raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2017年01月

30 1月

マーラー交響曲第5番 バーンスタイン、NYPO/1963年

170130マーラー 交響曲 第5番 嬰ハ短調

レナード・バーンスタイン  指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック

ジェイムズ・チェンバース:ホルン

(1963年1月7日 ニューヨーク,リンカーンセンター,フィルハーモニックホール 録音 ソニーミュージック)

 明日で1月が終わりになり、新年、正月の行事が一通り終わって自分の中では一年の中で11月と並び好きな月、季節に入ります。 このところにわかにマーラーづいてきて、続けてマーラーのCDを聴いており、SACD仕様の国内盤のバーンスタインの旧録音を何種か聴こうとして、ブルーレイ再生専用機器で再生しました。自動的にSACDのマルチチャンネルが優先されるようで、アンプにはマルチ・インと表記されましたが、肝心の音声が中低音がスカっと抜き取られたような貧相な音がセンタースピーカーからしか出ていないようで、今までこんなことは無かったので妙な具合でした。多分設定を間違えているはずですが、面倒くさいのでSACDプレーヤーの方で2チャンネルの方を聴きました。過去にこのシリーズから第2、6、9番を聴いた時はなかなかのリマスター具合で旧録音の魅力を再認識していました。

バーンスタイン・NYPO/1963年
①12分28②14分18③17分39④11分02⑤13分51 計69分18
バーンスタイン・VPO/1987
①14分35②15分05③19分05④11分16⑤15分02 計75分03
レヴァイン・CSO/1977年
①12分56②14分50③17分34④12分01⑤14分53 計72分14 
クーベリック・バイエルンRSO/1971年
①11分35②13分52③17分23④09分44⑤15分29 計68分04
ハイティンク・ACO/1970年
①12分19②14分02③18分00④10分35⑤15分49 計70分45 

 
この第5番はそれら三曲に比べると普通な感じで、その上にやや雑な印象が付きまといました。どうせ精緻さに欠けるならもっと荒れ狂って、突っ走ればと勝手な期待をしますがそういう演奏でもなく、ビシュコフがショスタコーヴィチ作品について語った論法を借用すれば、フィジカルな面のスリリングさではなくて心理的な面を追求したと言えそうです。終楽章だけを見ればトラックタイムが14分を切っていて、なんとなく徐々に加速しているノリのようですが、バイロイトの第九のような乱れ方でもありません。

 第4楽章以外は低弦のゴツゴツした音がけっこう目立って、先日聴いたクーベリックとバイエルンRSOのような爽快さが引っ込んで、 どこかしら閉ざされて頭を押さえつけられるような重苦しさが付きまとう気がしました。終楽章ではさすがにそうではないものの、マーラーを聴き始めて以来この作曲家の名前から連想する世界といえばやっぱりこうだったんじゃないかと思いました(それと同時にこの曲はウィーン・フィルの方が良いかなと)。

 マーラーの第5番はレコードで反復して聴く前にショルティとシカゴSOが大阪に来た時に聴いてかなり圧倒されたのが印象に残っていました。その後インバル、テンシュテットとCDで聴いていましたが、1960年代に録音されたバーンスタインの旧録音もそれらと繋がる内容のように改めて実感しました。むしろ同じ頃に全集録音したクーベリックの方が新鮮な印象です。いずれにしても今頃何を言っているという古い録音の話です。ただ、同じユダヤ系でもチェコ生まれのクーベリックは、生まれ育って教育を受けた土地の影響は無視できないのかと思いました。
29 1月

マーラー交響曲第4番 ハイティンク初回録音、ACO/1967年

170129aマーラー 交響曲 第4番 ト長調

ベルナルド・ハイティンク 指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

エリー・アメリング:ソプラノ

(1967年2月 アムステルダム,コンセルトヘボウ録音 DECCA・旧PHILIPS)

170129 文庫化された吉田秀和氏の「世界の指揮者」の中にはハイティンク(Bernard Johan Herman Haitink 1929年3月4日 - )にも頁がさかれてありました。 若くして名門オケにポストを得てしばらくの時期についてはどうも印象が薄いような書き方でしたが、ウィーンフィルとのブルックナー第8番が出た頃にはかなり認識が改まっていました。そうだとすれば、このマーラー第4番を含む全集が出た頃はあまり注目されてなかったかもしれません(病院の待合で読むために買った文庫本はまだ読み終えていないからよく分からない)。しかし一方で、ケン・ラッセル監督の映画「マーラー」で使われたマーラー作品はハイティンクの音源だったので、映像の邪魔にならないからという面があったかどうかはともかくとして、ヨーロッパでは当初から日本国内よりは有名だったようです。実際CD化されてからも長らく廉価箱化されず、個人的には他の作曲家の作品とまとめたBOXセットになってようやく手が出たという状態でした(写真はマーラー単独の全集箱)。

 実はこのハイティンク初回録音のマーラー第4番を聴く直前にバーンスタインの旧録音を聴いていました。それのあとにハイティンクで聴くと何となく夜が明けたような鮮烈な印象で迫ってきました。 第1楽章の出だしのところ、鈴とフルートに続いて低弦がズンズンと響いてくる部分は映画館で聴いた時にはもっと弦が飛び出して強調されて聴こえた覚えがありますが、今聴いてもマーラーが夏に滞在した湖畔の映像を思い出します。ハイティンクはこの録音時に38歳で、マーラーがこの曲を完成させた年齢より少し若いという歳でした。

ハイティンク・ACO/1967年
①16分27②8分37③19分34④8分48 計53分26
バーンスタイン・NYPO/1960年
①16分47②9分01③20分28④8分32 計54分48
クレンペラー・PO/1961年・EMI
①17分56②9分58③18分09④8分50 計54分53 

 1960年代に録音されたマーラー第4番のトラックタイムをみると新旧のあくの強い(人物じゃなく演奏の個性という意味で)二人が含まれのに合計時間ではあまり差がでていません。この三種の中でもハイティンクが一番清涼感があって、マーラーという名前から想像する複雑で混濁したような世界からは遠いという印象です。第4番は元々明朗な作風と言えるのでハイティンクでなくても多かれ少なかれこういう感じかもしれません。

 しかし第3楽章が特に印象的で、早春の野原を散策しているような、えも言われない心地良さです。3楽章の終わりの方で急に壮大に盛り上がって強奏するところも、自然界の雷鳴くらいの濁りのなさなので、続く第4楽章も映えるように思いました。ソプラノ独唱は色々なタイプが歌いますが、アメリングのような声質はハイティンクの演奏とよく合っていると思いました。バーンスタイン旧盤のグリスト、クレンペラーPO盤のシュヴァルツコップが競演していたらここではちょとおさまりが悪いのではと思えます(逆も)。
27 1月

マーラー交響曲第5番 クーベリック、バイエルンRSO/1971年DG

170127マーラー 交響曲 第5番 嬰ハ短調

ラファエル・クーベリック 指揮
バイエルン放送交響楽団

(1971年1月 ミュンヘン,ヘルクレスザール 録音 DG)

 対馬の仏像やらアパホテルの客室の本、国会の云々でんでん、稀勢の里の土俵入り奉納と寒い中でも慌ただしく色々起こっています。ルーブルとか大英博物館はどうする?とか、中国共産党は国際ギデオン協会には文句を言わんのか?、いくら原稿を読むだけだとしてもそれくらい読めるんじゃないの等々突っ込みどころはありますが、庶民にはどうしようもなくて別段心は波立つほどでもありません。質問も答弁も官僚が書いた原稿を読むだけと言われて久しいですが、それでも個人差はあるらしく、かつて自治大臣や党幹事長を務めた元議員はどんなに多忙でも、道路の開通式の挨拶のような現行でも完全に自分のものとして消化し、参列者やその道路の来歴等のポイントを押さえて自分なりにアレンジし、決して棒読みはしなかったと聞きました(漢字の誤読があったかどうかは知らないけれど)。

 さてにわかに個人的に気になったクーベリックのマーラー(セッション録音の方)を店頭で探したら第5番の国内廉価盤が見つかり、購入して聴いてみました。これが冒頭から素晴らしいというか、自分の現在の気分、元来の好みにぴったり合って、今までスルーしてきたのが残念でした。ここ何年か、クーベリックが同じくバイエルン放送交響楽団を指揮したマーラーのライヴ録音が出て評判になっていました。しかしあまり関心がわかず、セッション録音の全集同様に素通りしてきました。クーベリックのマーラーがLPの新譜で出た当時もどうも注目度は今一つだったようで、それはバーンスタインの旧全集からショルティ、ハイティンクの全集と重なったこともあり特に日本ではどの曲も定番的な扱いにはならなかったようです。

クーベリック・バイエルンRSO/1971年
①11分35②13分52③17分23④09分44⑤15分29 計68分04
ノイマン・チェコPO/1977年
①11分05②13分40③18分35④10分05⑤16分05 計69分30
バーンスタイン・NYPO/1963年
①12分28②14分18③17分39④11分02⑤13分51 計69分18
ハイティンク・ACO/1970年
①12分19②14分02③18分00④10分35⑤15分49 計70分45
レヴァイン・CSO/1977年
①12分56②14分50③17分34④12分01⑤14分53 計72分14 

 1960、70年代に録音されたもののトラックタイムを眺めるとあまり差はありませんが、合計演奏時間ではクーベリックは短い方になっています。それに余裕があると言うのか、角がとれていると言えるのか例えば同時期のショルティとシカゴSOとは対照的な面もありそうです(レーベルの違い、オケの特色とか違う要素も効いているか)。第1楽章はえも言われない憂いを帯びた風で、I.フィッシャーが言う「ユダヤ人の嘆きの雰囲気」が実感できました。また、第3楽章以降は、吉田秀和氏の評した「草いきれのむんむんとするような野趣あふれる」という感じがなるほどと新ためて新鮮に感じられました。

 第4楽章は時々薄っぺらくてサロン音楽のようだと辛辣に評される楽曲ですが、ここではそうした負のイメージは感じられず、伸びやかで健全な青春の音楽といった趣だと思いました。プラハ出身のクーベリックはチェコや東欧系の作品だけでなく、独墺系の作品も主なレパートリーでした。クーベリックのマーラーの演奏を聴いていると、どちらかと言えばマーラーもボヘミア出身だったことを思い出されます。
26 1月

クレンペラー、PO、ルートヴィヒ 「愛の死」/トリスタンとイゾルデ

170126ワーグナー 楽劇 「トリスタンとイゾルデ」より「イゾルデの愛の死」

オットー・クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団

クリスタ・ルートヴィヒ:メゾ・ソプラノ

(1962年3月21-13日 キングズウェイホール 録音 EMI/ワーナー)

 今日の夕方頃何の脈絡もなくボブ・マーレイの歌、「バッファロー・ソルジャー」 が口をついて出てきました。確か割に軽いのりで、下手なおっさんが「バッファロー~ソルジャー」と口ずさんだら盆踊りの旋律に堕ちかねないくらいですが、歌詞の内容は結構シリアスで重たいものでした。アメリカ陸軍最初のアフリカ系国民だけによる連隊のあだ名が「バッファロー・ソルジャー」と言ったそうで、同じ国の中にありながらルーツ、肌の色で仕分けした部隊が編制されていたとは。とか不公平やら差別に対して他人事のように言える程我々も。それはともかくとして、何故バッファローを思い出したかと考えれば、昼間ステーキの店でハンバーグを食べて、メニューを見ながら200グラムとか400グラム、それ以上のサーロインやらヒレのステーキがあるのかと感心したのが尾を引いたのでしょう(ビーフ、水牛、バッファローと)。それにボブ・マーレイはクラシック以外のジャンルで好きな数少ないアーティストなので、過去に何枚かアルバムを買っていました。

 それとは特に関係の無い、「トリスタンとイゾルデ」から「愛の死」、クリスタ・ルートヴィヒとクレンペラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団によるセッション録音です。これはEMIへ録音されたもので、管弦楽曲集に収録された「前奏曲と愛の死」とは別で、LPレコードの末期には入手し難かった音源の一つです。CD化される直前に独・エレクトローラから箱物LPがまとめて出た際に聴くことができました。それを聴いた時に強烈な印象を受けて、それがワーグナーの全曲盤を買ってまで聴こうと思ったきっかけの一つになりました。ルートヴィヒならブランゲーネの方を先に連想しそうですが、この「愛の死」もかなり素晴らしくて、イゾルデの複雑な立場、心情が渦巻きながらどす黒く、絶叫的にもならず、品よく浄化されつつ流れていくようで魅力的です。

 それにクレンペラー指揮のトリスタンの全曲録音が無かったのがつくづく残念に思えてきます。オランダ音楽祭ではトリスタンを、バイロイトではマイスタージンガーをクレンペラー指揮で上演する計画があって配役の相談までしていながら実現しなかったそうで、返す返すも残念です。この短い断片でそこまで入れ込むのもどんなもんかというところですが、管弦楽曲集共々にワーグナー作品の録音の中で欠かせないものだと思っています。

 この「愛の死」と「ヴェーゼンドンク歌曲集」、ワルキューレ第1幕と第3幕の「ヴォータンの別れ」、魔の炎の音楽、ジークフリート牧歌が、先日SACD二枚にまとめてタワーレコードの企画で再発売されました。それで久しぶりにジークフリート牧歌とこれを聴いていましたが、リマスターの加減も良くて初めて聴いた時の感銘がよみがえってきました。それはそうと、最初期のアフリカ系アメリカ人は職をもとめて渡って来たのではなくて、言わば労働力、物として売られて来たわけで、本当に過酷な話です。それで生きていくためにバッファロー・ソルジャーとして戦うと。あのベンジャミン・ブリテンが良心的兵役拒否を貫いていた当時、まだ黒人のみの部隊は存在していたので(ついでに日系人部隊も)、世の中の裏表というのか多面性を感じます。
24 1月

マーラー交響曲第2番 「復活」 マーツァル、チェコPO

170124bマーラー 交響曲 第2番 ハ短調 「復活」

ズデニェク・マーツァル 指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
ブルノ・チェコ・フィルハーモニー合唱団(合唱指揮ペトル・フィアラ)

ダニエレ・パルプヴァクス(S)
ルネ・モロク(Ms)

(2008年5月8,9日 プラハ,「芸術家の家」ドヴォルザーク・ホール 録音 Octavia Exton)

 今日の夕方、電車の中で岸信介らのことが載った新書本を読んでいたら最初の章で無性にムカついて来て途中でやめました。今日は車を途中で止めて地下鉄に乗ってきたので帰路はその逆で、しばらく電車に乗っていました。地上に出て車に乗ったらフロントガラスに付いた雨水が薄く氷つき、すぐには視界がきかない状態で、すでに発進してしまったのでちょっと焦りました。ワイパーを動かして、ウォッシャー液を噴出する内にやっと鮮明に見えるようになりました。降雪のために立ち往生することを思えばこれくらいどうということはないと思いつつ、宵の口からもう氷点下とはこの地域にしては本格的な寒波です。横綱昇進が決まった稀勢の里、先場所の成績を調べたら「優勝に準ずる」かどうかちょっとあれな星とりでしたが、今回は異議を唱える人が出ないのは日本出身の横綱が居ない場所にこれ以上我慢できなくなったからだろうとしみじみ思いました。それでも、かつての大関琴風、若島津、北天佑も(古い)大関までで引退していたので、やっぱり稀勢の里は大したものということでしょう。

170124a マーツァルとチェコフィルによるマーラーのシリーズはこれまで第8番を残して8曲を録音、リリース済でした。この調子では全集は未完に終わりそうです。 過去記事に七曲を取り上げてきて今回が最終となりました。CDの解説にもしばしば書かれているように、純音楽的という評がぴったりするような、あまり刺激的なとろころがなくて、先日聴いたイヴァン・フィッシャーのマーラー第9番とどこか通じるところがありそうです。特に第1楽章はもっと鋭角的というか激しく攻撃的なものを、つい連想しがちなのでちょっと物足らない気もしました。これはクレンペラーのEMI・セッション録音を初めて聴いた時の印象と重なりました。それに第1楽章がやたら遅くて、柔和な印象なのでさらに戸惑いました。

マーツァル・チェコPO/2008年
①22分50②10分20③10分15④4分49⑤33分36 計82分00
ザンダー・PO/2012年
①22分40②10分01③12分44④5分47⑤38分57 計90分09
ブーレーズ・VPO/2005年
①20分55②09分17③09分27④5分36⑤35分21 計80分36
ギーレン・SWRSO/1996年
①22分10②10分13③10分23④5分01⑤35分29 計83分16 

 しかし比較的新しいCDのトラックタイムを眺めると、マーツァルは第1楽章が長目だとしても合計時間では特に突出していません(CD1枚には収まらないけれど)。 第1楽章とは逆の傾向で週がkすほうは短めになっていて、コーラスが登場するまでの部分は確かに速い、それまでの楽章以上に激しい内容になっています。それだけに急に凪になったように合唱が出て来るところはこの上なく神秘的で、なにか本当に辛苦が報いられるのを告げるようで慰めにみちています。チェコフィルがクレツキとネートーベンの第九を録音する時にはドイツ語の歌詞を歌うのに抵抗があるという声があったそうですが、その頃からさらに40年くらい経てばさすがに問題無いということでしょうか。

テンシュテット・LPO/1981年
①24分48②11分21③10分31④7分10⑤34分54 計87分44
クレンペラー・PO/1961-62
①19分13②10分40③11分50④4分06⑤34分39 計80分28
バーンスタイン・NYPO/1963年
①23分35②11分38③10分04④5分28⑤33分44 計83分29

 声楽付きの多様な内容の終楽章をあのブーレーズやギーレンよりも速く演奏しているのは意外な特徴です。古い録音ではバーンスタインの旧全集の録音の終楽章の時間と近似しています。また、合計時間では以外にもクレンペラーのEMI盤が80分半程度に収まっています。それと第4楽章が素晴らしいのに本当につかの間、あっという間に終わるはかなさでした。
23 1月

マーラー交響曲第5番 ワルター、ニューヨークPO/1947年

170123マーラー 交響曲 第5番 嬰ハ短調

ブルーノ・ワルター 指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック

(1947年2月10日 ニューヨーク,カーネギーホール 録音 SONY)

 先日イヴァン・フィッシャーのCDの帯を見たら、彼がマーラーの第5交響曲について「最もユダヤ的」と評していて、特に第1楽章は「ユダヤ人の嘆きの雰囲気」に連れて行ってくれるとしています。イヴァン・フィッシャーもユダヤ系なので 正直な実感がこもっているのだろうと思われます。音楽家の中にはかなり多数のユダヤ系の大家が居て、指揮者のワルターもその一人です。同じくユダヤ系のクレンペラーはワルターが指揮したマーラーの演奏を「ユダヤ的過ぎる(ユダヤ系の自分が聴いてさえそう思う)」と評していたので、ワルターのマーラー第5番はさぞ独特の風情のはずです。しかし、ワルターのマーラー第5番は何度か聴いたはずなのにどんな感じだったかほとんど覚えていません。それで改めて聴いてみました。この録音は昨夜のブリテンの第1曲目が作曲されたの同じ年のものです。

 実際に聴いてみると冒頭から雑音が混じり、録音年月日相応の音質かなと思い、それとは逆に演奏の方は「ユダヤ人の嘆きの雰囲気」といった趣はあまり感じられず、第2楽章がどことなくその言葉に似つかわしいくらいという印象です。イヴァン・フィッシャーが同じく第5交響曲の終楽章について評した、「救世主に救われた喜びという子供のように純真なイメージへと、私たちを連れていってくれる」という言葉の方にむしろ近い印象でした。マイナス、負の感情を意識するところが少ない、そうした品の良さが目立って、我々ユダヤ人の民族問題に疎い異文化の人間からすればイヴァン・フィッシャーの評するユダヤ的ということはやっぱりよく分かりません。

 故吉田秀和氏は実際にヨーロッパ(ウィーンフィル)で最晩年のワルターが指揮したマーラーの第4番を聴いたそうで、著作にもワルターが度々取り上げられています。マーラー第5番については特に第3楽章を洗練された都雅を失わないと評しています。あまりピンと来ない内容ですが、面白いのは比較しているクーベリックを草いきれのむんむんとするような野趣あふれるとしていることで、それの対極くらいの意味と理解しました(却ってクーベリックの方に関心がわいてくる)。

 ところで「日ユ同祖論」というのが時々思い出したように取り沙汰されることがありました。古代イスラエルの失われた部族が日本にたどり着いたとか、キリストの墓が青森県にあるとかないとか。その類だけでなく、驚くべきことにキリスト教の多数ある教派の中にそれに熱心なところもあり、一部ではかなり前から浸透しているようでちょっと驚きます。 そういえば相撲の「ハッケヨイ ノコッタ」という掛け声もヘブライ語の語彙に該当する言葉があるとか(なんかトンデモ話に見えて仕方ないが)。とりあえず稀勢の里、横綱昇進おめでとうございます。
22 1月

ブリテンのカンティクル ボストリッジ、ドレイク他

170122ブリテン ザ・カンティクルズ(The Canticles)

イアン・ボストリッジ:T
ジュリアス・ドレイク:ピアノ①~④
デイヴィッド・ダニエルス:CT②④
ティモシー・ブラウン:ホルン
クリストファー・モルトマン:Br
アライン・ブリューワー:ハープ

ザ カンティクルズ(The canticles)
①第1番「愛する人は私のもの(My beloved is mine)」Op.40
②第2番「アブラハムとイサク(Abraham and Isaac)」Op.51
③第3番「なおも雨は降る - 1940年の爆撃に 夜から暁の(Still Falls the Rain - the Raids, 1940, Night and Dawn)」Op.55
④第4番「東方の博士の旅(The Journey of the Magi)」Op.86
⑤第5番「聖ナーシサスの死(The Death of Saint Narcissus)」Op.89

(2001年9月11-17日 ロンドン,ハムステッド,リンドハースト・ホール 録音 ワーナー/ERATO)

 今日は京都市交響楽団の定期演奏会があり、プログラムはモーツァルトのピアノ協奏曲第25番とブルックナーの交響曲第0番の二曲でした。指揮は下野竜也、ピアノはパスカル・ロジェ、協奏曲の後に二曲アンコール(サティのジムノペティ第1番、ラヴェルのソナチネから第2楽章)がありました。ロジェも還暦をとっくに越えていたとは、パンフレットを見ながら帰って調べてちょっと驚きました。協奏曲もアンコールも良くて、特にサティにえも言われない魅力を覚えました。協奏曲の方は身贔屓もあるとしてもオーケストラの方が目立った気がしました。ブルックナーは思ったより重厚で堂々たる演奏だったので、後年の大作に一直線につながるような第0番の姿が見られて感銘深いものがありました。第1楽章の冒頭あたりは最近の傾向通りで軽快なスタイルかと思いましたが、段々と大胆になってきて、特にブルックナー休止のところが爽快でした(下野さんは今後、広島響とのブルックナー第8番、大阪公演もある)。

 ところで「良心的兵役拒否」ということを宣言したとして、現代日本では受け入れられるだろうかと考えると、どうもかなり難しそうな気がします。もっとも現行制度では徴兵制ではありませんが、防災と救助業務の自衛隊補助隊のようなものが将来的に出て来たとすれば、義務教育並みに皆加入になる可能性があります。防災、救助だから軍事じゃないし兵役拒否と無関係と言えそうですが、集団行動を訓練された組織は何かと転用され易いもので、全て空想、仮定の話だとしても全くの杞憂とは思えないところです。ベンジャミン・ブリテンが「良心的兵役拒否」を打ち出したのは第二次大戦の時なので、今から考えても驚異的です(日本では「撃ちてし止まむ」とか「鬼畜ベイエイ」と勇ましかった)。このカンティクルズの第1番は、1945年にブリテンがアメリカから帰国してドイツの強制収容所で慰問演奏を行ったりした後に完成したものでした。

 ブリテンが1947年から1974年にかけて作曲された5曲の声楽作品からなる「カンティクルズ」は、選択した歌詞からして反戦、戦渦あるいは、国家が行う戦争事業によって人間の尊厳が容易に、軽々しく損なわれることへの抵抗、問題提起という内容の作品という性格があると思われます。戦争でなくても、組織、集団の規律を強制すること、それに完全には服従し切れない場合の阻害、という問題は常にあるはずです。そうした抽象的なことはともかく、この作品を聴いていると、すんなりと収まらない、心が温まらずに何かが引っかかるような不協な響きが付きまといます。

 そうでありながら忌々しい不快感どころか、立ち止まって振り返らざるを得ない共感のような引力に捕らわれがちなのがこれらの作品の不思議な魅力です。初演時には当然ピーター・ピアーズがテノールを受け持ったわけですが、イアン・ボストリッジの浮遊するようで明晰な歌唱はさらに鋭く訴えかけるような迫力?が感じられます。それに初演時にフェリアーが歌ったところをカウンター・テナーのデイヴィッド・ダニエルスが受け持っているのも好印象で、ボストリッジの声とよく合っていそうです。なお、CDにはブリテンが民謡を編曲したフォオークソング編曲集が入っています。
21 1月

ブルックナー交響曲第7番 I.フィッシャー、ブダペスト祝祭O

170121bブルックナー 交響曲 第7番 ホ長調 WAB.107(ノヴァーク版)

イヴァン・フィッシャー  指揮
ブダペスト祝祭管弦楽団

(2012年3月30日 ブダペスト芸術宮殿 録音 Channel)

 昨夜はかなり早めに寝て、もう日付が変わったかと思って目が覚めたらまだ23時30分でした。これなら米国大統領の就任式の中継でもみようかと思いましたが、既にストーブも消して寒かったからやめにしました。就任式はなんとか無事に終わり、翌日のニュースで「あむぅえりか ふぁあすと」という言葉を何度か耳にして、これまでと違ったことは言ってないようでした。ただ、アメリカ第一主義云々ときくと、まるでこれまでの米国が自国の利益を後にして世界のために慈善的活動に勤しんで来たようにきこえてどうにも違和感を覚えてしかたありません(今までも自国第一じゃなかったのかと)。それはともかく、はっきり自国第一と宣言するのは明快で結構かもしれません。

170121a さてイヴァン・フィッシャーとブダペスト祝祭管弦楽団が、有名作品をチャンネルクラシックに録音しているSACDの中に一曲だけブルックナー作品がありました。それがこの第7番で無難なところと言えるかもしれませんが、下記のトラックタイムを見れば分かるようにかなり短い演奏時間になって目立ちます。だいたい64、5分以上かかるこの曲が60分を完全に切っていて、最近のCDではインバル東京都SOの58分台があるくらいで、ちょっと珍しい傾向です(ボルトン、ザルツブルクも64分くらい)。実際に聴いた印象は、ところどころで忙しないように加速してトラックタイムと概ね合致する感じです。先日のヘスス・ロペス=コボスの演奏をもっと徹底させたようなスタイルです。

フィッシャー・ブダペスト/2012年
①18分42②18分36③09分04④10分22 計56分44
インバル・東京都SO/2012年
①18分28②19分13③09分09④11分44 計58分34
ズヴェーデン・オランダ放送PO/2006年
①23分08②25分54③09分45④12分44 計71分31
ブロムシュテット・ライプチヒ/2006年
①21分32②24分22③10分08④12分42 計68分44
ボッシュ・アーヘンSO/2004年
①19分50②23分06③09分30④11分34 計64分00 

 これくらいの演奏時間差が出てくると、過去の演奏、録音によってなんとなく形作られた作品観とはかなり違ったものと感じられます。それでも聴く前に想像した演奏、ベートーベンの交響曲、急な楽章の終わり方と似たような感じになる、といったタイプとは違って既存のブルックナー像の枠に収まっている感じでした。I.フィッシャーの一連のシリーズの中には旧フィリップスへ録音したものの再発売も含まれているようで、また日本語の帯が付いた仕様もありました。その中でマーラーの第5番について、彼はこれをもっともユダヤ的と評していると書いてありました。ということは自身の民族についても意識しているのがうかがえて、自己のアイデンティティは単純じゃなさそうだと思いました。

 それを反映してか、マーラーの方は既に六曲録音済なのにブルックナーはこの第7番だけになっています。これを聴いて他の大作、第5、8、9あたりも是非取り組んでほしいと思いました。 こうした演奏、演奏時間になるからには独自のブルックナー観があるはずで、どうも気になります。それにSACDのマルチチャンネルもかなり具合が良くて、その点も期待できます。
19 1月

ヴィヴァルディの「ラ・チェトラ」 イ・ムジチ合奏団/1964年

170119ヴィヴァルディ ヴァイオリン協奏曲集 「ラ・チェトラ ( La Cetra )」 Op. 9 (Nos.1-12)

フェリックス・アーヨ(ヴァイオリン,リーダー)
イ・ムジチ合奏団

(1964年5,6,9月 スイス,ラ・ショー=ド=フォン 録音 Philips/DECCA )

 今日のニュースの一つに山口組分裂騒動に伴って京都市内に本部があるA津K鉄会でも反乱、分裂の騒動があったようです。見覚えのある建物の写真が出ていたので恐怖が真に迫ってきます。それはともかく、どこぞの市役所では生活保護担当職員が代紋のようなデザインを付けて、びびらせるスローガンも織り込んだジャンパーをあつらえていたというニュースもありました。不正受給の問題はかつて、まる暴の人が内縁の妻に受給させているとか取り沙汰されていたことがあって、今ではどういう実態なのかと思います。その市役所ではかつて支給を打ち切った相手に刃物で切り付けられたことがあり、それが揃いのジャンパーを作るきっかけになったそうですが、その刃物事件はどうも893のニオイがしてくるので、複雑な背景がありそうです。

 ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集 「ラ・チェトラ(チェートラとのばして表記していることもある)」は、1727年にアムステルダムのル・セーヌ社から出版され、皇帝カール6六世(神聖ローマ帝国皇帝、マリア・テレジアの父)に献呈されています。ヴィヴァルディはこの曲集以前にも「和声と創意への試み」や「調和の霊感」、「ラ・ストラヴァガンツァ」といった協奏曲集を作曲、出版していました。「調和の霊感」は独奏ヴァイオリンだけでなく、複数のヴァイオリンとチェロ、チェンバロのための協奏曲という内容だったのに対して、「ラ・チェトラ」は第9曲がヴァイオリンが2つになる他は独奏ヴァイオリンのための協奏曲になっています。題名についての解説はどうもよく分からず、「元来楽器のリラ(竪琴?)をあらわす言葉」だが、協奏曲の音響を直接暗示しているとは思われないとありました。

 このCDは年末から年始、それから今でもBGM的に聴き出しているイ・ムジチ/ヴィヴァルディ箱に収録されている古い録音です。おそらくイ・ムジチ合奏団も「ラ・チェトラ」を再録音していると思いますが、これは創設メンバーのフェリックス・アーヨがリーダーだった時代のものです。今聴いていると分厚い響きが朗々と流れて、さすがに時代の違いを感じますがその反面、ほとばしってあふれてくる生命力に圧倒されます(寒い時に聴くと暖まる気がする)。

 この箱ものに入っている古い録音では、通奏低音にポジティブオルガンを使っている作品があって、これまで特に意識していなかったのですごく新鮮に聴こえます。イ・ムジチ合奏団がヴィヴァルディらの作品を演奏し出した頃にチェンバロを通奏低音に使ったのでそれが定着したそうですが、オルガンを使った演奏もあったわけで、オルガンが入らない編成とはかなり違った印象です。四季もオルガンを加えた通奏低音にすれば面白そうですが、アーヨの四季はそうしていませんでした。ちなみにもっと新しいイタリア合奏団の「ラ・チェトラ」はオルガンの入らない通奏低音編成です。

 ヴィヴァルディと言えば四季、四季と言えばイムジチ合奏団、それもアーヨがリーダーの時代の録音と相場が長らく定まっていました。そのフェリックス・アーヨは1933年7月1日、スペイン北部セスタオ生にまれました。生地の音楽大学で学んだ後パリに留学、その後ローマの聖チェチーリア音楽院でレミジオ・プリンチーペに師事します。そして1952年にローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミアの卒業生12名が集まってバロック音楽の演奏を主体とするイ・ムジチ合奏団を結成しました(1951年創設という表記もある)。この録音は31歳の頃のもので、メンバーもまだまだ若かったことでしょう。
18 1月

ブルックナー交響曲第7番 ヘスス・ロペス=コボス、シンシナティSO

170118ブルックナー 交響曲 第7番 ホ長調 WAB.107(ノヴァーク版)

ヘスス・ロペス=コボス 指揮 
シンシナティ交響楽団

(1989年1月22,23日 ミュージック・ホール、シンシナティ 録音TELARC)

 今日は職場事務所で使っているフレッツ光のサービス切替日でした。それで従来使っていたルーターも交換するのでそれに伴ってIPアドレスが変わり、ネトワーク接続している複合機も変更する必要がありました。30分かそこらで終わるはずだったのが、機器の進歩に伴いセットアップメニューもほとんど自動化され、その反面マニュアルが大雑把になってIPアドレスについて書かれた箇所が分からず、プリンターやスキャナを使えるようにするまで3時間くらいかかってしまいました。かつて優先LANがメインだった頃はルーターの管理画面からログインしてどうのという段取りでしたが、今日はNTTのメニューを実行している時にそれも行っており、パスワードも作っているのに、それとは気が付かずもう一度ログインが必要だと誤解していました。本来単純な内容の設定なのに思いっきり手間取り、切替日を年末や年始早々じゃなくて今日にしたのが幸いでした。

 このCDが録音された平成元年頃なら、ウィンドウズのパソコンじゃなくてワープロ専用機で印刷して(正本のみ)、それをコピー機にかけるという使い方だったはずです。その時はまだ学生でしたが、自分が勤め出した頃もまだウィンドウズは出ていなかったので、カタカタと鳴ってしばしば紙詰まりを起こすワープロ機のプリンターをにらんでジリジリしていたものでした。ヘスス・ロペス=コボスと言えばDENONから出たハイドンの交響曲が有名でしたが、TELARCレーベルのブルックナーも一部で注目されたのか、レコ芸の広告(六本木WAVEか山野楽器)記事で店員がプッシュしていたことがありました。過去記事では第4、第6番を取り上げていますが今回の第7番はそれ以上の感銘度なので、その二曲も今聴けばもっと好印象だろうと思いました。

ヘスス・ロペス=コボス/1989年
①21分10②22分47③10分10④12分12 計66分29
バレンボイム・BPO/1992年
①21分54②24分53③10分23④13分29 計71分03
シノーポリ・ドレスデン/1991年
①19分46②22分51③09分35④12分45 計64分57
ドホナーニ・クリーヴランド管/1990年
①20分59②21分43③09分15④11分53 計64分00
ジュリーニ・VPO/1986
①20分22②24分08③10分35④12分31 計67分36

 録音年が近い第7番のCDのトラックタイムを並べたら、ヘスス・ロペス=コボスは遅い、長い部類ではくて普通といったところです。しかし聴いた印象はその時代にすればかなり個性的というのか、重厚、祝祭的な高揚を追う路線の正反対といった印象です。古典派時代の交響曲の枠組みにブルックナーの内容を流し込もうとしているとまで言えば大げさですが、第4楽章のコーダ部分の完結さ、潔さ??はベートーベンの交響曲第4番の終わり方などを連想しました。そうかと言ってカサカサに乾いてロマン派のロの字もないというものとは違い、特に第2楽章が独特な潤いと明晰さが感じられてとても魅力的です。ブルックナーの名前から連想する「らしさ」からちょっと距離があるかもしれませんが、田園風景をゆっくりと自転車くらいの速度で進むような心地良さで、作品の魅力を再認識しました。

 ヘスス・ロペス=コボス(Jesús López-Cobos 1940年2月25日 - ) はスペイン出身なのでCD、レコードでブルックナーがレパートリーニ入るというのはひと昔前(1960年代とか)なら考え難かったと思います。しかし東洋人がブルックナー全集を1970年代に完成させたりしたので、別段驚くこともないはずです。その東洋人というのは朝比奈隆のことで、全集は1976年から1978年にかけて録音された通称「ジァン・ジァンの全集」ですが、ヘスス・ロペス=コボスの今回の第7番はその朝比奈隆の指揮、演奏とは対極的な印象です。
16 1月

ヴィヴァルディの四季 シモーネ、イ・ソリスティ・ヴェネティ 

170116aヴィヴァルディ 協奏曲集「和声と創意への試み」 作品8から 「四季」op.8-1~4

クラウディオ・シモーネ 指揮
イ・ソリスティ・ヴェネティ

協奏曲集「和声と創意への試み」作品8
第1番ホ長調 RV269「春」
第2番ト短調 RV315「夏」
第3番ヘ長調 RV293「秋」
第4番ヘ短調 RV297「冬」

(1971年4月 ヴァッカリーノ 録音 ERATO/ワーナー)

 先日の日曜日、昼飯を食べながら書類の整理をしながら(食べるか手を動かすかどっちかにすればよいものを)FMの「トーキング ウィズ 松尾堂」を聴いていると、ゲストの一人、秋野暢子さんがリクエストした曲にヴィヴァルディの「春」があり、イ・ムジチ合奏団のアーヨがリーダー、ソロを弾いた有名な録音がかかりました。自分も年末と元旦に事務所に出て来た時はイ・ムジチの廉価ヴィヴァルディ箱のCDを聴いていたのでその選曲に納得していました。元旦に聴いていたのは四季じゃなくて「ラ・チェートラ」の方でしたが、これもアーヨ時代の古い録音で、通奏低音に楽譜の指示通りオルガンが入っていたので一瞬オルガン協奏曲かと錯覚しました。別のCDの解説によると、ヴィヴァルディが作曲したヴァイオリン協奏曲集、ラ・チェートラの他は通奏低音にオルガンが指定されていて、これは作曲時に教会内で演奏されることを前提とされたからということでした。しかし現代に演奏する時はオルガンの代わりにチェンバロを使っているということなので、そっちの編成が当たり前になってその演奏で覚えているわけです。 

170116b それなら「和声と創意への試み~四季」も通奏低音にチェンバロじゃなくてオルガンを使った録音があるかもしれないと(四季も本来オルガンを使う編成とまでは書いてなかったけれど) 思い立ち、同じくイタリアの室内アンサンブル、イ・ソリスティ・ヴェネティの四季を聴いてみました。15年くらい前だったか、ネット上で四季ならイタリア合奏団はだめとか、イ・ソリスティ・ヴェネティが素晴らしいというコメントを読んだことがあり、根拠までは示されてなかったもののそのことがうっすらと記憶に残っていました。それに、個人的には、そのアーヨのイ・ムジチの四季は特に好きでもないので、年明け最初のCD購入でこれを選びました。

 さっそく再生したところ、冒頭はアーヨ/イ・ムジチの春とそっくりだったのでそこは内心がっかりしました。しかし、 春の第2楽章以降は協奏曲の妙味がよく出ていて面白く、特に「夏」はこれまで聴いた四季の中では一番素晴らしいと思いました。どこがどう良いのかを説明する能力に欠けるのがもどかしく残念ですが、「夏」は日本人の四季から感じ取る情緒とヴィヴァルディの楽曲とに一番齟齬があるようで、時には退屈しますが(そうじゃない方も当然おられるが)、この録音ではソネットの言葉はともかくとしても楽曲自体の面白みを十分堪能できると思いました。

 ということで、記憶が曖昧なネット上の感想はかなり信ぴょう性があったことになり、今頃になってこのアンサンブルに関心がわいてきました。ということで、今年も廉価なそこそこ古い録音のCD購入はやめられそうにありません。これを聴いて年末年始にヴェネティアへ旅行する代わりだと思って繰り返して聴いています。 クラウディオ・シモーネ(Claudio Scimone 1934年12月23日パドヴァ生 - )は、1959年、25歳になる年に生地パドヴァで「イ・ソリスティ・ヴェネティ」を結成しました。これはイ・ムジチの結成から約7年後のことであり、イタリア合奏団よりも古いことになります。日本にも何度か来ていて、シモーネもまだ存命なので何とか生で聴く機会はないものかと思いました。
15 1月

ブラームス交響曲第2番 I.フィッシャー、ブダペスト祝祭O/2012年

170115bブラームス 交響曲 第2番 ニ長調 Op.73

イヴァン・フィッシャー 指揮
ブダペスト祝祭管弦楽団

(2012年2月 ブダペスト芸術宮殿 録音 Channel)

 昨夜に雪の話を書いていたら今朝目がさめたら10センチくらいの積雪があって、自動車の屋根にもこんもりと積もっていました。すぐに溶けると思っていると気温も低くて、9時過ぎでもたっぷり残っており、おまけに道路もアスファルトが見えないところが大半でした。と言っても凍結しているわけでなし、豪雪地帯に比べれば何でもないと思って車で家を出たところ、動いている車があまり無くて、車輪の後を通ろうとしても鮮明でなくて困りました。やむをえずパートタイム4WDの低速モードを模したXモード(フルタイム4WDのフォレスターに装備されている) を使って幹線道路までのろのろと走りました。途中で電車に乗り、京都市内まで行ったらさらに多くの雪が残っていて、本格的なチェーンを巻いた車の音がきこえました。チェーンの巻き方は教習所で一応習ったのに全く覚えていなくて、そろそろ自分で装着出来るようにしておかねばと思って金属製のチェーンを付けた車を見送っていました。

170115a さて、 イヴァン・フィッシャーとブダペスト祝祭管弦楽団のブラームス交響曲第2番。先日のマーラー第9番の印象からすれば、この曲にうってつけだと想像した通り、かなり素晴らしい演奏でした。自分の中ではブラームスの四つの交響曲の中では親近度四番目な第2番ですが、これは冒頭から鮮烈で音質共々に滅多に感じられない程の好印象でした。これはI.フィシャーのブラームスでは第2弾にあたり、目下第3番を残すのみとなっています。このCDの紹介記事(HMVのサイト)にはフィッシャーが「ブラームスの交響曲第2番を “ Sunny ” と例える」と記載されていました。英語の意味だとしたら「日当たりが良い」とか「陽気な」くらいなので、この曲にこの語を冠したとしても別に特異ではないはずです。しかし、その記事には「ますます冴え渡る独創的な解釈」と続いています。

 解説の英文を読めば分かるのでしょうがそこまでの根気は無いのでやめておきます。この録音の素晴らしさはI.フィッシャーの指揮だけでなく、ブダペスト祝祭管弦楽団の演奏、技量にもあるはずで、ベートーベンやマーラーの時以上に冴えわたっているように思えました。1983年に設立の約十年後の1992年から常設のオーケストラになり、団員とはソリストとして契約し、毎期オーディションを課しているようです。 現在でもそんな頻度でオーディションを行っているのかどうか分かりませんが、20年以上団員として契約しながら直近のオーディションで水準にみたないと判定されたらちょっと困ったことになるだろうと思います。他の有名オケでこういう制度を実施したら現在の団員が入れ替わるところも出るはずで、選考、審査に納得が行かない場合は却って水準が下がったり、士気が低下することも考えられます。

 この曲は過去にあまり扱っていなくて新しい録音も少ないですが、下記のように以外に?今世紀に入って録音したギーレンと第1楽章以外は近似した演奏時間になっています。

イヴァン・フィッシャー/2012年
①20分06②09分00③5分38④09分33 計44分17
ギーレン・SWRSO/2005年
①14分53②09分15③5分25④09分36 計39分30
ジュリーニ・ウィーンPO/1991年
①18分00②12分20③6分02④11分05 計47分27

 往年の名指揮者セルも厳しく団員の入れ替えを行っていたというのでこれも宿命ということでしょう。ともかくCD(SACD)でI.フィッシャーとブダペスト祝祭管弦楽団を聴いていると彼らが来日したら是非ホールで聴きたくなってきました。 何度も来日しているのにその時にはCDも聴いたことがなく、アダム・フィッシャーの弟くらいの認識だったのが残念です。
14 1月

ワーグナー「ラインの黄金」 ティーレマン、ウィーン2011年

170114aワーグナー 楽劇・ニーベルングの指環 「ラインの黄金」

クリスティアーン・ティーレマン 指揮
ウィーン国立歌劇場管弦楽団

ヴォータン:アルベルト・ドーメン(Br)
ドンナー:マルクス・アイヒェ(Bs)
フロー:ヘルベルト・リッペルト(T)
ローゲ:アドリアン・エレート(T)
フリッカ:ヤニナ・ベヒレ(Ms)
フライア:アレクサンドラ・ラインプレヒト(S)
エルダ:アンナ・ラーション(A)
アルベリヒ:トマス・コニエチュニー(Br)
ミーメ:ヴォルフガング・シュミット(T)
ファゾルト:ラース・ヴォルド(Bs)
ファフナー:アイン・アンガー
(Bs)、他

(2011年11月 ウィーン国立歌劇場 ライヴ録音 DG)

170114c 今日は予報通り、近畿の平野部でも雪が降ってきてかなり寒い一日でした。宇治、京都市の洛北、大津市くらいならたいして変わらないと思いがちですが、降雪、積雪となるとそうではなくて、京都市の北区や左京区で10センチ近く積もっても宇治なら積もっていないこともあります。大津はそれ以上に気温が何度か低いはずで、高架上にある湖西線のホームは特にこたえます。先日、この三月にびわ湖ホールで上演予定の「ラインの黄金」を予約した際、「演出の都合で途中休憩無しです」と念を押され、だいたい2時間半程度だから大丈夫だと思っていました。しかし、もし途中で外へ出たら簡単には戻れないはずで、ちょっと気になります。虹のかけはし、ワルハラ城への入場は見逃すわけにはいかず、水分と体調管理を心掛けなければと思いました。ついでに、巨人族をどういう風に表現するのか、着ぐるみ用意で本当に巨人的に見せるのか、影で表現して歌手はそのまま等身大で登場するのか。 

170114b このCDは2011年11月にティーレマン指揮によりウィーン国立歌劇場で集中的に上演された指環四部作をライヴ録音したものです。CSTVで放映されたこともあるようで、それなら今後映像ソフトで出て来るかもしれず、はやまってCDを購入したのは残念だったかもしれません。というのは前回、ジークフリートの時も思いましたが、音質というのか録音レベルなりマイク設置の具合というのか、ホール内の音の上澄みを採ったような、ちょっと弱い音にきこえます。だから、ヴォータンが目覚めて、フリッカの機嫌をうかがいつつも好き勝手なことを吠えるあたりもあまり圧力、迫力が無くて登場のインパクトが弱く聴こえて残念です。

170114 その割に冒頭の「生成の動機」の前、バスとファゴットの序奏がだんだん大きくなっていくところは鮮明で、「波の動機」が出て来るまでのところは作曲者が「世界の揺籃」と称したのも納得させられる神秘的な内容だと思いました(これまではあまり感動的にはとらえていなかった)。それからライン河底の場に入ってもオーケストラに方に関心がいき、改めてティーレマンのワーグナーは良いと実感していました。トリスタン、パルジファルもウィーンでライヴ録音したCDがあるものの、それらも今回と似た音質なので、なんとか念入りなセッション録音(ウィーンでなくてもいいから)が出てこないかと今更ながら残念に思いました。ティーレマンがCDのデビュー録音だったのはフィルハーモニア管弦楽団とのベートベン第5、7番だったと思いますが、指環と比べると短い作品ながらあれは今でも色褪せないと思います。

 歌手は皆良さそうながら、圧倒的に刺激的ということもなく何とも言い難いところです。ヴォータンのアルベルト・ドーメンは2007年のバイロイトで同役を歌ってデビューしていて、シュターツカペレ・ドレスデンと去年来日した時にはアルベリヒを歌いました(チラシではそうなっていた、聴きに行けたわけじゃないけれど)。この録音では上品目のヴォータンのようで、フィナーレでかけ橋を渡りながらライン河の三人が訴えるのを忌々しげに言うあたりも険が無くて、ローゲ共々ちょっと物足らない印象です。なお、終演後の拍手は盛大で、近年のバイロイトで時々あるブーイングが交錯する様子はありませんでした。拍手はすぐにフェイドアウトして少ししか入っていませんが、所々急に歓声が湧きたっているのが分かりました(どの歌手に対してだろうか?)。  
13 1月

マーラー交響曲第9番 I.フィッシャー、ブダペスト祝祭O/2013年

170113aマーラー 交響曲 第9番 ニ長調

イヴァン・フィッシャー  指揮
ブダペスト祝祭管弦楽団

(2013年11月30日,12月1-2日 ブダペスト芸術宮殿 録音 Channel)

 先日の夕方、大阪フィルの定期で井上道義がショスタコーヴィチの交響曲第11、12番を一度に指揮しすることを思い出してチケットを申し込みました。 ロシアのオケが来たとしてもこの二曲をプログラムに入れる可能性は低いのでこの機は逃せないと思いました。来年度の最後は同じくショスタコーヴィチの交響曲第2、3番を一度に演奏する予定になっていました(第11、12番のプログラムを見た時に次は第2、3番を期待したので早くもかなった)。それから三月はびわこホールで「ラインの黄金」の上演で、これも申し込み済ですが、今年に入ってからだったので空きがかなり少なくて危ないところでした。びわこホール周辺も施設内も飲食店が少なくて、おまけに浜大津周辺もそうなので当日はホールに着く時間に注意です。

170113b しばらくマーラーを聴いていないと年末頃から思っていて、このところ第9番が断片的に頭の中にちらついていました。それでこの新しい録音で最初から聴いたところ、先日のワルター最晩年のベートーベン第7番とはうって変わり、明朗で万事これから始まる直前のような印象でした。そんなのは聴く者ののその時々の気分で変わるとしても、特に第2、第3楽章でさえも屈託のない純朴さなので、この作品はこういうものだったのかと、今までよほど自分はひねくれてとらえていたのではないかと思うくらいです。1980年代後半のマーラー・ブームに第9番は第1楽章だけならどんな指揮者でも成功するとどこかに書いてあったか、誰かが話していたことがあったと覚えています。実際、四つの楽章を連続して聴くと両端楽章だけ印象に残り、中間の二つの楽章はどういう関係があったのかと妙な断絶、分裂感が残る場合がしばしばありました。この録音はそういう不満は無くて、四つの楽章の一体感は抜きんでていると思いました。
 
 それにしても、告別云々が取りざたされる第9番がこんなに率直に、自然の風景を見るような美しさで迫ることは稀じゃないかと思いました。演奏者を民族で一律に語るのは不適切だと吉田秀和氏の著作にも出ていましたが、敢えてそうするなら独墺のユダヤ系指揮者の振る第9番はこんな感じじゃなかったと思いながら聴いていました(特にクレンペラーとか)。といってもイヴァン・フィッシャーもユダヤ系ハンガリー人なので、それこそ民族では測れないものです。調べるとI.フィッシャーとブダペスト祝祭Oは第9番以外にも第1、2、4-6番と5曲も録音していて、知らない間に全集ペースで進んでいます。

 繰り返すとこれを聴いていると、マーラーの創作活動もまだまだ後に何年も続くような、またこれから新しいことが始まるような息吹があふれているような気になります。花とか蝶、蜜蜂等々、春のキャストが出番前に衣装でも合わせて準備でもしているところを連想します。しかし実際にはマーラーは第9番の初演を指揮することもなく、聴くことも出来ずに世を去っているわけです。分かり切った経緯ながら、作曲者の没後100年以上経ってこういう録音を聴いていることが不思議に感慨深く思えました。
12 1月

ベートーベン交響曲第7番 ワルター、コロンビア交響楽団

170112ベートーベン 交響曲 第7番 イ長調 op.92

ブルーノ・ワルター 指揮
コロンビア交響楽団
 
(1958年2月1,3,12日 ロサンジェルス,アメリカン・リージョンホール 録音 sony)

 今年は年明けから体調が悪くて早速病院通いでした。 寿命とかに関わるものじゃないとしても、それなりにやっかいなものです(今年は例年よりも忙しい)。気を取り直して待合室で吉田秀和の文庫本を読んでいると、どこかで読んだ覚えのある内容が断片的に出て来て妙に懐かしく思いました。吉田氏がヨーロッパに初めて渡航したのが1954年のことで、その年のバイロイト音楽祭でクナッパーツブッシュのパルジファルをはじめ、多数の公演を視聴したり、クナのブルックナー第7番を聴いていてアダージョで居眠りした話とともに、ワルターが状況が悪化しているのにウィーンからパリと移動しながらアメリカへ直行しなかったのはヨーロッパを離れることに未練が大きかったからという指摘が印象的でした。

 と言ったところでワルター、コロンビア交響楽団のベートーベン第7番です。ワルター最晩年のベートーベンの交響曲録音の中で第7番は特別に評判が高かったわけではないはずで、第6番なんかに比べると地味だったと思います。演奏時間だけをみると、クレンペラーのEMI初回録音とクリップス・LSOの間におさまっています。なお、個人的にはワルターのベートーベンならコロンビアSOとの第5番が圧倒的に記憶に残っていますが、それはFM放送をラジカセで録音し、反復して聴いたからでした。

ワルター・コロンビアSO/1958年
①12分57②09分57③8分14④6分45 計37分53
クレンペラー・PO/1955年
①12分51②09分30③8分21④7分56 計38分38
クレンペラー・PO/1960年
①14分04②10分02③8分43④8分39 計41分28
クレンペラー・ニューPO/1968年
①14分04②10分41③9分16④9分00 計43分01
クリップス・ロンドンSO/1960年
①12分34②08分54③7分24④6分56 計35分48 

 改めてこれを聴いていると、第2楽章が圧倒的でまるで本当の葬送行進曲のようにきこえて、ここで満腹気分になりました。葬送といっても陰気くさいのと違い、清らかにして峻烈で、よくワルターに対して冠せられる賛辞とはちょった違った印象です。モーツァルトのレクイエムよりもずっと葬送的、と言えば変な表現ながら、本当にそうだと実感しました。交響曲第7番は第2楽章があっても総じて明るい曲だという印象が先立ちましたが、この録音の場合はそうとは言い切れないくらいです。

 偶々パウル・クレツキとチェコPOによる同曲を聴いた直後なので、演奏会場やら音質の違いにも注意がいき、それだけでなくワルターの録音はどこかしら肥大した響きに感じられます。それだけに却ってクレツキの録音の方が引き立って思い出されます。自分の中でワルター指揮の録音ならステレオ録音よりも、1950年代にモノラル録音したモーツァルトの交響曲とレクイエムや、戦前のヨーロッパを離れる直前にウィーンPOと録音したマーラーの交響曲第9番が特別に感銘深いと思っていました。クレンペラーは1960年にウィーン芸術週間に客演した機会にワルターと再会した時、40年前とちっとも変わらない演奏だと嫌味を言った(相変わらずのクソ爺ぶり)らワルターは賛辞と勘違いしたと言っていましたが、実際には激動の年月を経て演奏も変遷していたことだと思います。
10 1月

ベートーベン交響曲第7番 クレツキ、チェコPO/1964年

160415ベートーベン 交響曲 第7番 イ長調 op.92

パウル=クレツキ 指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

(1967年2月11-13日 プラハ,ルドルフィヌム 録音 Supraphon)

 先日の連休は寒波がそれほど厳しくなかったので雪ではなく雨で済みました。特に日曜は一日中、かなりの勢いで降り続いたので、これが雪だったら降雪に慣れない我々は身動きが出来ないくらい積もっていたかもしれません(そういえば冬用タイヤに交換しないのが当たり前になっている)。それにしても、駐韓国大使の一時帰国、世論調査では半分が賛成とか。この先こじれてパリとかベルリンにも少女像を建てようとかそんな事態にならなければと思います。政府同士がとり決めたことが国内で反対にあって遂行できないという状況は、どこぞの基地問題と似ていると言えば怒られそうですが、元々すんなり解決するのは難しい複雑な問題だと思いました。ちなみにこのCDの録音された1967年は自分が生まれる前ですが、朴 正煕 元大統領が二度目の大統領に就任した年でした。
 ベートーベンの交響曲第7番、特に第3楽章を聴くと何となく寒くて日が短い、今頃の季節やどこかしら耐久、耐乏の暮らしを連想させられます。第3楽章のトリオはクレンペラーらの指摘によると、古いオーストリアの巡礼歌の旋律からとられていて、ゆっくり演奏されてこそ意味がある(スケルツォ部分との対比で)ということですが、今ではその前に第1楽章を聴いていると千秋真一のダメ出しの罵声がきこえてきそうです。

クレツキ・チェコPO/1967年
①12分21②08分46③7分59④7分15 計36分21
クレンペラー・PO/1960年
①14分04②10分02③8分43④8分39 計41分28
クレンペラー・ニューPO/1968年
①14分04②10分41③9分16④9分00 計43分01 
ケンペ・ミュンヘンPO/1971年
①13分54②08分58③7分45④6分40 計37分17

  クレンペラーと併せてトラックタイムを見てみると、クレツキはケンペと同じくらいの演奏時間になり、聴いている時の印象は速目で軽快です。終楽章はコーダ部分の直前でさらに少し加速するような感じですが、それでもそこを含めて全体的に強引さは無くて終始明快な響きです。どれくらいの人数、編成なのか、あるいは当時としては人数をしぼっているのかもしれません(例えばオーマンディと比べて)。そんな調子なので、およそ熱狂したり涙したりするタイプの演奏じゃなくて、これの延長線上には近年のピリオド奏法を取り入れたスタイルが見えてきそうです。

 CD付属解説によるとクレツキとチェコPOの全集で一番問題となったのは第九であり、大戦後20年近くが経とうとしていてもドイツ語歌詞の歌に抵抗があったということで、ちょっと驚きました。しかしよく考えれば、オーストリア帝国時代には母国語によるオペラ、演劇を上演する劇場が悲願だったので無理のない感情だろうと思いました。そんな時代にチェコPOがベートーベンの交響曲を全曲録音するにあたってクレツキを選んだのは、単に民族や彼の境遇に共感してのことだけではなく、指揮ぶりに好感を持ったからだろうと改めて思いました。
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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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