raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2016年11月

30 11月

ブルックナー交響曲第8番(第1稿) ヤング、ハンブルクPO/2008年

161130aブルックナー 交響曲 第8番 ハ短調 WAB108 (1887年第1稿ノヴァーク版)

シモーネ・ヤング 指揮
ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団

(2008年12月14-15日 ハンブルク,ライスハレ録音)

 今日で11月が終わり今年もあと一カ月になりました。ともかく今日まで何とか無事に過ごせてありがたいことで、そう思いつつブルックナーの第8番のCDを何度かに分けて再生しました。ところで12月に天皇誕生日が来るようになってすっかり定着しました。今年は天皇陛下御自身による譲位に関する放送があり、波紋を呼びました。それ以前にも皇位継承について男系男子に限るのか、女性宮家を創設するのか等が問題になりました。昔のように、例えば後醍醐天皇とかのように何人も皇子が控えているような環境ではない(今後も簡単にはそうならないはず)ので、男系男子限定を主張する層は何らかの対策、対案を持っているはずです。戦前の旧宮家が復活したりとか、そうだとすればちょくちょくTVに出てるああいう人が含まれてくると思うと、現在の天皇陛下とあまりに開きあるように見えてしまいます。

交響曲第8番ハ短調・第1稿
第1楽章 Allegro moderato
第2楽章 Scherzo: Allegro moderato - Trio: Allegro moderato
第3楽章 Adagio Feierlich langsam, doch nicht schleppend 
第4楽章 Finale: Feierlich, nicht schnell

 細かい部分は列挙できないとしても、聴いていると通常の1890年稿との違いは所々で気が付きます。よく指摘されるように、どちらかと言えば第1稿の方が奔放で、自然な美しさにあふれています。特に第4楽章のコーダ部分は1890年稿よりも簡素で、個人的にはこっちの方に好感を持てます(クレンペラーも大幅にカットするくらいならいっそ第1稿で演奏すればよかった?)そのせいか第1稿による録音が徐々に増えていて、シモーネ・ヤングも全集にあたっては第1稿を選びました。インバルも新旧ともに第1稿で演奏しています。トラックタイム、演奏時間は下記の通りでこれらの中で最短のインバルと最長のギーレンでは20分も差が出ています。それはともかくとして、ヤングはやや短めの時間になっています。

~ 第8番第1稿の録音
ヤング・ハンブルクPO/2008年
①16分05②14分37③27分44④24分10計82分36
インバル・都SO/2010年
①14分55②13分52③25分11④21分05 計75分03
F.ウェルザー・メスト:CLO/2010年
①17分02②15分33③31分46④24分33 計88分54
ギーレン・SWRSO/2007年
①18分29②19分50③29分44④27分01 計95分04
ティントナー・アイルランド/1996年
①17分41②15分14③31分10④25分10 計88分15

161130b 全集の第1弾だったこのCDは新譜で出た時もけっこう注目され、レコード芸術誌・2009年10月号の月評で特選を得ていました(小石忠男、宇野功芳の両氏)。前半、特に第1楽章はやや荒っぽい印象(元々そういう作品とも言えそう)ですが、第3楽章が思いっきり滑らかなで神秘的に美しくなり、第4楽章も月評では「ねり絹ような」と評されているように、この曲らしい荘厳な空気がただよいます。それに個人的にあまり好きでない終楽章のコーダ部分も上品に終わっています。ヤングのブルックナーは第00、第0も含めて他の交響曲を過去記事で扱いましたが、最初の第8番が一番感動的だったかもしれません。ちなみに2010年までに発売された分ではシモーネ・ヤングのブルックナーは他に第3番(これも初期稿)が特選になっています。

 ブルックナーは交響曲第8番の第1稿を一旦完成させてから、指揮者のヘルマン・レーヴィに楽譜を見せて良い反応ではなかったので改訂にかかり、これだけでなく交響曲第1-4番の四曲も改訂することになりました(第5~7番はそうではなかった)。そうするとこの第8番の第1稿は何か分岐点のようでもあり興味深いものがあります。
29 11月

ヘンデルのメサイア マリナー・The Academy/1976年

161129ヘンデル オラトリオ 「メサイア」 HWV.56(1743年ロンドン版)

サー・ネヴィル・マリナー 指揮
アカデミー・オブ・セントマーティン・イン・ザ・フィールズ管弦楽団
アカデミー・オブ・セントマーティン・イン・ザ・フィールズ合唱団

クリストファー・ホグウッド:オルガン
 
ニコラス・クラエマー:チェンバロ
ケネス・ヒース:チェロ
ジョン・ウィブラハム:トランペット 

エリー・アメリング(S)
アンナ・リノルズ(A)
フィリップ・ラングリッジ(T)
グウィン・ハウエル(BS)

(1976年 ロンドン,セント・ジョーンズ,スミス・スクエアー 録音 DECCA)

 10月に亡くなったマリナーの名前がまだ来年のオーケストラの予定に残っていたりするのを見ると、長寿だったとは言え妙にはかなさをおぼえます。それはそうと既に待降節、アドヴェントの期間に入り、ツリーやら御降誕の馬小屋を模したプレゼピオを出して来るところですが、自分では今までそれらを飾ったことはなくて、今ではもう誰をはばかることもないのに長年の習慣からクリスマスには思い入れが薄いので例年何も飾ったりしていません。そのかわりというわけでもなく、昨年からベラベッカというアルザス地方の菓子が身近な所で売っている分かり、ちょくちょく食べるようになりました。もっとも、今年は7月頃まで売っていたので別段期間限定でもないものです。外見は和菓子の棹物に似て地味で、レーズンやら洋ナシのドライフルーツを練り込んだものです。コーヒー、紅茶やブランデーといっしょに食べるものらしいですが、アールグレイの紅茶(といってもティーパックを飲んでるだけ)がよく合う気がします。

 さて、このマリナー初回録音のメサイアは「続~」の方で既に扱いましたが、一時期までこの作品の代表的なレコードとして君臨?していたので、マリナーの遺徳を偲びつつ音量を上げて聴いてみました(第三部を中心に)。 個人的にメサイアはかなり好きな作品であり、特に第3部は歌詞が他の作曲が扱っていないことも含めてかけがえのないものだと思っています。独唱から続けさまにコーラスへ移行する部分なんかも何か奮い立たされるようで(雲のように多くの証人に囲まれている)、時々は聴きたくなります。大事MANブラザーズバンドのヒット曲じゃないけれど、ダメになりそうな時に効きそうです。

 このマリナーの録音は神秘的な内容の歌詞である第3部でも、粛々と進んで行き、感情を操作して無理に気分を高揚させるようなものではなくて、しみじみと美しい演奏です。古楽器オケではない古いタイプの編成、スタイルの場合は勝ち戦に酔ったような喧噪にきこえることもあるのでその点は全く問題はありません。第2部最終曲の有名なハレルヤ・コーラスも端正で、約十年前の録音であるクレンペラー盤とは対照的です。きりがないことながら、御受難を扱った第2部も引き締まって悲壮感もある独特な美しさです。第2部は速目、時にはたたみかけるようなテンポなのに対して第3部がゆっくりとして、あまりリズミカルでもないのが興味深いところです。

 うっすらと記憶に残っているのは「名曲名盤500」というレコ芸の企画を集めた別冊に載ったこのレコードのジャケットが、デザイン化された十字架で占められていた写真だったことですが、廉価CDでは全然別の絵が使われています。ということはまた記憶違いなのだ思いますが、久々に聴いていると品位のある演奏に、名曲名盤の選定もまんざらではないと思いました。 
28 11月

ブルックナー交響曲第1番 ボルトン、ザルツブルク・モーツァルテウム

161128ブルックナー:交響曲第1番ハ短調 WAB101(1865/66年リンツ稿)

アイヴァー・ボルトン 指揮
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

(2013年10月11-13日 ザルツブルク祝祭大劇場 録音 Oehms)

161128b 伏見区の久我に道元禅師の生誕の地とされる寺があり、ちょうど路線バスの停留所前に石碑が建てられていました。写真の碑より奥に進むと「誕生寺」もありました。バスが通る昔ながらの街道はそこそこ交通量が多く、普段は通り過ぎるだけで、こういう場所があるのを忘れています。道元ゆかりの場所は筆者地元の宇治にもいくつかあり、幼少期を過ごしたとされる松殿山荘(宇治市木幡南山)や、曹洞宗で国内最初の寺院である興聖寺が移築されたところ(宇治市宇治山田)がそれでした。後者は小規模ながら紅葉の名所となっていて、久我の石碑を見てそれを思い出して久々に見に行くかと思っていました。しかし昨日は朝から雨だったのでやめたので、来週には散っているかもしれません。興聖寺は小学生の時に何度か「宇治川写生大会」に参加するために来たことがあり、それ以外でも近所まで釣りやら昆虫を採りにしばしば行きました(殺生ばっかりしやがって)。曹洞宗やら興聖寺もそれくらいの関わりだけで、決して檀家であったり墓地があるわけでも何でもありません。また、若い頃に文庫版の正法眼蔵を読もうとしたことがあったけれども全然記憶に残っていません。それが先月、正法眼蔵のごく短い巻、「生死」巻が月刊「カトリック生活」の特集で紹介されてあり、こんな巻もあったのかと感心しながら読んでいました。そして新しい文庫版の内でそれが載っている第八巻だけを買ってきました。「生というときには、生がすべてでほかには何もなく、滅(死)というときには滅がすべてで他に何もない。したがって生が来たならばただひたすらに生に、滅がきたならばただひたすら滅に、お仕えすべきである。」そういう難しいことが書かれてあり、逃げたがる、投げ出したがる我々にとっては至難のわざだと溜息がもれそうです。道元がその「生死」巻を書いたのがちょうど興聖寺を建立した(最初は現在の場所ではなかった)頃にあたるとされています。

 石碑の写真が縦長なのでサイズに合わせてだらだらと書いてしまいました。先日来の第0番に続いてブルックナーの交響曲第1番です。これはアイヴァー・ボルトン指揮のザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団によるブルックナー・チクルスの第八弾にあたり、このシリーズもあと第2番(第0番や00番はどうするのか分からないが) を残すのみです。ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団もピリオド・オケに押されてそうそうモーツァルトばかりをうりにしていられなくなってか、ブルックナー全集まで手掛けることになるとは。
 
161128a ブルックナーを演奏する際には増員しているとしても、日本語帯や広告に書かれた「ノン・ヴィヴラート奏法主体」、「まるでモーツァルトのような」というスタイルは聴く前からちょっと合わないのではないかと思いますが、実際に聴くと過去記事で扱った第6番もなかなか面白い感じでした。今回の第1番のリンツ稿はより一層この演奏スタイルにふさわしいようで、モーツァルトというよりもハイドンの作品にも通じる快活さが実感できます。ブルックナーも変異種のようではなく、過去の作曲家に連なる人物なんだと何となく安心させられます。ただ、ブルックナーらしさ、それが通俗的だとしても、こういう演奏では特に後の作品になるほどにこの作曲家の作品ならではの興というか、独特の高揚感は薄くなるとも思いました。

 なお余談ながらボルトンは第3番、第4番では初期稿を選ばずに通常の改訂された稿を使っているのがちょっと残念で、こういう演奏で初期稿の第2~4番、と第5番と聴いていくと四部作説の妙を体感できるだろうと思いました。

 先ほどの正法眼蔵、生死巻の「 生というときには、生がすべてでほかには何もなく、滅(死)というときには滅がすべてで他に何もない 」というのはきつい言葉で、実際にはそれに直面しては逆をのぞんだりもします。そんな弱い凡人の一人として、ヘンデルのメサイアの歌詞にもなっている聖句を思い起こしたいところです。“ But thanks be to God,who giveth us the victory through our Lord Jesus Christ.(1 Corinthians 15:57 57.)" 
26 11月

ブルックナー交響曲第0番 シャラー、フィルハーモニア・フェスティヴァ

1126ブルックナー 交響曲 第0番 ニ短調 WAB.100

ゲルト・シャラー 指揮
フィルハーモニー・フェスティーヴァ

(2015年3月 
バート・キッシンゲン,レゲンテンバウ 録音 Profil)

 演奏頻度が低い、生で聴く機会は少ないと思い込んでいたブルックナーの交響曲第0番、京都市交響楽団の定期公演、再来月・1月定期の曲目に入っていました。例年1月定期の頃は忙しくて色々混乱しているので定期会員になっていた年もその月は聴けませんでしたが、今期はちょっと事情が変わって行けそうなのでチャンスです。先日のスクロバチェフスキの再録音を聴いていて急にこの作品に対する愛着度が増し、深まって、自分の中のブルクナーの交響曲のファースト・グループだった「第2、第5、第6、第9」の中に割って入ってきました。それはともかく、今日は京響の11月定期初日で、プログラムはメシアンのトゥーランガリラ交響曲(高関健の指揮,児玉桃がピアノ,オンド・マルトノが原節)のみでした。開演時間を勘違いしていて途中からしか聴けなかったのが悔やまれます。パンフレットの演奏者プロフィールを見て児玉桃が自分より年下なんだと思いながら、姉のケント・ナガノ夫人(児玉麻里)と勘違いしていたことにも気が付きました。

シャラー/2015年
①15分33②11分30③6分29④09分53 計43分25
スクロヴァチェフスキ・読日SO/2014年
①14分21②13分15③6分35④11分18 計45分29
ボッシュ・アーヘンSO/2012年
①14分06②11分45③6分25④09分07 計41分23
ヤング・ハンブルクPO/2012年
①16分58②13分39③7分43④11分18 計48分38

 ゲルト・シャラーは夏季の音楽祭時の臨時オケ、 フィルハーモニー・フェスティーヴァを指揮してブルックナーの交響曲を9曲録音しましたが、追加的に第0番やミサ曲第3番、オルガン独奏曲等も録音しました。今回は修道院の聖堂ではなくてバート・キッシンゲンにあるホールで収録しています。第0番はヨッフムやカラヤン、ヴァントら有名どころの全集に入らないためか、作品に対する固定的なイメージがあいまいです。先日のスクロヴァチェフスキよりも穏やかで、より初期作品らしい清新さを感じられた気がします。これを聴いていて過去記事で取り上げたシャラーのブルックナー(第7番、第5、ミサ曲第3番)演奏が思い出されて、かなり筋金入り(作曲者の肖像に合わせて髪を剃ったわけじゃないとしても)のブルックナー指揮者かもしれないと思いました。

 この曲を続けて聴いていると最近では第1楽章の特に冒頭あたりと、第2楽章のAndante sostenuto に魅力を感じます。作品解説の中にベートーベンの第九との相似(第九の第3楽章と第0番のアンダンテ楽章)が言及されていることがありますが、後続の動的な楽章との対比は確かに似ているような気がします。

 ところでオーストリアの大統領選挙がやり直しになり、来る12月4日が決戦投票であり極右政党の自由党候補のホーファー氏が選出される可能性も高まっているようです(懸念されている?)。断片的にニュースをチラ見していると、そのうちに独墺際統合とか言い出す日が来るのかと想像してしまいます。ブルックナーが存命の頃はハプスブルク家の皇帝が君臨していたわけで、この曲が完成したのはちょうど明治維新直後なので古いようで、作曲当時の世界とかろうじて繋がりが残っていそうな微妙さです。なお、交響曲第0番の日本初演は1978年6月5日、朝比奈隆指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団によって大阪フェスティバルホールで行われています。
24 11月

ブルックナー交響曲第0番 スクロヴァチェフスキ、読売日本SO

161124ブルックナー 交響曲 第0番 ニ短調 WAB.100 

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ 指揮
読売日本交響楽団

(2014年10月8日 東京芸術劇場 ライヴ録音 Columbia)

161124a 今日の昼前に、桂川にかかる橋を渡っている時に何気なく川原の方をみると、犬でも猫でもない丸っこい動物が見えました。よく見るとヌートリアらしくて、先年の台風で流されたと思ったら健在のようでした(稲の秋 命拾うて ヌートリア *下の写真、本当にヌートリアなのか)。噂では桂川岸には何家族も住み付いているらしいですが、今日は一匹だけでした。南米原産で寒冷地には向かないということなので関西辺りなら繁殖できるということなのでしょう。いつだったか、兵庫県の柏原へ行った時も畦道に顔を出していました。ただ、堤防に穴を掘ったりするはずなので防災上も問題は無いのだろうかと思います。
 
161124b ブルックナーの交響曲の中でも演奏、録音の頻度が低い通称第0番の交響曲は1869年、ミサ曲第3番(初演も成功した作品)の直後に作曲していました。ブルックナーは1863年に通称第00番、習作の交響曲を作曲し、1873年に現在の交響曲第2番を初演するまでにミサ曲を三曲と交響曲を四曲完成させました。この第0番は元々は交響曲第2番だったものを、作曲者が晩年に楽譜表紙の第2番」を消して「無効を宣言する、取り消す」と表記して立場が悪くなりました。今日のように急に寒くなって風が強く、草木がざわざわ鳴っているのを聴くと不意にこの交響曲の冒頭部分を思い出しました(あるいは別の曲を覚え間違っているかと思ってこのCDを聴くと記憶は正しかった)。

交響曲 第0番 ニ短調 WAB.100 
第1楽章:Allegro
第2楽章:Andante sostenuto
第3楽章:Scherzo;Presto
第4楽章:Moderato(Andante)-Allegro vivace

 全曲を聴いてみるとかなり素晴らしくて、この作品の魅力を再認識しました。何となく温泉で打たせ湯にかかっている心地で、かたの辺から首のあたりが楽になる気がしました(勝手にそう思ってるだけでなんの根拠も無い)。これはスクロヴァチェフスキの指揮だからなのか、久しぶりに聴いたからそんな風に思ったのかなんとも言えません。ただ、第1楽章だけはどぎつい音にきこえてちょっと気になりましたが、後の楽章では気になりませんでした。それにしても、交響曲第1番、第0番の素朴なというのか、自然体な魅力は特別な気がしました。

 ~  スクロヴァチェフスキの第0番
読日SO/2014年
①14分21②13分15③6分35④11分18 計45分29
SaRSO/1999年
①13分53②13分21③6分44④10分56 計44分54

 今回のCDはライヴ録音なので第4楽章のトラックには一部拍手等が含まれますが、上記のトラックタイムからはそれを省いていません。合計時間はそれを考慮すると15年前の旧録音とあまり違っていません。 
23 11月

ブルックナー交響曲第9番・補筆版 インバル、フランクフルトRSO

160926ブルックナー 交響曲 第9番 ニ短調(ノヴァーク版),第4楽章補筆版(サマーレ=マッツーカによる1984年ドラフト版)

エリアフ=インバル 指揮
フランクフルト放送交響楽団

(1986年9月,1987年10月 フランクフルト,アルテ・オーパー 録音 Teldec)

 東北での津波を伴った地震の前、19日の土曜日に和歌山を震源とした地震があり、京都市内でも震度2を記録しました。より地震発生頻度が高い東日本からすればたいしたことがないかもしれませんが、その時は横に引きずるような揺れだったので3.11の時を思い出して不気味でした。よく分かりませんが熊本、鳥取と続けて起こった一連の地震はまだ続きがあるようで何とも言えぬ不気味さです。それに今年はヤモリを見かけることが滅多に無くて、1、2度くらいしかないかしれず、それも不思議です。ちょろちょろして雨戸の開け閉めの際に紛れ込むとうざいのに、普段居るものが見かけなくなると気になるものです。

 今年も残り少なくなり、来る日曜からアドヴェント、待降節に入ります。 それで年末の第九、9番つながりでブルックナーの第9番です。これはインバルとフランクフルト放送交響楽団によるブルックナー交響曲全集の中の録音です。通常の三つの楽章に加えて終楽章の補筆完成版も録音していますが、元々は連続演奏、収録して四つの楽章が揃った作品という位置付けじゃなくて、補筆した楽章は別のCDに収めていました。実際録音年月日も違っているので四つの楽章が揃った状態で交響曲第9番として認めているわけではないようです。

インバル/1986,1987年:SPCM・Early Draft1984
①23分05②10分24③23分41④20分44 計77分54
インバル・都SO/2013年
①23分19②11分19③23分16 計57分54
アイヒホルン/1992,1993年:SPCM・1992
①26分18②11分17③24分56④30分11 計92分42
シャラー/2010年:キャラガン2010年版
①25分16②11分38③24分35④22分12 計83分41
ボッシュ/2007年:SPCM・Revised2005
①19分56②10分46③18分49④20分19 計69分50

 あらためて補筆された第4楽章を含めて聴いてみると、慣れないこともあり別物を接ぎ木したような微妙な印象です。第4楽章も収録したものは他にアイヒホルンやボッシュ、シャラーらも録音していました。合計の演奏時間はバラバラで何とも言い難いものがあります。この第4楽章の補筆についても色々複雑そうで、ここでは省略します。元々の三つの楽章だけをみれば、インバルは新旧録音間(25年以上あいている)の演奏時間に差が少なくて、「澄んだ」という言葉が似合いそうな演奏です。

 インバルとフランクフルトRSOの録音では当初はマーラーよりもブルックナーの方が指揮者の特徴からしてよく合っているという評があったと思いますが、いつの間にか(1990年代の半ば以降か?) かげが薄くなったようです。東京都SOとの録音が評判になるにつれて旧録音も改めて聴いていると、山岳の風景写真に接するような独特な美しさを実感します。虹は旧約聖書の中に出てきて、ノアの洪水のようなことは二度と起こしませんという意味として描かれますが、現実には激甚災害による被害や戦災のただ中にあっても、人間の都合とは関係なく一定の条件の下に虹は見られるものです。よく、明日は晴れてもらわねば困るとか願ったりしますが、当然立場と利害によって願いも逆になります。自然現象は我々の感情と離れて毅然として(こういうのも妙な具合)、粛々と起こって行き、ブルックナーの交響曲も時々そんな存在のようにもきこえます。
20 11月

シューベルト「冬の旅」 ボストリッジ、アンスネス/2004年

161120シューベルト 歌曲集 「冬の旅」 D.911

イアン・ボストリッジ:テノール

レイフ・オヴェ・アンスネス:ピアノ

(2004年5月 サフォーク,ポットン・ホール 録音 EMI)

 先日、京都市南区のあるところを歩いていると大きなトレーラーが向こうから来て、よくみると窓から牛らしき動物の顔が見えました。 競走馬のトレーラーは時々見かけます(淀の競馬場があるので)が牛は初めてかなと思っている内に、そういえば南区の食肉の卸市場があったのを思い出して「ドナドナ」の歌詞と同じかと思って見送りました。11月も半分以上が過ぎて来週の日曜からはもう待降節に入ります。その割に日中は暖かかったり梅雨のような雨が降ったりとおかしな天候が続きます。昨日、11月19日はシューベルトの命日だとネット上にちょくちょく出ていました。

 先日の「美しき水車小屋の娘」 はハイペリオンのシューベルト歌曲大全集に含まれた録音でしたが、ボストリッジもゲルネと同様にその後シューベルトの三大歌曲集を録音しています。今回の「冬の旅」はアンスネスとの共演で、「水車小屋」は内田光子、「白鳥の歌」はパッパーノと共演のピアニストを変えています。三人ともグレアム・ジョンソンのようにリートのピアノがメインではないのが面白い選択です。

 この録音を最初に聴いた時には全部の音符から残響の隅々まで神経を配ってコントロールしているような感覚に圧倒されましたが、反面さまよい歩くような「流れる」という感じにならず、生々しいような感情が全然感じとれない気もしました。 潜在的に「冬の旅」は失意と落胆の内に逃げて、力なく歩いているというイメージを持っているからそんな戸惑いを覚えたわけだと思います。特に前半の楽曲でそんな感じを強く受けました。第8曲目 “ Rückblick  は終始突っ走るような速さで歌っているのに単語をはっきり発音していて、疲れ果てたり虚無的という風では全然ありません。

 イアン・ボストリッジによる著作、「冬の旅」(株式会社アルテスパブリッシング, 原書:英Faber & Faber社、2015)の日本語訳(訳:岡本順治、岡本時子)がそろそろ国内でも出るそうなので内容が気になります。この録音以降にもボストリッジは来日してシューベルト作品を演奏しているので、その後「冬の旅」をどんな風に歌っているのかと思いますが、CDの「冬の旅」では激しい感情(外に向かわないでひたすら内側で)を燃やしつつ、全然燃え尽きない青年の姿を思い浮かべてしまいます。

15 11月

ルチア・ポップのスザンナ 「フィガロの結婚」1980年ウィーン国立歌劇場来日

161116bモーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」 K.492

カール・ベーム 指揮
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団

フィガロ:ヘルマン・プライ
スザンナ:ルチア・ポップ
アルマヴィーヴァ伯爵:ベルント・ヴァイクル
伯爵夫人:グンドラ・ヤノヴィッツ
ケルビーノ:アグネス・バルツァ
マルチェリーナ:マルガリータ・リローヴァ
バルトロ:クルト・リドル
ドン・バジーリオ:ハインツ・ツェドニク
ドン・クルツィオ:クルト・エクウィルツ
バルバリーナ:マリア・ヴェヌーティ
アントニオ:ワルター・フィンク

演出:ヘルゲ・トマ
舞台装置:パンテリス・デシラス
衣装:ジャン・ピエール・ポネル

(1980年9月30日 東京文化会館 ライヴ収録 NHK エンタープライズ)

161116a 今月はルチア・ポップ(Lucia Popp,*本名はポポヴァー,Lucia Poppová  1939年11月12日 - 1993年11月16日)の誕生月であり同時に命日の月でした。そこで彼女がスザンナを歌って演じたモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」の映像ソフトをちびちびと小分けにして観ています。これはウィーン国立歌劇場が初めて来日・引越公演した時の東京公演を収録したもので、テレビ放映もされた有名な公演です。それまで欧米の歌劇場やオーケストラの一流どころは一通り来日していて最後に残ったのがウィーンだったそうです。それにベーム(Karl Böhm, 1894年8月28日 - 1981年8月14日)の最後の来日でもあり、翌年の夏にベームは亡くなることになります。そうした歴史的な記録云々は一切置いておき、ほとんどルチア・ポップだけが目当てで購入したものです。

 この公演の少し前にショルティ指揮のパリ・オペラ座のフィガロでポップがスザンナを歌った公演を収録した映像ソフトやそれとほぼ同じキャストでロンドン・フィルとセッション録音したレコードもありました。改めてこれを見ているとスザンナは彼女の最高の当たり役だったと思いました。この年には彼女はもう四十を越えているので表情がアップになると、さすがにあれですが、歌いだすと視覚とは別にというかそれを覆う、補い、完全にこれから結婚する(晩婚じゃないとして)スザンナそのものに見えてきます。それにこれは彼女だけではなく、表情、芝居の方でも達者で日本語の字幕が無くても(あらすじをそこそこ知ってれば)なんとなくセリフ、物語が伝わってきます。

 ポップの他には彼女より二歳上のグンドゥラ・ヤノヴィッツ(Gundula Janowitz 1937年8月2日 - )も素晴らしてく、ヤノヴィッツの伯爵夫人がこんなに魅力的だとは今まで気が付かず、今更ながら感心して視聴していました。会場の拍手が特に大きかったのはケルビーノが歌った後だったので、さすが同役でデビューしただけのことはあるということでしょう(個人的には特にどうとは思わなかったけれど)。男声の方も皆見事でヴァイクルの伯爵、プライのフィガロ、リドルのバルトロは惹きつけられます。それにしてもヤノヴィッツはまだ健在のようなので、ルチア・ポップももう少し現役でいられる年齢だったので、非常に惜しまれます。毎年どこかで書いてるかもしれませんが、彼女が伯爵夫人マドレーヌを歌った「カプリッチョ」を観たかったとあらためて思いました。

 最後に指揮のベームですが、この最晩年の頃によくぞ遠路ウィーンの宮廷歌劇場を連れて来てくれたと感謝しなければならないところです。ただ、晩年はテンポが遅くなったとも言われたベームのモーツァルトがこんな感じだったかと、ちょっと戸惑う感じでした。自分の場合はちょっとした世代のずれからベームのレコードはあまり多く聴いておらず、全然フアンでもなかったので何とも言えません。

14 11月

ハイドン交響曲第103番 ヴァイル、カペラ・コロニエンシス/2013年

161114ハイドン 交響曲 第103番 変ホ長調 Hob.I:103

ブルーノ・ヴァイル 指揮
カペラ・コロニエンシス

(2013年1月16日,2014年3月23日 エッセン・フィルハーモニー,アルフレート・クルップ・ザール ライヴ録音 Ars Produktion)

 最近書店で 「シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 原著:Emmanuel Todd (エマニュエル トッド)、翻訳:堀 茂樹(文春新書)」という新書本が目に付いて、今頃あのパリで起こった(正確には起こり続けている、と言えるか)事件に関わる本をチラっと読んでみる気になりました。外国語版の序文のところを読んで、字が小さいなあと思って、それに内容もかたいので気楽には読み流せません。この著者による同じく新書本 「『ドイツ帝国』が世界を破滅させる 日本人への警告」を、春先にコンサート開演までの時間待ちに買って読んでいたのでそれと同じ著者なので気になった次第です。具体的な内容はさて置き、昨今の混沌の行き着く先として近い将来にSFではお馴染みな「地球連邦政府」とか「連邦軍」のようなものが実現するのだろうかとチラッと思いました。

161114b このCD(SACDハイブリット)はブルーノ・ヴァイル指揮の古楽器オケ、カペラ・コロニエンシスによるハイドンのシリーズの一枚です。溌溂としていながら自然な呼吸、流れと言うのか、古楽器系の演奏で時々きかれる強弱、緩急のアクセントが過激で鋭角的なタイプとはだいぶ違っています。それにチェンバロの音もきこえてこなくて、楽器の音色も幾分澄んでいて他のピリオドオケとは違ってきこえます。ブルーノ・ヴァイル(Bruno Weil 1949年11月24日,ラインラントのハンステッテン生 - )のハイドンと言えば、ロビンズ・ランドンが監修したターフェルムジーク・バロック管弦楽団との録音集があり、それらはザロモンセット以前の交響曲から21曲を選んでいました。今回の一連の録音は、1954年に設立されてドイツのケルンを拠点に活動する古楽器オーケストラ、カペラ・コロニエンシス(Cappella Coloniensis)との共演です。ヴァイルの経歴を見ると元々は古楽器の専門ではなくて、歌劇場で研鑽を積んだキャリアのようなので、それがCDの方では古楽器オケとの共演が圧倒的に多くなっています。

161114a 多数あるハイドンの交響曲の中でどれか一つか二つを選ぶとしたらかなり難しいだろうと思えて、特に12曲あるザロモンセットだけでも一旦効き出すとどれも捨てがたい魅力があります。それで、先日の第95番がザロモンセットの中で唯一序奏を持たない曲だったのに対して、長大な序奏を持ち、その部分のティンパニ連打が曲の愛称にもなった第103番を聴いてみました。

交響曲 第103番 変ホ長調
第1楽章 Adagio - Allegro con spirito - Adagio
第2楽章 Andante più tosto allegretto
第3楽章 Menuetto - Trio
第4楽章 Finale. Allegro con spirito

 
この曲も本当にハイドン以外が作曲したと間違い難い、独特な余裕と調和の美しさがあふれています。第103番は1794年から1795年にかけてザロモンセット12曲中の最後から2番目に作曲されて1795年3月2日、ロンドンの王立劇場のコンサートで初演されました。その頃にはモーツァルトは既に亡くなっていたというのは何か感慨深いものがあります。
13 11月

「水車小屋の美しい娘」 ボストリッジ、ジョンソン、朗読・フィッシャー・ディースカウ

161113シューベルト 歌曲集「美しき水車小屋の娘」 D.795

イアン・ボストリッジ:テノール
グレアム・ジョンソン:ピアノ

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(朗読)

(1995年10月26-28日,朗読1994年12月10日 録音 Hyperion)

161113b  テノール歌手のイアン・ボストリッジ(Ian Bostridge 1964年12月25日,ロンドン - )がシューベルトの歌曲集「冬の旅」について書いた著作が昨年出版されたそうですが、その日本語訳がもうすぐ出版されるようです(あるいはもう出ているのか?)。オックスフォード大学で歴史学を学び博士号をとり、既に歴史やリートについての著作があることを考えればそれくらいは当然かもしれません。日本語訳といっても素人が読んでもそこそこ分かる内容なのか、とにかく店頭で探してみようと思っています。それはそうと今日、寝転んで文庫本を読もうとしたら字が小さくて、障子を開けなければ読めないことにちょっと驚き、老の字が付くあれか、とまた一つ諦めの感情をのみこみました。

 さて、この「水車小屋」、ボストリッジの初回録音は若々しいこともあって、真っ直ぐに、しかしやや控えめに詩の情感が伝わってくる素晴らしい歌唱です。ボストリッジの歌うシューベルトは滑舌が明確というのか、言葉をはっきり区切るような感触だと思えて、聴いていて単純に感情移入をし難いことがありましたが(EMIへの録音)、ここではそんな感じはしませんでした。それに、先日のゲルネによる「冬の旅」の時にも思いましたが、ジョンソンのピアノも素晴らしくて、歌手との一体感が特別ではないかと思いました。歌手の歌から受ける印象とピアノの演奏から感じられるものがぴったり合っていて、歌が引き立っているように思えます。過去の有名なリートの録音と比べても際立っているのではと思います。
 
161113a このCDはハイペリオン・レーベルから出たグレアム・ジョンソン監修、「シューベルト歌曲大全集」のCD28に収められているものです。この録音の特徴は、歌曲集を連続演奏するだけでなく、ミュラーの原作詩からシューベルトが歌曲集に選ばなかった6つのテキストをフィッシャー=ディースカウが朗読したものを途中に挿入していることです。冒頭と末尾の他、第6曲目、第10曲目、第15曲目と第17曲目の後に朗読が入ります。シューベルトが原作詩集から省いたのは、ウィキの解説によるとプロローグとエピローグの他、Das Muhlenleben(水車小屋の生活)、Erster Schmerz, Letzter Scherz(最初の痛み、最後の冗談) 、Blumlein Vergissmein (忘れて草の花)の三篇だということですが、CDのトラックを見るとあと一遍?? Ein Ungereimtes Lied(無意味な歌 *邦題は推測) が加わっています。これはどういうことかよく分かりません。

 なおフィッシャー・ディースカウは1960年代のEMI録音の際にプロローグとエピローグを朗読していたという解説がありましたが、その版は聴いたことがありません(FMで放送されたことがあったかもしれないが) 。ただ、実際に聴いていて朗読の効果についてはよく分かりません(結局、やっぱりそうか)。ドイツ語のネイティヴ話者か、耳から聴いて同時に理解できるくらいならこの演奏、録音の妙が分かるのでしょう。
12 11月

シューベルトのピアノ・トリオNO.2 ルビンシュタイン、シェリング、フルニエ

161112aシューベルト ピアノ三重奏曲 第2番 変ホ長調 D.929 作品100

アルトゥール・ルビンシュタイン:ピアノ
ヘンリク・シェリング:ヴァイオリン
ピエール・フルニエ:チェロ

(1974年4月13-19日 ジュネーヴ,ヴィクトリアホール 録音 RCA)

161112b 先月のことだったか大阪の寿司店が大量のワサビを入れて出したという事件がネット上でも駆け回っていました。そのことの論点はさて置くとして、そもそもにぎり鮨にどれくらいのワサビが入っているのが通常なのかと俄かに疑問がわきました。スーパーで売っている廉価にぎりの場合はワサビを入れて無くて、刺身用のワサビパックが添えられていることもあるくらいです。先日あるところで、日替わりのランチを食べたら、近海の魚を使ったにぎりがメインになっていました。クロダイなんかが使われていてそれ自体は結構でしたが、どうもワサビがきつくてくしゃみが出る寸前(1.5歩手前くらいか)でした。これは人によっては、例えば子供なら途中でくしゃみの爆発を起こすおそれがあるかなと思い、ちょっと店に言った方がいいかなと一瞬思った程でした。ただ、平日の昼なので子供連れは滅多に来ないだろうから黙っていました。個人的にはワサビを舐めつつ日本酒をのむのも悪くないくらいでワサビは好きなので問題は無いとしても、苦手な人にはきついだろうと思えて、件の大量ワサビ事件の陰険さを再認識しました。

 久々にシューベルトの室内楽です。今年のくそ暑い8月や9月にもシューベルトのピアノ五重奏とかがちらっと頭の中で流れたりしていましたが、涼しくなったのでCDを置いた場所を探して聴いてみる気になりました。最初に、過去記事で扱った際にはこの曲のD番号、作品番号が間違っていました(過去二回分は修正済)。滅多に他人の目にとまらないだろうから大したことはないとしても、原因が分からず、そもそも誤表記した番号に該当する作品は無いようです。一回目に誤って表記して次からそれをコピペしたということでしょうが、その一回目はCDの冊子が違っていたかのかどうか未確認です(おそらくそうじゃなく、書いている私の間違いのはず)。

  今回は過去記事のCDとは違い、三人がそれぞれソリストとして超有名な巨匠が共演しています。このCDはルービンシュタイン(Arthur Rubinstein 1887年1月28日 - 1982年12月20日)、フルニエ(Pierre Fournier 1906年6月24日,パリ - 1986年1月8日)、シェリング(Henryk Szeryng 1918年9月22日 - 1988年3月3日)の三人のトリオにより、シューベルトの二曲とブラームスの三曲とシューマンのピアノ三重奏曲第1番を集めた三枚組復刻盤です。

 個人的にシューベルトのピアノ三重奏曲は大好きな作品で、第2番は終楽章に無性に愛着を覚えます。そんな風に感じるのは作品が個人の日記か手紙のように感じられて、大勢の人間の前で披瀝される類のものじゃないところを特に自分が聴かせてもらってるような緊密感がなんとなく伝わります。それがこの三巨匠のトリオの演奏になると室内楽よりも大きな規模の作品を聴いているようで、最初は第2番はこんな曲だったか、第1番と混同して覚えていないか分からなくなって既存の作品に対するイメージが揺らぎました。

 一方でルビンシュタインは作曲者について、「シューベルトは、死というものとまっすぐ向きあうことができた唯一の作曲家だろう」と評しています。そしてその続きに次のように述べています。「自分が死ぬとき、私は周りに誰も居てほしくない。威厳をもって死ぬために森の中に消えてゆく動物のように、私は死にたい―たったひとりで」。直接的にはシューベルトのピアノ三重奏曲第1番の解説のところに書かれてありました。この演奏と直接つながるような内容なのかどうかよく分かりませんが、31歳で生涯を終えたシューベルトに対する敬意と賛辞としてはこれ以上はないものかもしれません。
11 11月

クレンペラー、ニュー・PO/1970年 ハイドン交響曲第95番

161111bハイドン 交響曲 第95番 ハ短調 Hob1.95

オットー=クレンペラー 指揮 
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

(1970年2月9,10日 ロンドン,アビー・ロード・スタジオ 録音 EMI)

 JR京都駅の北側の塩小路新町あたりにK電力の京都支店ビルがあります。3.11以降、いつ頃からか夜にその前を通る原発反対のデモ部隊が陣取ってアピールしているのを見かけます。今晩もYバシカメラへ寄った帰りに前を通るとビルの西側、通用門のところに終結して掛け声がきこえてきました。その中で「ぷさまるいらない」ときこえて、一体なんのことかと思っていると「プルサーマル」かとやっと気が付いて納得しながら、参加者の頭に白髪混じりが多いこともあってしっかり情報を得て勉強しているのだと感心していました。海外のニュースでは抗議デモ、反政府デモが暴徒化するケースを見かけますが、この反原発部隊はどう見ても戦闘力はかなり低く、暴走の懸念はなさそうです。

161111a 今年の夏以降国内盤のSACDハイブリット盤でクレンペラーのハイドン(EMI)録音が全部復刻されました。 LP初出の時のジャケットの写真を使っているらしく、交響曲第88番、92番、95番、98番、100番、101番、102番、104番の8曲を4枚に分けて収録しています。「新規に96KHz/24bitで、アビイ・ロード・スタジオにてリマスター」と予告されているものの、クレンペラーのマタイ受難曲の時のような特別なリマスターでもなさそうでしたが順次購入することにしました。この第95番は第92番「オックスフォード」とカップリングされて、クレンペラー最晩年の1970年2月のセッション録音です。亡くなる約二年前の演奏でしたがこれについてはそれほどヨレヨレの演奏ではなくて、ゆったりしたテンポながらまさに尽きぬ泉のように活き活きとした音楽になっています。

 この録音の約1ケ月前にはモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」の全曲を録音していたので、演奏の傾向としてはそれと似ているようです。クレンペラー指揮のハイドンのレコードで有名だったのは軍隊交響曲だったと思いますが、そのほとんどベートーベン化し出した演奏とは趣が違い、前半楽章は特に落ち着いた雰囲気でした。クレンペラーは周期的に躁鬱の状態が循環する傾向があったということで、演奏上は鬱的状態の時に名演奏を残すことが多いと指摘されています。個人的な想像では、ハイドンの軍隊交響曲やベートーベンのミサ・ソレムニスは躁状態か、そっちに移行しつつあるくらいの状態だったのではないかと思っています。この第95番のようなタイプの演奏は小康状態(というのも失礼だが)か、どっちの両極の気分にも振れていない時の演奏ではないかと思っています。

 第4楽章を聴いているとなんとなくモーツァルトのジュピターのフィナーレを思わせるようで、そう言えば第95番はザロモンセットの12曲中で第1楽章に序奏が付かない唯一の曲なので、開始部分もジュピターと重なります。ただ、だからと言ってこれがモーツァルトの作品と間違いそうになるかと言えばそんなことはなく、もちろんベートーベンとも違っています。それなら「ハイドンらしさ」というのが音楽の要素としてあるはずですが、その正体は何なのだろうと思います。
9 11月

ブルックナー交響曲第4番 ドホナーニ、クリーヴランドO/1989年

161108ブルックナー 交響曲 第4番 変ホ長調 WAB.104 「ロマンティック」 (1878-1880年第2稿ハース版)

クリストフ・フォン・ドホナーニ 指揮
クリーブランド管弦楽団

(1989年10月 オハイオ州,クリーブランド メソニック・オーディトリアム 録音 DECCA)

 アメリカ大統領選挙の大勢が夕方に判明して、さらに円高と株安が進むのではないか(一時的か?)と身近なところでも騒がしくなっています。自分の場合はネット株の口座があっても休業状態なので直接のダメージはありません。それにしても、昔、後藤田官房長官が総理大臣にふさわしい人物の要件として、「金屏風を背中にしてそれが映える(似合うということか)」ということを挙げていました。大国たるアメリカ合衆国の国家元首ならなおさらそうした要素も肝心かと思いますが、次期大統領も有権者にとってそうした風格ある姿に映っていたのかどうかと思います。それにトランプ氏らのブレーンやバックにどういう層が控えているのかちょっと不気味です。

 先日のブロムシュテット初回録音に続きドホナーニとクリーヴランド管弦楽団とのブルックナーの第4番です。そのブロムシュテットの録音の第2楽章を聴いていて急にこの作品に対する親近感が増したと思っていたところ、今回このドホナーニ盤を聴くと淡泊過ぎるというか、かなり集中して聴いていなければ気がそれて知らぬ間に曲が進んでいるという具合でした。

ドホナーニ・クリーヴランド/1989年
①18分13②15分15③10分02④19分31 計63分01 
ブロムシュテット・サンフランシスコ/1993年
①18分56②15分58③10分32④21分43 計67分09 
バレンボイム・BPO/1992年
①19分17②16分17③10分23④22分26 計68分23

 録音年が近い三種のCDでトラック・タイムを並べると、やっぱりドホナーニが一番短くてブロムシュテットとは約4分の差です。この演奏時間の差は実際に聴いた印象と重なり、これがどういう演奏なのかと言い表し難いタイプだと思いました(あっという間に氷が溶けて消えたような)。そういえばレコ芸の月評の特選獲得を振り返ると、ドホナーニのブルックナーでは第5番と第9番の二点が特選でした。ドホナーニは第3番以降の七曲を録音していることからすれば彼のブルックナー演奏はあまりそれ程好評ではないようです。

 このCDはクリーヴランド・サウンドと銘打たれた輸入盤・2枚組廉価盤で、これ以外ではドホナーニのブルックナーのCDを見た覚えがないので日本以外でも特に人気が高かったわけでもなさそうです。なお、このシリーズはドホナーニ指揮、クリーヴランド管弦楽団のブルックナーとマーラーを集めていますが何故かブルックナーの第6番は除かれています。
7 11月

シューベルト「冬の旅」 ゲルネ、ジョンンソン/1996年

161107シューベルト 歌曲集 「冬の旅」 D.911

マティアス・ゲルネ:バリトン

グレアム・ジョンソン:ピアノ

(1996年8月4-7日 録音 hyperyonのシューベルト歌曲全集)

 先日ある庁舎のロビーに座っていると建設業者らしき人が近くに座って雑談をしていました。こちらは一人で書類が揃うまでの時間待ちをしていましたが、あちらは要件が終わってリラックスして一服中だったようです。選挙の決起集会(与党)なんかにはよく居そうな方々でしたが、これだけ地震の危険があるのに原発にここまでこだわるのは絶対核武装を目指しているとか、桜井(姉?)はキャスターの頃はまともやったのにとか、ひゃくたかももたか知らんけど風向きが変われば言うこともころっと左向きになる等々結構政権側に対して冷ややかなことを言っているのがおかしくて、みんなが喜々としてヘイトスピーチのようなものに流れるわけじゃなさそうに見えてちょっと安堵の気分でした。5年くらい前には建設業者の公共工事受注額が平成一けたの頃と比べて半分程度になったとか漏れ聞く中で、必ずしもすり寄る媚態になっているわけじゃないのだなと思いました。

 これはマティアス・ゲルネ(Matthias Goerne 1966年~ *1967年生まれという記載も見られる)がハイペリオン・レーベルのシューベルト歌曲大全集の企画の中で録音したもので、ゲルネにとって「冬の旅」の初回録音にあたります。大全集の中ではCD33とCD34に12曲ずつに分けて収録されていますが、「冬の旅」のアルバムとしてCD1枚にまとめて発売されたこともあります。とにかくゲルネが30歳になるかならないかくらいの頃に録音されたもので、素晴らしい歌唱であり最新のエッシェンバッハとの共演とは違った魅力があると思いました。「冬の旅」は個人的に大好きな作品なので、よほどのことが無い限り滅多にこの録音はダメとか思わないものですが、先月のある時初めて聴くCDを開封して再生したところ、その滅多に無いケースに近かったのでしばらく寝かせる、間隔を空けて聴くことにしてお蔵入り状態にしました。まだ若手の歌手でしたが、このゲルネの方は反対に最初の何音か(さすがに一音でとはいかない)で惹きつけられて、一気に聴いてしまいました。

  ゲルネはデビュー後しばらくは偉大なフィッシャー・ディースカウと比較されて、事細かに?批判されていたそうですが、この録音の頃がそうした時期だったとしてもこれが魅力的なことには変わりありません(といってもドイツ語話者からすれば突っ込みところもあるのかもしれませんが、それは分かりません)。聴いていると詩の感情が同時進行で再現されるような、そういう鮮烈な共感が魅力的です。それがどこから来るのかよく分からず、必ずしも激しい感情の発散があるようでもなく、逃げるような速足のテンポが目立つわけでもないので不思議でした。

 テンポの方はむしろゆっくり目で、感情が深く沈み込むようなものを思わせるものですが、ふりかえるとピアノのパートが陰気になり過ぎないストッパー?のようにも感じられて、二人あわせてちょうど良いバランスかもしれないと思いました。 ピアノのパートの中にこういう部分があったのかと改めて気づかされたものもありました。グレアム・ジョンソン(Graham Johnson 1950年7月10日 - )はゲルネよりも15歳以上も年長で、歌曲のピアノ奏者として活動を続けて1972年にはピーター・ピアーズの「 Snape maltings コンサート ホールのマスタークラス公認ピアニスト 」になりました(ウィキの解説による)。また、経歴を見ていると英国本土出身ではなくアフリカのローデシア・ブラワヨに生まれてロンドンに留学となっています。異文化圏から来てシューベルトの歌曲大全集(ハイペリオン・レーベル)のピアノを受け持って完成させるという大仕事をやってのけたわけで、興味深い経歴、活動です。
6 11月

ブルックナー交響曲第4番 ブロムシュテット、SKD/1981年

161106bブルックナー 交響曲 第4番 変ホ長調 WAB.104 「ロマンティック」 (1878-1880年第2稿ハース版)

ヘルベルト・ブロムシュテット 指揮
シュターツカペレ・ドレスデン

(1981年9月7日-11日 ドレスデン,ルカ教会 録音 DENON)

 先日の未完成交響曲の際にドレスデン時代のブロムシュテットのCDはシューベルトの他に持ってないと書いたしりから何か他にもあったはずだとすっきりしない気がしていました。しばらくしてブルックナーがあったじゃないかと思い出し、しかも第7番は過去記事で扱っていました。昨日の京都公演の記憶が薄まらない間に今回は残るブルックナー第4番を扱うことにしました。ちなみに今秋のバンベルクSOのアジアツアーの曲目は、ベートーベンのヴァイオリン協奏曲と交響曲第5番の他には未完成交響曲、ブルックナーの第7番、ベートーベンの田園、モーツァルトの交響曲第34番でした。どれも聴いてみたいところですが、関西は京都の1回のみの公演でした。

~ ブロムシュテットのブルックナー第4番
1981年・ドレスデン
①18分23②16分30③10分51④21分06 計66分50
1993年・サンフランシスコ
①18分56②15分58③10分32④21分43 計67分09 
2010年・ライプチヒ(ノヴァーク版)
①18分59②15分04③11分11④21分03 計66分17 

161106a ブロムシュテットはブルックナーの交響曲第4番を三度録音していて、今回のものが初回録音にあたります。改めて聴いていると極度に威圧的だったり咆哮するような金管が目立つという風でなくて、何となく終始風流で、こじんまりした山荘か草庵に座っている心地に似ています。ライナーノートによると同コンビはこの録音の約二カ月前に来日して東京で同じ曲を演奏しています。実際に生で聴くのとは別だとしても、東京公演の「派手でうるさい」ような欠点が無くなっていると評されていますが、(その東京公演は聴いてないけれど)なるほどと思いました。特に第2楽章が魅力的で、第4番を聴いていると時々長いと思ってしまうのに(聴き手側に問題があるのだけれど)、今回はしみじみと感じ入りながら湯にでも浸かった感じで聴けました。

 最近のブロムシュテットの指揮した演奏はドレスデン時代とかなり変わったかと想像していましたが、昨日のベートーベンを聴いた印象からも宗旨替えする程の激変ではなく、基本的には変わっていないのではないかと、あいまいながら思いました。このブルックナー第4番は三種の録音間で合計演奏時間が大きくは変わってなくて、初回録音を聴いていても通常言われる年齢とともに深化して云々という落差も特に感じませんでした(三度め録音の回に何と書いたか忘れたが)。

 あと、稿・版についてですが、近年流行りの初期稿ではなくて広く普及している第2稿で演奏しています。第4番は初期稿と第2稿の違いは大きくて、半分は別物くらいの改訂ぶりです。そして版についてはCD付属冊子の表記はノヴァーク版ですが、 abruckner . com のディスコグラフィの分類上はハース版になっているのでそれにならいました。ブロムシュテットは第7番の場合でもノヴァーク版と言いながら部分的に違っていたり、独特のやり方なので今回の第4番もよくわかりません。
5 11月

ベートーベン交響曲第5番 ドホナーニ、クリーブランドO/1987年

161105ベートーヴェン 交響曲 第5番 ハ短調 作品67

クリストフ・フォン・ドホナーニ 指揮
クリーブランド管弦楽団

(1987年9月20日 クリーヴランド,メソニック・オーディトリアム 録音 Telarc)

 突然思い立ってヘルベルト・ブロムシュテットとバンベルク交響楽団の京都公演のチケットを予約して聴きに行ってきました。諏訪内晶子をソリストに迎えたベートーベンのコンチェルトと同じくベートーベンの交響曲第5番、諏訪内のアンコール曲がバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調 BWV1003からアンダンテ、オケのアンコールがエグモント序曲という曲目でした。具体的なことは略するとして、行った甲斐がある素晴らしい公演でした。シンフォニーが終わって拍手が続く中、これで終わりかなと(おとしだし)思ったらホルンが二人ステージに加わってアンコールが始まるのが分かりました。そのエグモント序曲がまた熱演で、なにか目頭があつくなりそうでした。マエストロは背筋が伸びてかくしゃくとしていて、体も足も細くてまだまだ元気そうに見え、それを見ながら自分も痩せた方がいいなあとしみじみ思いました。そういえば諏訪内晶子はちょっと前にへその部分が出た衣装だったことがありましたが今回はさすがに普通にシックな衣装でした(何が「さすがに」なのか、もう11月で涼しいからとしておくか)。

 チケットを予約したのが数日前で、プログラムが超有名曲だけれど一応おさらいで交響曲第5番を聴いておこうとしてこのCDを取り出していました。1980年代のレコ芸月評の特選を調べてみるとドホナーニのベートーベンは全く挙がっていませんでした。今聴いていると、当時が単にピリオド楽器のオケや奏法が注目を集めていく時期だっただけでなく、何と言えば良いのか我々一般人にも決定的にアピールする要素が少ない、地味な演奏という実感がしみじみわいてきました。ただ、第2楽章が特別に透徹した美しさで、おかげでこの曲に運命だとかそんな呼称は無用、全く自律的に完結した美しい作品だと再認識させられました。

 「苦悩を突き抜けて歓喜に」というのはベートーベン自身がその通りに残した言葉だったのか、独墺系のシンフォニーの決まり事の一つのような意識が何割か植えついている気がします。仮に苦悩に埋もれたままで、線香花火が消えるように終わって歓喜が無かったならそれは敗北ということになるのかとふと思います(
戯曲のエグモントのモデル、エグモント伯は最後は処刑されて生涯を閉じている)。楽聖の名言にあやを付ける気はありませんが、苦悩を実感していてそれを受け止めているならそれ自体が尊いことのように思えてきます(結果的にどうなろうと)。

 ところで、サッカーのワールドカップロシア大会のアジア予選で日本代表は現在グループ三位とやや苦戦中です。ワールドカップ本大会に日本代表が初出場を決めた1998年大会の予選最終試合の相手はイラン代表で、決勝ゴールを決めた選手が岡野雅行でした。自らシュートをうたずパスして好機を逃した後、ようやく決まったシーンが何となく覚えています。その岡野選手が「野人(やじん)」と呼ばれたり、柔道代表の女子選手が「野獣(やじゅう)」と呼ばれても差別用語云々と特に騒がれたという話は無かったようです。それでは例の沖縄県の事件で仮に、「(どこつかんどるんじゃ ぼけ) 野人が」と言ってたなら問題が無かったかと考えると、そうではないだろうと自然と理解できます。
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raimund

昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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