raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2012年05月

31 5月

リストのピアノ・ソナタ ホロヴィッツ 1977年

リスト ピアノ・ソナタ ロ短調 S178

ヴラディーミル・ホロヴィッツ:ピアノ

(1977年 録音 RCA)

120531   1903年生まれのホロヴィッツが初めて来日したのが1983年、80歳になる年で、その後亡くなる3年前の1986年にも来日公演をしています。このCDに収録されたリストのピアノソナタは、初来日の6年前の録音です。故、吉田秀和氏が初来日したホロヴィッツを骨董品で、ヒビが入っていると評した逸話も有名です。正確な言葉、前後の文脈や真意、妥当性等一筋縄でいかないとは思いますが、1980年にウィーン国立歌劇場の引っ越し公演があり、これで終戦後主だった歌劇場、楽団のほぼ全部が出そろったことになり、一流のクラシック音楽の消費国に仲間入りしてそろそろ日本の聴衆も受け身一辺倒から次の段階へ進む時期だったのかもしれません。

 中学くらいの頃、音楽史の各時代について短い文章を集めた本を図書館で見つけて読み、知らないうちに結構刷り込まれていました。リストについて、ショパンのピアノ曲と比較して演奏技術を披露することを主眼としていて内容が薄いという論調でした。それはリストの主に初期作品に対するショパンの見解を基本にしていたようで、以後かなり影響されました。しかし、リスト(1811 - 1886年)は75歳まで生きているので、創作時期も長くに渡ります。また晩年は助祭か何かの叙階(叙階と言うのかどうかわからないけれど)を受けて、宗教的な作風に傾斜しています。

 ピアノ・ソナタ ロ短調は1853年に作曲され、シューマンに献呈された大作・問題作です。単一の楽章で、下記のような速度表記が付けられています(CDは1トラックだけの場合も多い)。上記のような評論本の影響で、リストはあまり聴いていませんでしたが、昨年12月以来この曲に強烈に惹かれています。何度となく聴いていながら曲の全体像が把握できないというか、覚え難い状態のままです。よく分からないけど、圧倒されるといったところです。

Lento assai - Allegro energico - Grandioso - Andante sostenuto - Quasi adagio - Allegro energico - Piu mosso - (Cantando espressivo) - Stretta quasi Presto - Presto - Prestissimo - Andante sostenuto - Allegro moderato - Lento assai

 ホロヴィッツ晩年の録音であるこのCDは演奏時間が30分で、アルゲリチより4分以上長くなっています。もっとも、ポゴレリチは約33分ともっと長い演奏時間です。ひびが入ったかどうかはともかく、若い頃の演奏とは当然違っています。しかし、ドギツイというか濃厚というか、ますます曲の全容が分からなくなる演奏です。それでも圧倒的に注意を喚起させて振り返り続けさせられる演奏です。あまりコメントする言葉が見つかりませんが、老境に入って衰えたとしてもその年齢での聴きどころがある巨匠であるのは確かだと思いました。

 ちょっとした短い文章でも、若い頃に読んだものは結構影響力があるものだと思いました。今日で五月が終わります。今年の五月は天候と同じく不快な日々が続き、例年以上に散漫に過ぎました。こんな気分の時に、シューベルトの「影法師」とかリストのピアノソナタが浸みわたるような気がします。リストのピアノソナタも生で聴いてみたい曲です。

30 5月

シューベルト「白鳥の歌」 オラフ・ベーア、パーソンズ

シューベルト 歌曲集 「白鳥の歌」 D957

オラフ・ベーア:バリトン
ジェフリー・パーソンズ:ピアノ

(1989年8月 ロンドン,アビィロードスタジオ 録音 EMI)

 昨日の朝、出勤途中の事務所近くで托鉢の禅僧とすれ違いました。「ほぉー」という低い声でで唸りながら速足でこちらへ向かってきました。ペットボトルの茶をかうため、小銭が無く千円札を握っていたので目を合わさないようにすれ違いました。何年か前、永平寺の修行生活を取材した番組があって、ああいう生活も金の出入りの心配は無いかもしれなくても気は休まらず、安住とは言えなさそうだと思いながら観ていました。こういう形態の托鉢は、宇治市内にもやって来ますが、どこの寺なのかと思います。

120530   バリトン歌手のオラフ・ベーアはデビュー後間もない頃の「詩人の恋」を新譜で購入して何度も聴きました。先日の記事で、FM・きらクラの番組中にシューマンの「詩人の恋」が流れて云々と書いていましたが、この曲の記憶はあるいはベーアのCDによるものかもしれないと(自分のことなのに曖昧なこと)思えてきました。珍しく国内盤新譜で購入したベーアの詩人の恋には、「フィッシャー・ディースカウの後継者」としてプッシュしようとする文章が見られました。今回のシューベルトは、その後録音された「美しき水車小屋の娘」・1986年、「冬の旅」・1988年に続く三大歌曲集の最後をかざる録音でした。(「詩人の恋」はデビュー録音だったか?)

 ベーアはその後シューベルトの三大歌曲集を再録音してはいないようで、上の極めつけの廉価臭がするCDパッケージの写真を見ると、フィッシャー・ディースカウの後継者には成り切れなかった感があります。ただ、ドイツ国内では近年リートの演奏会を開いても席が埋まらないという話なので、本当にそうだとすれば、目下のところフィッシャー・ディースカウの後継者は現れなかった、今後も現れそうにないと言えそうです。

Schwanengesang 白鳥の歌 D957
レルシュタープの詩 7曲
第1曲 Liebesbotschaft(愛の使い)
第2曲 Kriegers Ahnung(戦士の予感)
第3曲 Frühlingssehnsucht(春の憧れ)
第4曲 Ständchen(セレナーデ)
第5曲 Aufenthalt(すみか)
第6曲 In der Ferne(遠い地にて)
第7曲 Abschied(別れ)

ハイネの詩 6曲
第10曲 Das Fischermädchen(漁師の娘)
第12曲 Am Meer(海辺にて)
第11曲 Die Stadt(街)
第13曲 Der Doppelgänger(影法師)
第9曲 Ihr Bild(彼女の肖像)
第8曲 Der Atlas(アトラス)

ザイドルの詩1曲
第14曲 Die Taubenpost(鳩の便り)

 シューベルトの歌曲集「白鳥の歌」は、3人の詩人の詩に作曲したもので、冬の旅のような連作歌曲ではありません。1828年8月から10月にかけて作曲した歌曲を、シューベルトの死後約一カ月経過した1828年12月17日に、レルシュタープの詩6曲とハイネの詩6曲が楽譜出版社に渡され、続いてザイドルの詩1曲が翌月に渡されて出版されます。その時に白鳥の歌というタイトルが付きましたました。このCDでは上記一覧の左端丸付き数字の順に演奏録音されていて、曲集の順を入れ替えています。

 なお、「白鳥の歌」は全14曲とされていますが、ペータース版ではレルシュタープの詩に作曲された「秋 “ Herbst ”」D.945を末尾に加えています。それに従ってD.945を八曲目に挿入する場合もあります。このCDには含んでいません。

 シューベルトの文字通り最晩年の作品となったこの曲集の中でも、最初の「愛の使い」と最後の「鳩のたより」は流れるように爽やかで、ちょっと聴いただけでは晩年の空気は感じられません。しかし、特に第13曲「 Der Doppelgänger (影法師) 」は音楽なのか文学なのか、作曲者の心の中身そのものなのか分からなくなりそうな濃密な歌です。詩の内容は、表面的には過去の失恋の苦痛のフラッシュバックに苦しんでいるようなもので、なんだかなあと思えます。しかし、シューベルトの歌曲で聴くとそんな単純な世界ではなく、もう先が無いことを分かっている、突き付けられて承諾させられた者しか分からない苦痛なのではないかと想像させられます。

 そんな感じ方が正しいかはさて置き、影法師はとにかく格別重苦しい曲なので「白鳥の歌」は連続して、通して聴くことは滅多にありませんでした。このベーアのCDでは熱唱していますが、それ以外の曲、仮に「爽やか系」とする、が今一つさえない気がします。曲順を変えているのは独自の解釈なのだと思いますが、「影法師」に続いて「鳩の便り」が来て終わる曲順だとしたら前曲の重暗さをひきずって、救われないような気がします。

 フィッシャー・ディースカウは「白鳥の歌」も少なくとも三度は正式に録音していたので、独特の表現だったはずだと思います(1970年代・DGの録音しか聴いていない)。

29 5月

フォーレのピアノ四重奏曲第1番 ユボー、ナヴァラ他

120529 フォーレ ピアノ四重奏曲 第1番 ハ短調 Op.15

ジャン・ユボー:ピアノ
レイモン・ガロワ=モンブラン:ヴァイオリン
コレット・ルキアン:ヴィオラ
アンドレ・ナヴァラ:チェロ

(1969年5月 パリ,リバン聖母教会 録音 ERATO)

 今日の朝日新聞夕刊にも故吉田秀和氏の記事がでていましたが、あらためて大きな業績を残されていたことを思い知らされます。吉田氏の有名な体験談の中に、東京大空襲の前にレコードを埋めて、終戦後それを掘り出して聴いたというものがあり、その時の感慨は大変なものだったという話をラジオで聴いたり、著作で読んだ記憶があります。その埋めたレコードの中にフォーレの室内楽集が含まれ、掘り出して聴いたのはピアノ四重奏曲の第1番だったはずです(手元に著作は無いので不確かである)。

 ガブリエル・フォーレGabriel Faure (1845-1924)」はレクイエムが特に有名ですが、ピアノ曲や歌曲も多数残しています。室内楽はヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソンタ、ピアノ四重奏曲とピアノ五重奏曲をそれぞれ二曲ずつ、ピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲を一曲ずつ残しています。ピアノが加わる編成の室内楽作品が目立ちます。ピアノ四重奏曲第1番は1876年から1879年にかけて作曲され、翌1880にフォーレがピアノで参加して初演されました。その後1883年に改訂され、現在のかたちになりました。作曲時期に婚約者から一方的に破棄されるという事件があり、それが作品にも影を落としているとされます。

ピアノ四重奏曲 第1番 ハ短調 Op.15
第1楽章 Allegro molto moderato
第2楽章 Scherzo: Allegro vivo
第3楽章 Adagio
第4楽章 Allegro molto

 フォーレの室内楽はトルトゥリエとハイドシェックが弾いたチェロ・ソナタやピアノ5重奏曲第1番が何となく好きですが、正直吉田氏の体験を読んでもピアノ四重奏曲第1番がどんな音楽だったか分からず、今でも覚えていません。空襲を前にした非常事態にフォ-レのピアノ四重奏曲等の室内楽のレコードを埋めるというのは、まるで生き死にかかわる重大事に相当するかのようで、凄い結びつきだと思います。私の母方の祖父は大阪市港区で洋服の仕立屋をやっていて、大阪大空襲の時商売道具のハサミを庭に埋めて逃げ、鎮火後に掘り出したと聞きました。もっとも家族を疎開させてすぐに他界したので、掘り出したハサミを再び使うことはありませんでした。その話を子供の頃聞いていたのでレコードを埋めると言う話はよく分かります。

 このCDはエラートからLPでも出ていた古い録音で、実はあまり印象に残っていませんでした。少し後のコラールやデュメイ、ロデオンらによるEMIから出ていたアルバムの方を時々聴いていました(どっちも入門・初心者向け的なものですが)。今改めて聴いていると第3楽章が素晴らしく、戦争だとか空襲なんかがそもそも元から存在しない世界で鳴っているかのような音楽です。

①9分14②5分41③7分53④8分09 計30分57

 1980年代、日本で行われたキリスト教の国際会議か何かで、「キリスト者とは何か、どう定義付けたらよいか」という話になり、それに対して「キリスト者とは、キリストなしには一日たりとも生きられない者ではないだろうか」という提案があって、会場が拍手につつまれたそうです。しゃあしゃあとよく言える、と思わないでもありませんが説得力があり、「心の貧しい者は幸いなり」を思い出します。その提案の言葉を「音楽無しには一日たりとも」に替えると、音楽家か音楽愛好家とは何かに対する定義、こたえになるかもしれません。しかし、緊急避難等の際にレコードやCDの疎開、保存を考える熱意があるかどうか、自分自身はかなり悲観的です(さすが戦前派、さすが吉田秀和先生というべきか)。

28 5月

シューベルト「冬の旅」 フィッシャー・ディースカウ・1955年

120528bシューベルト 歌曲集 「冬の旅」D.911


ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ:バリトン
ジェラルド・ムーア:ピアノ


(1955年 ベルリン 録音 EMI)


  今年の三月で終わったNHK・FMの番組「きまクラ」に代わって、新年度から「きらクラ!」が始まっています。ふかわりょう、チェリストの遠藤真理がパーソナリティで、ちょっと雰囲気が変わりました。最初はちょっと力んでるかなと思ったものの、聴く側も慣れてきてクラシック音楽を扱う番組らしい空気になってきました。今朝通勤の時に車の中で聴いていると、フィッシャー・ディースカウとエッシェンバッハのシューマン「詩人の恋」の抜粋が流れました。どうも番組の選曲後(遠藤さんのチョイス)に訃報に接して、不幸な偶然だったようでした。昔それと同じ音源のCDを買って聴いていたのに、放送を聴いてフィッシャー・ディースカウの声だというのは分かっても、別の機会の演奏だろうと思い、後から演奏者の紹介があり、エッシェンバッハのピアノだと知り、驚きました。1970年代半ばの録音なので、自分の中ではもっと張りのある声でちょっと一本調子な歌声として記憶されていました(あいかわらずいい加減な記憶)。


 そこでディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ(1925年5月28日 - 2012年5月18日)が30歳になる年の「冬の旅」全曲録音のCDを取出し、レコード・CDに残る彼の初期の歌を聴いてみました。ブログを始めてから何度か聴いていましたが、何となく途中で止めていたCDです。これは7種類あるフィッシャー・ディースカウの正式なシューベルトの「冬の旅」録音の、第一回目にあたるものです。 Great Recordings of The Century として復刻されていますが、後年はフィッシャー・ディースカウの冬の旅としてはやや影が薄い存在でした。


120528a①1955年 P:ムーア EMI

②1962年 P:ムーア EMI
③1965年 P:デムス DG
④1972年 P:ムーア DG
⑤1979年 P:バレンボイム DG
⑥1985年 P:ブレンデル 旧PH
⑦1990年 P:ペライア sony


 
あらためて聴いてみると、案外若々しくないような声で、気のせいか陰りがある老成した歌声が印象的です。また、低音は特に張りがあって力が漲る声でもあり、オペラのガラのようにもきこえます。上記の⑤、⑦は断片的に聴いた程度で記憶にありませんが、初めて「冬の旅」の全曲を通して聴いた②(今回の録音の7年後)の印象は圧倒的で、まるで詩の主人公たる青年の内面で起こっているドラマを歌で再現するような濃密な演奏だと感じました。その密室で歌うような②に比べると、今回の①は屋外で伸びやかに歌っているような印象を受けます。それが美点でもあり、物足らない点でもあるのではと思いました。


 このところ大御所の訃報に接するにつけ、かつての大河ドラマ「北条時宗」の中で無学祖元が、人間にとって死ぬのは大仕事だと言っていたのを思いだします。それにしても上のモノクロ写真のフィッシャー・ディースカウには驚かされます。

26 5月

フランクの交響曲 パレー デトロイトSO

フランク 交響曲 ニ短調


ポール=パレー 指揮

デトロイト交響楽団


(1959年11月27日 デトロイト 録音 nercury)


120526
 塔屋に大きくひらかな一字が書かれているマンション、ガンマンに扮した熊のCMで有名なマンションといえば何年も前に経営破たんが報道されました。フランクの名前を見るたびに後者を思い出しますが、元より作曲家のフランクとは関係ありません。ウィキのフランクの頁を見るとフルネームは「セザール=オーギュスト=ジャン=ギヨーム=ユベール・フランク」となっていました。フランクはパリ音楽院の教授で、フランキストと呼ばれる音楽界の勢力に名を冠するようになりましたが、生まれはベルギーで家系はドイツ系です。こういう背景は指揮者のクリュイタンスに似ています。


 交響曲ニ短調は1888年に完成し、翌年にパリで初演されました。時期的にはブルックナーの後期作品の作曲と重なります。ダンディーの「フランス山人の歌による交響曲」目当てで買ったCDにこの交響曲がカップリングされていたことがあって、ダンディの曲の方がずっと新しいと思っていました。しかし、実はフランクがダンディーのそれを聴いてから作曲を始めていました。この交響曲は、循環形式と呼ばれる、3つの短い音のパターン「循環動機」が楽章全てにまたがって現われて全曲を構成する形式で作られています。


交響曲 ニ短調

第1楽章 Lento; Allegro ma non troppo.
第2楽章 Allegretto
第3楽章 Finale: Allegro non troppo


 
フランクの交響曲はクレンペラーとニュー・フィルハーモニア管のLPを十代の頃買って聴いて以来、良い曲だと思いながらそれ程何度も聴いておらずこのブログに登場する他の曲ほどはCDの数は多くありません。クレンペラー盤以外ではこのパレー盤が愛聴盤でした。パレーはかなり好きな演奏家で、優秀録音で評判のこのマーキュリーのシリーズでは他に、幻想交響曲やドビュッシー、ラベル、ビゼーやワーグナーの管弦楽作品集がありました。下記の演奏時間のようにこのCD(カップリングはラフマニノフの交響曲第2番)も速目のテンポで突き進みます。しかし何故か角ばった印象ではなく、潤った響きに聴こえます。これは録音環境や技術の恩恵かもしれません。会場はデトロイトの技術ハイスクールのホールなので、例えばジュネーヴの焼失したヴィクトリアホールのように音響で定評があったのかどうか分かりません。


パレー・デトロイト(1959年)
①16分07②08分52③09分19 計34分18

クレンペラー・ニューPO(1966年)
①17分40②10分23③10分57 計39分00


 ポール=パレー(1886-1979年)はクレンペラーと同世代のフランス人指揮者、作曲家です。かつてこのブログであつかったような記憶がありますが、思い出せないので再度載せます。戦後のポストはパリのコンセール・コロンヌ、イスラエルPO、デトロイトSOくらいで地味ですが、マーキュリーにステレオで録音を残してくれたのが幸いでした。最近復刻された快速テンポの田園交響曲が話題になりました。

25 5月

モーツアルト・ピアノソナタ イ短調K.310 ピリス 旧録音

モーツアルト ピアノ・ソナタ イ短調 K.310(300d) 第9(8)番

マリア・ジョアオ・ピリス:ピアノ

(1974年1-2月 東京,イイノホール DENON)

 昨夜のピアノ協奏曲に続いて、モーツアルトの作品でピアノ・短調といえばピアノ・ソナタ第8番(旧全集で第8番)があります。ピアノ協奏曲だけでなくソナタの分野も短調の曲は二つだけだそうです。冒頭から、窓を開けた瞬間に疾風が吹き込んで来るような独特の印象です。このピアノソナタは「のだめカンタービレ」の中に度々出てきます。のだめが本格的にピアニストを志す転機になったコンクールで弾いたり、その後パリ留学時代にブノワ家の城郭・コスプレコンサートで友人のターニャが弾いています。

ピアノソナタ イ短調 K.310
第1楽章 Allegro Maestoso イ短調
第2楽章 Andante cantabile con espressione ヘ長調
第3楽章 Presto イ短調

120525  昨年12月にJEUJIYA三条本店でピアニストのイリーナ・メジューエワのミニ・コンサートがあって、リストの小品を中心にしたプログラムが演奏されました。彼女初のリストのアルバムを記念した企画で、当日そのCDを購入して聴いていると「ピアノ・ソナタ ロ短調」に強烈な印象を受けて、以来あまり関心が無かったリストのピアノソナタに注目するようになりました。その一環で、エレーヌ・グリモーのアルバムでリストのピアノソナタを聴こうとすると、そのCDは1曲目がモーツアルトのイ短調ソナタK.310でした。

 そのグリモーが弾くK.310がかなり個性的な、変わった演奏で、この曲ってそもそもどんな曲だったかと思えてきました。そこで立ち戻ったのがDENON・クレスト1000で廉価再発売されていたピリスの旧録音でした。端正で均整のとれた演奏で、だいぶ前に購入して、カーナビのHDに録れて何度も聴いていました。

 上の方で、この曲について疾風とか勝手なイメージを書きましたが、ピリスの旧盤はそんなに速くなく、改めて聴くと絶妙ではないかと思いました。ピアノどころか楽器を習ったことがないのに絶妙とか笑止ですが、のだめ作品中にモーツアルトの時代は速い乗り物と言えば馬車が限度だから、速すぎるテンポはダメだとブノワ家当主が講釈する場面が出てくるので(別のソナタについての言及ながら)、速すぎないというのはポイントかもしれません。

 この録音は使用楽器についてスタインウェイとだけ書かれてあります。手元のCDで聴いているとすごくきれいな音で、新しいグリモーの録音より際立っています(単純に比較はできないはずではあるが)。それにしても、写真のピリスの若々しいこと。今から38年前なので当然ですが、その年月を思えばあだに時を過ごして来たようで嫌になってきます。

24 5月

モーツアルト・ピアノ協奏曲第20番 グルダ、アバド・VPO

120524a モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K.466

フリードリヒ・グルダ(ピアノ)
クラウディオ・アバド 指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 

(1974年9月 ウィーン,ムジークフェラインザール 録音 DG)

 アバド指揮のウィーンPO、グルダによるモーツアルトのピアノ協奏曲第20、21番のLPは中学1年か2年の頃買って、特に第20番の方に圧倒的に魅了されました。デジタル録音ではなかったので1枚2500円でしたが、当時としては大きな買い物です。演奏の評判はどうも第21番の方が高かったようで、第21番単独で他のコンチェルトとカップリングされたCDが出ていた程です。21番はグルダが作ったカデンツァを弾いています。手元にあるCDは上の写真にある通り輸入廉価盤で、たまたま中古で見つけました。再録音(ゼルキンのピアノ、ロンドンSO)もされていたので、この録音はお蔵入りだろうと思っていたのに、大抵のものはCD化されていると感心しました

ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K.466
第1楽章 アレグロ ニ短調
第2楽章 ロマンツェ 変ロ長調
第3楽章 ロンド:アレグロ・アッサイ ニ短調-ニ長調

 ピアノ協奏曲第20番は1785年(作曲者29歳)に作曲され初演された作品で、宮廷やサロンの匂いが薄く、孤独が漂う曲風です。モーツアルトのピアノ協奏曲の中で短調は第20番と第24番の二つだけなので例外的な創作なのかもしれません。この録音をLPで初めて聴いた時は、冒頭部分からピアノの出だしのところで、圧倒されてモーツアルトにこういう作品があったのかと驚きました。まるでシューベルトの冬の旅をスマートにしたような寂寥感がたなびいているようです。グルダのピアノそういうイメージを強調しているように思えて惹かれました。

 それから30年くらい経過して聴いてみると、ピアノ、オーケストラともにカップリングの第21番の方に魅力を感じます。。第20番は記憶の中ではもっと引き締まって厳しい音楽として焼きついていたのでギャップがありました。若い頃はなんでも大げさに感じてしまうのか、敏感なのか、とにかく印象は変わるものだと改めて思いました。

 この曲も有名なので膨大な数の録音があるため(個人では網羅できない)BESTとかは決められませんが、その後聴いたアンドラーシュ・シフのピアノとシャーンドル・ヴェーグ指揮、ザルツブルク・モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカのCDが特に気に入っています。それも1980年代後半から1990年代初めの全集録音なので、現代からすれば演奏の変遷はあるだろうと思います。

120524b  LP発売時のデザインは、左の写真と同じで演奏中のグルダがアップで、遠目にアバドが見えるという写真で、主役はグルダという位置付けに見ます。これをLPで購入したのはおそらく、宇治市内の近鉄小倉駅前に当時あった「西友」に出店していた新星堂で、「校区外へ行ってはならない」という校則に違反して、自転車で買いに行ったのでしょう。最近教員も含めて大阪市職員の彫物・タトゥーの是非が話題になっていますが、校区の外に出るなというのはもっと無意味な規則だと思えてきます。そこの新星堂は国内盤しかあつかっていませんでした(多分)が、新譜の予約も出来て品ぞろえも豊富でした。現在の宇治市は当時より人口は増えているのに、もうそういう店が無くなっています。

23 5月

ベートーベンの田園交響曲 ヴァイル ターフェルムジーク管

ベートーベン 交響曲 第6番 ヘ長調 op.68 「田園」

ブルーノ=ヴァイル 指揮
ターフェルムジーク・オーケストラ

(音楽監督、コンミス)ジャンヌ・ラモン

(2004年10月17-19日トロント,ジョージ・ウェストン・リサイタル・ホール 録音 Analekta )

ヴァイル(2004年)
①11分30②12分29③5分08④3分47⑤09分39 計42分33

インマゼール(2006年)
①10分23②11分59③4分43④4分00⑤09分15 計40分20

120523a  このヴァイルとターフェルムジーク・オーケストラの田園交響曲は、前回のインマゼール指揮、アニマ・エテルナと同じくピリオド楽器オケによる演奏ながら、響きだいぶ違っています。かつてのモダンオケが演奏するベートーベンに似たところがあります。ヴァイルとインマゼール両CDの演奏時間は上記の通りで、第4楽章以外ヴァイル盤の方が長く、合計で2分長いという結果です。今回は時間よりも、演奏から受ける印象の違いが大きい例でした。ピリオド楽器アンサンブルの演奏は緩徐楽章が直線的で薄い響きになることが多いようですが、このヴァイル盤は何故かそういう印象はありません。特に第2楽章がふくよかで、あたたかい感情を喚起させます。電子レンジの回転音に対して、鍋が煮える音を思い出します。具体的に、インマゼールらとどこを変えているのかと思いました(フレージングかアーティキュレーションか?)。

 以前も引き合いに出した「セロ弾きのゴーシュ」の作品中、ゴーシュ(オーケストラの若手チェロ奏者)の住家に毎晩違う動物が訪問して、結果的に彼の練習を助けて田園交響曲の公演当日では大成功するという姿が描かれています。訪問した動物の最後はネズミの母子で、病気の子供をチェロの胴体内に入れて演奏すると楽器の振動で血行が良くなり癒されるのですが、アニメ版のゴーシュではそこの部分で田園の第2楽章がバックに流れます。タンポポの綿帽子につかまってネズミの親子が空中を遊泳している映像と田園の第2楽章がピッタリくるのは不思議です。このヴァイル盤はそういう幸せな風景(ネズミ云々は別にして)と重なります。

 この録音(第5番運命とカップリング)のターフェルムジーク・オケストラの編成は次の通り42人です。弦24人ヴァイオリン1:7、ヴァイオリン2:6、ヴィオラ:4、チェロ:4、バス:3木管10人フルート:2、ピッコロ:1、オーボエ:2、クラリネット:2、バッソン:2、コントラ・バッソン:1金管7人ホルン:2、トランペット;2、トロンボーン:3。ティンパニ:1。アニマ・エテルナよりも管楽器が多い編成です。

120523b  ブルーノ・ヴァイルとターフェルムジーク管と言えば1990年代にハイドンやシューベルトのミサ曲、交響曲をソニーへ録音して注目されていました。しかしやがて新譜も含めて見かけなくなりましたが、聴いたごく一部のCD(シューベルトのミサ曲第1、2番など)は気に入っていました。ベートーベンの交響曲は今回のCD(第5、6番)の他に第7,8番が同じレーベルから出ているようですが、さらに録音が進行するのか分かりません。このオケはカナダのトロントを本拠地にしてジャンヌ・ラモンという女性が「音楽監督」を務めています。てっきりブルーノ・ヴァイルの主宰する手兵だと思っていました。

 このCDは通常のモダンオケがピリオド奏法を取り入れる時代に、その逆とは言えないでしょうがどことなくピリオド・オケでモダンオケの響きを志向するような演奏は面白いと思えます。

22 5月

ベートーベンの田園交響曲 インマゼール アニマ・エテルナ

120521 ベートーベン 交響曲 第6番 ヘ長調 op.68「田園」

ジョス・ファン・インマゼール 指揮
アニマ・エテルナ
(コンマス)ミドリ・ザイラー

(2006年11月13-16日 録音 Zig-zag Territoires)

 今年のレコ芸・4月号に「ベートーベンの交響曲はいま」という特集記事がありました。それを見ると今世紀に入ってからもベートーベンの交響曲全集が多数出ているのが分かり、感心させられます。いい加減ネタ切れになりそうなものですが、ピリオド楽器型、室内オケ型、それらの折衷型、通常のオーケストラ型と、レスリングやスキー・アルペンのように種目分けができるくらいにスタイルの幅が広がり、固定してきています。去年くらいから新譜だけでもティーレマン・VPO、シャイー・ライプチヒ管、クリヌブとラ・シャンブルPO等多岐にわたりましたが、どれも高いのでスルーしていました。

 今回のインマゼールと手兵であるアニマ・エテルナも全集化された録音ですが、ベトーベンの交響曲・種目別・ピリオド楽器部門では、自分の中では筆頭に来るくらいの説得力です。またインマゼールはこの全集より前に、ベートーベンのピアノ協奏曲に続いて交響曲第9、6、5番をソニーへ録音していました。だから今回の田園はそれから6年ほど経ての再録音になります。過去にベートーベン交響曲第2番シューベルトの交響曲第1番未完成で記事投稿していたように、インマゼールらの録音企画は単にピリオド楽器のアンサンブルであるというだけでなく、楽器、奏法、ピッチ、楽譜まで綿密に検討したうえで「作曲当時の演奏、響き」を再現した厳格なものです。

 そうした理論的根拠が整っているから「感銘を受け無ければならない」、というプレッシャーのためではなく、第6番田園も率直に魅力のある演奏です。勢いよく流れる清流のようで、変化もあり、明晰な響きです。シューベルトの時も感じましたが、演奏が終わった時は、完結した充足感よりももう一回最初から聴きたいという不思議な気分になってきます。

 こういう気分はどこから来るのか分からず、それと関係あるのかどうか、数あるベートーベンの交響曲録音の中から種目別ではなく無差別級的に感銘度を振り返ると、どこか何か物足らないような気もします。田園交響曲のコーダ部分は、運命やエロイカ、第九に比べて地味で、明日も同じ日常が繰り返されるような緩やかな空気なのに不思議と充実した終わり方です。モダンオケの演奏でも物足らないと感じる場合はあるので、古楽器だからどうのということではないはずです。

 「セロ弾きのゴーシュ」のアニメ版というのがあって、なかなか原作の雰囲気を忠実に再現していて、田園交響曲(原作ではベートーベンと明記しておらず、単に第6交響曲として登場する)の演奏が終わった直後の客席の感動や楽団員の充実感が観ている者にも伝わってきます。それに使われている音源は岩城宏之指揮のN響で、宮沢賢治がSPレコードで所有していたのはプフィッツナー指揮BPOだそうです。

21 5月

ベートーベン 田園交響曲 ギーレン2度目全集から

120521a ベートーベン 交響曲 第6番 ヘ長調 op.68「田園」

ミヒャエル・ギーレン 指揮
バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団
(南西ドイツ放送交響楽団)

(1997年12月1日 フライブルク,コンツェルトハウス録音 Hanssler)

 今朝は起きたのが七時半をまわっていて日食を見ずじまいでした。と言うより完全に忘れていて、日差しがあって薄暗い変な天気と思っているとTVを付けて思い出しました。こういう事に熱心でまめな人はボケ難いと言われますが一理ありそうです。ここ一週間くらい、田植えが終わった風景だとか、ホトトギスとか書いていたのでワンパターンなこのブログとしては、そろそろ田園交響曲のCDの出番です。田園交響曲の「田園」は、本来日本の田園風景とは異質な風景なのだろうと思いながら、今頃になると一度は聴きたくなります。

交響曲第6番ヘ長調
第1楽章Allegro ma non troppo ヘ長調
田舎に到着したときの晴れやかな気分
第2楽章Andante molto mosso 変ロ長調
小川のほとりの情景
第3楽章 Allegro - Presto ヘ長調
農民達の楽しい集い
第4楽章Allegro ヘ短調
雷雨、嵐
第5楽章Allegretto
牧人の歌−嵐の後の喜ばしく感謝に満ちた気分

 これは突如広告が出ていたギーレン、SWRSOのベートーベン交響曲全集の中の一枚で、元は映像ソフトとして出回っていたもので、TVで放送するために収録された音源のようです。全集が収録されたのは1997年11月,12月、1998年6月、1999年7月、2000年1月,2月で、田園交響曲は二番目に早く録音されました。

 ギーレンはこの全集の前に、1980年代にもベートーベンの交響曲を全曲録音していました。最初はインタコード社の発売で、後にEMIのマークを付けて全集箱ものとして再発売されました。その旧全集は今手元にありませんが、かなり気に入っていました。オーケストラは多分南西ドイツRSOで、かなり速いテンポなのに拒否反応の出ない(主観)ベートーベンでした。割れそうで割れない風船のようで、どこかムラヴィンスキーの振るベートーベンに通じる感触だった記憶があります。

120521b_2  そんな旧録音のことを念頭に置いて聴いたので、この田園交響曲はやや拍子抜けしました。先入観からもっと刺激的で、各楽章に付された短い言葉とは水と油のような響きを想像、期待?していました(旧全集はそれに近い、限界のようなスタイルだったはず)。下記のようなトラックタイムで、アバドとベルリンPOの二種の田園交響曲と比べても、第1楽章以外は長くなっています。2000年のアバド盤は古楽器奏法の影響について言及された全集なので、単に数値だけながらギーレンの方が旧来の演奏に近いように見えます。実際、終楽章の健全で平安な感動は、逆に不安になってきます。その前の第4楽章の鋭いティンパニは嵐と言うより紛争やテロの騒音を想像させられ、それだけに終楽章が余計に安らかさを覚えます。

ギーレン・SWRSO(1997年)
①10分19②12分35③5分13④3分58⑤10分23 計42分28

アバド・BPO(2001年)
①11分33②10分40③5分08④3分25⑤08分34 計39分20
アバド・BPO(2000年)
①11分18②11分05③4分58④3分24⑤08分25 計39分10

 ギーレンの録音の中にマーラーの交響曲第8番をCD1枚に収めたものがあって、1980年代前半の録音だったと思いますが、素っ気ない独特の演奏だったのをかすかに覚えています。それくらいの時期を思えば、しばしば指摘されるように今世紀に入る前くらいから、ギーレンの演奏が少々丸く、大らかになっているというのは本当だと思いました。この田園はCD4枚目に、運命とカップリングされています。まだじっくり聴いていませんが、第5番「運命」の方も旧録音とは違った重厚さを感じました。

20 5月

モーツアルト交響曲第40番 カザルス・マールボロ祝祭管

120520_2  モーツアルト 交響曲 第40番 ト短調 K.550

パブロ=カザルス   指揮
マールボロ音楽祭管弦楽団

(1968年7月6?日 録音 SONY)

 昨夜遅く、日付が変わってから屋外で鳥の鳴き声が聞こえてきました。どうもホトトギスのようで、山の方から「ホッキョカケタカ」と二三度流れてきました。セロ弾きのゴーシュの作品中ではカッコウとゴーシュが夜通し音合わせをするので、ホトトギスも夜行生だったのか。それにしてもあまり気持ちがいいものではなく、祟り系の角川映画を思い出します。

 これは晩年のカザルスの指揮の中からモーツアルト・後期六大交響曲を集めたCDからの1枚です。この時期(約20年くらいか)、マールボロ音楽祭管、プエルト・リコ・カザルス音楽祭管を指揮してモーツアルト、ハイドン、ベートーベンの他にシューベルトやシューマン、メンデルスゾーンの交響曲のライヴ録音を残しています。ベートーベンでは、第3番、第9番を演奏していないようで、これは敢えて除外したのかどうか分かりませんが、何となくその意図が分かるようにも思えます。

①05分33②09分50③04分14④04分40 計24分17

 第40番は冒頭から速目のテンポで突き進み、圧倒されます。並はずれて速いテンポでもなく、奇抜さと違ったド迫力に気押されます。しかし決して流麗ではなく、まるで何度も転びながら走り続ける姿を連想させられる演奏です。もしベートーベンがこの曲を指揮したならこんな風になるかもしれないという想像も掻き立てられます。

 カザルスのこの曲集では元々ハフナー交響曲が気に入っており、LPで買えなかったそれを目当てに購入したところ、他の曲も素晴らしく、カザルスの指揮する交響曲が好きになりました。所々乱れもあり、雑音も入っていますが、とにかく惹きつけられ、終演後の拍手が盛大なのにも頷かされます。現代ではこういう演奏を公演で聴ける機会はほとんどないのではと思いました。

 宇治市の平野部は昭和50年、60年代、平成に入ってしばらくは民家の周辺ではキジ鳩が巣を作ったりしていましたが、ここ10年は何故か鳴き声も聞かなくなり、代わりにホトトギスの声が聞こえるようになっています。唱歌「夏は来ぬ」の歌詞にもホトトギスが出て来るので、どんどん暑い夏に向かっています(毎年のことながら)。

19 5月

モーツアルト歌劇「フィガロの結婚」 ジュリーニ・PO・1959年

120519a モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」K.492

カルロ・マリア・ジュリーニ 指揮
フィルハーモニア管弦楽団、合唱団

ジュゼッペ・タッデイ(Br:フィガロ)
エリーザベト・シュヴァルツコップ(S:伯爵夫人)
アンナ・モッフォ(S:スザンナ)
エーベルハルト・ヴェヒター(Br:アルマヴィーヴァ伯爵)
フィオレンツァ・コッソット(Ms:ケルビーノ)、他

(1959年9,11月 ロンドン,キングスウェイホール 録音 EMI)

 5月は爽やかな季節とされるものの、私はあまり好きではなく梅雨に入って激しい雨が降るようになってようやく爽やかな気分になります。梅雨前の今頃は各神社でけっこう祭りがあり、宇治でも「県(あがた)まつり」が来月5日(日付をまたぐ)に行われます。深夜に梵天という神輿が巡航するのが有名です。自分の住んでいるエリアは県神社ではなく、宇治川対岸の宇治神社の管轄ですが昔から露店が多数出るので一大イヴェントでした。ここ十数年全く行っていないのでちょっと気になってきます。この祭が済むと完全に梅雨モードです。

 先日モーツアルトの交響曲第39番で記事投稿したジュリーニのフィガロ全曲盤です。手元にあるのは国内廉価盤・OKAZAKIリマスターCDで、対訳が省略されたタイプです。

 前回の録音から遡ること33年、ジュリーニが極端にゆっくりしたテンポをとるようになる前の時代です。クレンペラーのような個性的な、「変な」フィガロではなく、そのまま舞台公演が出来そうな録音です(ちなみにプロデューサーはレッグ)。同じ年にドン・ジョヴァンニの全曲盤も録音していてすごいペースだと感心します。シュヴァルツコップ、タッデイ、ヴェヒターは両作品に出演していますが、特にこの頃のシュヴァルツコップには注目です。他にケルビーノ役・コソットの美声も際立っています。またモッフォは年齢の割に活躍した期間が短くて録音は多くないので貴重です。

120519b  歌手だけでなく、ジュリーニ指揮のオーケストラも良い意味で上品で、生の感情そのままを連想させることはないすごく美しい響きです。こういう面は後年の交響曲録音にも共通しているのではないかと思いました。ただ、個人的には序曲は窮屈で乱暴な音とさえ感じられ、それが理由で今まではあまりこのCDを取り出して聴いていませんでした。フィガロ序曲の公約数的というか標準的なテンポというのはどれくらいなのだろうかと思います。ある時NHK・FMで来日オケの当日中継があり、一曲目がフィガロの結婚序曲でした。こういう放送ではゲストが登場して開演前、休憩時間に解説をします。その時は、フィガロ・序曲について、「この曲はどれだけ速く演奏できるかがポイント」のような話が出て来て、内心カチンときた(クレンペラーを念頭にして)のを覚えています。それはさて置き、ジュリーニも50年代はこういうテンポだったのかと改めて感心しました。

 この録音のキャスト、特にスザンナのモッフォは映像が無いのが残念な程で、彼女だけでなくかなり見栄えのするメンバーです。今まで生でオペラの公演を観たのは東京・初台でフンパーディングの「ヘンデルとグレーテル」だけなので、他にも観たいと思いながら果たせずにいます。最近はDVDやブルーレイでもオペラのソフトが出るので、他のジャンルよりもオペラが好きな人や観賞経験の豊富な人ならCDよりもそちらも選ぶのかもしれません。そうすると、CDの方はさらに新譜が手薄になりそうで、昨年イタリアでは補助金カットの話題が出ていたのでそっちの面からも厳しい状況が予想されます。オペラの全曲盤CDへの期待は、偏っていても音楽だけで十分刺激的な演奏というのもあるので、そういうCDの登場を期待します。

18 5月

クレンペラー 1970年のモーツアルト交響曲第40番ライヴ盤

モーツアルト 交響曲 第40番 ト短調 K.550


オットー=クレンペラー
指揮
フィルハーモニア管弦楽団


(1970年10月8日 ロイヤルフェスティバルホール 録音 HUNT)


  クレンペラーの最晩年のライヴ音源は、異様に遅いマーラーの復活交響曲やベートーベン・チクルスが時々話題になりました。このモーツアルトの第40番はピアノ協奏曲第25番(ピアノはブレンデル)とカップリングされていくつかのレーベルから出ていました。こういう音源のCDは音質が良くなかったり本当にクレンペラーの演奏なのかという疑念もあって、EMIの録音が始まる以前の時期を除いて最初はスルーしていました。その後バイエルンRSOやBPO、VPOの良好な音質のものが出回って最晩年の演奏にも興味がわきました。今回のCDはたまたま中古品が出ていたので入手していたものです。

 クレンペラーの晩年もそろそろ年貢の納め時にさしかかった1970年頃は、いくらなんでも遅すぎるのでは?と思える演奏も出ています。1960年代末に既にマーラーの第7番等でその域に突入しています。そういう演奏はあるいは敬老、長寿を祈念する気持ちで見守られ、許容されたという面もあるかもしれませんが、一方でベルリン時代の革新的、破壊的な精神の一端を見せられる気もします。演奏スタイル、表現に対して、美術用語であった「 新即物主義・ Neue Sachlichkeit ” 」という言葉が冠せられる場合がありますが、1970年頃以降のクレンペラーの演奏は、“ Neue Klemperichlichkeit ”とでも称して良くも悪くも特別視できるものだと思います。ちなみに1920年代のクレンペラーの指揮するオーケストラを聴いたトロッキーは表現主義の影響下にあると(新即物主義ではなくて)評しています。
 

1970年・ニューPO
①10分09②10分08③4分39④6分04 計31分02

1956年・PO
①08分40②08分57③4分13④5分04 計26分54


 1970年録音の第40番のトラックタイムは概ね上記青字の通りです。時間、数値云々の前に聴いていると遅い、遅過ぎるのではないかと感じます。テンポそれ自体を目的にはしていないにせよ、特に目新しいことを志向していたのか、よく分かりません。しかし、先日のコシ・ファン・トゥッテ全曲盤に通じる明晰さは持っていると思いました。
 

 朝の通勤時にはカザルス、マールボロ音楽祭管の第40番を聴いていましたが、やはりクレンペラーとはかなり違う演奏を実感しました。また一方でモーツアルトが生きた時代の趣味とかから遠い演奏という点では共通していると言えそうです。

17 5月

クレンペラーのモーツアルト交響曲第40番・1956年(おそらく)

モーツアルト 交響曲 第40番 ト短調 K.550


オットー=クレンペラー 指揮

フィルハーモニア管弦楽団


(1956年7月21,23日 キングスウェイホール 録音 EMI)


 先日近所にオープンしたスーパーの特売で養殖もの・アユが一尾百円で売っていました。それになりに美味しいものでしたが、非常にごく稀に口にできる天然アユのことを思い出しました。京都府では美山川(南丹市美山町、日本海に注ぐ由良川の上流)で天然アユが獲れると聞きますが、よく考えれば途中大野ダムがあるのでどうやって遡上するのかと気になってきました。
 

 クレンペラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団によるモーツアルト交響曲第40番、それの旧録音です。録音年の疑念については過去記事に紹介しています。今回は輸入盤・artリマスターの Great Rcordings of Century に収録されている音源とデーに従って「1956年録音」として扱います。
 

 モーツアルトの交響曲第39-41番の三曲を三部作と考える説があるそうで、先日来の第39番に続いて第40番です。ト短調の交響曲といえば第25番も有名で、クレンペラーも録音しています。その演奏は緊迫感のある疾走するようなスタイルで遅い演奏が目立つ戦後・EMI録音の中にあって異色ともいえるものでした。第25番のセッション録音は1956年なので同時期に録音された第40番も似た傾向かと思ってしまいます。
 

 しかし、実際はそうではなく、冒頭から深く沈みこむようで、いきなり違う時間が流れる世界へ移された感覚です。甘美に悲劇的なといったかつての第40番に抱くイメージとは一線を画した美しさです。LPの時代にはこの曲をアバドとLSO、次いでクレンペラーとPOを購入して聴いていました。はじめてクレンペラーで聴いた時は、クレンペラーの第36番まで(25番,29番,31番,33-36番)の演奏とは違って突き放されるような印象でした。その後CD時代になってカザルス、ヴェーグ等の演奏が好きになりましたが、それでもクレンペラーは独自の魅力だと思えました。

 

「 モーツアルト第40番のトラックタイム 」
どれかの表記が間違っているはずなのだが。
輸入盤
Great Rcordings of Century
①8分40②8分57③4分13④5分04 計26分54

SACD・SIGNATURE COLLECTION
①8分42②8分57③4分14④5分03 計26分56
*1962年と書かれてある

国内盤
名盤SACD
①8分42②8分57③4分13④5分03 計26分55
*1962年と書かれてある

HQ仕様
①6分38②8分56③4分21④5分16 計25分11
*1956年と書かれてある
LP・ANGEL BEST CLASSICS1800
①6分37②8分54③4分20④5分14 計25分05
*1956年と書かれてある

16 5月

モーツアルト交響曲第39番 ジュリーニ・BPO 1992年

120516 モーツアルト 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543

カルロ・マリア・ジュリーニ 指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(1992年3月19,20日 ベルリン,イエス・キリスト教会 録音 SONY)

16a   昨日5月15日が本来葵祭でしたが雨天で順延されました。今日の午前10時過ぎに出かけようとすると、交通規制がどうのと言っている人がいたので祭りのことを思い出しました。よく考えれば少し歩けば行列が出発してすぐの順路である丸太町通に出られるので、見てから出かけることにしました。間近で見るのは20年ぶりくらいでした。行列は粛々と(見ようによってはチンタラと)進むだけで、特に芸をするわけでもなく、牛車の速度に合わせてゆっくり進むのでだんだんじれてきます。あとの予定もあるので結局主役たる斎王代の牛車が来る前に立ち去りました。世相を反映して、斎王代の年齢がだんだん上がっています。(左写真は本列の牛車)

 このCDはジュリーニ最晩年の録音シリーズの中の一枚、ベルリンPOとのモーツアルト交響曲第39番(カップリングは協奏交響曲)です。この時期のソニーへの録音はジュリーニのキャリアの最後にあたり、スカラ座POとのベートーベン交響曲集やバイエルンRSO、ベルリンPO等と共演しています。全体的にテンポが極端に遅くなって、曲によって違うものの必ずしも評判が良いとは言えない時期でした。

 このモーツアルトの交響曲第39番もかなりゆったりとしたテンポで始まり、ちょっと重すぎる気もする独特の世界です。下記の通り同時期のヴァントと比べると演奏時間の差が顕著です。リピートの有無の関係もあると思いますが、遅いと言われるクレンペラーよりも長くなっています。のどかな田園風景のような第39番(と言えば皮相な感想かもしれないが)は、余をもって替え得ない魅力があり、ピリオド楽器があたり前になった近年ではなおさらです。

 ジュリーニと言えば1960年代からモーツアルトのオペラ全曲盤を録音していましたが、交響曲の録音があったかどうか記憶にありません(多分あるはず)。モーツアルト以外の演奏で、1980年代には既にゆったりしたテンポが目立っていたので、このCDだけが特別ではないはずです。

ジュリーニ・BPO(1992年)
①13分03②10分08③4分29④6分31 計34分11
ヴァント・NDRSO(1990年)
①09分00②07分50③4分16④4分08 計25分14
クレンペラー・PO(1962年)
①08分13②09分40③4分12④6分03 計28分08

16b_2  昼過ぎに京都市の郊外・山間部を通ると、ここでも田植が済んで、一面に蛙の声がうるさいくらいでした。車を降りて農道を歩いていると別の鳴き声がきこえたので、声のする方へ行くと水鳥の雛が沢山いました。これは「合鴨農法」の雛で、もう少しすれば水田へ放たれるのでしょう。夏が終われば出荷されて、カモロースや鴨なんばんになるかと思えば切ないものがあります。それにしても田植後の風景というのはのどかで、一年で一番なごやかで好きな時季です。(右写真は出番を待つ飼育小屋の池に群れる合鴨たち)

15 5月

クレンペラーのモーツアルト交響曲第39番・1962年録音

モーツアルト 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543

オットー=クレンペラー 指揮
フィルハーモニア管弦楽団
 

(1962年3月26-28日ロンドン,キングスウェイ・ホール 録音 EMI)


 モーツアルトの交響曲第39番は、同じ頃に集中的に書かれた三曲、ジュピター、第40番、第39番の中では一番取っつき難く、アラベスクか幾何学模様のような印象なので、演奏も透徹した磨き抜かれたようなタイプがふさわしいのでは、と想像できます。この曲で初めて購入したLPはクーベリックとバイエルンRSOの1枚2000円の準レギュラー的シリーズの1枚でした。第38番とカップリングされ、1980年頃の「名曲名盤500」の企画ではベスト3の中に入っていたはずです。クーベリックのその録音がそんな澄み切った演奏だったかまでは分かりませんが、その後クレンペラーのLP(1962年録音と表記されている)を聴いた時、かなり違う印象だと感じたのは鮮明に覚えています。つまり、クレンペラーのモーツアルト第39番は、それまでのイメージ(自分が勝手に抱いているイメージであるが)を修正させられ、続く第40番以下と共通する世界だと思わせるものでした。
基本的には1962年録音(と表記された)も1956年録音も同じようなスタイルながら、前者・再録音の方が力が抜けたような印象です。


 先日のこの曲・1956年録音盤の時に書いていましたが、演奏時間・トラックタイムと録音年月日の記述が混乱していて、どれかのCDの記載が間違っている可能性があると思われます。とりあえず、1962年録音と表記された国内盤HQ仕様と最新の輸入SACD盤が、余白時間を考慮するとほぼ同じトラックタイムになり、同じ音源だろうと思われます。そうだとすればどちらかの表記が間違っていることになります。ちなみに国内盤最新となるSACD仕様盤のトラックタイムは輸入SACD盤とほとんど同じなのに、1962年録音と書かれています。
この事と、先日書いたように1956年録音として過去に出ていた音源と輸入SACD盤は別音源と考えられることから、その輸入SACD盤のデータは間違っていて本当は1962年録音の音源だろうと強く推測されます(ああ、ややこしい)。


  これと同じ疑念は、過去にこのブログを読んだ方のご指摘で記事にしたモーツアルト交響曲第40番でも生じています。第40番では、新しい国内盤の表記が間違っているはず(本当は1962年・再録音なのに、1956年旧録音と表記されている)という指摘で、第1楽章・リピート有無による見分け方まで教えてもらいました。そこで、輸入SACDは3枚組で「後期モーツアルト交響曲集」となっているので第40番も収録されています。そしてその録音年月日は、何と1962年と記載されています。しかし、上記の見分け方を適用すると1956年録音の方になります。そうだとすると、輸入SACD盤の表記はここでも間違っていることになります。
 

1962年録音・CD(国内HQ)
①8分13②9分40③4分12④6分03 計28分08

1962年録音・LP
①9分41②6分26③3分05④7分08 計26分20

 第40番のことはさて置き、ちょっと気になるのが、上記二段目の「1962年・LP・国内廉価盤」に表記されているトラックタイムが今回トラックタイムを列記した二種のCDとあきらかに異なるということです。第2楽章が3分以上の差があり、他の楽章も余白部分によるとは考えられない程の違い出ています。現在LPプレーヤーはアンプにつないでおらず、すぐに再生できないため確認はしていませんが、ややこしくなってきました。
 

1956年録音と表記(2012年4月発売SACD・EMI)
①8分19②9分42③4分16④6分09 計28分26


 先日、統廃合になり移転する事務所で名残の宴があった時、農村部で大きな亀を散歩させている老人が居て、道路が狭いので車を徐行させたという話が出てきました。外国産の陸ガメらしく、百年か二百年(もう忘れた)寿命があるので人間より長生きし、世を去る時は亀を置いていかなければならんと、思わずしんみりとなりました(これが10代か20代くらいなら笑い話で済むのだろう)。でも亀を飼うなんてセンスはどうよ、そんな人は居ないという話になり、実は小学生の頃私がさんざん亀を飼っていたと白状すると再び笑いモードになりました。この20年間で開渠の農業水路や湿地が極端に減り、クサガメ、イシガメといった日本の亀を滅多に見かけなくなりました。

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raimund

昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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