが有難がっていた)。このCDはマーラーの交響曲を全部録音したマルクス・シュテンツの指揮で、オーケストラはその企画と同じケルンのオーケストラです。うまい具合に作曲者と縁のあったマーラー、クレンペラーと繋がりのある演奏者が結びついています。

 ヴァイオリンの
ブラッヒャーは1963年、ベルリン生まれで父親が作曲家のボリス・ブラッヒャーでした。ベルリンでヴァイオリンを学んだ後に15歳でニューヨークに渡り、ジュリアード音楽院でドロシー・ディレイに師事します。さらにその後シャーンドル・ヴェーグの元で研鑚を積み、1993年、史上最年少でベルリン・フィルの第1コンサート・マスターに就任しました。1999年にベルリン・フィルを退団し、ソリスト、室内楽奏者、大学教授としても活躍しています。
3 4月

ウィーン気質 ゲッタ、ロテンベルガー、ボスコフスキー、PO・H

180403ヨハン・シュトラウス2世 喜歌劇「ウィーン気質」

ヴィリー・ボスコフスキー 指揮
フィルハーモニア・フンガリカ
ケルン歌劇場合唱団
ウィーン・シュランメルン

ツェドラウ伯爵夫人:アンネリーゼ・ローテンベルガー(S)
ツェドラウ伯爵:ニコライ・ゲッダ(T)
フランツィスカ・カリアリ:レナーテ・ホルム(S)
ギンデルバッハ侯爵:クラウス・ヒルテ(Br)
ペピ:ガブリエレ・フッシュ(S)
ヨーゼフ:ハインツ・ツェドニック(T)
カーグラー:ハンス・プッツ、他

(1976年2月26-29日 レックリングハウゼン,フェストピーレハウス 録音 Warner Cologne Colle)

180403b 
一気に夏日が続くまでに気温が上がり、狂い咲のような桜がはやくも散りだしました。昨年と同様にあっという間に色々なところの桜がピークを過ぎてしまい、後見ごろが残るのは開花ピークがずれる御室桜か吉野山くらいです。京都市の市街地に近い桜の名所は海外からの観光客が多過ぎるくらいの混雑なので、奈良県の「又兵衛桜」のように郊外に孤立したような桜があればと思いました。ただ、20年くらい前でもその「又兵衛桜」の近くに観覧ルートの案内や露店が出ていたので、人知れず咲いている古木の桜という風情はかなり薄まっているかもしれません。

 ヨハン・シュトラウス一族のワルツとかは個人的にあまり好きではないものの、往年の名歌手、ちょっと古めの歌手が歌うとなると関心が湧きます。「ウィーンカタギ」のカタギは当然「堅気」ではなく「気質」の方でした。ただ、浮気・人違いネタはあまり爽やかでなく、一歩間違えばドン・ジョヴァンニ張りの修羅場になりかねないところですが、音楽の方は優雅で品格さえ感じます(何をしゃべって歌ってるか分からないからか)。このオペレッタは同名のワルツを含めて既に作曲したワルツの名曲を転用して作曲したもので、作曲者の死去(1999年)により未完となったところを作曲者の友人だった指揮者アドルフ・ミュラー2世が補完して同年に初演しました。

180403a 
この録音はローテンベルガー(Anneliese Rothenberger 1924年6月19日 - 2010年5月24日)の美声が目立ち、彼女以外のキャストもいきいきとして作品の世界に染まっているように聴こえます。こういう作品ならウィーンの名を冠した楽団を起用するところかと思いますがフィルハーモニア・フンガリカもウィーンで設立されたオーケストラでした。コーラスこそケルンの団体ながら、シュランメルのアンサンブルも加えてウィーンの情緒を出しています。第一次世界大戦によってウィーンは衰亡・変質して佳き時代の趣は失われたとされ、かつての帝国領から逃れた来たフィルハーモニア・フンガリカが録音に参加しているというのも背景を調べたら感慨深いものがありました。

 
そのフィルハーモニア・フンガリカもウィキの解説にも出ているように既に解散しています(2001年4月22日デュッセルドルフでのコンサートを最後に解散)。オペレッタの「ウィーン気質」、優雅な美しい作品ながらあまりメリハリというのか起伏が無いのは仕方ないところですが、ボスコフスキーの指揮はワルツ集同様にかなり魅力的だと思いました。おれよりも古い、1950年代の録音なら歌手の面でもさらに往年のウィーンに近づくのかと思いますが、こうもりとかニューイヤー・コンサート(クレメンス・クラウス指揮)の復刻CDを聴くとさすがに音質の方が古いのでかえってボスコフスキーの方の魅力を再認識しました。
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raimund

昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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