raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2012年07月

31 7月

バッハ・管弦楽組曲第3番 クレンペラー再録音 ニューPO

J.S.バッハ 管弦楽組曲 第3番 ニ長調 BWV1068

オットー・クレンペラー 指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

 
(1969年9-11月 録音 EMI)

120731  クレンペラーはEMIへ二度バッハの管弦楽組曲・全四曲を録音しています。初回は1954年11月にモノラルでフィルハーモニア管弦楽団と、そして二度目がニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのステレオ録音です。今回はその再録音盤の方で、クレンペラー最晩年の演奏です。また、放送用音源の中にもバッハの管弦楽組曲が何種類か含まれています。話題になったものに1964年5月31日にベルリンPOへ客演した時の録音がTESTAMENTから出ています(バッハの管弦楽組曲第3番、モーツアルトの交響曲第29番、ベートーベン交響曲第6番というプログラム、田園のリハーサル付)。

 1927年9月27日にベルリン・クロル劇場で行われたクレンペラー指揮、ヤナーチェックのシンフォニエッタ・ドイツ初演のコンサートは、プログラム一曲目がバッハの管弦楽組曲第3番でした。昨夜の投稿の通りシンフォニエッタは作曲者の好評と、聴衆の歓呼を獲得しましたが、同時にバッハの方も注目を集めました。「 クレンペラーは当時既に少々陳腐化していた有名な『G線上のアリア』を、時流に反して感傷を交えずに解釈し、それが聴衆にとって衝撃的と言っていいほど 」でした(「 『オットー・クレンペラー』 あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生  E.ヴァイスヴァイラー著  明石政紀訳・みすず書房  」)。

 その時のコンサート・マスターであったマックス・シュトループは三十五年後に次のように回想しています。「 オリジナル譜検討してタイで弾くところを取り決めたあと、奏法の焦点となったのはアリアでした。この曲を取ってつけたようなヴィヴラートでなしで弾くことになり、お決まりのスラーもやめて、もっと内面の震えで演奏するようにしたんです。クレンペラーが大きな指揮の身振りをせず、精神の集中のために恐ろしく汗だくになっていた姿は忘れがたいものがありましたね。」(上記同様、「『オットー・クレンペラー』 あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生 」による)

 そういう演奏は、ヒンデミットら新古典主義の作品を多く取り上げたベルリン国立歌劇場・クロル劇場の、あるいはクレンペラーの信条的で、当時のベルリン楽壇の思潮の一つと言えるかもしれません。しかし、ワイマール時代のベルリンの聴衆には衝撃的だったとしても、ピリオド楽器が当たり前になった現代ではそうでもないのでしょう。

管弦楽組曲第3番 ニ長調 BWV1068
序曲
アリア(G線上のアリア)
ガヴォット
ブーレー
ジーグ

 この曲の古楽器アンサンブルの録音、クイケンとラ・プティットバンドの旧録音の演奏時間を下記に挙げました。今回のクレンペラー・ニューPO盤よりも5分以上速い演奏時間です。クイケンの旧録音は今となっては特別に刺激的というものではないと思いますが、クレンペラーの録音と比べると軽快この上ない演奏です。仮にこういうのが作品本来の姿ですよと言われると、やはりクレンペラー盤には一種の古さも漂います。

クイケン旧・1981
①06分37②4分36③4分48④1分07⑤2分49 計19分57 

 クレンペラーの新旧二種のセッション録音の演奏時間、トラックタイムは下記の通りです。予想通り1969年の方が初回の1954年よりも3分程遅くなっています。それでも不思議に鈍重という印象は無く、またクイケン、ラ・プティットバンドの演奏と比べても全く別の作品とまでの違和感はありません。特に第1曲目、序曲が圧倒的な存在感です。ちなみに1954年の録音はもっと即物的で白熱した演奏かと予想するとそうでもなく、基本的には1969年盤と同じ感触です。第2曲目、G線上のアリアは旧録音の方が多少引き締まっていて、そちらの方が良いと思います。

1969年・ニューPO
①10分24②6分30③4分17④1分38⑤3分31 計26分20

1954年・PO
①09分28②6分06③3分31④1分20⑤2分53 計23分18

 また、クレンペラーの放送用音源等のライヴ録音、ベルリンPOと北ドイツ放送SOの演奏は以下の通りの演奏時間です。他にもバイエルンRSOとの録音もあるようですが手元に無く、不詳です。クレンペラーは、管弦楽組曲の中でも特に第3番に愛着を持っているようです。 

1964年・BPO
①09分17②6分28③3分32④1分22⑤3分34 計24分13
1955年・NDRSO
①09分03②6分16③3分27④1分16⑤2分45 計22分47

 こうしてクレンペラーによるバッハの管弦楽組曲第3番の録音を振り返ると、今回のCDが最後の録音にして、一番ゆっくりしたテンポの演奏です。この録音からは、1927年のクロル劇場に響いたこの曲の演奏とどれくらい共通するものがあるのだろかと思います。

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30 7月

ヤナーチェク シンフォニエッタ インバル ベルリン・ドイツSO

ヤナーチェク シンフォニエッタ

エリアフ=インバル指揮
ベルリン・ドイツ交響楽団

(1995年5月6,9日 ベルリン・フィルハーモニー 録音 DENON)

120730  ヤナーチェックのシンフォニエッタは、第一次大戦後の1926年に作曲され初演されています。ドイツ初演は早くも翌年1927年9月27日に、ベルリン・クロル劇場でクレンペラー指揮のシンフォニーコンサートで行われています。この日のプログラムはバッハの管弦楽組曲ニ長調、モーツアルトのピアノ協奏曲ニ短調 K.466(ピアノはシュナーベル)、そしてヤナーチェックのシンフォニエッタという内容でした。このコンサートはクレンペラーがベルリン国立歌劇場・クロル劇場の監督に就任して最初のコンサートで、ヤナーチェック臨席の下に行われました。終演後は「筆舌に尽くしがたいほどの拍手」が客席から起こり、ヤナーチェックは自然体きわまりない態度で受け取ったと記録されています(「 『オットー・クレンペラー』 あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生  E.ヴァイスヴァイラー著  明石政紀訳・みすず書房  」)。

120730a  このCDはそのようなベルリンでのドイツ初演から約68年後に、同じくベルリンでユダヤ系の指揮者とベルリンのオケにより録音されたものです。インバルは2009年から2012年までチェコPOの首席のポストに就いているので、このCD以降にもチェコPOとシンフォニエッタを共演したかもしれません。インバルといえば、ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチ、ブラームスの交響曲を全曲録音しただけでなく、ベルリオーズ、ラベルらの管弦楽作品を網羅的に録音していました。それでどれが本命というか、どの作曲家を演奏した時が一番本領発揮したのかとなると、どうもよく分かりません。このCDでもトランペット群の音量に圧倒されるようなきらびやかな演奏かと言えばそうでもなく、何とも表現し難いものがあります。

  このCDのベルリン・ドイツ交響楽団は Deutsches Symphonie-Orchester Berlin ”という表記で、旧西ベルリンの放送交響楽団、RIAS交響楽団のことです。東ドイツ時代に日本語で「ベルリン交響楽団」と称していたオケは現在、「 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団 ・ Konzerthausorchester Berlin ” 」という名称で活動しています。東ベルリンの放送交響楽団も健在で同じ名称で存続しています。さすがベルリン、多数のオーケストラがせめぎ合っています。人口の規模を考えれば、大阪市の文楽予算くらいなんとかならないのかと思えてきます。

 シンフォニエッタのベルリン初演(ゲネプロ)を聴いたヤナーチェクは、「クレンペラーの手で浮き彫りにされる音楽構造の透明さ、そしてトランペットを十二本も使うために陥りがちなデモーニッシュな誇張を排し仰々しい音響を退けたこと」を褒めました。ヤナーチェクがが広大な観客席を持つクロル・オペラのがらんとした平土間席に立ち、自分の音楽に聴き入っている姿は感銘深いものがあったと伝えられます。それにしても当時のベルリンが新しい音楽を受容するスピードには驚かされます。

 作曲者が存命中の古い時代の賛辞、「音楽構造の透明さ」、「誇張を排し」といった言葉はインバルの演奏に対する批評にも見られる要素だと考えられ、このCDも時代を隔てていても有る程度作曲者の意に沿う演奏ではないかと想像できます。なお、このCDは「グラゴル・ミサ」がカップリングされていて、そちらの方が刺激的な演奏だと思いました。

 ついでに、クレンペラーはそれ以前のケルン時代にヤナーチェックのオペラ「イエヌーファ」のドイツ初演を行い、「カーチャ・カバノヴァー」も上演しています。ドイツ敗戦(第一次世界大戦)後、チェコ独立直後という時代にあって、ドイツ国内にはヤナチェークの音楽に対する冷やかな感情もあり、ケルンでは合唱団が演奏を拒否したり、ベルリンでもシンフォニエッタも批評家らの中に辛辣な意見もありました。ただ、なんだかんだと言いながら、両大戦間、プロイセンとナチスに挟まれた期間のベルリンは、ヨーロッパの新しい音楽が演奏され続けた多様性を受け入れた?豊かな時代だったのだろうかと想像が膨らみます。

 昨夜、日本が出場していない五輪・男子バスケットのアメリカ、フランス戦を観ていました。日本が出ていないので気楽で、このスポーツは体格、サイズの差を埋めるのは並大抵ではないと改めて思いました。NBAと国際ルールでは微妙に違いがあって、アメリカの選手がファウルの理由とかを審判に確認してイラついている場面もありました。

29 7月

ケーゲル指揮 ワーグナーのパルシファル 1975年ライプチヒ

120729bワーグナー 舞台神聖祝祭劇「パルシファル」

ヘルベルト・ケーゲル 指揮
ライプツィヒ放送交響楽団
ライプツィヒ放送合唱団
ベルリン放送合唱団

パルシファル:ルネ・コロ
アンフォルタス:テオ・アダム
グルネマンツ:ウルリッヒ・コルト
ティトゥレル:フレート・テシュラー
クリングゾール:ライト・ブンガー

クンドリー:ギゼラ・シュレーター
聖杯騎士(1,2):ホルスト・ゲプハルト、ヘルマン・クリスティアン・ポルスター
小姓(1-4):エリザベート・ブリュエル、ギゼラ・ポール、ホルスト・ゲプハルト、ハンス=ユルゲン・ヴァッハスムート
花の乙女(1-6):エリーザベト・ブロイル、レギーナ・ヴェルナー、ギゼラ・ポール、ヘルミ・アンブロース、ヘルガ・テルマー、イルゼ・ルートヴィヒ=ヤーンス
アルト独唱:インゲボルク・シュプリンガー

(1975年1月11日 ライプツィヒ,コングレスハレ ライヴ録音 Berlin Classics)

 今日の午前中に中元を送りに四条河原町の高島屋へ行きました。開店の十分前に着くと既に多数の先客が入り口の前に立っていました。融通をきかせて数分前に開けるということもなく、定刻ちょうどに開店になりました。立っているだけで汗が噴き出してくるのでまわりの人も少々イラついていましたが、さすがに店員にくってかかるような客は居ませんでした。開店直前に女性店員が手話をしながら催し物会場の案内をしました。銀行や郵便局、役所の開くのを待ったことはありましたが、百貨店は初めてでした。

120729a クルト・マズアがライプチヒのゲバントハウス管の指揮者(1970年から)だった時代に、約七歳年長のケーゲルは同じライプチヒの放送交響楽団の首席指揮者でした。また、ケーゲルが生地ドレスデンのドレスデンPOの首席に就任する前々任がマズアで、なにかとポストが交錯する二人です。ドイツ再統一後、ニューヨークやパリにもポストを得たマズアに対して、対照的に拳銃自殺したケーゲル(東ドイツでは拳銃を所有できたのか?)。このCDはベルリンの壁が健在で、壁を超えるのが命がけだった時代に、東ドイツで録音されたパルシファルです。

  「ニーチェはワーグナーの悲壮ぶった仰々しさをあまりまともに受け取るべきではないということを示した。」これは、クレンペラーがワーグナーとニーチェについて述べた話の一部です。この話は「ニーベルングの指輪」について、指輪を書き始めた頃フォイエルバッハから得た思想から後にショーペンハウアーの著作に触れて豹変したこと、それを最初に指摘したのがニーチェだったという内容で、我々一般人には「へえ、そうですか」としか言えない話です。ところで、ワーグナーの最後の楽劇「パルシファル」は1913年までバイロイトでしか上演できない措置が取られていましたが、1914年1月1日からそれが解禁されました。1914年当時バルメンの歌劇場に居たクレンペラーもさっそく取り上げて上演しました(一番のりの上演ではないけれど)。

120729  「悲壮ぶった仰々しさ」といった表現は辛辣な言い回しですが、意味するところはなんとなくイメージできます。第一幕の前奏曲を聴いているだけでもケーゲル指揮の、演奏会形式によるこのパルシファルは、さしずめそういう要素が極めて薄い演奏だろうと思います。改めて最初から全曲を聴き直すと、霞や雲を吹き払って作品の隅々まで照らし出したような明晰な演奏です。パルシファル役のコロだけでなく、グルネマンツのコルトも憂いを感じさせない淡々とした歌唱で際立ち、ケーゲルの導きだすオーケストラの音とぴったり合っています。録音されたのがバイロイト音楽祭の真夏とは正反対の真冬、一月です。このパルシファルは近年平林直哉氏がケーゲルの録音の中で特に注目に値するとして言及していました。

 ところで、「音楽ユダヤ人事典(1940年)」の中には「クレンペラーは、自らの使命をドイツ音楽の傑作の意図的歪曲とみなしており」、「ベルリン・クロル歌劇場をユダヤ・マルクス主義的実験舞台に貶めた」といった攻撃的な説明が付されています。仮にそうした価値観を持った専門家が戦後も居るなら、ケーゲル指揮のこのパルシファルはどういう感想を持つだろうかと思います。

 パルシファルは大作なので全曲盤はLPレコードでは枚数もかさみ、とても買えず、CD化されたカラヤンBPOではじめて通して聴けました。湾岸戦争の前くらいだったはずですが、第2幕以外は感動的でこの作品が神聖視されるのももっともだと思えました。しかし、第2幕は別の作品が接ぎ当てられたような違和感を覚え、全体としてよくわからない気がしました。その点、ケーゲル盤は最初から最後まで強烈な意志、集中力で統一されていて音だけでも十分に作品を現わし切っていると思えます。

27 7月

ブルックナー交響曲第8番 ドホナーニ・クリーブランド管

120727 ブルックナー 交響曲 第8番ハ短調(1890年第2稿・ハース版)

クリストフ・フォン・ドホナーニ 指揮
クリーブランド管弦楽団

(1994年2月 オハイオ州,クリーブランド セヴェランスホール 録音 DECCA)

 クリストフ・フォン・ドホナーニは1984年から2002年までクリーブランド管弦楽団の音楽監督をつとめていました。住居もオハイオ州にかまえての本腰を入れた赴任だったようです。アメリカに渡る前はハンブルク国立歌劇場(1977-1984年)、フランクフルト歌劇場(1968-1977年)のそれぞれ音楽監督のポストを得ていました。クリストフの兄、クラウス・フォン・ドホナーニは政治家で、ウィキによるとハンブルク市長もつとめていました。父のハンス・フォン・ドホナーニの資質を受け継いだのは兄の方で、クリストフの方は作曲家だった祖父エルンスト・フォン・ドホナーニの隔世遺伝(祖母もピアニスト)といったところです。

120727b  これはドホナーニがクリーブランド管に来てから約10年後に録音したもので、彼がブルックナーの交響曲の第3番以降を録音したシリーズに含まれるものです。このクリーブランド管弦楽団とのブルックナーは、日本国内で新譜として出た時は第5番、第9番の二種がレコ芸月評で特選を得ていました。ということは、この第8番もカップリングされている第3番、第4、6、7番らは特選から漏れていたということです。日本の1990年代でブルックナーと言えば、ヴァントと朝比奈が人気(過熱気味にも見える)だったので、陰に隠れがちです。

ドホナーニ・CLO(1994年)
①16分17②13分53③29分02④23分00 計82分12

 このCDの演奏時間は上の通りで、同じく第2稿ハース版で演奏するギーレン盤よりも1分以上短くなっています。全曲で75分台のブーレーズ、VPOは特別としても速い、短い部類の演奏です。また、使用した版が不確ながらハース版とされるカラヤンとVPO(1988年)の録音と同じくらいの演奏時間(82分49)です。

120727a  演奏時間は似ていても、聴こえ方というか響きの印象は大きく異なり、「重い」と感じさせるカラヤン・VPOに対してドホナーニ盤は編成を減らしているのかと思う程弦が控えめで、余韻、残響を意識させないような独特の響きです。第2楽章・スケルツォが速いテンポなので軽快な印象を受けます。全体でドホナーニよりも短い演奏時間のヴァント・ケルンRSOのスケルツォ楽章が15分台なので余計に際立ちます。反対に第3楽章、アダージョは全体で5分半以上長いヴァント・NDRSOよりさらに長い演奏時間になっています。アダージョ楽章をゆっくり演奏しても重々しくならないのは不思議です。ともかく、軽快な楽章は速く、荘厳な楽章はゆっくりと、それを強調しています。

ギーレン・SWRSO(1990年)
①16分25②17分04③26分49④23分38 計83分56
ヴァント・NDRSO(1993年)
①17分16②16分05③28分45④25分46 計87分47
ヴァント・ケルンRSO(1979年)
①15分44②15分04③26分10④24分24 計81分38

 ブルックナーの第8番は、他の交響曲よりも祝祭的、壮大な盛り上がりが目立ち、豪快な?演奏も人気があるようです。朝比奈隆、大阪POによるキャニオンのCDでは終演後の拍手を独立したトラックに収録するほどの熱気でしたが、ドホナーニ盤はそうした演奏の対極とまではいかないまでもかなり遠いタイプの演奏だろうと思いました。もっともクリーブランド管の本拠地等のライブ映像(任期の末期)ではかなり熱烈な拍手で迎えられ、何度もステージに現れています。

 ドホナーニ、クリーブランド管によるブルックナーの大作の第8番を改めて聴いてみると、確かに素っ気ない、淡白という批判的な感想は当てはまりそうですが、それは逆を狙って不本意にそうなったのではなく敢えてそうした響きを作っているのだと感じられます。重厚な響き、祝典的な高揚よりも、素朴な音型、フレーズが前面に出るように心がけていて、かなり面白く聴けると思いました。

26 7月

メンデルスゾーン交響曲第5番 ドホナーニ・VPO

メンデルスゾーン 交響曲 第5番 ニ長調 Op.107「宗教改革」

クリストフ・フォン・ドホナーニ 指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(1976年1月 ウィーン,ソフィエンザール 録音 DECCA)

120726  ドホナーニの父は、法律家でナチス抵抗運動に参加して最後はヒトラー暗殺計画に加担したとして処刑されたハンス・フォン・ドホナーニです。母クリスティーネは、ルター派の神学者、牧師(というより告白教会が有名)で同じくヒトラー暗殺計画に加担したとして処刑されたディートリヒ・ボンヘッファーの妹です。そうした一族の系譜と、一時スキャンダルも有名だったドホナーニの演奏と関係があるのかどうか分かりませんが、ハンス・フォン・ドホナーニやボンヘッファーの最期があまりに大きな出来ごとなので無視できないと思えます。

 このCDはドホナーニとウィーン・フィルのメンデルスゾーン交響曲集(第1-5番の5曲)の一枚目です。手元にあるメンデルスゾーンの交響曲第5番のCDはこれ一枚だけです。作曲者自身も完成させた後に、この曲に満足せず嫌っていたようで、部分的には美しいところがあるものの、何となく統一感を欠いたような印象です。美しいところとは、第4楽章でルターのコラール Ein' feste Burg ist unser Gott 神はわがやぐら」の旋律がフルートによって奏でられる部分で、コーダのところではそのメロディが壮大に盛り上がります。また、第1楽章では「ドレスデン・アーメン」の旋律が用いられています。

 この曲だけでなく、ドホナーニとVPOによるこれらメンデルスゾーン交響曲集はみな素晴らしいと思います。ウィーンフィルの音かDECCAの録音の効果か、1980年代のクリーブランド管とのクリスタルガラスの細工のような響きよりも、もっと潤いがあって、時折目にするドホナーニへのマイナス評を感じさせないものです。また、力が入り過ぎたり前のめりになることなく、均整のとれた演奏ではないかと思いました。

 メンデルスゾーンの交響曲第5番は、1830年にルター派教会の信条たる「アウグスブルク信仰告白」300周年を記念して作曲された、メンデルスゾーンのニ曲目(12曲ある弦楽のための交響曲を除いて)の交響曲です。曲中で使われるコラール旋律がそれをうかがわせます。「神はわがやぐら」は、日本のルーテル教会等だけでなくプロテスタント合同教会である日本基督教団でも讃美歌として歌われてきました。

 ユダヤ系国民が公職から追放されるようになった頃、ドイツの教会でもそうした動きが始まり、それに反対、対抗したのがボンヘッファーらでした。やがてドイツ告白教会へと展開します。牧師が暗殺計画に加担するのは異例にして自己矛盾と見るむきもあるかもしれませんが、ホロコースト、絶滅収容所を前にして苦しみ呻きながら、そうせずにおれなかったのだろうと思います。これらの姿を見るにつけ、正義という語を容易に使う事に抵抗を覚えます。仮に暗殺が成功して、クデーターが成ったとしても、彼らは自己弁護するようなことはなかっただろうと想像できます。

 昨夜、眼鏡の度数が合わなくなったので交換しました。店頭で申し込んでからやく一週間かかりました。当日店頭で作業をするため40分くらい眼鏡のフレームも預けるため、その時間は眼鏡無しで過ごすことになりました。実は全く同じ眼鏡を二つ併用しているので、予備を持参すれば良かったのに持って出るのを忘れました。おかげで近所の書店へ行っても本のタイトルを見ることからしてひと苦労でした(ここで、これを書いている私が眼鏡をかけていることが分かり、カミングアウトしていなくても、見る人が見ればどいつが書いているのか分かってくる)。乱視もはいっているので眼鏡店に戻る時は、どれが店の入り口かちょっと迷うくらいでした(しかし、まだ老眼ではない)。

25 7月

ベートーベンのピアノソナタ第32番 バックハウス旧録音

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 op.111

ヴィルヘルム=バックハウス : ピアノ

(1953年11月 ジュネーヴ,ビクトリアホール録音 DECCA)

120725a  第三帝国時代にメンデルスゾーンの作品が抹殺される危機にあったというのは、作品を思い起こすにつけ意外としか思えません。これは権力者の嗜好が大きくものを言っていたのでしょう。一方でヒトラーは、バックハウスの演奏が好きで彼のフアンだったということですが、ライプチヒ生まれのバックハウスは七歳でメンデルスゾーンが創設したライプチヒ音楽院に入学して本格的な学びをスタートさせました。滝廉太郎も留学したライプチヒ音楽院は、現在は「音楽演劇大学」として続いているので、ナチ時代も無事だったわけです。

 このCDはバックハウスが60歳代後半から70歳の頃に録音したベートーベンのピアノソナタ全集の中の1枚で、作品109から111の三曲(第30、31、32番)が一枚のCDに入っているものです。何年か前にこれをアイポッド(ipod)に入れて電車の中で頻繁に聴いていたものです。後期の三つのソナタが番号順に入っているわけですが、今回の第32番・作品111の演奏が一番素晴らしいように思えて、特によく再生していました。

120725c  ピアノソナタ第31番は「のだめカンタービレ」の後半で取り上げられて注目されましたが、今バックハウスの旧録音で聴くと、この演奏は切り詰められ過ぎて、人間的ななまの情感が取りつく島が全く無いように感じられます。その影響もあって、のだめにその曲が出てきた時は場違いなような気がしました。それはともかく、バックハウスの演奏はそんな感じなので、誇大妄想的となヒトラーが彼のフアンだったことは非常に結びつき難いと思います。後期、最後の三曲の内で第31番がいまひとつではないかと思われた例は、アンドラーシュ・シフのライブ録音のCDも同様で、シフの場合も第32番が一番魅力的だと思いました。シフはさて置くとして、同じ時期にバックハウスが録音した後期作品なのに、第32番はそれほど即物的な印象を受けないのは何故だろうかと思います。

ピアノソナタ 第32番 ハ短調 作品111
第1楽章 Maestoso - Allegro con brio ed appassionato ハ短調
第2楽章 Arietta. Adagio molto, semplice e cantabile ハ長調

 バックハウスは、モノラルの全集の後、もう一度ベートーベンのピアノソナタ全集の録音に取り組み、第29番作品106以外は録音を完了させています。旧全集の時も七十歳に差しかかり肉体的、技術的には峠を越えていましたが、再録音時は七十代後半から八十代でした。晩年になってたて続けにベートーベンのピアノソナタ全集の録音に取り組んだことは驚くべきことです。最初の全集を完成した時に、バックハウスを聴くならベートーベン、と言われていたのが「ベートーベンを聴くならバックハウス」に変わったと解説書に載っていました。改めて演奏を聴いていると何となくそのニュアンスが分かる気がしまた。

バックハウス・1953年
①8分04②13分12 計21分16

バックハウス・1961年
①8分14②13分09 計21分23

120725b  音質はさすがに再録音のステレオ盤の方が良く、旧盤は貧弱に聴こえてしまいます。そんな音質の違い程は新旧の演奏は違うのか、自信をもって言えませんが旧録音の方が少々張詰めて、より緊迫感のある演奏かもしれません。第31番の方は(今回は改めて聴き直していませんが)、再録音の方がゆったりとして聴き易かったという記憶があります。何年か前に今回の旧録音で第32番を聴いていた時は、圧倒的な高みに思えたのですが、改めて聴いているとよっと色褪せて聴こえています。

シフ・2007年
①8分42②18分03 計26分45

 ちなみに近年のシフによる録音は上記の通りです。最近の企画、名曲名盤300(レコード芸術誌・2009年7月号)の中のベートーベンのピアノソナタ第32番は、バックハウスの再録音盤がかろうじてリストに挙がっていましたが、旧録音は圏外でした。ポリーニやリヒテルとゼルキンの最晩年ライヴ盤が人気を得ていました。バックハウスの旧全集はさすがに過去のものとなってきています。今回は、一方で頽廃音楽やら人種的問題で排斥される作曲家、演奏家があった中で、片方でそれを行った権力者に好かれた、或いは排斥されなかった側の演奏家があり、両者にはそういう扱いをもたらすような差があるのか?という疑問の感情から、メンデルスゾーンとシフのCDに続いて挙げてみました。

24 7月

メンデルスゾーン 無言歌集 アンドラーシュ・シフ

メンデルスゾーン 無言歌集(第1-8巻から)

アンドラーシュ・シフ:ピアノ

(1986年9月 ウィーン,コンツェルトハウス録音 DECCA)

120724a_2  今日の夕方烏丸通を南下して帰ろうとすると、まるで正月のような大渋滞でした。7月24日は祇園祭期間中の「還幸祭」のため、17日に御旅所へ移って留まっていた神輿が巡行してから八坂神社へ帰る日で、そのルートに烏丸通も含まれていることを忘れていました。烏丸高辻辺りで南行の二車線が閉鎖され、反対側の北行車線を分け合って通行していたのでそれだけの大渋滞になったわけでした。神輿も見えたので、担ぎ手を見ると法規制の強化のせいか今年は紋々は見えませんでしたが、あるいは服で隠していたのかもしれません。これが終わると祇園祭りも残りわずかで、31日の夏越祭で終了です。

 メンデルスゾーンのピアノ曲集・「 無言歌集 “ Lieder ohne Worte ” 」は、1-8巻、各巻6曲ずつで全48曲あります。作曲された時期が不明のものもあり、創作活動の全期間にわたって作曲されたとされ、以下のように1832年から作曲者の没後の1868年にかけて出版されました。

作品19:第1巻~1832年出版、作品30:第2巻~1835年出版、作品38:第3巻~1837年出版、作品53:第4巻~1841年出版、作品62:第5巻~18844年出版、作品67:第6巻~1845年出版、作品85:第7巻~1851年出版、作品102:第8巻~1868年出版

 このアルバムは全48曲中、下記の一覧の通り各巻から22曲を選んでいます。各曲の演奏時間は3分程度のものが多い小品で、標題の大半はメンデルスゾーン自身が付けたものではありません。

海辺で(Op.53-第1)、紡ぎ歌(Op.67-第4)、浮き雲(Op.53-第2)、胸さわぎ(Op.53-第3)、五月のそよ風(Op.-)、旅人の歌(Op.85-第6)、ヴェネツィアの舟歌第1(Op.19-第6)、慰め(Op.30-第3)、さすらい人(Op.30-第4)、小川(Op.30-第5)、ヴェネツィアの舟歌第2(Op.30-第6)、子供の小品(Op.102-第5)、甘い思い出(Op.19-第1)、後悔(Op.19-第2)、ないしょの話(Op.19-第4)、不安(Op.19-第5)、宵の明星(Op.38-第1)、失われた幸福(Op.38-第2)、デュエット(Op.38-第6)、子守歌(Op.67-第6)、春の歌(Op.62-第6)、タランテラ(Op.102-第3)

120724b  シフは無言歌の全48曲を録音していたのかどうか分かりません。手もとにあるのは今回の1990年代発売・国内廉価盤CDだけです。無言歌集は特に熱心に聴いていたわけではないので、詳しくは知りませんがこれより古い録音はバレンボイム(全曲)、エッシェンバッハ(選集?)等がありました。今のところ比べてどうこうとは言えませんが、とにかくシフによるこの作品にひたすら感じ入っているところです。

 CDの一曲目に入っている第4巻の一曲目「海辺で」を聴いただけで、渇いた身体に冷たい水がしみ込んで行くような心地良さで、不快な気分によく効くことこの上無いと思いました。その原因がどこにあるかは分かりませんが、短い曲が流れている間だけべつの世界に移されたような気分でした。アンドラーシュ・シフの演奏なら過去に記事投稿したシューベルトが特に気に入っており、それより前のバッハや近年のベートーベンも魅力的です。シフはその名前からも推測できるように、メンデルスゾーン同様ユダヤ系なので、音楽的以外にも何か通じるところがあったりするのだろうかと思います。

23 7月

ベートーベン・田園交響曲 クレツキ チェコPO・1965年

120723b ベートーベン 交響曲 第6番 ヘ長調 Op.68「田園」

パウル=クレツキ 指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

(1965年6月5-7日 プラハ,ルドルフィヌム 録音 Supraphon)

 チェコ・フィルハーモニーのベートーベンのレコードは日本国内ではあまり目にしなかった記憶があり、もっぱらドヴォルザーク、スメタナら本場物のレコードが目立っていました。そんな中で中学二年(多分)の音楽の授業で、バーツラフ・ノイマン指揮チェコPOの運命を業務用の大型スピーカーで聴き圧倒されたことがあります。レコードジャケットまで確認したわけではありませんが、最初に確かに名前を聴きました。同じものを聴きたいと思ったものの、自宅の貧弱な再生装置で聴けば大したことは無くなるだろうと思って探すのをあきらめました。

 これはユダヤ系ポーランド人の作曲家にして指揮者のパウル・クレツキが、チェコPOを指揮して1965年から1968年にかけて録音したベートーベンの交響曲全集の中の1枚です。チェコPOによるベートーベン交響曲全集が他にあったかどうか分かりませんが、珍しい組み合わせです。チェコPOに対する漠然としたイメージから、柔和で朗らかな田園交響曲になると思えばそうでもなく、他の交響曲程張詰めて乾いた印象ではないものの、やや即物的で純音楽的なスタイルになっています。

クレツキ・チェコPO(1964年)
①12分00②12分38③5分51④4分01⑤9分14 計43分44

クレンペラー・フィルハーモニア管(1957年)
①13分04②13分22③6分33④3分43⑤9分12 計45分54
アバド・BPO(2000年5月)
①11分18②11分05③4分58④3分24⑤8分25 計39分10

 クレツキの演奏は最近の、例えばアバドとBPOの録音と比べると別段速くはなく、リピートの有無の関係から単純に比較できないとしても、クレンペラーの方に近いくらいです。特に後半の二つの楽章は近似しています。また、クレンペラーの方は低音が強調されて重厚な印象を受けますが、クレツキ、チェコPOはもっと爽快な響きのようです。

120723a  「 小澤征爾さんと、音楽について話をする 」という題名の通りの対談集の中で、小澤征爾がボストン交響楽団に就任してからドイツ、オーストリア系の作品をメインにしたいという意向から、オーケストラの音もそれに合わせようとしたという話が出てきました。弦楽器は弓の根元に近い方からも強く弾くように(楽器経験が無いので感覚的に分からないけれど)変えさせようとして、それに付いて行けず辞める団員も出たとありました。ボストンSOは、ミュンシュの後はラインスドルフ、クレンペラー門下とも言えるウィリアム・スタインバーグ(ヴィルヘルム・シュタインベルク)が首席格をつとめ、その次が小澤征爾でした。その話によれば、ラインスドルフやスタインバーグの頃にはそこまで徹底していなかったことになります。こうしたオーケストラの方針の点では、チェコPOはドイツやオーストリアの楽団とは明確に違うのだろうかと思いました。

 このベートベンの交響曲全集の録音時、チェコPOはアンチェルの任期終半頃でした。奇しくもクレツキもアンチェルもユダヤ系であり、大戦が終わるまでは各地を逃げ回ることを強いられ、ともにホロコーストにより肉親を虐殺されるという過酷な経験をしています。クレツキはその経験の後は作曲を止めた、出来なくなったとされています。ベートーベン以外では、EMIへマーラーの交響曲第1、4番、大地の歌の録音がありました。とにかく、この録音は1960年代のベートーベンとは思えない明晰な演奏でした。

 これを書いているうちに、小林研一郎がチェコPOとベートーベン・チクルスを進めているのを思い出し、調べるとあと第8、9番を残すだけになっていました。そういえば、インパクトのある写真を使用したジャケットのエロイカは過去に記事投稿していました。

22 7月

クレンペラー・PO ベートーベンの田園交響曲 1957年EMI

ベートーヴェン 交響曲 第6番 ヘ長調 作品68「田園」


オットー=クレンペラー 指揮

フィルハーモニア管弦楽団

* ウォルター・レッグ:プロデューサー


(1957年10月7-8日 ロンドン,キングスウェイホール 録音 EMI)


 宮沢賢治が田園交響曲を特に好きでSPレコードも所持していたらしく、「セロ弾きのゴーシュ」の作品中に登場する「第六交響曲」とはベートーベンの田園のことだとされています。何度かアニメ化されていて、過去にブログでも触れていました。高畑勲の脚本・監督の作品は繰り返し発売されて普及しています。かなり昔、教会学校の企画で子供を集めて何か上映しようとしたことがありましたが、ビデオテープが破損したのか録画失敗だったかで予定のもを準備できず、代わりにセロ弾きのゴーシュを映しました。内心とっとと解散にすればいいのにと思いながら、看守のように後ろで座っていると意外に面白く、見入ってしまいました。なんだかんだ言いながら楽しんでしまうタチで、それがきっかけで、田園交響曲がさらに好きになりました(実に単純で通俗的である)。

 ここ十数年でクレンペラーのCDがかなり増えました。1980年代頃ならクレンペラー指揮のベートーベンの田園交響曲といえば、VOX社のウィーン交響楽団とのモノラル録音(1951年)と今回のEMI盤くらいしか手に入り難かったはずです。それ以外に両者の間に、ベルリン放送SO(1954年)、アムステルダム・コンセルトヘボウ管(1956年)といった放送用音源がありました。1957年のセッション録音以降は、1960年のウィーン芸術週間でのベートーベン・チクルス、1964年のベルリンPOへの客演等があり、いずれもCD化されています。さらに1970年頃の、クレンペラー最後のベートーベン・チクルスも部分的にかもしれませんがCD化されたらしい話を目にしました。

 そんな中でも、クレンペラーの田園交響曲と言えばやっぱり今回のEMIへのセッション録音が最初に挙げられるはずです。ただ、個人的にはTESTAMENTから出た(それ以前にも別のレーベルから出ていた)1964年のベルリンPO客演の録音も気に入っています。その二種の演奏時間は以下の通りで、七年の隔たりがある割にはあまり演奏時間が違っていません。EMIのクレンペラーによるベートーベン交響曲全集は、当初モノラル期の1955年前後から開始しましたが、第3、5、7番はステレオで再録音され、結局1957年、1959年、1960年に録音されたものが全集としてまとめられました。
 

1957年・フィルハーモニア管
①13分04②13分22③6分33④3分43⑤9分12 計45分54

1964年・ベルリンPO
①13分08②13分27③6分41④3分35⑤9分47 計46分38

 この録音の際にプロデューサーのレッグが遠慮がちに、「遅過ぎるのでは?」とクレンペラーにたずねたところ、クレンペラーは「すぐに慣れる」と答えたエピソードは時々CDの解説に載っています。レッグがたまりかねてそう言ったのは多分第3楽章だったと思います。1958年9月の大火傷以降は健康状態も低下して一段とテンポが遅くなったと言われるクレンペラーも、1955年頃のベートーベンの録音は極端に遅くはなくこの田園交響曲の1957年も同様のはずです。にもかかわらず1964年の演奏と近似するテンポなのは、ちょっと珍しく、このようなテンポ、各楽章のバランスに対して確信的なものを感じていたのだろうと思います。

 クレンペラーのベートーベンは、ミサ・ソレムニスとフィデリオは国内盤のLPで入手できましたが、交響曲の方は1980年代半ば頃すでに店頭では見られませんでした。その当時は1枚当たり1500円の「クレンペラーの芸術」シリーズで出ていたはずです。クレンペラーのLPとしては最も安い、曲よりもクレンペラーを聴くためという位置ずけだったのでしょう。そんな状態だったので、左の写真のように輸入・復刻盤(6枚組・西独プレス)で初めて聴くことができました。これを入手した時は、第1番から順番に第9番まで聴いたのを思い出します。特に最初に針を下ろした第1番が、中期以降の作品同様に重厚に、深遠に響いたのが驚きでした。

 それに比べ田園の場合はちょっと突き放されるような、愛想の無い演奏で第一楽章から部分的に荷物を無造作に下ろしたような音にきこえました。しかし、最初から最後まで聴き通すと、各楽章のテンポ・演奏時間のバランスからか楽章がくっきりと浮き上がり、まるで天に向かって積み上げられた塔のような構造物を思わされて感動的です。この印象、感覚はずっと後にベルリンPOとの公演の録音を聴いていっそう鮮明になりました。まあそれでも、田園風景といったイメージとは遠く、田園的とは言えないのは確かだと思いました。しかし、それは何もこの録音に限らず、ユダヤ系ではなきドイツ、オーストリア人の指揮者の演奏であっても、田園情緒を前面に出したものばかりではなく、クレンペラー盤が特別に異端的とは言えないはずです。

20 7月

マーラー交響曲第9番 コンドラシン、モスクワPO 1964年

120720a_2マーラー 交響曲 第9番 ニ長調

キリル・コンドラシン 指揮
モスクワ・フィルハーモニー

(1964年 録音 Melodiya)

 先日投稿したショスタコーヴィチの交響曲第6番のCDは、コンドラシンとモスクワPOの来日公演のライヴ音源でした。その昭和42年の来日時のプログラムにはマーラーの交響曲第9番も入っていました。それはマーラーの第9番の日本初演だったらしく、ライヴ音源がCD化もされています(聴いたことはない)。このCDはそれよりも約3年前にセッション録音されたもので、コンドラシンのマーラー選集に入っている一曲です。1枚のCDにマーラーの9番が収まっているので速い部類の演奏です。

 長らくソ連、ロシア系指揮者によるマーラーはCD購入にまでは至らず、ラジオで聴いたことがある程度でした。しかし昨年のゴレンシュタイン盤を、京都コンサートホールで京響の定期を聴いたことと、異様に遅いという前評判から購入して好印象だったので遅まきながら関心が増しました。

コンドラシン・モスクワPO(1964年)
①24分48②15分27③11分54④21分51 計74分00

 演奏時間の合計だけを比べても、やはりコンドラシン盤は短いのがよく分かります。素っ気ない、冷たい等の代表のように言われたギーレンより10分短く、過去にブログで扱ったCDの中で一番の短さです。これだけ演奏時間の違いが際立っている割に、第4楽章だけは差が小さく、機械的なとか何の情緒も漂わないといった演奏ではありません。

ショルティ・CSO(1967年頃)
①27分00②16分30③13分05④22分50 計79分25
ギーレン・SWRSO(2003年)
①29分01②17分46③14分35④22分23 計83分45
ゴレンシュタイン・ロシアNSO(2010年)
①30分07②17分45③15分10④31分55 計94分57

120720b  全曲を通じて魅力的だったのがその第4楽章で、冒頭はかなり力強く始まって、この曲にたいする告別云々とは別世界かと思わせながら徐々に雰囲気が変わり、後半のクライマックス部分で第1楽章冒頭の動機が現れる辺りは第1楽章の激しさが思い出されて、見事に統一感が出ています。最後は “ ersterbend ( 死に絶えるように ) ” という表記にふさわしい終わり方です。

 テンポや音質の違いから個性的にきこえるものの、鉄のカーテン(この言葉も懐かしい)の向こう側のマーラーも根本的に異質ではないのが分かります(楽譜があるのだから当然だけれど)。振り返ってみると、コンドラシンらソ連で演奏していたショスタコーヴィチの方がむしろ西側で演奏しているものより異質だったのかという気もしてきます。

 ネット上の記事で読んだことが有る話ですが(どこで読んだか思い出せない)、昨夜のテミルカーノフの何度目かの来日公演の中に、ショスタコーヴィチの交響曲第7番が一曲だけの日があり素晴らしい演奏だったのに、会場は空席が目立っていたそうです。東京でもそういうことがあるのは驚きで、その調子なら1967年の東京でのマーラー第9番は、どの程度切符が売れたのだろうかと思いました。 

19 7月

ショスタコーヴィチ交響曲第13番 テミルカーノフ ST.PE・PO

120719b_2 ショスタコーヴィチ 交響曲 第13番 変ロ短調 Op.113 「バビ・ヤール」

ユーリ・テミルカーノフ 指揮
サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団

サンクトペテルブルク放送男声合唱団
サンクトペテルブルク連合男声合唱団

セルゲイ・アレクサーシキン(バス)

(1996年5月16,17日 サンクトペテルブルク,フィルハーモニー大ホール 録音 RCA)

  暑さがひどくなってくると、カーナビのHDに録音してあるコンドラシン、モスクワPOのバビ・ヤールが何故か聴きたくなってきます。ブルドックが歯を剥いて唸っている姿も連想させられるその録音を聴いているとファイト(特に何に対してということもなく)が湧いてきます。

120719  1996年に録音されたこの音源は何故かすぐには発売されず、ショスタコーヴィチの生誕100年のメモリアル年の2006年になって初めて出てきました。テミルカーノフとサンクトペテルブルクPOはちょうどその年の11月に日本公演を行い、このバビ・ヤールもプログラムに入れていました。テミルカーノフは、1988年からムラヴィンスキーの後任としてサンクトペテルブルクPO(レニングラードPO)の音楽監督・首席指揮者をつとめていました。就任直後のインタビューがレコ芸に載っていて、団員の投票で選ばれたことを誇りに思うというコメントが印象に残ります。

 このCDはコンドラシンのセッション録音の演奏とは違って、かなり静かで様式化されたとでも言えば良いのか、生身の人間の感情が前面に流れず、歌詞やその背景に対して過剰な思い入れを持っているとあっけなく感じられます。テミルカーノフとロイヤルPOによる1990年頃のチャイコフスキー交響曲全集を聴くと、やはりあっさりした純音楽的なと言える演奏で濃厚な表現を期待していると肩すかしをくらいます(実際よく知らずそれを期待したのだけれど)。

 昨夜のムティーとフィラデルフィア管による第五交響曲のCD解説に載っていた、「ソ連の亡霊も、反スターリニズムの怨念も聴こえない」という特徴はここでも当てはまるようで、ソ連国内でもそうした演奏が生まれていることが感じ取れます。そういえば、この時期ショスタコーヴィチ全集を手がけていたヤンソンスも有る程度そういう志向があったと思えます。交響曲第13番の場合、どうしても歌詞の内容に注意が行ってしまうので、このテミルカーノフ盤のような演奏も貴重だと思います。

 バビ・ヤールといえば、原詩の書き換えに伴って交響曲の方も歌詞の差し替えを余儀なくされた話が付いて回ります。ところが自筆譜・総譜ファクシミリ版の出版に際して、作曲者は自筆譜については一切楽譜の変更をしていなかった、つまり歌詞も一字一句変えていなかったことが明らかになり、そのことが遺族をして出版を強く望ませたと解説に書かれてありました。ショスタコーヴィチは単に詩だけでなく、ソ連の反ユダヤ問題にも深い関心があったことが推測できることです。

120719a  このところ隣県・大津市の中学校で起きた事件の報道がエスカレートして、誤って関係者以外の個人情報が流れたりしています。それよりも、江戸時代に逆戻りしたような学校側の隠ぺい姿勢が不気味に思えてきます。ところで、いじめられている生徒が仮に窮鼠となって暴力を振るって抵抗したとしたら、学校はどういう対応をしただろうかと想像してみると、「暴力では解決にならない」とか、暴力追放の(いじめ、ではなく)学年決議をするとかで、ついぞ陰湿ないじめ実行犯を真正面に懲罰することはないでしょう。不思議なことで、タバコを吸ったりパーマをかけると血相を変えて怒るくせに、いじめとなるとすごく迂遠な扱いをしていました。何十年も前の中学時代の話ですが、こうした問題はあまり進化はしていないようです。

18 7月

ショスタコーヴィチ交響曲第5番 ムーティ フィラデルフィア管

120718_2  ショスタコーヴィチ 交響曲 第5番「革命」ニ短調 作品47

リッカルド・ムーティ 指揮
フィラデルフィア管弦楽団

(1992年4月 録音 EMI)

 今日も晴天、猛暑の中、京都市内をうろうろしていると巡行を終えた山鉾を解体しているのが見えました。しかし祭りそのものは24日の神輿(還幸祭)もあり、まだまだ続きます。今朝は珍しく電車で通勤(夜のビールに備えて)したところ、乗り継ぎの三条駅改札で「 PiTaPaカード 」の出札が出来ていないというエラーで止められました。私鉄と地下鉄の駅が地下で接続している箇所なので、引き返してやり直しても5分程度のロスで済みます。しかし、これが京阪の祇園四条と阪急の河原町だったら、地上に出て鴨川の橋を渡るので往復で10分以上はかかります。小中学生だったら余計な金銭を使いたくないだろうし(持っていないかもしれない)、カードの処理が出来てない場合は自動改札の戸をきっちり閉ざしてほしいものだと思いました。

 リッカルド・ムーティはベートーベンやシューベルト、シューマンだけでなく、よく見るとチャイコフスキー、スクリャービンの交響曲を全曲録音していました。チャイコフスキーはともかくスクリャービンを手掛けているのはロシア系指揮者以外では珍しいはずです。ショスタコーヴィチの正式録音はどうもこれ1種だけのようで、ムーティのフィラデリフィア管最後の年に録音されたものです。オペラ以外でムーティの十八番的な作品、レパートリーは何かと考えてもすぐには思い当たりません。あまり陰影がはっきりせず、直線的に突っ走る演奏という漠然とした先入観があるくらいです。だから、ショスタコーヴィチを振ってどうなるか、予想が付きませんでした。

交響曲第5番 ニ短調(1937年)
第1楽章 Moderato - Allegro non troppo ニ短調
第2楽章 Allegretto イ短調
第3楽章 Largo 嬰ヘ短調
第4楽章Allegro non troppo ニ短調

 最初から通して聴くと、ロマン派の交響曲のように響き、すごく雄々しく美しい演奏で、この曲に絡む複雑な背景や話題が吹き飛ばされたような爽快さを感じます。それが良いのかどうかは分かりませんが、個人的には好感が持てます。

 「革命」という標題は作曲者が付けたものではなく(実際、ショスタコーヴィチなら革命とは書くめえ)、主に日本で流通したニックネームのようです。党機関紙・プラウダで叫弾された直後に存亡をかけて作曲した交響曲、回心?して体制に従属する途を選んだ作品、そうではなく実はスターリンを告発する不屈にして腹背の交響曲、等々いろいろな説が付いて回る第五交響曲について、このCDの解説には、「ムーティの指揮するショスタコーヴィチからはソ連の亡霊も、反スターリニズムの怨念も聴こえない」と評して、「現代音楽の『正当な』歴史にショスタコーヴィチが復縁する日は近い」と結んでいます。それは1993年の新譜当時の文章なので、その後のショスタコーヴィチ演奏、近年のペトレンコやコフマンの演奏を考えれば、的を得ているかどうか考えさせられます。

 ムーティはクレンペラーが存命中の1972年にニュー・フィルハーモニア管の首席指揮者に就任しています。ブルックナーの交響曲は第4、第6番くらい、マーラーの交響曲は第1番を録音しているだけです。そして今回のショスタコーヴィチは1曲のみの録音なので、ピリオド楽器の波をかぶらない大編成のオーケストラの主要レパートリーの三人をこれだけしか録音していないのは稀な例です。

17 7月

ブルックナー交響曲第4番 クレンペラー・PO 1963年・EMI

ブルックナー 交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」(1878/80年・第2稿ノヴァーク版)


オットー・クレンペラー 指揮

フィルハーモニア管弦楽団

 
(1963年9月18-20,24,25 ロンドン,キングズウェイ・ホール 録音 EMI)


 今朝の八時半頃四条烏丸の交差点で信号待ちになると、ちょうど長刀鉾に囃子の人が乗り込んでいるところでした。烏丸通をここから北上すると二基ほど小さな山が通りに出ているものの、一応通行止めではなく、ぎりぎり地下駐車場に入れます。ただし、いったん入ると巡行が終わるまで出ることはできません。そういうわけで、午前中の所用は徒歩で回りましたが、人ごみと暑さのため通常の倍は時間がかかりました。去年はまだ立ち止まって山鉾を見た、余裕があったので、今年は確実に去年を上回る暑さです。
 

 この録音は初めてCDプレーヤーを購入した時に、ヴィヴァルディの四季(イ・ムジチ、アーヨがソロのやつではない)といっしょに買った思い出(と言うほどではない)のCDです。京都市の寺町にも家電街があるのに大阪の日本橋まで足を運んでDENONの普及・入門クラスのプレーヤーを買いました。今は珍しくなったインデックス機能が付いているのを探したので、割引率が今一つでした。それでCDソフトに回す額が大幅に減り、国内盤CDをあれかこれか、あれもこれもと迷いながらその二枚を購入しました。


 クレンペラーとフィルハーモニア管のブルックナーは、LPの末期に第9番だけが1枚2500円の準レギュラー盤で出ていて、それ以外は1枚1800円の廉価盤シリーズで再発売されていました。フィナーレのカットで悪名が高い第8番と、この第4番は店頭で見つからず、輸入箱もので初めて聴くことが出来ました。第4番に限っては早々とCD化されたので上記のように買う事が出来たわけです。

 CDプレーヤーをアンプにつないでこのブルックナーのCDを聴くと、城砦の前で門前払いをくらったような拒絶感で、ロマンティックとは程遠い響きでした。遅い演奏でもないのに、どこかギクシャクとした印象で、よく言われる「ブルックナーらしい」スタイルとは遠いものでした。CD最初の印象がそんな風だったので、このCDはあまり聴くことはなく年月が過ぎました。クレンペラーが戦後最初にポストを得たブダペストのハンガリー国立歌劇場で、ワーグナーのマイスタージンガーを演奏中に長い第三幕で居眠りした女性奏者(19歳だったらしい)を見つけて、「ワーグナーはガキの音楽ではない」と雷鳴一喝したという逸話があります。ブルックナーしかりというところでしょう。
 

 1972年の1月から6月の期間に開かれたニュー・フィルハーモニア管弦楽団のコンサートが25回あり、その内の4回にクレンペラーが登場しました。1月のコンサートは、ハイドンのオックスフォード交響曲とブルックナーの交響曲第4番でした。レコードの録音は公演の合間に済ませたクレンペラーなので、この録音の前後にも定期で演奏したと考えられ、他の放送用音源も考えればクレンペラーはわりに頻繁にこの曲を演奏しています。
 

クレンペラー・PO(1963年)
①16分06②13分55③11分44④18分59 計60分44


 改めて この録音を聴いてみると、特に第3楽章が面白く、やっぱり狩りだの森だのといったイメージとは一線を画しています。第4楽章のコーダも特に壮大さを演出していません。

 「音楽ユダヤ人事典(1940年)」のクレンペラーについての記述には、「クレンペラーは、自らの使命をドイツ音楽の傑作の意図的歪曲とみなしており」とか、「ベルリン・クロル歌劇場のオペラ監督に任用され、同劇場をユダヤ・マルクス主義的実験舞台に貶めた~」といった悪意に充ちた表現が見られます。オーストリアの作曲家ブルックナーも「ドイツ音楽」に含まれるのでしょうが、当時のアーリア人の癇にさわる演奏だったことは何となく伝わります。かつての同盟国にして名誉アーリア人の称号をいただいた日本人としては、どう受け止めれば良いのか分かりません。しかし、ブルックナーがすっかりメジャーになった今聴いても、このロマンティック交響曲は新鮮に響きます。

15 7月

プフィッツナー歌劇「パレストリーナ」 クーベリック バイエルンRSO

プフィッツナー 歌劇「パレストリーナ」

ラファエル・クーベリック 指揮
バイエルン放送交響楽団

バイエルン放送合唱団
テルツ少年合唱団

パレストリーナ:ニコライ・ゲッダ(テノール)
枢機卿ボロメオ:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
息子イギーノ:ヘレン・ドーナト(ソプラノ)
息子シッラ:ブリギッテ・ファスベンダー(メゾ・ソプラノ)
教皇ピウス4世:カール・リッダーブッシュ(バス)
教皇特使モローネ:ベルント・ヴァイクル(バリトン)
ルーナ伯爵:ヘルマン・プライ(バリトン)
ブドーヤ司教:フリードリヒ・レンツ(テノール)、他

(1973年2月 ミュンヘン,ヘルクレスザール 録音 Brilliant・旧DG)

120715b 「音楽的不能に関する新しい美学Die neue Ästhetik der musikalischen Impotenz ” 」という著作でも有名なハンス・プフィッツナーは、二十世紀初頭にベルリンのシュルテン音楽学校の作曲の教授で、クレンペラーは生徒の一人でした。1910年にはプフィッツナーはストラスブールの音楽学校長と歌劇場監督に着任します。ベルリンの教室の縁で後に、プフィッツナーがオペラ「パレストリーナ」のオーケストレーションをするために一年間休む時、歌劇場の仕事の肩代わり要員としてクレンペラーがストラスブールに呼ばれました。当時クレンペラーはハンブルクで駆け落ち事件を起こし居られなくなり、バルメンの劇場に移っていました。ハンブルクと比べれば大いに格下げだったので、短期でストラスブールにまた移れて良かったかもしれません。   (写真はストラスブールのピットに座るクレンペラー)

 プフィッツナーの唯一のと言える代表作、歌劇「パレストリーナ」は、1909年から1915年に作曲されて1917年にブルーノ・ワルター指揮で初演されました。このオペラの台本はプフィッツナー自ら書いています。優れた台本とされ、クレンペラーも後年ゲーテに比べられるパセージもあると評しています。

 話の筋は、対抗宗教改革の頃、トリエントの公会議において典礼の言葉も聞きとれない複雑なポリフォニー・ミサは不要である、単旋律のグレゴリオ聖歌だけに限るべきという意見が強くなり、それに対してパレストリーナが新しい様式のミサ曲を書いて納得させ、混乱がおさまる、というものです。音楽は、R.シュトラウスのオペラから糖分を大幅にカットしたような、ワーグナーの楽劇からアルコール分等を抜いたような後期ロマン派の作風です。前奏曲だけがコンサートで演奏されるように、確かに妙な難解さが無く美しい作品です。

120715a  このCDはお馴染みの廉売レーベル・ブリリアントから再発売されたものですが、出演歌手の顔ぶれからも分かるように元はDGから出ていたLPだったようです。このオペラはドイツ語圏では時々演奏されても、それ以外の国では全然のようです。日本で国内盤が出たことがあるのか分かりませんが、豪華キャスト布陣からドイツでのパッレストリーナの占める地位がうかがえます。そういえばベネディクト16世就任祝賀コンサートのプログラムに「パレストリーナ」の前奏曲か何かが入っていました。

 「音楽的不能に関する新しい美学」は、ウィキによると「 腐敗の徴候? 」という副題が付いていて、ユダヤ人が音楽に破壊的な影響を与えたという攻撃で結ばれています。しかしその一方で、プフィッツナーはマーラーに恩義があり、尊敬し、人間的に愛していたとされます。それは彼の作品を一流の劇場で最初に上演したのがマーラーだったということも大きいはずです。マーラーがプフィッツナーのオペラ「愛の花園のばら」をウィーンで上演する時、リハーサルに彼を呼び、マーラーの後ろに座らせて、「気に入らないところがあればいつでも演奏を止めるように」しました。マーラーは「ほんとうにあなたの批判的な意見が聞きたい」とも言ったそうで、正しく偉大な芸術家に対する態度でした。

 そんな恩義があって、人物としてはマーラーを敬愛しても作曲上の価値観、好みは別で、他の論文では「もし聖霊なる造り主が現れなければ、どうするのか」と、マーラーの第8交響曲の冒頭合唱を持ちだしてマーラー、シェーンベルク、シュレーカーを攻撃の対象としていました。第三帝国時代、政権が栄誉を与えてくれることを期待したものの、気難しい性格と風采があがらないことが災いしてか、ヒトラーにあまり好かれず、大した恩恵は無く、大戦末期には自宅は空襲で無くなりました。

 第二次大戦後はウィーン・フィルハーモニーがプフィッツナーに好意的で、ザルツブルクに家を用意までしてくれたので、彼はそこで亡くなりました。プフィッツナーの業績?、行動にはいろいろ話題もありますが、「反ユダヤ的ではないが、親ユダヤ的でもない、良いドイツ人だと思ったユダヤ人なら好いていた」というクレンペラーの評が象徴的です。

14 7月

ショスタコーヴィチ交響曲第9番 ネーメ・ヤルヴィ SNO

120714b ショスタコーヴィチ 交響曲 第9番 変ホ長調 作品70

ネーメ=ヤルヴィ  指揮 
スコティッシュ・ナショナル管弦楽団

(1987年4月14-17 グラスゴウ,ヘンリー・ウッドホール 録音 Chandos)

 ロンドン五輪開幕が迫ってきました。出場を逃したり、五輪の競技種目から外された場合もあり、しばらくオリンピックは忘れたいという選手もいるかもしれません。バスケットは身長、体格がものを言う競技なので、日本は苦戦しています。それでも女子代表はあと少しで出場がかなうところでしたが、及びませんでした。主将の大神選手は骨折したところをボルトで固定して予選に間に合わせた程だったので、不出場決定後の様子は痛々しいものでした。男子代表はもう少し早く不出場が決まっていただけに、なおさら残念です。

  大作が発表されると期待したのに肩すかしだった、こういうパターンはショスタコーヴィチには時々出てきます。第二次世界大戦の戦勝・終結を祝う交響曲(ソ連幹部にとってもそうなるはずだった)として構想されたこの曲は、1945年8月30日に完成して同年11月3日に、ムラヴィンスキー指揮レニングラードPOにより初演されました。

交響曲第9番 変ホ長調
第1楽章 Allegro 変ホ長調
第2楽章 Moderato - Adagio ロ短調
第3楽章 Presto ト長調
第4楽章 Largo 変ロ短調
第5楽章 Allegretto 変ホ長調

 交響曲第9番は5楽章から成るものの、演奏時間は30分に満たない(このCDは約25分)という規模で、内容もちょっと聴いただけでは昨夜の交響曲第6番のような重さも感じられず、批判者の指摘のようにセレナーデやディヴェルティメントのような楽曲を連想させます。

120714a  このネーメ・ヤルヴィ(息子も有名になったので、単にヤルヴィと書けば今やパーヴォの方を連想することの方が多いか?)のCDは、第7番レニングラードの時のような快速、暴走の、或いは入魂の演奏ではなく、わりとあっさりとやっています。録音年は第9番の方が約1年前ですが、先に第7番のCDを聴いていたので、それと同様に激情的な演奏を期待、予測していました。アントン・ウェーベルンが自作の交響曲をピアノ弾いて聴かせた時、それがあまりに激情的で、通常その作品からそんな激しさがもたらされるとは考えられず、聴いた者が驚いと伝えられます。このショスタコーヴィチの交響曲第9番にもそんな演奏が出現しないかと思っていました。しかしなかなかそうは行きません。

 ショスタコ-ヴィチは、この作品を完成させる前に、広島への原子爆弾投下を知り衝撃を受けたという記録があり、戦争は終ってもそれで万事が解決しない不安を理解していたようです。それはともかく、この交響曲が「ジダーノフ批判」の遠因になり、ショスタコーヴィチは次の1953年に交響曲第10番まで作曲しませんでした。おまけに交響曲第4番はお蔵入り状態で、初演されたのが1961年(作曲は1935年)という異常な事態です。それにしても、権力側がそれ程一人の作曲家の作品に関心を向けるのは日本では想像し難いものがあります。

13 7月

ショスタコーヴィチ 交響曲第6番 コンドラシン・東京公演

ショスタコーヴィチ:交響曲第6番ロ短調作品54

キリル・コンドラシン 指揮
モスクワ・フィルハーモニー

 
(1967年4月18日 東京文化会館 録音 Altus)

120713  今日の午前中、今年初めて蝉が鳴くのを聞きました。去年のブログを見るとちょうど7月13日に蝉の声をはじめて聞いたとあり、例年通りながら今年は少し時間がずれて、朝の10時くらいにトイレに居る時にきこえてきました。しまってあった楽器の試し弾きをするように、ちょっとだけ鳴いてすぐ静かになりました。例年は朝の9時前に、地下駐車場から上がると街路樹の上の方でいっせいに鳴いているので、今年はくま蝉もまだ本調子じゃないようでした。一気に暑苦しさが加速しますが、いつになっても蝉が鳴かなければまた地震か何かの前兆か、とか不安になります。

 これは昭和42年3月31日に来日したコンドラシンとモスクワPO、オイストラフの公演を録音したシリーズの1枚です(カップリングはショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番)。交響曲第6番はコンドラシンとモスクワPOの全集にも当然含まれていますが、NHKによるこの音源はだいぶ違う響きです。演奏会場も録音環境も違うので当然です(CDの解説に音質の説明がある)。コンドラシンの全集は1962年から1974年の間の録音で、時に高音が甲高く金属的で工場の大きな機械を連想させる無慈悲な?、暴力的な音という印象です。だから違う機会の録音はどんな感じか興味深いところです。

 上記のように音質は柔らかめであっても、ライヴ録音のこのCDは全集盤よりも激しく、例えば第2楽章後半のティンパニのソロ、第3楽章開始後しばらくの低弦が続く部分(解説に例示されている)が対照的です。それよりも、第1楽章冒頭から沈痛な雰囲気に被われた響きで、公的文書(ショスタコーヴィチは署名しているだけとされる)に残る、マヤコフスキーの叙事詩「レーニン」に基く声楽付交響曲の構想とは別物だと強く思わされます。

交響曲第6番 ロ短調
第1楽章:Largo
第2楽章:Allegro
第3楽章:Presto

  ショスタコーヴィチの交響曲第6番は、第二次世界大戦開戦(ドイツのポーランド侵攻が9月)の年である1939年に作曲され、同年11月5日にムラヴィンスキー指揮レニングラードPOにより初演されました。第五番「革命」と第七番「レニングラード」に挟まれた、標題・ニックネームが無いこじんまりした交響曲です。伝統的な通常の交響曲の第1楽章にあたるソナタ形式の楽章がないので、この曲は「頭のない交響曲」とも呼ばれます(この曲に付き物の説明)。第五交響曲の後、大がかりなレーニン交響曲の創作に対する期待があったので、初演は肩すかし的でもあり、不評もかっています。初演者のムラヴィンスキーは後年この曲とバートーベンの田園をいっしょに演奏するのを好んだそうですが、どう考えても牧歌的な曲とは思えません。

 コンドラシンによるショスタコーヴィチの交響曲第6番の録音は、他に1968年1月のアムステルダム・コンセルトヘボウ管とのライヴ盤(旧フィリップス)もあったようです。

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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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