raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2011年11月

30 11月

ブルックナー 交響曲第5番 マタチッチ チェコPO 1970年

ブルックナー 交響曲 第5番 変ロ長調 (ノヴァーク版)

ロヴロ・フォン・マタチッチ 指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

(1970年11月2~6日 プラハ、芸術家の家 録音 DENON)

 先日お隣の大阪府で知事と市長の同日選挙が行われました。亡き父は三度の飯より選挙が好きな程だったので、居ればさぞ血が騒いだことだろうと思いました。それにしても投票日前のTV討論をキャンセルした現職市長には驚かされました。大阪府下の府の総合庁舎やら市町村役場等はほぼ全部訪れたことがあるので、投票資格は無いのにリアリティを感じました。「都」構想やらカジノ等先が見えないことですが、実現性不明ついでに仮に淀川の水運が復活すればちょっとは渋滞が緩和されるかとか交通情報を聞きながら思いました。

 この録音は個人的に思い出深いもので、8年以上前に大阪府下をまわる際にこれをCDウォークマンに入れて電車の中でよく聴いていました。なんか鎮静剤(切れると暴れるというようなことはない)のようなもので、聴いていると気がまぎれて、特にこれが抜きん出て素晴らしいとか思っていた訳ではなく、N響にも客演していたので懐かしさもあってのことでした。それと発作的にブルックナーの第5番を店頭で探した時にこれしかなかったからでした。先日ブルックナーの第5番の演奏時間を眺めていたとき、マタチッチはかなり速かったことを思い出し、久しぶりに聴きました。

 何度か再発売されていて、今更どうこう言うものでもありませんが下記がこのCDの楽章ごとの演奏時間です。先日のチェリビダッケ指揮のミュンヘンPOの録音とは約17分以上の差があります。

①19分25,②18分18,③11分50,④20分30 計70分03

下記は今回のCDと録音年が近く、結構有名な録音の演奏時間です(ブログ内リンク無)。

ヨッフム・ドレスデン国立O(1980年)
①21分26,②19分16,③13分04,④23分42 計77分30
ヴァント・ケルン放送SO(1974年)
①20分10,②15分49,③14分13,④24分08 計74分20

クレンペラー・ニューPO(1967年)
①21分13,②16分35,③14分40,④26分40 計79分28
ヨッフム・RACO(1964年)
①20分54,②18分55,③12分41,④23分04 計75分34

111130  冒頭から聴いていると何となくベートーベンの作品のようにも思えました。合計で70分というのはブルックナーの第5番としてはかなり速い演奏で、ヴァントらの精緻な演奏を聴いた現代ではちょっと雑な印象も受けます。特に第3楽章は速すぎていびつでさえあると感じます。しかし楽章ごとの演奏時間を見ると、第2楽章はゆったりめに演奏しているのが分かります。この楽章も速めだったらブルックナーらしさがかなり損なわれるのではと思えます。先日聴いた下野竜也指揮PACオーケストラのブルックナー第8番の時に、公演で1曲を最初から椅子に座って聴き通す場合、ゆっくりしたテンポの場合は結構覚悟がいるものだと実感しました。その点このCDのような演奏なら、聴きやすいという面もあると思えます。

 第4楽章もやはり速めですがコーダの部分は抑制されていて、意外な(?)程に上品で好感が持てました。このCDをかつて電車の中で何度も聴いていたのは多分コーダの印象が良くて、「後味が良い」という感覚だったのでしょう。また、速めのテンポということなら、ザンダーの理論とも符合して、ボッシュやヴォルトンといった最近の中堅どころのブルックナー演奏の傾向と通じるところもあります。ただ、ブログを始めてからブルックナーの第5番を聴く頻度が上がり、曲自体がかなり好きになった現在は、こういうタイプの演奏は第8番とかの方が面白いのではないかとも思いました。

 冒頭の(実現性が無い)淀川水上交通の話ですが、寺田屋事件の伏見には伏見港があり、明治期には琵琶湖疏水を使って京都市の中央部まで荷を運んでいました。NHKの名曲アルバムの背景映像等でも見たドナウ川やライン川に比べるとスケールが小さいですが、何とか使えないだろうかと思えます。

blogram投票ボタン

29 11月

バッハ 2段鍵盤のためのアリアと様々な変奏 シフ旧盤

J.S.バッハ 2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと様々な変奏 ( ゴールドベルク変奏曲 )BWV.988

アンドラーシュ=シフ:ピアノ

(1982年12月 ロンドン、キングスウェイ・ホール DECCA)

 十一月も終わりに近づきました。朝東本願寺の前を通ると大きな観光バスが続けて門前に入って来るのが見え、報恩講か何かのようでした。昔から師走になると右翼団体の街宣車も市街地で見かけたような気がしますが近年はそうでもありません。京都市内はしばらく紅葉の観光シーズンで夜も渋滞しそうです。それと関係があるのかどうか朝も渋滞がひどくなっています。イライラしてもはじまらないので、最近は「渋滞にはゴールドベルク変奏曲」と勝手に決めて何種類か車中で聴いています。

 バッハのゴールドベルク変奏曲と言えば、グレン=グールドがレコード・デビュー盤として出した1955年の録音が有名で、その影響も加わってピアノで演奏されることが多い作品です。グールドは亡くなる直前にもこの曲を再録音してそれも称賛されました。一方でこの作品を作曲当時のかたちで、モダン・チェンバロではなくオリジナルのコピー楽器などで演奏するというCDも増えています。

111129a  この作品は1つのアリアを最初と最後に配置して、その間に30の変奏を連ねるという壮大なものです。アリアは「 アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳 」で通っている作品集に含まれる小品、サラバンド( これ自体はバッハ自身の作ではないという説もある )を使っていて、前半が16節、後半が16節の32節から成り、それぞれ2度繰り返して弾かれます。30種類の変奏はおおまかに15曲ずつ2つのグループに分けられ、第16変奏はフランス風オペラの序曲の形式で書かれています。また、変奏の3曲目にはカノンが置かれ( 第3、6、9、12、15、18、21、24、27の変奏 )、9種のカノンがあります。この作品は「ゴールドベルク変奏曲」として知られていますが作曲者自身は、「 2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアとさまざまな変奏 」というタイトルを付けました。「鍵盤練習曲集」の最終巻として、1742年にライプチヒで出版されました。その名が示すようにチェンバロで演奏することを念頭に置かれています。

111129  シフによるこの録音は演奏時間(トラック・タイム)が72分強であり、ピアノによる演奏ながら反復を省略せずに演奏しています。シフはこの曲を2001年にバーゼルでライヴ録音していますがその時も省略せずに演奏しています。省略無しの演奏としてはやや速めで、チェンバロでの録音の中には80分を超えるものも結構あります。それに対してグレン・グールドの有名すぎる新旧の録音は両方とも反復を省略して、それぞれ約39分、51分強(再録音の方が長い)という演奏時間です。反復をどうするかという問題は、先日来度々記事にしていたシューベルトのピアノ・ソナタの演奏と似ています。ゴールドベルク変奏曲の録音は、収録枚数、1枚当りの収録時間と演奏時間の兼ね合いから省略して演奏する例も多くありました。また、単純に繰り返し演奏されると飽きる、だれるという面もあります。アンドラーシュ・シフがシューベルトのピアノ・ソナタについて述べた言葉を借りると、「(シューベルトの作品は1秒足りとも長すぎるということはなく、)もし長過ぎると感じるとすれば、それは聴く側の辛抱が足りないのである」、ということです。このシフのCDのトラック区分は各変奏曲毎の32トラックではなく、5つの変奏曲をまとめて6つのトラックに分け、最初と最後のアリアは1つめと6つめに入れています。これは途中で止めずに最初から最後まで連続して聴いてくれというメッセージも含まれていそうです。

 本来はチェンバロのための作品であるとか、反復を省略するかどうか等の点はさて置き、このシフ盤は愛聴録音で、やっつけ仕事をする時のBGMにしたりして聴いていました。反復を守っている演奏は飽きてくるという意見がある中で、シフは繰り返しの2度目ではいろいろ変化を付けていて、その効果もあってか引き込まれるような演奏です。ただ、速目で弾くところも目立ち、軽快な演奏なのにやや窮屈そうで、やはりチェンバロによる演奏とは異なります。曲の最後に再び演奏されるアリアの直前の3曲(特に第30変奏)は、チェンバロで演奏しているエディット・ピヒト=アクセンフェルト盤で聴いていると独特の高まりを見せて盛り上がり、それを気に入っていますが、シフはかなり速いテンポで弾いていてもあっさりとして平板な印象も受けます。この効果の違いは何が理由なのか分かりません。

 アンドラーシュ=シフは1953年、ハンガリーのブダペスト生まれなので、この録音時にはまだ29歳でした。シフの録音(一定期間に特定の作曲家を集中的に演奏、録音する)集は個人的には皆かなり好きです。しかし、シューベルトにしてもバッハにせよ、国内の名盤・名演の企画では圧倒的な支持を得たものはどうも無かったようです。

blogram投票ボタン

にほんブログ村 クラシックブログ 古楽・バロック音楽へ
にほんブログ村

28 11月

シューベルト ピアノソナタ D.960 ピヒト=アクセンフェルト

シューベルト ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960

エディット・ピヒト=アクセンフェルト ピアノ
(使用楽器:スタインウェイ

(1983年9月19日 神奈川県秦野文化会館 録音 カメラータ)

111128a  このCDは、2002年発売で国内廉価版仕様ですが初CD化と表記されていました。パッケージ前面に出ている演奏者の写真は、着ている衣装の色から桑原和男が演じるおばさん(吉本新喜劇の定番)を思い出します。もっとも、他の種類のCDではアングルが違ったりでそんな風には見えません。ピヒト=アクセンフェルトはチェンバロ奏者としての方が有名で、カメラータ・東京からもバッハの鍵盤楽器作品をチェンバロで録音しています。と言うより、プロデューサーノート(井阪紘)によれば、カメラータトウキョウは彼女の弾くバッハ作品を録音、記録するために発足したという書かれ方です。しかし、1914年フライブルク生まれのエディット・ピヒト=アクセンフェルトは1980年代のバッハ録音では既に古いタイプのバッハ演奏という見方をされて、ちょっと地味な立場にありました。そういう専門的なことはさて置いて、個人的にはアクセンフェルトのバッハも魅力を感じていますが、今回のシューベルトも素晴らしいものです。

15分45,②10分17,③4分26,④8分42 計39分10

 このCDの演奏時間は上記の通りです。冒頭からゆったりとしてテンポで、曲が、演奏が開始されるというより、ずっとそこに流れている小川の前にたどりついたような不思議な安心感が与えられます。解説文の中にもこの演奏を聴くと落ち着きと安らぎがもたらされると書かれてありました。そしてCD付属の冊子には、「 母なる音 と題してアクセンフェルトの演奏について、そうした安心感のような感慨がどこから生まれるのかについて次のように書かれてあります。

111128b  「 弾きながら、指先から生まれる響きに対応して、タッチを微妙に変えてゆく、そのタッチの変化がいつのまにかシューベルトへの語りかけになっている。( その語りかけは、アクセンフェルトのつむいできたはるかな人生のなかから生じているものなのだろう )それはあたかも、シューベルトの母親の言葉のように思える。 -  シューベルトは母の下で安らぎ、ピヒト=アクセンフェルトはシューベルトの死をも大きく包み込んでいる。子と母が対話するかのように、シューベルトとピヒト=アクセンフェルトが語り合っている。音は、その互いの語りかけを、慈しんでいるように聞こえる。  *( 梅津時比古 2002年6月 解説の梅津氏はシューベルトの「冬の旅」についての著作があります。)  」

 何となく演奏者が年配の女性だからこういう文章が使われているとも考えられます。でも、確かにこのような心象風景は、単に演奏についてだけでなく、このピアノ・ソナタ第21番や第20番、第19番、歌曲集「美しき水車小屋の娘」・最終曲等についてもあてはまると感じられ(真実シューベルトが母の下で安らぎたいと感じていたかどうかは別にして)、説得力がありました。

ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960
第1楽章:Molto moderato
                変ロ長調
第2楽章:Andante sostenuto
         嬰ハ短調
第3楽章:Scherzo, Allegro vivace con delicatezza - Trio.
         変ロ長調
第4楽章:Allegro ma non troppo - Presto
         変ロ長調

 シューベルトのピアノ・ソナタ演奏について、アンドラーシュ・シフは作曲者が指示する反復記号を遵守するという方針で演奏しています。一方で、全ての場合で反復を墨守すれば曲を台無しにするというブレンデルの見解もあります。ピアノ・ソナタ第21番ではその2つの姿勢で差が出てきます。ブレンデルの新旧の録音では省略した部分(第1楽章)について、そこにしか出てこない小節を演奏しないことになり致命的な欠損であると批判されています。文章だけ読めば説得力があるものの、その批判の適否は分かりません。というより聴いて「致命的な」という風に正直実感できるのかどうか。このアクセンフェルト盤は、下記のシフ(反復厳守)ブレンデル(一部で反復省略)の録音と演奏時間を比べると反復を完全には守っていないと推測できます。

シフ・1992年
19分55,②08分51,③3分59,④9分15 計42分00
ブレンデル・1972年
①14分35,②08分52,③3分55,④8分28 計35分50

 ピヒト=アクセンフェルトとシフでは親子程年齢差がありますが、全体の印象は通じるところがあり、非常に安らぐ演奏です。

 今日の午後、京都市の阪急桂駅近くの小さな神社(大宮社)の前を通ると1本のもみじが見えたので境内に入ってみました。すると12月4日が新嘗祭だと貼り紙がしてありました。駅周辺は結構良い住宅地域ながらまだ水田も残っているので、そうしたものも続いているのかと思いました。

blogram投票ボタン

27 11月

PACオケ第47回定期 下野竜也・和波たかよし

兵庫芸術文化センター管弦楽団・第47回定期演奏会

J.S.バッハ ヴァイオリン協奏曲 第2番 ホ長調 BWV1042
ブルックナー 交響曲 第8番 ハ短調 (ハース版)

和波 たかよし:ヴァイオリン
下野竜也 指揮

兵庫芸術文化センター管弦楽団

(2011年11月26日 兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール)

 PACオケの定期公演に行くのは今年5月に井上道義指揮のショスタコーヴィチのプログラムを聴きに行って以来、新シーズンに入りこれで3度目になりました。下野竜也はたまたま今年4月の京響定期(ハイドン軍隊、マーラー第5番)でも聴いていました。その時はかなり好評だったようですが、個人的にはピンと来ませんでした(私の集中力のためか、4月のその時はは聖金曜でした)。今回はそれよりもずっと印象深い演奏でした。

111127a  会場に着くとステージ中央にチェンバロがセットされてあり、間際まで調整されていました。オーケストラの編成が少ないのでやけにチェンバロの大きさが目立ちました。楽器の目立ち方とは裏腹にプログラムにはチェンバロ奏者の名前が書いてありませんでした。プログラムの1曲目はバッハのヴァイオリン協奏曲第2番でしたが、この曲は当初もっと独奏ヴァイオリンが前面(ドヤ顔的)に出て聴こえると思いこんでリラックスして聴いていたところ全然印象が違い、襟を正す気分で聴きだしました。第2楽章が美しく、特に惹かれました。独奏ヴァイオリンは全般的にくすんだような音の印象で、アンコールのソロの時はかなりよく通る音だったので、不思議な感覚で、短くて聴き慣れた曲がすごく新鮮に聴こえました。下野氏に手を引かれて舞台を行き来するベテランの和波氏の短い挨拶が澄んでよく聞こえたのも印象的でした。もう少し長い時間、せめてあと1、2曲くらいは聴きたいと思いました。

111127  ブルックナーの第8番は朝比奈隆ゆずりか、ノヴァーク版ではなくハース版での演奏でした(といってもプログラムに書いてあったから分かるのですが)。前のバッハが小編成だっただけに演奏前の舞台は壮観でした。冒頭を聴いた時はかなり慎重で抑えているという印象で、その分フィナーレで一気に発散して大猟祭りのように野卑なまでに高揚するのかと、一瞬いやな予感がした程でした。しかしそういうことは全くありませんでした。演奏時間も長めで、能楽の舞台を演者が歩くような周到さで、特に第3楽章が美しいと思いました。全体的に本当に美しいと感心する部分は多くあり、金管だけでなくフルートも目立ちました。ただ、何となくそうした魅力的な部分が散らばりかげんで、集中感、統一感が薄い気もしました。これは聴き手の能力のためかもしれません。指揮ぶりは休符の後のフォルテ等、入りを結構力を込めているように見えました。演奏終了後の拍手は盛大で、長く続いていましたが、時々耳にする野太い声のブラヴォーは控え目で良かったです。この曲の場合はあれが目立ち過ぎると、焚き火を前にして仕留めた獲物をから血が滴る、そんな大猟祭りを連想させられ、ちょっと雰囲気が良くないところです。

111127b  阪神淡路大震災10周年の2005年に結成されたこのオーケストラは、メンバーが3年周期で卒業し、全員が35歳以下という若い独特の団体です。プログラムは、とりあえず一度有名作品を生で聴いてみたいという私程度の一般客にも敷居が高くなく有難いものです。年内の定期公演はこれが最後で、1月から再開です。来年3月には井上道義指揮でショスタコーヴィチの交響曲第14番が入っているので、これは是非聴きたいと思っています。

 一転して今日はスタッドレスタイヤと付け替えに行き、2時間も待ちました。昨年は間抜けなことに大晦日頃にディーラーへ行くと閉まっていて、カー用品店へ行っても時間切れ状態でした。それを思えばこれくらいは許容範囲と言い聞かせていました。中には来店していきなり車に乗ったまま作業ピットに入ろうとする人間が居て驚きました(そんなのは初めて見た)。

25 11月

1943年のバイロイト音楽祭 アーベントロート

111122g Die Meistersinger von Nurunberug (ニュルンベルグのマイスタージンガー)


ヘルマン・アーベントロート 指揮

バイロイト祝祭管弦楽団
バイロイト祝祭合唱団


ハンス・ザックス:パウル・シェフラー
ヴァルター・フォン・シュトルツィング:ルートヴィヒ・ズートハウス
ジクストゥス・ベックメッサー:エーリッヒ・クンツ
ダヴィッド:エーリッヒ・ヴィッテ
エヴァ:ヒルデ・シャッペン
マグダレーネ:カミルラ・カラープ

111122e ファイト・ポーグナー:フリードリッヒ・ダールベルグ
クンツ・フォーゲルゲザング:ベンノ・アルノルト
コンラート・ナハティガル:ヘルムート・フェーン
フリッツ・コートナー:フリッツ・クレン
バルタザール・ツォルン:ゲルハルト・ヴィッティング
ウルリッヒ・アイスリンガー:グスタフ・レーディン
アウグスティン・モーザー:カール・クロールマン
ヘルマン・オルテル:ヘルベルト・ゴーゼブルッフ
ハンス・シュワルツ:フランツ・ザウアー
ハンス・フォルツ:アルフレート・ドーメ
夜警:エーリッヒ・ピーナ


(1943年7月16日 バイロイト祝祭劇場・実況録音 PREISER )


111122
 これは第二次大戦中のバイロイト音楽祭のライヴ録音のCDです。CDに付いているパンフレットは写真と、トラックの見出しだけで説明文はありません。しかし、音質は戦時下としては上々で特に歌声と弦は十分よくきこえます(ごく一部で速さが狂ったり、雑音が入る)。バイロイト音楽祭は戦後の1951年に再開されましたが、その直前・最終は1944年でした。その中断される最後の年と前年の1943年の演目は、ニュルンベルクのマイスタージンガーだけでした。1943年と言えば昭和18年で、日本では昭和17年4月には初めての東京空襲があり、続いてミッドウェーの大敗がありました。ドイツも開戦から4年目に入る年で、そういうバイロイトの演目も何となく分かる気がします。ちなみに1940-1942年の演目は指輪とオランダ人、開戦の1939年はその2つにパルシファルとトリスタンが加わっています。戦争が続いて余裕が無くなっていくのがプログラムからも分かります。(なお1933‐1944年の演出はハインツ・ティーチェン)

111122c  実はこのCD、個人的にすごく好きで、シュトルツィング役のヘルデンテノール、ズートハウスが素晴らしくて「燃えるような」美しさです。マイスタージンガーのこの役はヘルデン・テノールの権化という程でもないかもしれませんが、ズートハウスは戦後のワルキューレ(VPO・全曲盤EMI)やトリスタン(PO・全曲盤EMI)といった録音でも素晴らしい歌声で、それ以降のヘルデンテノールよりもずっと魅力的だと思っています。それでもさらに前のヘルデンテノールであるラウリッツ・メルヒオールを聴いて育ったドナルド・キーン氏らはメルヒオールの比ではないと言うかもしれません。その他でも、ハンス・ザックス役のシェフラーもやや単調かもしれませんが底から響く威厳のある声で圧倒されます。第1幕でマイスターらが入場して、点呼を取り、ポーグナーが娘を与える旨の提案をして、ザックスがそれを讃える場面の風情が格別です。この録音は舞台上の音、登場人物が移動する物音まで収録されているので臨場感があり、同時に時代の息吹が浸食してくるような不気味さも感じられます。

111125d 音質は上々と言うものの、戦前という時代を考えればということで、海外のオペラの録音評ではカラヤンとドレスデン・シュターツカペレの録音以前のものは音質面では必要な水準に達していない( 第2幕の乱闘の場面等 )という厳しい意見がある程なので、これがベストCDとかそこまでは言い難いと思います。また大戦後半期であり、オーケストラやコーラスの水準も低下していると考えられます。それにも関わらず、この録音からは非常な高揚感と憑かれたような熱気が伝わってきます。その源泉がどこにあるのか、劇場の外壁にかかる垂れ幕の力ではないと思いますが、とにかく聴いている内に作品の世界に引き込まれます。第3幕、ザックスの演説後、最後の拍手は、まだオーケストラが鳴っている内に感極まって沸き立つように始まってしまいます。これも珍しい状況ではないかと思います。思えばこの演奏は、客席も普段の客層ではないはずなので無理ないことかもしれません。

111122a  このCDを買ったのは京都市内のクラシックCD・LPの専門店(ラ・ヴォーチェ京都)で、戦時中のバイロイト音楽祭の音源かそれより古いメトのライヴを探して訪れて、最初は別の演奏家の録音を買おうとしました。ところが、店主が音質も演奏もこっちが良いとこのアーベントロートのCDを薦めました。CDの前面に出ている舞台上の写真を見て、すごく萌えたのでその推薦の言葉通りこれを買いました。しかし、思えば音質はともかく、演奏がこちらの方がいいとかそこまで言う店はあまりないと思われ、ひねくれている自分が水を飲むようにその通りに買ったのも今から思えば珍しいことです。確かに音質は掘り出し物的ですが、歌手は別として、アーベントロートの指揮は素晴らしいのかどうか、ちょっと微妙なところです。これだけ盛り上がった公演だからそれでいいのですが、例えばこれより古い1937年のトスカニーニとウィーンPOのマイスタージンガーは目も覚めるような紛れも無いトスカニーニ的美しさで、この1943年のアーベントロートはそこまで圧倒的ではないように思えます。

111125b  マイスタージンガーと言えば第3幕が長くて聴きごたえがあります( クレンペラーは戦後のバイロイトの出演を演目がマイスタージンガーで打診されたものの、長い第3幕が体調的に心配で引き受けられなかった )。第3幕・第2場はザックスがシュトルツィングに助言しながら、「ヴァルターの夢解きの歌」が披露され、だんだん歌が出来上がる場面です。シュトルツィングは自分の中で生じてくすぶっている「歌」をザックスの勧めに応じて少しずつ歌おうとし、ザックスの方はまとまった歌というより、セリフにあたる言葉を朗唱風に歌います。このCDでは、ハンス・ザックスのパートはかなり速く、ザッハリヒに演奏され、シュトルツイングの部分はテンポを落として演奏しますが、両歌手ともオーケストラのテンポよりゆっくり歌いたそうです。それでも第3幕はどれも魅力的で、特別な集中力、迫力で迫ってきます。ただ、女声陣はちょっと弱いようで特にエヴァが薹が立って、否、あまり初々しくないのがちょっと残念です。


111125x
 戦時下のバイロイト音楽祭の公演なので、この音源の客席に居た人や舞台、ピットの参加者の中にはその後戦死したり、爆撃で命を落とした人も居たと考えられます。また一方でアウシュヴィッツ強制収容所では多数の人命が処理されています。この演奏と同じ頃にそうした現実があったとは、録音を聴いているだけでは分かりません。しかし、特別な高揚は感じ取ることが出来ます。1951年に再開されたバイロイト音楽祭での「ニュルンベルクのマイスタージンガー」はカラヤン指揮で録音され、CD化もされています。それとは同じ作品なのに、先入観のせいもあってか、別世界のように感じられます。また、舞台上、演出や衣装も違っていることでしょう(1943、1944年は親衛隊も動員されていたとか)。


111125f
 ヘルマン=アーベントロート指揮の戦後の録音は、東ドイツのドイツ・シャルプラッテン・レーベルのものが国内盤でも出ていました。一時話題になっていましたが、個人的には記憶に残っていません。戦中のバイロイトに出ていたのは実力者が国内に少なくなっていたということもあると思います。クレンペラーのケルン時代(オペラはクレンペラー、シンフォニー等のコンサートはアーベントロートという分担)にはオーケストラの人事で対立して揉めていましたが、プログラムは保守的だったようです。それはともかく、戦後のいわゆる新バイロイト様式は奇しくもベルリンのクロール・オペラのスタイル(デモまで起こして排斥された)に近づくことになりました。伝統的なドイツの演奏とかしばしば書かれてあるのを目にしますが、このCDを聴いているとつくづく「 ドイツ的 」とはいかなるものなのか、分からなくなります。

23 11月

マーラー 交響曲第9番 ショルティ・シカゴSO再録音

マーラー 交響曲 第9番 ニ長調

ゲオルク・ショルティ 指揮 シカゴ交響楽団
 
(1952年5月20日 シカゴ・オーケストラホール 録音 DECCA

 これは何かと引き合いに出される、ショルティとシカゴ交響楽団のマーラー交響曲全集の中の1枚です。ショルティのマーラー録音は1960年代から、シカゴSOとロンドンSOを指揮して交響曲第1番から第4番まで進められました。しかし全集ではその4曲は1980年代にデジタルで再録音されたものが組み入れられました。結果的にこの全集は第5番~第8番、大地の歌が1970年代のアナログ録音、それ以外が80年代のデジタル録音ということになり、聴いていると二つの時期では感触が違います。近年聴きなおしていると何となく70年代の録音の方により魅力を感じましたが、今回の第9番は特別でした。

ショルティ・1982年・CSO
①30分14,②17分48,③12分24,④24分38 計85分04

ショルティ・1967年頃・CSO
①27分00,②16分30,③13分05,④22分50 計79分25

111123  上記はショルティの新旧二種のマーラー・第9番の演奏時間です。また下記の3種はマーラーの第9番の録音で、演奏時間が長いものを例示しています。今回のショルティ・新盤は結構ゆっくりとした演奏の部類で、特に第1楽章は最も遅いかもしれないゴレンシュタイン盤(今年11月記事投稿)とほぼ同じです。対照的に第3楽章は速い演奏で、合計演奏時間との比較ではかなり急になりレヴァイン盤(昨年11月記事投稿)よりも、ショルティの旧録音(昨年8月記事投稿)よりも短い演奏時間です。第2楽章は合計演奏時間のわりには長く無い方ですが突出している方でもありません。しかし第4楽章は演奏時間だけで見ればかなりあっさりした表現だろうと予測されるものです。これはクレンペラーのセッション録音盤(昨年3月記事投稿)と似た演奏時間です。

ゴレンシュタイン・ロシアNSO・2010年
①30分07,②17分45,③15分10,④31分55 計94分57

レヴァイン・フィラデルフィア管・1979年
①29分36,②18分02,③14分16,④29分50 計91分44
クレンペラー・NewPO・1967年
①28分13,②18分43,③15分21,④24分17 計86分33

 全体の印象は演奏時間でもメリハリがあるように、かなり濃厚な演奏で、特に印象深いのは意外にもあっさりしていそうな第4楽章でした。これは明るく美しい響きで、録音年代が全然違うワルター、VPOによるこの曲の戦前の録音の第4楽章を思い出してしまいました。もっとも、そんな録音を思い出すのは私の記憶が誤って残っているからかもしれませんが、ワルターの古い録音も今回のショルティも、この曲がマーラーの最後の完成した交響曲になってしまうことなど思いもよらないような明朗に美しい響きです( 他に適当な言葉、表現があればいいのですが )。もうすぐヨーロッパを去るワルターならもっと寂寥感とか悲しさがにじみ出ていてもよさそうだと半ばもどかしく思わせるような美しさでしたが、このCDはそれの再現のような感覚でした。

 ショルティのマーラー録音(特にデジタル録音の方か?)は、シカゴ交響楽団の演奏の優秀さとは裏腹に機械的(あるいは無機的とか外面的とか)で、作品の内容を表現するという面では物足らないというニュアンスの批判がしばしば見られました。しかし、この第9番の新録音はそういう指摘は当たらないはずだと思えます。この録音が新譜で出た頃の広告に、「マーラーが人生のドラマを語りつくした第9番を ショルティーがあますところなく  云々」というコピーが出ていました。背景には港か河口に中国の木造船のようなものが繋留してある写真が使われていました(多分)。すごくインパクトのある広告で、演奏にも興味がわきました( 当時はまだ高価でそうは買えなかった )。今改めて聴いていると、その広告のイメージとは少し違い、少なくともひなびた木造船と曇天の風景は似合わないと思えます。

 今日は関西電力管内は冬も電力需給の問題が起こりそうなので、石油ストーブと灯油を買ってきました。これを使うのは十数年ぶりです。1月以降寒さが厳しくなりそうなのでエアコンとオイルヒーターだけでは不安があります。石油ストーブのメーカーも昔とは変わっていましたが遠赤外線とか機能も増えていました。

blogram投票ボタン

22 11月

シューベルト 「美しき水車小屋の娘」 ヘフリガー,小林 1970年

111122シューベルト 歌曲集 「美しき水車小屋の娘」 D.795


エルンスト=ヘフリガー:テノール

小林道夫:ピアノ


(1970年11月30日,12月2・4.・5日 録音 EMI )


 ここ二日間は特に朝が冷え込んで、ふとんから出たくない気分です。朝の通勤時は河原町通十条から北上する道をよく通りますが、今朝は塩小路高倉を回りました。そこはJR東海道線他を跨いで通過した直後に「第一旭」、「新福菜館」という二軒のラーメン屋が並んで営業しています。朝8時半前から店が開いていて客が入っていました。朝からラーメンとは胃腸も健康なんだと感心しながら通り過ぎました。


 過去に「冬の旅」は何度も記事投稿していましたが、同じシューベルトによる連作歌曲集でもこの曲は今回が初めてです。はじめて「美しき水車小屋の娘」をじっくり聴いたのは1980年代末頃で、冬の旅にはまってしばらくしてからでした。LPではなく、CDでフィッシャー・ディースカウ・1971-1972年のDGへの録音でした。冬の旅の方はDGではなくて、それ以前のEMIへの録音でしたが、同じフィッシャー・ディースカウでも何故この曲は70年代の方にしたか、経緯などは覚えていません。ただ、聴いた印象は、相手の態度やら言動にほとんど一喜一憂する敏感な青年の姿が思い浮かび、痛々しさもこみ上げてきました。テノールが歌うことも多く、冬の旅に比べるとやや単調に感じられるこの曲でも、フィッシャー・ディースカウの演奏では変化があって陰影のようなものを感じさせます。


1:Der Wandern(さすらい)
2:Wohin?(どこへ?) 
3:Halt! (止まれ!) 
4:Danksagung an den Bach(小川への言葉) 
5:Am Feierabend (仕事を終えた宵の集いで) 
6:Der Neugierige (知りたがる男) 
7:Ungeduld(苛立ち) 
8:Morgengruß(朝の挨拶) 
9:Des Müllers Blumen(水車職人の花) 
10:Tränenregen(涙の雨) 
11:Mein!(僕のもの)
12:Pause (休み) 
13:Mit dem grünen Lautenbande(緑色のリュートのリボンを手に) 
14:Der Jäger (狩人) 
15:Eifersucht und Stolz (嫉妬と誇り) 
16:Die liebe Farbe(好きな色) 
17:Die böse Farbe(邪悪な色) 
18:Trockne Blumen(凋んだ花) 
19:Der Müller und der Bach(水車職人と小川) 
20:Des Baches Wiegenlied(小川の子守歌) 


  「美しき水車小屋の娘」は、ヴィルヘルム・ミュラーの「旅する角笛吹きの遺稿からの詩集」に収めた23篇の詩からシューベルトが上記の通り20篇を選び作曲した連作歌曲集で、1823年(冬の旅より4年古い)に作曲されています。修行中の粉ひき職人が滞在先で若い娘に懸想したけれど、若い狩人に横取り(というか当初からお呼びではなく、知らなかっただけか)されて失望し、自害(詩ではそんな直接的な描き方をしていない)する、永遠の眠りにつくという物語の詩です。この曲はペーター・シュライアー(テノール)とアンドラーシュ・シフ(ピアノ)による1989年録音のCDが特に好きでした。このヘフリガー・旧盤はそれよりももっと爽やかで、若々しくきこえて、それだけにあまり濃厚な表現をしていないのに痛々しいような美しさが迫ります。特に、詩の中の青年の状況が一変する第14曲「狩人」の速いテンポが、よどみない美しさです。


  そのシュライアーのCDに付いている解説の中に、この歌曲集、原詩の背景について説明されています。当時のドイツでは、パイジェッロのオペラ「 水車小屋の娘への恋 」という 作品が大流行し、その波及効果で「水車小屋の娘への恋」というモチーフがいろいろな分野で用いられました。ゲーテも自分が監督するワイマルの劇場でそのパイジェッロのオペラを何度も上演しています。原詩の作者ミューラーが出入していたシュテーゲマン家のサロンでも、「ばら、水車小屋の娘」という題で連作形式のリートを作り上演していました。ゲーテの詩を参考にミューラーが詩を作り、メンデルスゾーンの先生だったルートヴィヒ・ベルガーが作曲して、ミューラー自身が「粉ひき職人」、シュテーゲマン家の娘が「水車小屋の娘」、画家のヘンゼル(後にメンデルスゾーンの姉と結婚する)が狩人役を担当して歌います。ミーラーの上記の23篇の詩はこの時に作ったものがもとになっています。


 シューベルトはそうして発表されたミューラーの23篇からなる詩集の中で、長過ぎるものや同じような内容が重なるものを除いた20篇に曲をつけたというわけで、ベルリンの音楽サロン(ミューラーが出入したシュテーゲマン家)と、ウィーンのシューベルティアーデという二つの教養サークルが、はからずも共同で新しい市民のための音楽を生み出したと説明されています。こういう背景を知ると、詩の世界(粉ひき職人の青年)やシューベルトに対する悲観的な意識も薄まり、何となく曲想がしっくり来る気がします。


 ヘフリガーやシュライアーはバッハの受難曲における「福音書記者・エヴァンジェリスト」の歌い手としても定評があり、彼らだけでなくクリストフ・プレガルディエン、ハンス・イェルク・マンメル、マーク・パドモアといった歌手も同様です。ヘフリガー(1919-2007年)はこの録音の10年後くらいにシューベルトの歌曲集を続けて録音しています。その際は現代のピアノではなく、作曲者が生きた時代のフォルテピアノを使って共演していました。今回はヘフリガーが51歳の時の録音なので、その一連の録音時よりも声の状態は良く円熟期を迎える頃です。このCDは新聖堂の企画で復刻された国内盤で、どうも再録音の陰にかくれていたようですが、曲そのものの美しさの点ではむしろ優れているのではないかと思いました。ピアノの小林道夫も素晴らしく、同時期に録音されたヘフリガーの冬の旅でも指名を受けてピアノを担当しています。

21 11月

ブルックナー 交響曲第9番 カンブルラン SWR交響楽団

ブルックナー  交響曲 第9番 ニ短調 (1894年・ノヴァーク版)

シルヴァン=カンブルラン 指揮
バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団(南西ドイツ放送交響楽団)

 
(2005年11月12-13日 フライブルク、コンツェルトハウス 録音 Glor)

111121a  赤旗(日本共産党の機関新聞)の日曜版に今月の新譜というごく小さいコーナーがあって、クラシック音楽は2回/月で連載しています。その内一回が宇野功芳氏の担当です。10月16日の日曜版ではパッパーノとローマ聖チェチーリア国立音楽院管のマーラー第6番、ミンコフスキのハイドン・ザロモンセット、そしてこのカンブルランのブルックナー第9番が称賛・プッシュされていました。その後のレコ芸・月評でもやはり推薦とされていて、特選になっています。評にも書いてありましたがフランス人指揮者なのでブルックナーはどうかな、という見方もありますが、好印象の演奏です。

 カンブルラン指揮のブルックナーはこれまで他に、第3、4番、第6番( 昨年3月18日投稿 )第7番( 今年8月27日投稿 )が出ています。個人的には第6番が特に印象深く、ブルックナーの演奏についてよく言われる(最近は傾向が変わっているのかもしれない)テンポを動かし過ぎてブルックナーらしさが壊れるという性格のものでなく、それでいて溌剌とした魅力にあふれていました。それとくらべるとこの第9番はちょっと微妙だと思っていました。第9番について他のブログでもそれと似たことも書かれているのを読んで、やっぱり思いすごしというわけでもないかと思いました。

交響曲第9番
1楽章:Feierlich, Misterioso
2楽章:Scherzo.bewegt, Lebhaft-trio.schnell
3楽章:Adagio.langsam, Feierlich

カンブルラン
①25分24,②10分27,③23分50 計59分41

~ヨッフム
1964年・BPO
①23分12,②09分44,③27分40 計60分47 
1978年・ドレスデン
①22分58,②09分49,③27分39 計60分43

111121c  このCDの演奏時間は上記の通りで、ヨッフムの2種類の全集に含まれるものと概ね近似してます。ただ、アダージョ楽章が速めのテンポなのが特徴的です。逆に第1楽章をゆったりと演奏しています。あらためて聴き直していると、金管が目立つ( そういう録音の方針か )のに叫ぶようなうるささではなく、かえって弦ばかりが前に出るよりも美しい響きです。カンブルランはトロンボーン奏者出身だから指揮者としての演奏でも金管が行き届いていると言えば短絡的ですが、実際際立っています。上記の「赤旗日曜版の批評」では、「 ドイツの森が眼前に広がり肉声のすみずみまでもが ものをいい、密度の濃い、内容たっぷりな 」演奏と表現されています。しかし、鬱蒼とした森が広がる光景、神秘的な風情という演奏かどうか何とも言い難いと思えます。金管楽器の響きが目立つので、光が差し込むような明るい印象を受けます。

111121b  カンブルランは昨年のヨーロッパの火山噴煙による飛行場閉鎖の困難時の強行来日や、今年の東日本大震災禍の只中にある日本へ敢然とやって来たことからも、義侠心(といえば極道のようにきこえるけれど)あふれる好漢に見えます。元々この人を注目したのはロスバウト、ブール、ギーレンが務めたバーデン・バーデンのオーケストラを引き継いだので、前任者らと通じるところがあるかもしれないという期待からでした( 去年5月の読売日響の関西公演《就任披露、ザ・シンフォニーホール》に聴きに行きましたが、例えば前任者のギーレンとはだいぶ違う気がします )。一連のブルックナー録音を聴いていると、ありきたりのブルックナー観とは違う響きを目指しているようで、興味深い演奏です。聖堂で例えるならかつての大きな祭壇がある荘厳なものでなく、採光の面積を広くとって彫刻等よりも陽の光を重視する新しいスタイルの聖堂に近い感覚だと思います。

 ところで、ブルックナーと全然関係が無いことで、この夏に関西ローカル局の深夜番組で「インスタント・ラーメン総選挙」という企画をやっていました。節電でクーラーを止めていて(ついでにTVも止めろよ)寝苦しくて、つい見てしまいました。ベスト10は多分次の通りでした。1位:「日清 カップヌードルしょうゆ」、2位:「日清 チキンラーメン」、3位:「サンヨー サッポロ一番・塩」、4位:「日清 カップヌードル・シーフード」、5位:「日清 カップヌードル・カレー」、6位:「日清 出前一丁」、7位:「サンヨー サッポロ一番・みそ」、8位:「ハウス うまかっちゃん」、9位「エースコック ワンタンメン」、10位「農心 辛ラーメン」。10位(これは全然知らない)以外は長寿・ヒット商品なのは感心します。このブログの名前の由来にもなっているワンタンメンもきっちり入賞していますが5位入賞はかたいとふんでいたのでがっかりでした。どういう調査方法だか忘れましたが、こういう商品の嗜好も結構保守的です。

blogram投票ボタン

19 11月

ALL・ブラームスのプログラム キム・ソヌク、G.ノイホルト

111119a 第 552 回 京都市交響楽団 定期演奏会

ブラームス 作曲
ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 op.83
交響曲 第3番 ヘ長調 op.90

ギュンター=ノイホルト  指揮
キム=ソヌク  ピアノ

京都市交響楽団

(2011年11月19日 京都コンサートホール)

 今日の午後2時半から京都コンサートホールで、第552回の京響定期公演がありました。今年は定期会員になっているので、雨が降って中途半端な気候ですが当然聴きに行きました。通常は自家用車でホールまで行っていましたが、今日は秋の行楽シーズンで夕方から夜も市街地の渋滞が予測され、電車で行きました。オール・ブラームスのプログラムのためか、会場に向かう人波はどうもいつもよりオッサンの密度が高いように見えました。午後の公演は眠気に要注意なのでワインではなくコーヒーにしました(残念ながら)。しかし、1曲目の協奏曲から熱演で眠気どころではありませんでした。

 指揮のギュンター=ノイホルトは1947年オーストリア・グラーツ生まれで、どこかで聞いた名前、見た顔だと思えば何年か前、低価格のワーグナー「ニーベンルングの指輪」のCDで話題になった人でした。恒例のプレ・トークでは気さくに(無愛想には見えなかった)英語で受け答えしていました。ピアノは韓国の若手、23歳のキム=ソヌクです。2006年のリーズ国際ピアノコンクールで史上最年少、東洋人で初めて優勝して注目されました。休憩時間中に韓国語で話す女性の群れもあって、あるいは母国からのフアンかもしれません。

 ピアノ協奏曲第2番はこのブログで初めて登場する曲のはずで、1881年ブラームス48歳の年の作曲で、初演(作曲者自身がピアノを弾いた)時から好評でした。協奏曲なのに4つの楽章を持ち、「交響的な協奏曲」と称されるようにカデンツァ的な腕の見せ所は無いものの難曲とされています。演奏時間は約47分という大曲です(交響曲第3番より10分くらい長い)。

第1楽章.Allegro non troppo
第2楽章.Allegro appassionato
第3楽章.Andante
第4楽章.Allegretto grazioso

111119b  今日は第1楽章冒頭のホルンからしてうっとりする程美しく( 内心キター と叫んでいました )、また美しい第3楽章冒頭のチェロ独奏による旋律も見事だと思いました。ピアノは最初はちょっと硬直したような印象を受けましたが、それも徐々に気にならなくなり、明晰で激しい演奏が印象的でした。アンコールはモーツアルトのピアノ・ソナタK.545の第2楽章だったようですがW.Cへ急いだので聴いていません(残念)。過去の定期では若手のソリストの場合アンコールがありましたが、何となく今日は交響曲第3番が静かに終わる曲なので、その後にアンコールだろうと予測していました。この曲は個人的に第2楽章が特に好きで、ジークフリートのラインの旅に出て来る弦楽のメロディーの箇所を楽しみに(そんな局所的に愛好してもどうなるものでもないけれど)していました。演奏終了後の拍手は盛大で、ピアノ協奏曲の方がより大きく、待ち切れないブラヴォーもよく響きました。

 ギュンター・ノイホルトはもう60代に入ったベテランで、2008年からスペインのビルバオ交響楽団の首席・音楽監督を務めています。プレトークで、最近はオペラだけでなくシンフォニー等のコンサートに力を注いでいると言っていました。交響曲第3番の時もそうでしたが、鋭く緻密な響きというよりホルスト・シュタイン、バンベルクSOのブラームス第4番(先月17日記事投稿)に似た「美しく溶け合った」響きという印象でした。これまでの京響の演奏とは違った印象でした。

 いつも思いますがプレトークは演奏直前の演奏家の負担になる心配はないのかと思います。どうせやるなら、今日の場合はドイツ語で質問できる人だったらなお良かったのではとも思いました。

blogram投票ボタン

18 11月

R.シュトラウスのオペラ「 カプリッチョ 」 クレメンス・クラウス

リヒャルト=シュトラウス  歌劇 「カプリッチョ」
台本:クレメンス・クラウス
  原作:A・サリエリのオペラ『まずは音楽、それから言葉』より

クレメンス=クラウス 指揮 バイエルン放送交響楽団

伯爵令嬢マドレーヌ(S):ヴィオリカ・ウルズレアック
伯爵・マドレーヌの兄(Br): カール=シュミット・ワルター
作曲家フラマン(T):ルドルフ・ショック
詩人オリヴィエ(Br):ハンス・ブラウン
支配人ラ・ローシェ(B) ハンス・ホッター
女優クレーロン(A) ヘルタ・テッパー
トープ氏(T):エミール・グラーフ
イタリア歌手(S):イルゼ・ホルグ
イタリア歌手(T):
家令(B):ゲオルグ・ヴィーター 、他

(1953年 ミュンヘン録音 WALHALL)

  夕方に京都市役所の北西方にある白山神社の前を通ると、小さな境内に薪が四角く組んであるのが見えました。お火焚祭というのがあるそうで、それの準備でした。住宅が建てこんでくると、唱歌にあるように庭先で焚き火というわけにはいかなくなりました。この白山神社は現在はごく小さい敷地ですが、昔は数倍以上の規模だったそうです。

111118a   このR.シュトラウス最後のオペラ「 カプリッチョ 」は元々好きではない、というより収容場で人間が塵芥のように処理されている一方でこんなものを作っているということに反感を覚えるという感覚で毛嫌いしていました。ところがソプラノ歌手ルチア=ポップの録音集(ホルスト=シュタイン指揮バンベルクSO)の中で、このオペラのフィナーレ( といっても全1幕の作品 )付近、月光の音楽から最後までが収録されていて、それを聴いて以来すっかりカプリッチョが好きになりました(収容所云々はどうした?信念の無い)。そのポップやシュタインの演奏が素晴らしいと言っている当人は非ドイツ語圏、非ヨーロッパ圏の私なので、単なる好みでしか無いかもしれません。今回の古い録音は、カプリッチョの台本作者にして初演者でもあるクレメンス=クラウス夫妻の共演です。舞台の音が入っていないので(動きは少ない作品のはずにしても)おそらく歌劇場の実況録音ではなく、演奏会形式か放送用録音だと思われます。

 11月12日がルチア=ポップの誕生日で同16日が命日ということもあって、ポップが歌うシュトラウス作品のCDを引っ張り出す時期ですが、それは後日に。

 このオペラの初演は1942年10月28日、ミュンヘン・国立歌劇場で行われ、そのライヴ音源の一部も出ていました。指揮はクレメンス・クラウスで、マドレーヌを歌ったのが妻であるヴィオリカ・ウルズレアックでした。今回のCDはその11年後にあたり、ウルズレアックは声のピークを過ぎていることになります。また50年以上経過して突如出てきた古い音源なので、リマスターされても音質に限界がある(特にヘッドホンで聴くとそう感じて、スピーカーを通して聴くとましに思える)のはやむを得ません。前奏曲、間奏曲や特に月光の音楽はクラウスの見せ場になるはずなのでそこは残念です。

111118b  そうした点は差し引いてもこの録音は、直接的にはマドーレーヌ役のソプラノのヴィオリカ・ウルズレアックの歌声や劇中の朗読、クレメンス・クラウスの指揮等万事が優雅であること、間接的にはこのオペラが生まれた当時の記憶がまだ残っているミュンヘンの空気を閉じ込めたようなところが非常に魅力的です。繰り返しますがウルズレアックは素晴らしく、サバリッシュらによるこの4年後のセッション録音でマドレーヌを歌ったシュバルツコップの鋭敏な感じの歌声を思うと優美さが際立ちます。クラウスは1953年のバイロイトでカイルベルトと二人で指輪を振っています。「クレンペラーとの対話 P.ヘイワーズ編(白水社)」の中で、クレメンス・クラウスがR.シュトラウスの後継者として名が挙がり(ヘイワーズ氏がそのようにふっている)、それに対してクレンペラーは創造的なシュトラウスの指揮に及ぶべくもないと辛口(誰に対してでもあるが)なコメントをしています。もっとも、クレンペラーはシュトラウスの晩年の作品に対しても冷淡なようで、これは芸術的価値よりもナチス政権下にヨーロッパを追われた体験からくる感情のためでもあると推測できます。

 シュトラウスのオペラの台本の多くはホフマンスタールが手がけて(アラベラまで)いて、その後はツヴァイクらが引継いでいます。実はハプスブルク家の血を引くのではと噂されたカプリッチョの台本を書いたクレメンス・クラウスも、ホフマンスタールも生粋のウィーン人でした。ホフマンスタールが存命ならこのオペラの台本はどうなっていただろうかと思いますが、カギ十字の旗で埋まるヴァイロイトを考えるとカプリッチョが初演された舞台は全く対照的です。カプリッチョは時代背景と乖離したストーリーだけでなく、そもそも話の舞台が18世紀後半のパリ郊外というのが挑発的でさえあります。この作品はレジスタンスという程積極的ではないにせよ、暴力的な体制にも侵すことができない理想郷のようなものを築いて守ろうとするような意気込みを空想させる魅力があります。オーストリア帝国の解体どころか統一ドイツが引き裂かれて西へ引き戻されて削られた第二次大戦後にあって、ドイツ人にはこのオペラがどのように響いたことだろうと思います。

blogram投票ボタン

17 11月

シューベルト ピアノ・ソナタ ニ長調 D.850 ブレンデル旧盤

シューベルト ピアノ・ソナタ  第17番 ニ長調 D.850 

アルフレード=ブレンデル : ピアノ

(1974年 録音 旧PHILIPS)

 そろそろ夜になればコートが無ければ寒いくらいになってきました。御池通(京都市役所の南前の大通)街路樹の葉が一気に散っていました。今週は他府県ナンバーの車を多く見かけ、そろそろ秋の混雑する時期に入っています。春は4月でさえ京都市内の主要なホテルの客室稼働率が70%あるかないかという水準だったそうなので、紅葉のシーズンに少しでも取り返せるかというところです。

 先日のアンドラーシュ=シフのCDに続いてブレンデルによるシューベルトのピアノ・ソナタ第17番です。今日は京都府の北部方面へ出かけていたのでやはり車中でこのCDを聴いていました。標題には「ブレンデル旧盤」と書いていますが、シューベルト演奏で定評のあるブレンデルが何度この曲を録音したか知りません。PHILIPSから2度まとまって出た録音集と、この曲は含んでいないライブ集くらいが主だったものなので一応旧盤としました。ブレンデルはベートーベンとシューベルトがレパートリーの柱だったようで、一定の時期からは特にシューベルトと言えばブレンデルの名前が挙げられるような扱いでした(世代は違ってもブルックナーの交響曲におけるヨッフムのような位置か)。

1117  昨日の投稿で、ブレンデルによる第17番の第1楽章はまるでベートーベンの中期作品のようだと書いていましたが、それだけ押し出しが強くて圧倒される印象という意味でした。4楽章全部を聴くと後ろの第3、4楽章が魅力的で、特に終楽章が印象に残ります。やはり前後の2楽章で性格が変わって、大げさに言えば分断されたようにきこえます。「小説・海辺のカフカ(村上春樹の小説)」の中で指摘される「 四つの楽章をならべ、統一性ということを念頭に置いて聴くと、満足のいく演奏はひとつも無い 」という見方の意味が実感できます。でもこの録音自体は魅力あるもので、そもそも「統一性」の面で完璧というのは無理なのではないかと思えます。このCDの頃の、ブレンデルが弾く他の作曲家の曲、例えばベートーベンの演奏とかは聴いたことがありませんが、後年のベートーベンのピアノ・ソナタのライヴ録音を聴いた印象では、シューベルトを弾く際に特別なことはしていないようです。同じくシューベルトをよく取り上げたケンプならもっと軽やかな演奏だったので、この点は意外です。

 しかし、この曲を一度も聴いたことがなく、予備知識も無い状態でブレンデル・旧録音を聴いたとしても、この曲をベートーベンの作曲だとは誤認し難いだろうと思います。ちなみに「 海辺のカフカ 」の中でシューベルトのピアノソナタ第17番が登場する場面は、登場人物の一人がまさにそういう環境下でこの曲を車の中で聴かされます(ピアニスト名は明示されていない)。そして、「 ベートーヴェンでもなく、シューマンでもない、時代的にその中間あたり 」、と考えてシューベルトであると推測しています。要するに作曲技法的に問題がある等と指摘されるこの第17番も、聴いてみて他の大作曲家ではなくシューベルトのものだと分からせる個性を備えているということでしょう。シューベルト(1797-1828)はベートーベン(1770-1827)より1年と2/3くらい長生きだっただけなので、活動時期はかなり重なっています。一方シューマン(1810-1856)の作品はほぼ全部がシューベルトの没後に作曲されているので「時代的にシューベルトがベートーベンとシューマンの中間」という表現はその通りです。

 通常車の中で運転しながらこういう曲を聴くと、途中で違うことに神経が行き、次の曲に切り替わったことも気がつかないこともあり、鑑賞する環境としては悪い方です。今回のシューベルトのピアノ・ソナタ第17番は、それでも気にせず、繰り返し聴いていると不思議な心地よさが生まれてきます。「フェルトのハンマーでピアノ線を叩くピアノは、表現者の息吹が間接的にしか楽器に伝わらない( 弦楽器は弓で弦を摺る、管楽器はマウスピース等へ息を吹き込む )」というのは、先日のメジューエワによるシューマンのピアノ・ソナタ第2番「子供の情景」のCDの解説で國重游氏が指摘していたことですが、シューベルトのピアノ・ソナタは作者の息吹というか私的なつぶやきのような言葉を直接聴くような魅力があると思えます。手紙とか演説の原稿にまで整えられればカットされるようなものが多く含まれているような感覚です。

blogram投票ボタン

16 11月

シューベルトのピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 D.850 シフ

シューベルト ピアノ・ソナタ  第17番 ニ長調 D.850

アンドラーシュ=シフ : ピアノ
(使用楽器:ベーゼンドルファー・インペリアル)

(1992年11月 ウィーン、ムジークフェライン・ブラームスザール 録音 DECCA)

 今日の正午頃、渡月橋から松尾橋の間の桂川左岸を車で走行していると、この辺りの山はまだ紅葉は進んでいませんでした。この分なら見ごろは12月になりそうです。運転中はシューベルトのピアノ・ソナタ第17番(今日のシフではなく、ブレンデル旧録音)を終止聴いていました。

111116c  昨日記事投稿したシューベルトのピアノ・ソナタ第13番(イ長調 D.664)と同じで、アンドラーシュ=シフのシューベルト・ピアノソナタ全(選)集に入っている録音です。その回でも第17番にふれていたように、この曲はシューベルトのピアノ・ソナタの特徴が鮮明になった作品で、CD付属の解説にも「 ベートーベン的主題操作の呪縛から抜け出し、独自の展開技法を身につけ始めたシューベルトの姿がここにある 」、と説明されています。

①9分19,②11分06,③8分47,④8分46 計37分58

 このCDの演奏時間は上記の通りで、ピアノ・ソナタとしてはかなり長いものです。アンドラーシュ=シフがこの一連のシューベルト・ピアノソナタ全集を録音した時の方針は昨日のピアノソナタ第13番の回にも紹介した通りで、その中には「 シューベルトが自筆稿に記した反復記号を完全に守っている 」ということがありました。この「反復」についてはこれを行うべきでないという見解も有力ですが、その反復不要論の立場でもこの「 第17番ニ長調D.850 」だけは例外であるとされています。

111116b  シューベルトのピアノソナタはアンドラーシュ=シフのCDを一番よく聴いていて、第17番も同様に愛聴盤です。この曲の他のピアニストのCDは、ブレンデルの新・旧、カーゾン等が手元にあります。交互に比べて聴くとか、そんなマニアックなことはしていませんが(何度もしなければどんな演奏かとかとても覚えられない)、どうもやっぱりシフの演奏に一番魅力を感じます。何故そうなのか、理由は分かりませんが、シューベルトのピアノソナタに浸り切ってしまう(CD付属の解説の表現)というより、その前に曲、演奏の方から自然に浸水してくるような親しみ易さを感じます。

 シフのシューベルト演奏について、次のような評があります。「 作品の美しさや情緒的なものの表現に依存するのではなくシューベルト独自の作品構造や転調による響きの変容等について、楽譜を読み尽すところから出発したものである。各声部の動きの主体性が注視され、内声部もそれ自体としての存在をアッピールするだけでなく、全体的な和声の響きに参加し、微妙に音色を変えて行くなどに最上の美質を生み出している。控え目に使われたベダリングも、明晰な音の響きと、作品のテクスチャを鮮やかに浮かび上がらせることにつながった。 (萩原秋彦氏) 」 演奏について細かく描写、説明されていますが簡単に考えれば、ありのままの姿を映し出す演奏と言えそうです。

ピアノソナタ第17番ニ長調D.850
第1楽章 Allegro vivace ニ長調
第2楽章 Con moto イ長調
第3楽章 Scherzo Allegro vivace ニ長調
第4楽章 Allegro moderato ニ長調

111116  4楽章から成るこの曲は、1825年8月に作曲され、友人のピアニスト、カール・マリア・フォン・ボックレットに献呈されました。また、翌年4月にウィーンで出版されてます。同じ頃に交響曲第8(9)番「ザ・グレート」が作曲されています。上記の演奏時間を見れば分かるように各楽章が概ね均衡した長さになっています。第1楽章がソナタ形式で、第2楽章が特にシューベルトの個性が強く現れています。二つの主題2度ずつ現れる二部構成で、各主題がそれぞれで中間部を持つ三部形式となっている( これが「 天国的な長さ 」と評される要因の一つと言える)。次の第3楽章は付点リズムの生気みなぎる明快さのスケルツォ主題と、シューベルトの和声感覚がもっとも自然に示されるトリオが際立ちます。それに続く第4楽章。この楽章も特徴的で、長大なピアノ・ソナタを締めくくるにしてはいかにも軽妙な、それらしくないとも言える内容です。同じく天国的な長大さと評される交響曲のザ・グレートなら、かなり高揚感の溢れるコーダになっています。連作歌曲集「美しき水車小屋の娘」の終曲にどことなく似ています。詩の主人公の青年は恋がかなわず、永遠の眠りに就くという内容なのにすごく安らかな曲想だという齟齬も似ています。

 村上春樹の小説「海辺のカフカ」の中でこのピアノ・ソナタ第17番が出てきます。小説の中身等は省略しますが、登場人物が次のような内容を語ります(車の中でこの曲を聴きながら)「 シューベルトのピアノ・ソナタを完璧に演奏することは、世界でいちばんむずかしい作業のひとつ。特にこのソナタは特別難物。この作品の一つか二つの楽章だけを取りあげれば、ある程度完璧に弾けるピアニストはいる。しかし四つの楽章をならべ、統一性ということを念頭に置いて聴いてみると僕の知るかぎり、満足のいく演奏はひとつも無い

111116a  この指摘は上記の4つの楽章の特徴を併せて考えると、主観的な感想だけでなく根拠があるものだと思います。また、「すべてのピアニストが例外なく二律排反の中でもがく」とも指摘しています。これは作曲家のシューマンが指摘した「不完全さ」故ということなので、理論的にも正しいことなのだと思います。多分第1、2楽章までとそれ以降の性格違い、第4楽章が例えばベートーベンのピアノソナタ第31番の終結のフーガのような全曲を締めくくる結びになっていないことが原因なのでしょう。例えばブレンデルの旧録音で聴いていると(ここ何日か朝の通勤の車内でもそれを聴いている)、第1楽章はまるでベートーベンの中期作品のような勇壮さで、魅力的ですが後続の楽章はそういう調子ではありません。シフの演奏とは印象がだいぶ違います。

 今回あらためてシフのピアノで第17番を聴いてみると、「四つの楽章の統一性」という見方からはどうなのだろうと思います(統一性がとれているかという判断も難しい)。ただ、単に聴くだけの一般人としては「 花は野にあるように 」という茶の席での活花の感覚で、不完全さとか、これがフィナーレ?という肩すかし感があってもいいのではないかと思えてきます。

blogram投票ボタン

15 11月

シューベルトのピアノ・ソナタ イ長調 D.664 シフ

シューベルト ピアノ・ソナタ  第13番 イ長調 D.664

アンドラーシュ=シフ : ピアノ
(使用楽器:ベーゼンドルファー・インペリアル

(1992年11月 ウィーン、ムジークフェライン・ブラームスザール 録音 DECCA)

111115  この1年半くらいの間、あるピアノ曲の旋律が頭の中に浮かんでいてその題名が思い出せないということがありました。一つはベートーベンのピアノ・ソナタ第3番(ハ長調 Op.2-3)の第1楽章で、これはわりとすぐに思い出せました。もう一つがシューベルトの作品であることだけは間違いないけれど、あと一歩、どうしても題名が出て来ない状態でした。ピアノ・ソナタのはずだと見当が付いていたので、1枚目の曲から順番に再生していけば見つかるのですが、それでは芸が無く「脳トレ」にもなりません。可能性が高そうな何曲かを再生して、ようやくそれが第13番であるとが分かりました。アンドラーシュ・シフによるシューベルトのピアノ・ソナタ選集のケースを開けている場面も同時に記憶にあったので、ソナタだと見当が付いていたわけです(記憶力もまだまんざらではない)。     (写真は京福電鉄嵐山本線・帷子ノ辻駅)

ピアノ・ソナタ イ長調 D.664
第1楽章:Allegro moderato イ長調
第2楽章:Andante ニ長調
第3楽章:Allegro イ長調

 このピアノ・ソナタイ長調 D.664は、かつての旧全集版では1825年の作曲とされていましたが、その後の研究で1819年、シューベルト(1797年1月31日-1828年11月19日)の21歳の時の作品である説が有力視されています。ちょっと昔ならシューベルトのピアノ・ソナタで有名な曲と言えばD.960(第21番・変ロ長調)とこの曲くらいだったと言われます(シフによる解説にもそのように書かれている)。上記のように3楽章から成り、同じくイ長調の4楽章ある後期の「 D.959 第20番」はイ長調大ソナタと呼んでこれと区別しています。

111115a  これは1992年11月と1993年4月にウィーンで集中録音されたアンドラーシュ=シフによるシューベルトのピアノ・ソナタ選(全)集の1枚目に入っているもので、この一連の録音でシューベルトのピアノ・ソナタが急に好きになりました。それまではFMでケンプ、ブレンデル等の演奏を聴いていましたが、何となくはじかれるような感じで、作品自体にあまり魅力を感じられませんでした。シフは「シューベルトの作品は1秒足りとも長すぎるということはなく、もし長過ぎると感じるとすれば、それは聴く側の辛抱が足りないのである」と述べています。まさしく私もインスタントに何でも賞味する感覚が身に付きすぎていたということです。

 シフによるシューベルトの録音集には次のような特徴があります。①楽器はスタインウェイではなく「ベーゼンドルファー・インペリアル」を使っている。シューベルトが自筆稿に記した反復記号を完全に守っているG.ヘレン社の「原典版」を用いている。④シューベルトの手で完成された作品を対象としているが、D.571の断章D.625の第1楽章だけは例外としている。⑤一定の期間に特定の作曲家を取り上げて集中的にリサイタル、録音活動を行うという方針だった(過去のバッハ、モーツアルトの録音集)が、今回のシューベルトも同様で、1992年6月のホーエネムスの音楽祭「シューベルティアーデ」を皮切りに、ウィーン、ブダペスト、パリ、翌1993年のニューヨーク、ロンドン等でも連続公演している。

 これら5つから、かなりのこだわりを持って演奏していることがうかがえます。特に②の「シューベルト自筆稿の反復記号を厳守」というのは従来から賛否両論があり、注目すべき点です。シフ自身は解説の中で次のように述べています。「 今回のレコーディングでは、全ての反復指示記号に従っているが、別に知識をひけらかそうというのではなく、作品が初演された時代と場所に再び立ち戻るためである。提示部を繰り返すことで、聴き手は楽章の主題を再び耳にするチャンスが与えられるのである。しかし、ハイドンやモーツアルトと異なり、シューベルトはほとんど展開部や再現部を反復することはしていない。」

 これに対して例えばブレンデルは著書「 楽想のひととき 」の中で、二長調ソナタD.850のような例外を除いて、シューベルトのソナタの場合は反復を守ることは「無駄」であるだけでなく、「曲を台無しにする」ことさえあると言い切っています。シューベルトが指示した反復箇所はハイドン、モーツアルトとは違うにしても、シューベルトのごく初期のソナタには単なる機械的反復と思われるのもあると指摘されています。

111115b  どちらが正しいのかなどは分かりませんが、シフのシューベルトにはとても惹きつけられます。何故そうなのか、それはよく分かりませんが、①の使っている楽器の音色による印象もあるかもしれません。解説文の中には、ゆったりと流れる時間(天国的な長さ)を享受できるか否かが(演奏者側からすれば「させることができるかどうか」)、シューベルトのソナタに浸り切ってしまうか、拒否感を抱くかの境界になるかもしれない、と書かれています。もっとも、今回の第13番は小規模な方なので、反復の影響は小さいはずです。その指摘は、ブレンデルが挙げた例外の作品、「 ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 D.850 ( この曲は村上春樹の小説「 海辺のカフカ 」に登場し、作品の個性について詳しく書かれている )」等で顕著になるはずです。

 今日のお昼頃、一番上の写真にある「帷子ノ辻駅」を利用したところ、改札の位置が変わってトイレが新設されていました。この駅や一つ東方の「太秦広隆寺駅」周辺には昔から撮影所があるので、太秦広隆寺駅に到着する時に水戸黄門のテーマが流れます。もうすぐ番組が終了するのでその後はどうするのだろうと思います。

blogram投票ボタン

13 11月

メンデルスゾーンのイタリア交響曲 カンテルリ旧録音

メンデルスゾーン 交響曲 第4番 イ長調 op.90「イタリア」
 

グイド・カンテッリ  指揮  フィルハーモニア管弦楽団

(1951年10月12日 ロンドン、アベイロードスタジオNO.1 録音 TESTAMENT)

111113b  今年に入って京都市内のイタリア料理店の壁などをよく見ると、「イタリア統一150周年」というポスターが貼ってあります。3月に式典等が行われたようですが、日本国内は大震災でそれどころではありませんでした。何をもって統一と言うのかと思ってよく見れば、1861年のサルディニア王国によるイタリア統一から150年という意味のようで、昔歴史の授業で出て来たガリヴァルディ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世という名前くらいは覚えています。日本の場合「日本統一何周年」といった数え方は聞いたことが無く、これも島国なので内実はともかく実効支配のエリアに大きな変化は無いからでしょう。ともあれ、そういうポスターを見るだけで店の前をスルーし続けています。

交響曲 第4番 イ長調
第1楽章:Allegro vivace 
第2楽章:Andante con moto 
第3楽章Con moto moderato
第4楽章:Saltarello; Presto

 グイド=カンテルリ指揮のフィルハーモニア管弦楽団のイタリア交響曲と言えばこの録音の4年後、1955年録音のものがLPレコード時代から有名でした。今回の音源は忘れられた旧録音というよりも、カンテルリ本人が許可しなかったため発売されずにお蔵入りになっていたものです。あるいは制作側も忘れていたかもしれません。元々はEMIの録音で、その後新録音ともどもTESTAMENTからCD化されて出てきました。

111113a  このCDは先日のブラームの交響曲第3番と同じ1枚のCDに入っています。あらためて聴いていると、モノラル録音ながら何故これをカンテルリが発売させなかったのかすぐには(というか、最後まで)分からない程です。この曲の代表的な録音としては同じく1950年代のトスカニーニとNBC交響楽団のものが長らく挙げられてきました。しかし同じ時期の録音ながら若いカンテルリの方がより魅力的ではないかと思えます。そう思ったのは今回の録音ではなく、1955年録音の方を聴いた時で、特にその第3楽章が素晴らしいと感じました。Prestoの前の溜め、的な速さの対比だけでなく、陰影を感じさせる第3楽章の美しさが際立っています。今回の録音はその第3楽章の演奏時間が再録音より50秒程短く、それが新旧で大きく違っている点です。

1951年・アベイロードスタジオ
①8分28,②5分57,③6分12,④5分54 計26分31

1955年・キングスウェイホール
①8分13,②6分00,③7分02,④6分07 計27分22

111113c  メンデルスゾーン(1809-1847年)は1830年~31年にかけてイタリアへ旅行し、その際にこの交響曲を着想して1933年完成させています。第4番という通称とは違って本当は3番目に完成された交響曲で、メンデルスゾーンが24歳の時の作品です。快活な第1楽章、情熱的な第4楽章の印象が強いですが、第3楽章のかなしみを底に湛えたような音楽も特徴的です。個人的にはその第3楽章が特別に好きです。カンテルリの演奏では、まさにその楽章がつぼにはまっているように(特に再録音の方)思えます。それならそちらのCDで書けばいいようなものですが、二つの録音期間が4年くらいと短く、カンテルリが発売を許可しなかったという点も面白いので放っておけません。

 メンデルスゾーンはユダヤ系で父の代にプロテスタント・ルター派に改宗しています。しかし、ワーグナーの否定的な評価、ナチス時代に存在が抹消されかかった事等、没後も困難が降りかかっています。38歳の年に亡くなったメンデルスゾーンは生前、ユダヤ系であったことからもいろいろ葛藤があったのではないかと推測されます。民族が違おうが地域経済の一部であることに変わりなく、非ユダヤ系もユダヤ系と全く関わりを持たずに暮らすことは出来なかったはずですが、それでも差別や偏見の類はあったはずです(富めば妬まれ、貧しければ蔑まれ)。イタリア交響曲の第3楽章も、そうしたことと無関係ではないだろうと想像できます。

blogram投票ボタン

12 11月

シューマンのピアノソナタ第2番 イリナ・メジューエワ

111112a シューマン ピアノ・ソナタ 第2番 ト短調 作品22

ピアノ:イリーナ=メジューエワ

(2010年6月、11月、12月 録音 若林工房)

ピアノソナタ第2番ト短調作品22
第1楽章So rasch wie möglich
        ト短調・4分の2拍子。ソナタ形式
第2楽章Andantino
        ハ長調・8分の6拍子・三部形式
第3楽章Sehr rasch und markiert
        ト短調・4分の3拍子・簡潔なスケルツォ楽章
第4楽章Rondo:Presto
        ト短調・4分の2拍子・ロンド形式

 これは先日投稿の「子供の情景」と同じ2枚組CD(2枚目)に入っています。ロベルト=シューマン(1810-1856年)は当初ピアニストを目指して練習を重ねていたこともあり、初期の作品はピアノ曲が大半です。ピアノ・ソナタ第2番は、シューマンが手の怪我か腫瘍のためピアニストの道をあきらめて、作曲家、評論家として生きて行くことにした直後から手がけられた曲です。長期間をかけて完成され1、839年に出版されました。CD付属の解説によるとこの曲は、「アッパーショナータ」と呼ばれる程情熱的でかつ、構成的にしっかりした造形(シューマンの作品としては)で、音楽理論にも最新の注意が払われているということです。

 その「アッパーショナータ」、情熱という点について、シューマンの他の作品を思い起こせばちょっと意外で珍しいのではないかと思えます。シューマンは1840年にピアニストのクララ=ヴィークと結婚しますが、そうなるまで順風満帆ではなくクララの父に強く反対されたので、前年の1939(この曲が出版された年)には結婚を認めるよう訴訟を起こしています。時期的にみて、ピアノソナタ第2番を作曲している期間は、結婚できるまでクララへの想いが深まり、強くなっていった頃と重なるはずです。

111112b  この曲は「のだめカンタービレ」の中で、ヒロインののだめがコンクール(マラドーナ国際)の本選で弾く3曲の中に入っていました。その直前には、千秋が飛行機恐怖症を克服して、海外へ行くめどを付けたので、それを追ってのだめも海外へ行きたいと思い、本気でコンクールに挑戦することになったというストーリーです。結果は発熱のため3曲目の準備が間に合わず落選ということになりました。ただ、そういう「ひた向きな情熱、挫折」のお話と、シューマンのピアノソナタ第2番の曲想や作曲当時のシューマンの状況を考えればよくマッチすると思え、よく練られた選曲だと後からしみじみ思いました。京響の10月の定期公演に行った時、帰りの京都コンサートホール内のエレベーターの中で、コンマスが千秋君に似ていると言う人(楽器ケースを抱えていた)が居て内心「ちあきって誰ね?」と思い、やがて「ああ、のだめの話か」と気が付きやっぱり浸透しているなあと思いました。

 メジューエワによるこの曲を聴いていると、緻密で情感が溢れる演奏で大変魅力的でした。CD付属の解説には「このアルバムから聴こえてくるのは、まぎれもなく生の歌であり、歌声である」と評されて(國重游氏)あり、その音色は高いソプラノというよりは、広々としたアルトか、ノーブルなバリトンという印象とされています。この曲が出版される頃か、その直前くらいはシューマンが出来上がった楽譜をクララに見せて、彼女が弾いてきかせるという場面もあっただろうと想像できます。あるいは手紙と共に譜面が届いて、クララが一人でそれを弾いたかもしれません。その場合は和歌をやりとりした日本の昔のようですが、この曲も演奏もそういう秘めた姿よりももっと能動的です。女性ピアニストが弾いているとそんなことを思わされます。シューマンのピアノソナタ第2番のCDは少ないので、この新しい録音は貴重です。

blogram投票ボタン

11 11月

ブルックナー 交響曲第5 チェリビダッケ・ミュンヘンPO 1993年

1111b ブルックナー 交響曲 第5番 変ロ長調 WAB105 (ハース版)

セルジウ=チェリビダッケ 指揮

ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 

(1993年2月14,16日 ミュンヘン、フィルハーモニー・ガスタイク 録音 EMI)

 先日ちょっとしたきっかけで、自宅の庭にあるヒノキの木を切り倒すことになりました。2階の屋根くらいの高さになっているので自分では伐れなくなり、山仕事や建物解体もする植木屋さんに頼みました。概ね50年くらいの木で、花粉の時期になるとまわりに撒き散らして洗濯物が干せなくなる程です。切り株の直径は30センチ近くありました。伐った当日の夜、やけに窓から明かりがさすと思ったら、木の陰に隠れていた街灯が丸見えになっていました。

 EMIからかつて出ていたチェリビダッケの一連の録音集は、噂では遺族と条件(金銭)面でもめていたから当面は再生産されないと聞いてましたが、先月突如激しく一括廉売されました。このCDは、上の写真にある通りかつての分売版です。当面再生産されないと聞いて店頭在庫があれば特にブルックナーは買うようにしていましたので、中途半端な揃い方になってしまいました。チェリビダッケはレコードを作るために録音をしないことで有名で、限られた数のライヴ録音があるだけでした。その中でもブルックナーは第3番以降が正式発売のもので残されています。ブルックナーの交響曲第5番については他に1986年の東京、サントリー・ホールでのライヴ録音(今年6月記事投稿)があります。

1981年11月25-26日・Stuttgart RSO 
①21分45,②23分09,③13分35,④24分45 計84分14
1986年10月22日・Munich PO 
①23分21,②24分37,③14分23,④26分43 計89分04
1993年2月14,16日・Munich PO
①22分43,②24分14,③14分33,④26分10 計87分40

1111a  チェリビダッケのブルックナーは、並ぶ者が無い程の遅いテンポでも有名です。ブルックナーだけでなく他の作曲家の作品の演奏でも概ねそういう傾向で、晩年程それが顕著です。上記はチェリビダッケのブルックナー第5番のCDの演奏時間です。ブルックナーの第5番なら、下記に列記した(リンクは無し)ように合計の演奏時間は長くても80分程度におさまります。チェリビダッケも1981年の演奏ならまだ他の演奏家と似たような楽章もありますが(聴いた印象はともかく)、後の2つはかなり規格外の演奏時間になっています。一番速いベンジャミン=ザンダーとは20分も差があります。特に第2楽章は抜きん出て遅いものです。第4楽章も遅い方ながら、アイヒホルン、クレンペラーやティントナーも近似します。反面、第3楽章・スケルツォだけは他の3つの楽章のように既存の演奏と乖離せず、普通のと、言える演奏時間です。

 スケルツォ楽章だけが遅くないのはチェリビダッケのブルックナーの特徴のようで、第8番でも同様の傾向です。これでスケルツォまでがスローテンポなら、思いっきりだれてしまうかもしれないので当然のテンポかもしれません。しかし、こういう配分は同時に作為的過ぎるように思え、第5番の場合は曲全体の統一感が損なわれてるのでは?とおぼろげながら感じます。第3楽章が14分台の録音は、朱色字で表記したアイヒホルン、クレンペラー、ティントナー、ヴァントの4種あり、これらは第2楽章のアダージョを比較的速く演奏しています。そこがチェリビダッケと異なり、チェリビダッケは8分程遅くなっています。こういう大作は連続して最初から最後まで聴いても全体を把握し難いものですが、聴いた直後に全体を俯瞰できればおそらくチェリビダッケは独特の感覚だろうと思えます(正直私はよく分かりません)。

アイヒホルン(1993年
①20分42,②17分38,③14分41,④27分39 計80分59

クレンペラー・ニューPO(1967年)
①21分13,②16分35,③14分40,④26分40 計79分28
ヨッフム・ドレスデン国立O(1980年)
①21分26,②19分16,③13分04,④23分42 計77分30
ヨッフム・バイエルン放送SO(1958年)
①20分48,②19分18,③12分30,④23分59 計76分52
ティントナー(1996年)
①20分17,②16分23,③14分17,④25分55 計76分52
ヨッフム・RACO(1964年)
①20分54,②18分55,③12分41,④23分04 計75分34
ヴァント・ケルン放送SO(1974年)
①20分10,②15分49,③14分13,④24分08 計74分20

ヘレヴェッヘ・シャンゼリゼO(2008年)
①20分12,②18分08,③12分27,④22分27 計73分14
アルブレヒト・チェコPO(1995年)
①18分50,②17分35,③13分42,④22分46 計72分55
インバル・フランクフルトRSO(1987年)
①19分43,②14分41,③13分45,④22分22 計70分31
マルクス・ボッシュ (2005年)
①19分34,②16分02,③13分11,④22分58 計69分45
ザンダー・PO(2008年)
①18分58,②16分00,③12分36,④21分01 計67分35

1111c  このCDのジャケット写真には禅寺の石庭が使われ、解説パンフレットの中には寺院の中で僧侶と座るチェリビダッケの写真が入っています。自身でも禅に傾倒しているようで、演奏や作品についても独特の理論で説明しています。しかし第3楽章だけ普通の速さというブルックナー演奏を聴いていると、観念的な理論よりも綿密な算術計算に支えられた、定量化できる世界の話のようだと思えます。また、これだけゆっくりとした演奏でも、不思議と鈍重、粗いという印象は無く、各楽章の楽章開始部分などごく弱い音の個所も魅力的です。この点も入念に計算された結果だろうと想像できます。今年3月に記事投稿したシュツットガルト放送SOとの第3番の録音(これはチェリビダッケの唸り声が大きかった)と比べると、CD添付の禅関係の写真の影響もあってか、あぶらが抜けた清らかな印象さえ受けます。

 「熱くもなく、冷たくもなく、生ぬるいから、わたしはあなたを口から吐き出す」とは、新約聖書ヨハネの黙示録でラオデキアの教会に対して警告される言葉で、その尺度で判断すれば( 関係ないけれど )全曲合計が67~69分というザンダー、ボッシュらの演奏も、87、89分というチェリビダッケの演奏も半端ではないので注目に値します。速い方のマルクス=ボッシュとアーヘンSOの録音はブルックナーの他の交響曲(2~4番、7、9番)で記事投稿しているように残響の長い大聖堂でこういう速いテンポで録音しています。

1111d  ベンジャミン=ザンダーとフィルハーモニア管の録音(今年7月記事投稿)も速い演奏で、これについて音楽学者でもあるザンダーは、 ブルックナーの5番を研究していくと、それがシューベルトの音楽に近いと知り、その音楽の歌謡性を実現するためには『現代の一般的な解釈』では遅すぎるので、活発で推進力を持ったテンポを選んだ と説明しています。一般的な解釈とは75分程度の演奏のことかと思いますが、それでも遅すぎるという主張、実践です。これは実際にザンダーの演奏を聴いてみても説得力があります。しかし、理屈は抜きにして、チェリビダッケのブルックナーは聴いていて魅力が無いとは思えず、特に晩年のものほど印象深いと思います。結局、ああだこうだと言ってもよく分からず、チェリビダッケのブルックナーは、頭の中を真っ白にして虚心に受け止めるに限るということかと思います。なお、このCDには演奏前後の拍手は別トラックで収録されていますが、チェリビダッケの唸り声はほとんど入っていません。

blogram投票ボタン

QRコード
QRコード
タグクラウド
タグ絞り込み検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

プロフィール

raimund

昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

メッセージ

名前
本文
アーカイブ
twitter
記事検索
カテゴリ別アーカイブ
  • ライブドアブログ