raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2011年01月

31 1月

マーラー 交響曲第6番 レヴァイン・ロンドンSO

 今朝車の運転席に座り、車内にある温度計を見るとマイナス3度(摂氏)を表示していて、この冬の最低記録更新を確認しました。それでも霜が全く付着していなくて視界は良好でした(気分は良好ではない)。橋上や幹線道路沿道にも電光の気温計があり、それはマイナス2度だったので間違いない寒さです。明日から2月です。京都市から南部方面は下旬の、醍醐寺・通称五大力さんが済むまではまだ真冬です。

マーラー 交響曲 第6番 イ短調「悲劇的」

ジェイムス=レヴァイン 指揮 ロンドン交響楽団

(1978年2月 録音 Sony Classical )

110131  昨年格安で復刻再発売されたレヴァインのマーラー交響曲選集からの1曲です。昨年は選集の中から最初に交響曲第9番を取り上げ、その演奏の素晴らしさに驚かされました。マーラー好きな方には周知の名演だったようで、HMVのサイトにも第5番が当初ベストセラーだったと書かれてありました。第9番の演奏は、個人的にクレンペラーの各楽章・演奏時間と似ている面があり、二重の喜びでした。クレンペラーは最初とその次のポスト(歌劇場の指揮者)をマーラーのおかげで得ることが出来たり、第2交響曲のピアノ版を編曲したりでマーラと交流があったにもかかわらず、第6交響曲を録音どころか演奏していません。第6番は特に好きな曲なので、もしクレンペラーが演奏していたらという観点からもこのレヴァイン指揮の録音は興味深いものがありました。レヴァインは、あのジョージ・セルのアシスタントをつとめていた時期もあり、そのセルはクレンペラーの後任としてストラスブールの劇場に指揮者に就任する際に、R.シュトラウスの仲介でクレンペラーと会い、その後ベルリン・クロールオペラのリハーサルを聴きに行っていました。

①22分38,②13分40,③15分06,④30分02 計:81分26

 このCDのトラックタイムは上記の通りです。この曲はCD選集・10枚組で、第1~3楽章が1枚のCDに収まり、第4楽章が交響曲第3番の第1楽章と同じCDに入っています。全集、選集の場合はよくあるケースですが、第4楽章が終わってCDを止めるまでの間に第3楽章が始まればちょっと嫌な感じです。カーナビのHDや携帯用オーディオにファイル変換して転送する場合も悩ましいものです。

110131a  第1楽章冒頭は予想していたより柔らかく、弱めの音だったのが少々意外でした。オーケストラがロンドン交響楽団(このシリーズでは交響曲第1番もロンドンSO)なのも、フィラデルフィア管との演奏だった第9番と比べての印象の違いに影響しているかもしれません。それでも聴き進むうちに気にならなくなりました。この第6交響曲で一番強い印象だったのは第4楽章でした。曲の一番最後、一旦静まり返った後の強奏が、ともすれば曲の一部というより曲、演奏の外側にある物音や騒音のような断絶した印象を与えるのに対して、あくまで連続する曲の一部であることを強く印象付けるものでした。そのことが第4楽章の演奏の特徴をあらわしていると思えます。長大で複雑なこの楽章がとても魅力的な音楽に聴こえます。

 先日取り上げたガリー=ベルティーニ・ケルン放送SOとのCDのトラックタイムは次の通りで、今回のレヴァイン盤より少し長い程度です。

①24分04,②13分33,③16分16,④29分22 計:83分15

 一方下記は、これも印象深いテンシュテット・ロンドンPOの全集に含まれる演奏のトラックタイムで、レヴァインと比べて5分以上長くなっています。

①24分19,②13分00,③17分12,④32分35 計:87分07

 下記はラトル盤のタラックタイムです。こうして比較すれば全般的に淡泊で流れて行く演奏に見えますが、聴いているとそうは思えず、念入りに楽譜を掘り起こしたような演奏でした。ラトル・バーミンガム市SOのマーラー第6番については、独特のリズミ感がある演奏とした評がありました。それに対して、レヴァイン盤は、従来のマーラーのイメージとあまりかい離しない、ゴツゴツした感触を残しています。これは録音、演奏している年代の違いも大きいと思いました。

①25分35,②16分53,③13分21,④30分34 計:86分23

29 1月

ブルックナー交響曲第2番・初期稿 ヤング ハンブルクPO

ブルックナー 交響曲 第2番 ハ短調 WAB102 (初期稿・1872年稿
 
シモーネ・ヤング 指揮
 
ハンブルク・フィルハーモニー

 
(2006年3月12,13日 ハンブルクのライスハレ(ムジークハレ)ライヴ録音Oehms )


 演奏家のプロフィールには生年月日が書かれてあって、聴く側はこの録音時は駆け出しでとか、最晩年でと結構気にしています。ピアニストや弦楽器奏者、声楽家なら特にそうだと思います。しかし、女性アーティストの場合生年は省略されていることもあり、現役の邦人の場合は特にそうです。年齢なんか分からなくても演奏だけ聴いて、舞台姿を見て感じたままで良いというところですが、ちょっと気になります。今回のCDは珍しい女流指揮者で、HMVのサイトにあった記事には生年月日まで書かれてありました。その点は他の男性指揮者と同じ扱いでした。

* ウィリアム・キャラガン校訂(2005年出版)
第1楽章 Ziemlich schnell
第2楽章 Scherzo: Schnell
第3楽章 Adagio: Feierlich,etwas bewegt
第4楽章 Finale: Mehr schnell


 今回は先月に取り上げたブルックナーの交響曲第2番初期稿の初録音(アイヒホルン盤)に続いて、その楽譜が出版されてから初のCDです。女性で初めてウィーンPOを指揮したシモネーヤングとハンブルクPOのライブ録音です。このCDのトラックタイムは以下の通りです。


①20分40,②10分47,③19分32,④20分23 計:71分22

 一方、アイヒホルン指揮リンツ・ブルックナー管の方は次の通りです。

①19分40,②10分59,③15分42,④20分55 計:67分16


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 アイヒホルン盤は楽譜が出版される前の時期で、今回のCDの15年前の録音です。一見してトラックタイムで違いが大きいのは第3楽章ですが、その部分こそシモーネ・ヤングの演奏の素晴らしさが際立つ点でした。個人的にはこの曲のレコード、CDの中で、もっとも曲の美しさ、魅力を堪能できる演奏ではないかと思えました。第2楽章のスケルツオに続く第3楽章が、じっくりと歌わせながら演奏され、潤いのある格別の美しさでした。それが、速めに演奏される第4楽章の雄輝な音楽と対照的で、両楽章の対比が鮮烈で、互いに引き立ちました。アダージョ(この稿では第3楽章)は、演奏頻度が高いノヴァーク版(ヨッフム、ドレスデン国立管等)に比べて冗長と感じてしまうかもしれませんが、この演奏では全くそんな印象はありませんでした(多分に主観)。休符交響曲と呼ばれたこの作品の魅力もよく分かりました。この演奏を聴けば、同じコンビで交響曲第2番のノヴァーク版、ハース版、あるいはアイヒホルンが同時収録した1873年版等も録音して欲しくなりました。


 シモーネ=ヤングは昭和36年3月、シドニー生まれで、シドニーのオペラハウスからキャリアをスタートさせています。N響への客演があり、池辺晋一郎氏が司会をしていた頃のN響アワーにも登場していました。その時の映像では堂々とした指揮ぶりで、女性だからとかそんなことは関係ない様子でした。古楽のアンサンブルで女性がリーダーというグループもちらほら見られるようになりました。昨秋のアルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで、三ツ橋敬子さんが準優勝したというニュースも思い出されます。なお、ヤングはブルックナーの交響曲第3、4、8番も初期稿で録音しています。またワーグナーの指輪の録音も進んでいます。

              110129b

 ブルックナーの交響曲第2番は、1872年10月にオットー・デソフ指揮のウィーンフィルに完成した楽譜を送り試演奏をしてもらい、良ければ定期公演で演奏してもらうはずでしたが、結果は演奏できないということでした。この時の状態が今回の1872年稿にあたるわけです。作曲者が完成させた最初の状態ということです。その時の楽譜が所在不明だったのを、アメリカのブルックナー研究者ウィリアム・キャラガンがリンツの聖フローリアンで探し出して全貌を明らかにしました。


 試演時の指揮者デソフの意見は、長すぎるというものだったとかで、ブルックナーはそれらの意見を取り入れて改訂をしました。そして翌1873年10月26日にウィーン楽友協会大ホールで、ブルックナーの指揮によって初演されました。この時の状態が1873年稿で、アイヒホルンによってそれも録音されています。これはウィーン万国博閉会祝典の一環として、リヒテンシュタイン侯爵の援助により、ブルックナーがウィーンフィルの団員を雇って演奏するという形の演奏で、ブルックナーの交響曲が公にウィーンで初めて演奏された機会でした。


 上記の1872年稿、1873年稿が「第1稿」ということになり、この曲と同様に交響曲第3番、第4番も第1稿が存在して、従来演奏頻度が高かった版と併存しています。交響曲第2番のアイヒホルン盤に付属する解説によれば、第2~4番の第1稿と第5番は四部作ととらえられ、2番、3番、4番は初期稿・第1稿で演奏してこそそれが分かるということなので、以後シモーネ=ヤングとハンブルク・フィルのコンビで第3番、第4番と聴いて、取り上げる予定です。四部作云々といのは、作曲理論等に通じた一定以上の人間が聴いて分かることだとは思いますがこの機会に試したいと思います。

27 1月

バルビローリ・BPOのマーラー交響曲第9番

 先日お昼に「手打ち蕎麦 更科  よしき」という店に入りました。昨年に見つけたというより気がついた店で、関西には珍しい「生粉、更科、盛(二八)」と3種類が揃った蕎麦店です。蕎麦屋なので、昼から地酒を二合ものんでいるお客もいました。昨年の結石騒動以来、極力酒は控えているため、というより昼から酒をのむわけにはいかず、海苔の香りが漂う花巻そばを食べて帰りました。思い返せば底冷えがする日なのに、常温、燗、冷蔵庫と3つの温度から選べるのに冷蔵庫保管の酒をたのんでいたその客は、相当な酒好きだと思いました。しめに食べていたのも生粉打ちで、店頭で蕎麦を打っているのを見て入ってみたと店員に説明してところからも蕎麦好きでもあるのでしょう。

マーラー 交響曲 第9番 二長調

ジョン=バルビローリ 指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(1964年 ベルリン、イエス・キリスト教会 録音 EMI)

 最近HMVのサイトにある新譜ニュースを見ていると、この録音の何度目かの再発売も含まれていて千円を切る低価格だったので感心しました。昨年後半には国内盤で1200円/1枚で出ていました。そちらはHQCDと銘うったCDでそれにもかかわらず通常の廉価盤価格だったので購入していました。少し待っていれば更に安く買えたわけで、それにしても廉価再発売の輸入盤の値下がりには驚かされます。

 これはLPの時代から非常に有名な演奏で、最近改めて聴いてみると特に第2楽章の明朗さに意表をつかれて感心させられます。熱のこもった演奏の上に、これほど朗らかなマーラー第9も珍しいと思えました。告別の音楽だとしても、笑顔で退場していくような趣です。そういう印象なので、第4楽章がちょっと物足らないかもしれません。でも、枯れて乾ききったような演奏ではないので美しさは堪能できます。特に魅力的だったのは、第1、第2楽章で、バルビローリとベルリンフィルのコンビで録音することが決まった経緯も納得させられます。

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 バルビローリのマーラー第9番は、客演した時の演奏に感激してベルリンフィルの団員が是非録音したいと申し出て実現した伝説のレコードでした。1964年ならクレンペラーも存命だったので、LPレコードの頃はその逸話を幾分妬ましく思いながら買わずに通していました。この録音のLPも確か1枚当たり1800円のシリーズで再発売されていたはずです。バルビローリがEMIで録音したマーラーは第5、第6がフィルハーモニア管で、第9番がベルリンフィルでした。80年代前半に出ていたレコ芸の別冊「名曲名盤500」の中で、三浦淳史氏がバルビローリのマーラーを推していました。かつては築地市場の軒を連ねる店のように、誰それはドイツ系指揮者によるドイツ語圏のオケ専門で、またある人はアメリカのオケというように専門卸店のような感覚で面白味がありました。三浦氏はロンドン楽壇とアメリカを推していて、その余慶を被りクレンペラーへの投票が見られました。

 バルビローリのレコードと言えば、シベリウス(ハレ管)、ブラームス(VPO)の交響曲が話題になったのを覚えていますが、いずれも買えませんでした。今回のマーラー・第9番は独特の美しさを現せているものの、マーラー的、マーラーならではの感触という面ではちょっと薄いと思いました。この演奏がベルリンフィルの団員をそれ程感動させたのは、時代の影響なのかもしれません。当時はベルリンPOと言えどもマーラの演奏頻度は現代程ではないのは、昨年の京響の定期でマーラー・第7番を指揮した高関健がプレトークからも分かります。15年後客演した時のバーンスタインとはかなり違います。それで、マーラー的な、とはどういう要素なのかといことは多数の評論等で表現されてきましたが、いろんなものが絡まって詰まっているような光景に似た印象だと思えます。

 全然関係無い話で、池波正太郎の「鬼平犯科帳」の中で主人公である旗本・御先手組で火付盗賊改方のおかしら、長谷川平蔵は、「人間は悪いことをしながら、一方で良いことをする」としみじみと語ります(みなし子のバラード、伊達直人のあるいはその部類か)。悪いだけの純然たる悪人はいないと言っているのですが、汚いことやきれいなことが入り混じったのが人間の行動、生涯(大多数は)で、そうした複雑さは、マーラーの音楽の響きに通じることがあると思えます。マーラーの作品の中にあるフレーズの中に、無性に感情移入したくなるような部分が、人によって様々ながら、いろいろあるはずだと思います。

 TV版の鬼平には、原作に無い登場人物で食通・料理自慢の「猫どの」という同心が登場して、江戸の盛と田舎蕎麦のどちらが美味いかとか、盛と天ぷらそばのどちらが、とかしょっちゅう後輩のうさ忠と争っています。作者の池波氏は過度に食のネタを入れるのを嫌がっていたそうですが、猫どのの件はよくOKが出たものだと思います。他人がうまそうに酒を飲んでいるのを見て、休眠していた酒の虫が蠢動してきました。

26 1月

マーラー 交響曲第7番 ラトル バーミンガム市SO

マーラー 交響曲 第7番 ホ短調「夜の歌」

サイモン=ラトル 指揮 バーミンガム市交響楽団

(1991年6月21、22日 オールドバラ音楽祭・ライブ録音 EMI)

110126a  これは第2、6、10番の交響曲、「嘆きの歌」に続くラトルのマーラー・シリーズの録音です。昨年全集・箱入セットが14枚組なのに三千円を切る値段で出ていて驚かされました。紙箱の周囲の色が褪せているように一瞬見えましたが、これはこういうデザインでした(長期在庫とかではないと思われます)。「 レコード芸術 月評特選盤 交響曲編・上巻 1980-1992 」によると、新譜で出た時には特選を得ていて、故・小石氏、樋口氏ともに賞賛しています。ちなみに先日紹介の交響曲第6番も特選になっています。とすると、第2交響曲は特選にはならなかった(上記の本は、1980年から1992年に発売された新譜の内特選盤だけの批評を掲載しているので)ことになります。第6番の批評には、「じつに分かりやすく読み解いてくれる(樋口隆一氏)」と書かれてあり、まさしくそうだと思いました。今回の第7番もそうした演奏で、第6番よりも高い評価になっています。分かりやすいという性格に加えて、「刺激的で、内容の濃い(小石忠男氏)」と評されています。

①22分06、②14分40、③10分15、④12分19、④17分51 :77分11

 各楽章のトラックタイムは上記の通りで、演奏全部が1枚のCDにおさまっています。第7交響曲は1枚に収まらない場合も多いので、結構速い部類の演奏に入ります。時折名演として話題になる、ラトルより古い世代のテンシュテットとロンドンPOのライブ録音は下記の通りになります。

①24分07、②17分52、③11分10、④15分30、⑤19分53 : 88分32

 実際に聴いて聴いた印象は、第一楽章開始直後のホルンがすごく滑らかで、滑るように奏でられるのに驚かされます。この曲に対するイメージとしてどこか歪んで屈折したようなものを先入観として持ってしまいますが、霧が晴れたような心地がします。それでいて、マーラー作品には場違いな世界とは全然違います。かつて、マーラー第7番でクレンペラー指揮ニュー・POを取り上げた際に、この曲のプラハでの初演も聴いているクレンペラーがケルン歌劇場時代のコンサート・プログラムに載せた各楽章毎の解説文をかき出しています。それの価値はともかくとして、そこに書かれた曲の風景、現す世界が意外なことにラトルの演奏とピッタリ符合するように思えました。ただ二人の演奏は全然違うのですが。ちなみにクレンペラー晩年のマーラー第7番CDのトラックタイムは次の通りです。

①27分37、②22分01、③10分24、④15分39、⑤24分10 : 99分51

110126b  ラトルの演奏について1992年の新譜時での小石氏の批評には次のような賞賛ではじめらています。「ラトルはここで新しい表現主義とも言える演奏を展開している。それは、第一楽章の冒頭から楽想にひそむ意味と力を引き出しており、濃密な表現を彫り上げている。もちろん音楽的な美徳をそなえていることは言うまでもないなく、~」。意味と力を引き出すという点は、他の優れた演奏にも当然共通することのはずですが、最後の「音楽的な美徳」という点が際立っているのだと思いました。ラトルのこの演奏と19世紀生まれのクレンペラーとでは、演奏時間でなんと20分以上の差があり驚かされますが、その違いは「美徳」にあるのかもしれません。交響曲第7番を最初にこのCDで聴いていれば曲に対する印象も変わっていたと思えます。

 故、小石氏についての記事が先日新聞に掲載されていました。いつか自身の葬儀にはハイドンの「十字架上のキリストの最後の七つの言葉」を流したいと書かれたことがあったとか。ただ、ラトルのマーラー第6番では、上記の本に掲載されている文には第四楽章のハンマーが2回だけと書かれてあるのが気にかかります。正確には「ハンマー・ストローク」は2回だけ」とありました。聴いてみると、バーンスタイン、ショルティと同様に、コーダ近くで1回打たれていて3回だと思うのですが。あの文の真意を知りたいところです。

 ラトルのマーラーが出始めた頃、オーケストラがバーミンガム市交響楽団だったので、まだCD1枚当たりの値段も高かったので買わずじまいでした。この第7番を聴いてちょっと惜しいことをした気がしてきました。91年録音で翌平成4年に新譜で出たこの頃は、バーンスタインの再録音シリーズが終わり、テンシュテットの6、7番のライブ録音が出て、ベルティーニの来日公演での録音が終わったという時代でした。振りかえれば、その時期にこれを聴けばかなり印象深かったと思われます。

23 1月

ヨーゼフ=クリップスのモーツアルト交響曲集

ヨーゼフ・クリップス 指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

モーツアルト 交響曲 第21~41番

「録音年~1972年6月 (交響曲 31: アンダンテ, 35, 39-41)、1972年11月(交響曲 31, 38)

1973年6月(交響曲 22, 23, 25, 29, 30, 32, 33, 36)、1973年9月(交響曲 21, 24, 26-28, 34)」

 ブログ投稿画面でちょっと振りかえってみますと、最初に投稿したのが2010年2月5日となっていて、そろそろ丸1年になろうとしています。記事数も300を超えていてよく続いたと安堵混じりに感心しています。コメントをいただいたり、トラバックをしていただいたり、また検索経由で読んでいただいたり、予想外にアクセス数があり、有難いことだとあらためて御礼申し上げます。遅まきながら、当ブログはリンク・フリーで、特段通知等は必要としておりません。リンクやトラバックに気が付けば、当方もするようにしておりますが、OCNのブログ人で作成しており、トラバックがうまく出来ないブログもあり、一方通行のままになっている場合もあり、申し訳ございません。(また、今後当方がリンク、ブックマークをした場合、必ずしも双方向にリンクをすることを強いるものではありませんので、自由にご判断してください、念のため。もちろん、していただければそれは有難いことです。)

 ということで、今回は1周年の前倒しです。法事等も前倒しは結構でも、日付を過ぎてから行うのよく無いそうなので、覚えている間に。

            110123

 先日、モーツアルトの交響曲第32番について書かれた記事を読んだところ、どんな曲だったか思い出せずかなりきばったり、連想を飛ばしましたまが結局ダメで、とうとうCDを取り出して聴きました。これはこのブログで、ジェフリー=テイト指揮、イギリス室内管弦楽団でモーツアルトの第39番を取り上げた時、そのCDに収録されていた曲で、確実にここ何カ月かの内に聴いていました。その事は覚えていたので、何とか思いだしたいと、けっこう必死になりました。

 ごく稀に、クラシック音楽を滅多に聴かない人に、たまたま店舗のBGMで流れている曲の題名をきかれたり、XXってどんなメロディ?と尋ねられて答えに窮することがあります。そもそもクラシックの作品数自体膨大なので専門家ででもない限り、レパートリーに偏りがあったり、私のように記憶力の低下があったりで、知らない、答えられない曲があってもおかしくはないはずです。でも、モーツアルトとか、超有名作曲家の場合は、ヲタ魂をくすぐられるところがあります。

 その第32番ですが、一旦どういう曲か分かりスッキリしたのですが、さらに確かもっと前に他の演奏家、古い指揮者で聴いていたはずだったのを思い出し、こんどはその指揮者の名前と、CDをどこにしまったか思い出せず、悶々、イライラすることになりました。

 やっとヨーゼフ=クリップスだったのを思い出し、90年代にかなり安い輸入番で20番代の交響曲が良かったので、後にまとめて再発売された際に購入したことも思いだしました。演奏は記憶の通り、21~25番が入った1枚目は程良く力が抜けて、それでも曲の自然な美しさが活きた素晴らしい演奏でした。32番もテイト・ECOよりも魅力的に思え、曲自体も素晴らしく感じられました。ただ、このクリップスのモーツアルトは、肝心のというか後期の35番以降がどうも緩んでしまりのない演奏でがっかりした記憶があります。6枚組のCDなのでまだ全部聴きなおしていませんが、例えば39番と29番では演奏するのにそれ程違う資質が要るのだろうかと思います。

 クリップスと言えば未だに再発売が繰り返されるウィーンフィルとのドン・ジョヴァンニが有名でした。また、今は廃盤のボーイソプラノを起用したモーツアルト・レクイエムの古い録音がありました。

 よく「ど忘れ」という場面があって、あと一息で思いだしそうな、額の辺りを思い出すべき対象がちょろちょろしているようなもどかしい感覚になる、そういう頻度が上がってきています。そういう時は、あきらめずに何とか思いだした方が脳にはよいそうです。

22 1月

マーラー 交響曲第9番・バーンスタイン RCO

 早くも1月後半になり初弘法とか初天神の時季で、同時に受験シーズンに突入しています。入試でなくても高校の定期テストで、数学は結構プレッシャーがかかりました。大問を3つ出して2問選択とかで、平均点もかなり低いのが常でした。私は数学も苦手で、下手をすれば白紙答案になるかもしれないという切迫感、敗北感は、嫌なものでした。今となってはそんな事は実に些細なことと思えます。担任が数学の教師で、答案用紙に「理解していないのにとりあえず書くな!(既に見切っておったか)」というコメントも付加されました。指揮者は、その作品、内容を理解していなくても、楽譜通りに完全に演奏できるものかどうか分かりませんが、今回のバーンスタインは、スコアを一旦バラバラにしてもう一度組み直したような自在な演奏です。

マーラー 交響曲 第9番 ニ長調

レナード=バーンスタイン 指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

(1985年5、6月 アムステルダム、コンセルトヘボウ大ホール 録音 DG)

 * 各楽章のトラックタイム

①29分52、②17分26、③11分47、④29分34 計:88分39

  今回はマーラーの交響曲第9番、他演奏者のCDでトラックタイムだけ掲載してきたバーンスタイン最後のマーラー第9番のCDです。バーンスタインによるこの曲の録音は、今回のCD以外に、1回目が1960年代のニューヨーク・フィル、2回目(結果的に)のベルリンフィルとのライブ録音があります。さらに映像ソフトによるマーラー全集(ウィーンPO中心)もあってその中の第9番は1971年収録です。結局、交響曲第9盤の正式な音源は4種類あることになり、今回はその最後を飾る、集大成のようなものです。

 この曲の他の録音のトラックタイムを挙げると以下のようになります。今回のバーンスタイン盤は、先日紹介のレヴァイン盤以外では一番遅い演奏という結果です。

 バーンスタイン・BPO~1979年

①27分37、②15分54、③12分05、④26分11 計:81分47

カラヤン・BPO~1982年

①28分09、②16分37、③12分47、④26分31 計:84分04

カラヤン・BPO~1979年

①29分11、②16分47、③13分16、④26分44 計:85分58

レヴァイン・CSO~1979年

①29分36、②18分02、③14分16、④29分50 計:91分44

クレンペラー・NewPO~1967年

①28分13、②18分43、③15分21、④24分17 計:86分33

110122a  このバーンスタインの9番は、こうした演奏時間がどうこうという定量化できる尺度でははかり切れないもので、すでに賞賛されている通りの内容です。指揮者の中には作曲家を志しながら、生活のために指揮をするようになったという人もいます。ミスター・S、ギーレンもそういうタイプのようです。度々引用している(なかば強引に)「クレンペラーとの対話 P.ヘイワーズ編(白水社)」の中に、「指揮だけを専門にする指揮者」と、「作曲をする指揮者」の二つのタイプについて論じられている個所があります。前者はニキシュ、トスカニーニ、メンゲルベル、カラヤン等で、後者はマーラー、R.シュトラウス、そして作曲家としての認知度に大差はあるもののクレンペラー本人等です。この中で、R.シュトラウスが通奏低音のチェンバロを弾きながら指揮するモーツアルトのオペラの素晴らしさについて、クレンペラーは「モーツアルトの作品の中にシュトラウスが現れる」と評し、その創造的な演奏に感服していました。

22b  バーンスタインも作曲家としても名を残す指揮者で、よく賞賛されるような創造的な、「マーラーの中にバーンスタイン自身が現れる、あるいは乗り移ったような」演奏と言えると思います。両端の1、4楽章が特に圧倒的で演奏時間の長さからも覗えるように、入念な演奏です。なお、当時若手だったレヴァインの録音が、両端楽章の演奏時間で今回のバーンスタインと近似するのは意外です。レヴァインももっと注目されてもよい演奏ではないかと思えます。それはさておき、特に第4楽章を聴いているとこの演奏は、単に創造的というだけでなく、特別な思いか何かがあると思えます。先日の交響曲第6番も今回と同じシリーズの録音で、この第9番が第一弾の録音でした。

 バーンスタインによるマーラーの交響曲第9番で、もうひとつの名盤として1979年のベルリンフィルとのライブ録音が有名です。発売されたのはそちらの方が後(約6年後の1992年)で、ライブらしい熱気、波濤のような圧迫感等で、より印象深いかもしれません。今回第4楽章だけ、連続して2種の録音を聴いてみました。解説によるとベルリンPO盤はアナログ録音で、アムステルダムとベルリンとホールの違いだけでなく録音環境も異なっています。その影響もありますが、今回のロイヤル・コンセルトヘボウ盤の方がよく制御されて、内向的な性格だと思えます。BPO盤はバーンスタインの声がふんだんに入っていて、オーケストラ共々燃えているような演奏です。

110122c  80年代後半頃からバーンスタインは、バイエルン放送SOやニューヨークPO等一流のオケを振って名曲の再録音していました。それらのほとんどは、テンポを極端に遅くした独特の表現で、一時期あの宇野功芳氏が「ほとんどは失敗作」と評する程でした。個人的には悲愴交響曲(終楽章が異常に遅い)は 大好きですが、ちょっと個性的過ぎる表現と言えるかもしれません。そういう性質は、今回のマーラーの第9番にも感じられ、この点では古いベルリンPOとのライブ録音の方が穏健(というのも適切ではない)で、より情緒的に訴える熱演の感動かもしれません。

 とにかくあらためて聴いてみると、この曲で名演、名盤とされたジュリーニ・CSOやカラヤン・BPO等はちょっと存在がかすみそうに思えました。とにかくこのマーラー第9番は、独自の、完成された世界なのだと思いますが、カメラ目線ではなく誰はばかることなく自分の好みを言えば、クレンペラー、レヴァインの演奏のような第2楽章、第3楽章の時間感覚、各楽章のバランスが好ましいと思えて、1曲を通して聴く場合は特にそう感じられます。

21 1月

マーラー 交響曲第6番ベルティーニ ケルン放送SO

マーラー 交響曲第6番 イ短「調悲劇的」

ガリー=ベルティーニ 指揮 ケルン放送交響楽団
 
(1984年9月 録音 EMI)

 ある楽曲について、自分が最初に聴いた、最初にじっくり聴いた(最初に買ったLP、CD)演奏というのは結構大きく強い印象を与えるものだと思います。また、最初の印象、愛着をひっくり返すだけの演奏というのもあり、それの力も凄いものがあります。マーラーの交響曲第6番についての最初の録音が、ベルティーニとケルン放送交響楽団によるこの演奏でした。これは、同コンビによるマーラー交響曲全集の1作品目の録音(発売は2作目の第3番が最初になった)でした。ドイツ・ハルモニアムンディの輸入盤を、JEUJIYA三条店で何らかのバーゲンの際に購入しました。

 最初にこれを聴いた時に、第1楽章冒頭から引き込まれました。先日のバーンスタイン・VPOと比べると坦々と進む陰気な行進曲のような調子で始まりますが、それがかえって不気味に思えました。機械的に整然と行進して行き、到着した所がガス室か餓死室だったとしたら、この行進は整然と進む程に哀れで悲しいもので、そんなことを(勝手な想像でしかない)連想させられました。マーラーの行進曲調の楽曲は特に何らかの皮肉、自嘲のような響きが感じられます。第6番、第7番あたりは特にそんな印象です。

110121a  更に魅了されたのは、第2主題であるアルマの主題が最初に登場する部分で、激しくも美しい主題が現れる直前の、一種の間のように感じられる静まりが、その妻アルマを現すとされる主題と対照的でそれを引き立てます。運命のように突然アルマが現れたような感覚で(これも勝手な想像)、声こそ挙げなかったものの美しさと併せて驚かされました。また2楽章も魅力的で、続く3楽章のアンダンテも極めつけ美しく感動的でした。そこまでは非の打ちどころが無いと、今でも思えるほどです。長大な終楽章は、複雑で一筋縄ではいかない楽曲なので、初めて聴いた時は圧倒されるだけで、この演奏が良いのかまで意識が及びませんでした。

 と、この録音による最初のマーラー第6経験を思い出してみましたが、今改めて聴いてみると、そこまでの驚きを含んだ感動はありませんでした。また、ベルティーニはこの曲を2002年に東京都交響楽団とライブ録音をしています。約18年後の演奏で、オーケストラや会場、録音環境は違いますが、あるいはその再録音の方が評判が良いかもしれません。しかし、少なくとも1楽章は、今回のケルン放送SOとの演奏が圧倒的に素晴らしいと思えます(と言っても、同時に聴いて比べているわけではありませんが)。

 このCDと、同じシリーズのマーラーの第3番を聴いて以来ベルティーニが大好きになり、この指揮者の振るトリスタンを是非聴いてみたいと思い、ひそかに録音が出るのを期待していました。しかしそのわりに、ベルティーニのCDはマーラー以外は買っていなかったのに気付き、他の作曲家の演奏がどんな具合か気になりはじめました。ベルティーニについては、個人的な感慨はこのように大きいのですが、これまでの再発売のされ方を見るとバーンスタインやテンシュテットに比べ、特に海外では弱いようです。

20 1月

クレンペラーの新世界交響曲/ドヴォルザーク

ドヴォルザーク 交響曲 第9番 ホ短調 作品95「新世界より」


オットー=クレンペラー 指揮

フィルハーモニア管弦楽団


(1963年 録音EMI)


 年末がベートーベンの交響曲第9番なら、年明けの演奏会ではドヴォルザークの新世界交響曲がプログラムに載ることがしばしばありました。最近はそうでもないようです。確かに終楽章の一番最後の部分を聴いていると、何となくこれから新しい未来が開けてきそうな清々しい気分になります。

110120  この曲の冒頭は、” Swing low, sweet chariot ”の主題のところまで、だんだんとゆっくり演奏する慣習がありましたが、この録音のクレンペラーはその伝統に従わず「急いで通り抜けてしまって」います。この点について、録音時の様子がクレンペラーのヘンデル・メサイアの国内盤LPの解説書の中に書かれてあります。オーケストラが自動的に、慣習に従って冒頭からゆっくり演奏し出すとクレンペラーは当惑したように演奏を止めて「諸君はこのシンフォニーを以前演奏したことはあるか?」と尋ねました。団員の多くは当然「はい」と答えましたが、クレンペラーは明らかに当惑の色を浮かべて「私にはそうは思えない」と言いました。「何故遅くするのか?そう記されて(スコアに)いません」と言い、その部分を最初から演奏し直しました。すると、その主題に軽快な調子が、乱れの無いきちんとしたリズムで演奏されることによって、美しく演奏された時にオーケストラの音よりひときわ高い声でクレンペラーが「そうです!」と叫びました。

 つまり、伝統的に神聖視されていたその楽章に対する解釈でも、もしそれが、音楽の内なる真実を阻害するものなら、クレンペラーにとって何の意味も無いということで、戦前のベルリン・国立歌劇場(クロールオペラ)時代から同じ姿勢です。天の邪鬼的で頑固な性格でもあり、いろいろ波風も立ちましたが老いても変わりませんでした。この曲冒頭のエピソードど同様に、新世界とか幻想、英雄等交響曲に標題的な愛称が付いていても、それが作品の内容と本質的に相いれないもの、関係があると認められないのなら、それらの標題的イメージは演奏には必要ないという姿勢で、一事が万事でした。

110120a  一曲通して聴いてみると、クレンペラーの個性が行きわたって曲の隅々まで照らし出すような演奏です。それでいて冷たいと感じさせない独特の空気です。各楽章のバランス、ひとつの曲としての統一感は例によって格別です。ただ、リズム感、あるいは風が吹き抜けるような爽快さはあまり期待できません。第3楽章などはそうした要素もあってもよいところです。この録音は、1980年代に「クレンペラーの芸術」というLPのシリーズで1枚1500円で発売されていました。最新のデジタル録音の新譜が1枚2800円という時代でした。クレンペラーの芸術シリーズは、ベートーベン、モーツアルト(ジュピターと40番は除く)の交響曲、チャイコフスキー(4~6番)、フランクの交響曲、幻想交響曲、このドボルザークの新世界等がラインナップされていましたが、一番安いシリーズでした。いろいろ褒めてみても、「クレンペラー命」な人向けのレコードという面が強かったと言えます。

 新世界交響曲の第二楽章は、キャンプファイヤの時(に限ったわけではない)歌う「遠き山に日は落ちて」という歌になっている有名な旋律が登場します。この慰めに満ちたメロディーは日本のプロテスタント教会の讃美歌にも取り入れられています。なんでも天国を題材にした歌のようです。また、第四楽章はNHK教育でアニメ化されて放送されている漫画「MAJOR」の登場人物で主人公のライバル、眉村が当番前に聴いてリラックスする曲として使われています。

 この曲はバーンスタインとNYPOのミュージック・テープで最初よく聴いていて、次にFMから録音したテンシュテットとBPOをよく聴きました。後者は曲のフィナーレが特別気に入っていました。今日は大寒で、また寒さがもりかえして来ました。そのミュージック・テープはJEUJIYA・三条店(当時は河原町通)で買ったはずで、三条大橋を渡る時には越冬で鴨川に飛来しているユリカモメが沢山居ました。鳥インフルエンザ等の影響かどうか知りませんが、橋上でパン屑をやる人も見られず、このところユリカモメの数も減ったようです。

19 1月

マーラーの交響曲第6 バーンスタイン・VPO

マーラー 交響曲第6番 イ短「調悲劇的」

レナード=バーンスタイン 指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 
(1988年9月 ウィーン・ムージフェラインザール ライブ録音)

110119  先日、サイモン=ラトルのマーラー第6番を最初から最後まで通して聴いているとこの曲を初めて最後まで聴いた時(ベルティーニ・ケルン放送SO)の感覚を思い出し、改めて第6番の魅力を再確認しました。そこで、ラトルの対極にありそうなバーンスタインの再録音を引っ張りだしてきました。また、第4楽章のハンマー打撃の回数が、このバーンスタイン盤もラトルと同じく3回になっています。4楽章の終わり近くでその3度目が打たれるのですが、曲の一番最後で一旦静かになって突如オーケストラの強奏があるので、その前の3度目ハンマーはあまり衝撃的に思えません。初演する前はハンマー打撃は5回という案もあったとかで、今では2回で演奏することが多いようです。 (写真:護王神社《京都市上京区》のくじ付猪)

110119a  あと、楽章の順番についてですが、この演奏ではアンダンテは第3楽章になっています。この点、ラトル盤は第2楽章にアンダンテを入れていました。マーラーも作曲後にいろいろ手を加えているので、ブルックナー程ではなくても同曲異稿が存在します。あるいは、従来演奏されなかった形で演奏されるようになっているといったところでしょうか。

 バーンスタインは1960年代に主にニューヨークPOとマーラーの交響曲を全曲録音しています。その時、1967年に第6番は録音されているので今回のものは20年以上後の再録音です。旧全集の中から第1番はLPでよく聴いていました。とても全曲は聴けませんでしたが、FMを通じて何曲かは聴いたはずで、よくも悪くも猪突型(とってつけたように猪と)な演奏だと感じていました。新録音が登場後はそちらの方の評判が高く、陰が薄くなりました。レコ芸の特選については第4番、5番以外は2名推薦・特選を獲得しています。ただ、第8番と10番アダージョはその一連の再録音時のものではなく(バーンスタイン急逝のため間に合わなかった)、70年代のVPOとの録音が充てられています。

110119b  そういうわけで、この第6番も特選で、不動の地位を獲得していました。しかし、私は聴いた時期、タイミングのせいもあってか全面的には好きになれずにいました。今回のCDは第5~7番と歌曲をまとめた廉価セットで、何度か聴いて最近はお蔵入り状態でした。それが、上記のようにラトルがきっかけでハンマー3回が気になって先週から何度となく改めて聴きました。やはり、この曲の演奏、録音として無視できない凄いものだと思いました。他の多くの演奏が甲冑や兜を体から外して飾っている、又は分解して見せていると例えるなら、このバーンスタインは実際に身につけた上でどう見えるか、その美しさを提示しているような感覚で、冒頭から最後までこんな風に鳴るのかと驚かされます。

 全体的にそういう印象でも特に、第1楽章はどうも違和感を覚えてしまいます。緊迫した空気で始まる冒頭部分や、無造作に登場する”アルマの主題”は、最初に聴いたベルティーニ・ケルン放送SOの印象が強く、どうも乱暴に思えて好感は持てません。バーンスタインの演奏に単に美しいということを求めるのは的外れかもしれませんが、どうも独特の音楽の流れ方だと思います。

 「クレンペラーとの対話 P.ヘイワーズ編 (白水社)」によると、クレンペラーはオスカー=フリートが第6交響曲をベルリンで指揮した公演でチェレスタ(ハンマーが3回から2回になって、チェrスタが加わった)を弾いて参加し、「終楽章はほんとうにそれ自体のなかにひとつの宇宙を形づくっていて、生と死の悲劇的統合である」と述べています。しかし同時に自分には理解できないとも述べています。また、エッセンでのマーラー指揮による初演終了後は、指揮者控室に居たクレンペラー他は「悲しそうで元気が無かった(訪ねて来たR.シュトラウスがそう語った)」ということで、この作品の空気に支配され、打ちのめされたかのような状態でした。マーラーは第6交響曲を、自分だけの個人的なものだと感じていたようです。

 そうしたこの曲の感じ方、とらえ方は初演時、作曲者の没後しばらくの間までは支配的だったのだと思いますが、バーンスタインの新盤を聴いた後は確かに圧倒されるものの、打ちのめされて沈痛な感情に覆われるというのとは違う気がしました。

 先日、ある会合で京都会館の建替え計画の話を耳にし、オペラも上演できる劇場か、初台の新国立劇場のようなものをという案もあるそうです。どの程度実現性があるのか全然分かりませんが、いつの日にか常設の歌劇団でも出来ればと、14万8千光年先のイスカンダルをのぞむ心地で聞いていました。そういえば「びわこホール」の小澤征爾音楽塾によるフィガロの結婚が中止になったそうで、あのホールは赤字を抱えて苦心しているので、京都会館の建替えの話も期待できないでしょう。

15 1月

ブルックナー第2・1877年ノヴァーク版 ヨッフム・ドレスデンO

ブルックナー 交響曲 第2番 ハ短調(1877年ノヴァーク版)


オイゲン=ヨッフム 指揮
 ドレスデン・シュターツカペレ


(1980年3月4-7日 ドレスデン・ルカ教会 録音 EMI)


 今日でようやく正月の期間も終わりですが、これをUPする時にまだしめ縄を外していないことを思い出しました。また寒波がやってきます。大晦日に冬タイヤを交換しそびれて、今日までタイヤを積んで走っていました。ようやくオートバックスの大型店で交換できました。タイヤくらい自分で換えられたらいいのは分かっていても、走行中外れたりすればはた迷惑なのであきらめています。昨冬はタイヤを換えても結局一度も雪道を走ることはありませんでした。ことしはタイヤ交換でどこも混んでいます。

 ヨッフム2度目のブルックナー交響曲全集からの1枚です。ブルックナーのレコードの代表で、ブルックナーをそこそこ好きな人ならこの中からか、DGの旧全集の中のどれか1曲は聴いたことがあるのではないかと思います。日本でこの曲単独で発売されたかどうか知りませんでしたが、1982年4月のレコード芸術・月評で「特選」に推されていて(ONTOMO MOOK・月評特選盤 交響曲編 上巻 1980-1992)感心しました。大木正興氏、小石忠男氏のお二方の担当ですがヨッフムの旧全集の中の第2交響曲には言及されていませんでした。このドレスデンシュターツ・カペレとの演奏のトラックタイムは以下の通りです。

110115a_2
1楽章:18分03 Moderato

2楽章:14分57 Andante

3楽章: 6分54 Scherzo;Mässig Schnell

4楽章:12分46 Finale;Mehr schnel


 旧録音(DG)はバイエルン放送SOとの演奏で1966年12月録音でした。各楽章のトラックタイムは以下の通りで、新旧を併記すると終楽章以外は今回の新録音が長くなっています。終楽章は省略可という指示・注記の個所もあるのであるいはそれの影響かもしれません。新旧を連続して聴いたりとか、少しづつ交互に比べて聴くなどということはしていないのでどちらがどうかは分かり難いですが、今回の新録音は慎重で念入りな演奏だという印象でした。


旧:①17分57、②14分05、③6分37、④13分17 計:51分55

新:①18分03、②14分57、③6分54、④12分46 計:52分40


 ブルックナーの交響曲第2番はこのところ、
第1稿1872年版(アイヒホルンとリンツ・ブルックナー管)第2稿ハース版(ヴァントとケルン放送SO)と取り上げてきましたが、今回の第2稿ノヴァーク版が現在でも演奏頻度が高い、一般的な版のはずです。第1稿の後、1877年に大きく改訂されたものを基本にしています。前回のハース版も同様ですが、一部で第1稿を取り入れて折衷的に校訂していました。ノヴァークはその姿勢に批判的で、ハースが第1稿から取り入れた部分を削除しています。折衷云々と言っても作曲者であるブルックナー自身による第1稿なのでかまわないのにと、一般人は思ってしまいます。

 
アイヒホルン盤の解説には、交響曲第2番、3番、4番の各第1稿と交響曲第5番を4部作として位置付けることができるという見解が紹介されています。最近では、マルクス=ボッシュの進行中の全集が2~4番は初期稿で演奏録音していたり、シモーネ=ヤングが2、3、4番と8番の初期稿の録音を出す等新しい動きが出ています。というわけで、第2番の各版を聴いてから、その「4部作」を実感できるかどうか順次初期稿で聴いて行こうという考えでこのように取り上げています。ついでに、第2交響曲のフィナーレには
ミサ曲第3番ヘ短調のキリエ(1曲目)の旋律が引用されています。


 今回ノヴァーク版で第2交響曲を聴いてみると、特にフィナーレが後の作品と比べても個性的で魅力を感じます。よく評される「祝典的な高揚」とは少し異なり、もっと風通しが良い爽快な音楽になっています。第1稿からどんどん短くされてのノヴァーク版ですが、その点は強調される結果になっていると思えます。ヨッフムの旧録音の第2交響曲は、1昨年はしばしば聴いて、亡父の仏壇を置いている部屋で流したりしていました。耳が不自由で最後は人工内耳のお世話になっていた父はクラシック音楽の趣味はありませんでしたが、こんちくしょう(金竹小ではない)と思うことが少なくないこの世の中では、言語で現されば妙にこだわりを感じる時もあるのに、そういう時にブルックナーの特に第2交響曲には癒し的な魅力を感じます。

10 1月

マーラー交響曲第6番 ラトル バーミンガム市SO

 昨年は地元の京響・京都コンサートホールで演奏頻度が低いマーラーの第7交響曲を聴くことができました。今年もマーラー・イヤーですが来季の京都市交響楽団定期公演の予定が発表されていて、何と大規模なマーラーの交響曲第3番(大野和士)と一昨年聴き逃した第5番(下野竜也)が演奏される予定でした。第3番は特に楽しみです。内心マーラー没後100周年なので、特に好きな第6番を期待していました。これは他のオーケストラの関西公演に期待します。

 第6番が大好きと言いながら、長い第4楽章は複雑で、全体を把握し難い曲で、第1楽章から続けて聴こうとするとちょっと疲れ気味になります。今回のラトル盤のマーラー第6はその第4楽章が明快で美しく、悲劇的云々という固定観念とはちょっと離れた新鮮さです。

マーラー 交響曲第6番イ単調 「悲劇的」

* 国際マーラー協会版

サイモン=ラトル 指揮 バーミンガム市交響楽団

(1989年12月14-16日 ロンドン,ワトフォードタウン・ホール 録音 EMI)

 「バチン バーミンガム(腰をやや折り曲げて 左手で腰を叩きながら)」。これは小学生の社会科のごろ合わせで、イギリスのバーミンガムが鉄鋼業が盛んであることの覚え方です。今時こんな泥臭いことはやらないでしょうが、一時期この手のごろ合わせは流行りました。「バチン」とは鉄板を叩く金属音で、腰を曲げるのはイギリス(大ブリテン及び北部アイルランド連合王国、だったか)のブリテン島の中でバーミンガムの位置を印象付けるためで、全部合わせてあの位置に鉄鋼業が盛んなバーミンガム市があることを体で覚えるというものでした。その工業都市のバーミンガム市交響楽団を指揮した、サイモン・ラトルのマーラー交響曲シリーズが出始めた時、オーケストラが馴染みの無い名前だったので、限られた予算からそれらに回す気にならなかったのを憶えています。それが17年をかけて録音し、交響曲全集になっています。

                       110110

 昨年末「レコード芸術 月評特選盤 交響曲編 上巻 1980-1992」という本が出ました。下巻もありますが、パスして懐かしい上巻だけ買ってみました。1992年までにラトルのマーラー・チクルスは第6番、第7番が特選(つまり二人の評者が共に『推薦』盤にした)になっていました。今回の交響曲第6番は第2番「復活」に続くラトルの2作目録音で、月評だけでなくかなり好評だったようです。国際マーラー協会版で演奏していて、第2楽章がアンダンテ、第3楽章がスケルツオになっています。

 慣れのせいもあって第4楽章の直前にアンダンテ楽章が来る方が自然だとずっと思っていましたが、今回あらためて聴いてみると第1楽章の直後にアンダンテもかなり良いと思えました。これまでは、第4楽章が巨大な滝壺のようで第3楽章は、そこへ落ち込む前のつかの間の緩い流れのようなアンダンテこそふさわしいと思って(根拠は無い)いました。しかし行進曲調で始まる第1楽章に続いてアンダンテ、それからスケルツオの方が3つの楽章の流れは良いかもしれないと感じました。

 最終楽章のハンマーについてですが、コーダ付近(このCDでは28分をこえたあたり)3度目のハンマー打撃が復活しています。国際マーラー協会版はそうなっているそうですが、上記のレコ芸月評の一人の評では「『もちろん』ハンマーストロークは2回しかない」と書いてあり、?でした。これは数え方の違いなのか、この曲の稿が4種あると書いてあるように複雑なので分かりません。通常ハンマーをあまり意識して数えていないので。インバル(フランクフルト放送SO)のCDに付いているインデックスでは、コーダのところに3度目のハンマーが入る稿の位置(index20)を明記していあり親切です。そのCDの月評も上記の本に出ていて、2枚組6千円はお買い得だと書いてありました。しかし、このラトルの全集は14枚組で三千円未満で、不気味でさえあります。

 ラトルによるマーラーのCDを買ったのは初めてでしたが、一曲目に第6番を聴いてみて各楽章の繋がり、統一を感じさせながら美しい演奏で好感が持てるものでした。この感じなら、第7番も期待できます。少し軽いとも思えましたが、この録音から20年以上経た現代ならまた違っているかもしれません。

8 1月

カザルス ハイドン・告別交響曲

ハイドン 交響曲 第45番 嬰ヘ短調 Hob.1-45「告別」

パブロ=カザルス 指揮 プエルト・リコ・カザルス音楽祭管弦楽団

(1959年5月 録音 Sony Classical)

① A llegro assai:5分42
② A dagio:9分25
③ Menuet. Allegretto:5分02
④ Finale. Presto - Adagio:8分47

 これは晩年のカザルスが指揮したハイドンの交響曲正式な録音3曲(驚愕、95番、告別)を集めたアルバムです。タワーレコードとの共同企画です。第45番告別は確か80年代前半の「名曲名盤500」で同曲の3傑に挙げられていたと記憶しています。第95番は世界発CD化と表記されています。この45番は今から50年以上も前の演奏で、音もそれなりに古いですが演奏そのものは新鮮で力強くきこえます。舞台から演奏者が順番に去っていく物音もきこえます。

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 カザルスは1950年代からプエルト・リコ・カザルス音楽祭、プラード、マールボロの各音楽祭でモーツアルト、ベートーベン、ハイドン、シューベルト等の作品を指揮していて録音も残っています。特に(と言えいば個人的な好み)モーツアルトの後期交響曲が魅力的でした。このCDの解説の中に、カザルスの指揮する演奏のレコードを聴いた人の「魂が洗われるような」という感想が載っていました。大げさとも思えますがなるほどと肯かされるところもあります。自分自身、カザルスの指揮で最初に好きになったのはモーツアルトのハフナー交響曲で、こういう世界もあるのかと感動的でした。

 小学生の頃学年末に京都会館まで生演奏を聴きに行く恒例の行事があって、何学年かの時にハイドンの告別交響曲を聴いたことがあります。しかし演奏時間からして全曲ではなかったはずです。この行事は府警音楽隊の演奏の時もありましたが、告別を聴いた回は多分京都市交響楽団だったと思います。演奏者が段々減って行く様子は面白いと思って見ていました。しかしそのスタイルは最終楽章だけなので、それと曲そのものとはあまり関係ないとも思えます。

 現代のハイドンの交響曲演奏からすればこのカザルス盤はかなり遠いところにあるように思われ、音楽祭の臨時編成でもあり昨日のテンシュテットのCDのコピーを借りれば「洗練さが足りない」、その代わりに「一層生命力にあふれ、誠実な」とでも表現できる演奏だと思います。ハイドンの音楽には他の要素も必要かもしれませんが、疾風怒濤期の作品なら相性が良く(同時収録の94番、95番も良いのですが)非常に魅力を感じます。

 京都市交響楽団をはじめ、クラシック音楽の大きな演奏会は、京都会館第一ホールに替わり、今では京都コンサートホールが主な会場になっています。京都会館は、地下鉄東西線の「蹴上」か「東山」駅が最寄りながら少し離れています。京都コンサートホールは地下鉄烏丸線「北山」駅から徒歩2、3分です。ただ京都コンサートホールは中心部へ、市外、府外の南部や西部、東部方面から通勤通学で通う層にとっては、夜にあるコンサートは気分的にちょっと遠くしんどいと思ってしまいます。昨年は何度か京響定期に行きましたが、土曜か日曜の午後が行き易い時間でした。もっとも休暇の曜日が違う層もあり需要は色々だろうと思います。

7 1月

ブルックナー交響曲第8番 テンシュテット・BPOのライブ録音

 無病息災とか厄除けと正月はそういう言葉をよく見聞きします。昨日はさっそくウィルス性の胃腸炎に直撃され、一晩中トイレと布団を往復していました。幸いにも下痢だけでしたが車軸を流したような、底が抜ける程の激しさでした。思えば昨日の朝から食欲が無かったのに、お昼に坦々麺を食べて(何も考えとらん)しまいそれが引き金になったかもしれません。腹痛もあったので、最初は膵臓炎とかそっちの方にとうとう来たかと思ったほどでした。今朝は医院で薬をもらって来ましたが熱は38度あり、少々だるい感覚でした。小学生の頃なら38度を超える発熱ならおおっぴらに休めてちょっと嬉しいところです。今晩は「七草粥セット」でおかゆを食べられて、ちょっと回復しました。

ブルックナー 交響曲第8番ハ短調

クラウス=テンシュテット 指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(1981年11月 ベルリン、フィルハーモニー 録音 Testament)

110107b  これは昨年10月にテスタメントから発売された日本プレスのCDで、日本語の解説が付いています。2枚組で、バッハのヴァイオリン協奏曲第2番がカップリングです。秋に店頭でこれが入荷したかどうか店員に質問していた人が居て、やはり根強い人気があることと、EMIの録音は大半がLPOなのでベルリンフィルやウィーンフィルを振ったテンシュテットの演奏に飢え渇いているのが覗えました。ちなみにウィーンPOの方は8月にAltus からエロイカとマーラー第10・アダージョのライブが出ていました。昨年は他にもまとめて出ていましたが、この2点だけ購入していました。マーラー10番アダージョはLPOとの全集が素晴らしかったので期待を込めて買っていました。

 東ドイツ出身のユダヤ系指揮者クラウス=テンシュテットは、マーラー演奏で有名ですが、アメリカではブルックナーを振って大成功をおさめています。それでもブルックナーの方は4番、8番等限られた曲しか演奏していません。そのせいもあって特に日本ではマーラー指揮者というイメージが定着しています。「荘厳さは足りない。平穏さも足りない。しかしながら他にくらべ一層色彩ゆたかな演奏が聴かれた!」CDの帯びにそういうコメントが書いてありました。聴く前にそうした言葉が目に入るのは助けになる半面暗示にかかるようで、自由に感じられにくくなると思えます。それでも「荘厳さは足りない」というのはその通りだろうと想像できます。

110107a  特徴的なのは第3楽章・アダージョで、上記のコメントの「荘厳さが足りない」と「色彩ゆたか」は確かにあてはまります。マーラーのアダージョ楽章を演奏するような印象(とってつけたようで恐縮ながら)で、まるでアイロンをかけるような念入りさでこの楽章を聴く者に定着させるような演奏です。「平穏さが足りない」については、ブルックナーの演奏には御法度のように言われる演奏とは思えず、書かれている程ではないと感じました。テンシュテットの指揮は「踊るような」と表現され、このCDの解説でも「音楽は常に激しさを維持しなければならない」という彼の言葉を自身で狂信的に信奉しているように書かれています。実演を聴いた人のコメントもそういう傾向の表現があります。でも、録音で聴く限りでは悪い意味での「激しさ云々」という異端的な要素は感じられません(鈍感なのか)。

110107c  自分自身好感を持って聴いているのに未だ謎が多いテンシュテットです。なお、ブルックナーの第8番の版についてはCDに記載はありません。EMIのセッション録音も確か書いてありませんでした。LPOのライブ録音盤はノヴァーク版と書いてあるのでおそらくこれもそうだと思われます。ちなみに下記はこのCDのトラックタイム(一番上段)とLPOのライブとセッション録音のCD・トラックタイムです。HMVのレビュー記載のタイムにこのCDのものを加えています。ベルリンフィルとの演奏が少し長くなっています。1981年のロンドンフィルとのライブはこのCDのベルリンフィルの公演と1ケ月程しか間隔が無いのに演奏は結構違いそうなタイムです。

BPO(1981年11月)15分04,13分38,26分00,22分08:76分50

ライブ(1981年10月) 14分45,13分35,24分59,20分32:73分51
EMI(1982年) 14分16,14分01,26分02,21分03:75分22

5 1月

ブルックナー第2・1877年ハース版 ヴァント ケルン放送SO

ブルックナー 交響曲 第2番ハ短調(1877年ハース版


ギュンター=ヴァント 指揮
ケルン放送交響楽団


(1982年12月1-5日 録音 RCA)


 この大晦日、正月程平凡で特別なことをしなかった年は無く、元旦にエースコックのワンタン麺(今でもしつこく食べてます、のCMで有名)を食べていました。今年は餅も重箱も鰆等も無しでした。こういうのもたまには良いだろうと弁解がましく思っていました。今朝の道路はかなり空いていてなかなか快適でした。元日等は伏見の御香宮や伏見稲荷大社の近くで混んできますが、それもおさまっていました。後は十日戎の混雑が要注意です。

交響曲第2番ハ短調
1楽章:19分07 Ziemlich schnell

2楽章:15分42 Adagio;Feirlich,etwas bewegt

3楽章: 7分53 Scherzo;Schnell

4楽章:16分05 Finale;Mehr schnel


 先月の23日は
アイヒホルンによる同じくブルックナーの交響曲第2番、第1稿・1872年版を取り上げました。今回はギュンター=ヴァントの全集から第2稿・1877年ハース版です。このCDは先月からアイヒホルンと交互に何度か聴いていました。聴き終わると反射的にもう一度最初から聴きたくなる曲、演奏で、この感覚は心身ともに「ブルックナー欠乏症」になっている時です。涙が出る程とかそういう情緒的な高揚や振幅とは異なり、不思議な感覚です。ブルックナーについては作品が度々改訂されており、一つの曲に対して複数の版の楽譜が存在するという状況が他の交響曲でも見られます。第3、第4、第8は顕著で、第1もそうです。


 これは作曲者が完成させた1872年版を翌年改訂した1873年版に続いて、1877年に大幅に改訂された版を元にハースが校訂したものです。ハースは後年のノヴァークと異なり、第2稿・1877年に準拠しながら部分的に第1稿も取り入れるという折衷的な姿勢で校訂しました。この点をノヴァークは批判して、ノヴァーク版ではハースが取り入れた第1稿の部分を削除しています。先日の第1稿・1872年版との違いはスケルツオ楽章、緩徐楽章の順序が入れ替わっている点です。第2稿・1877年ハース版は、スケルツオが第3楽章になりました。またフィナーレ楽章を中心に全体的に短くなっています。ノヴァーク版では緩徐楽章がアダージョからアンダンテに変わっていますが、このハース版はそのままです(ややこしい)。

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 ヴァントのブルックナー第2番はおそらくこのケルン放送SOとの録音だけだと思います。ライブ録音等で過去に出たことがあったかもしれませんが、当方未確認です。演奏は弱音の美しさが印象的な精緻な演奏で、90年代に8番や5番で好評を得た演奏に比べてこじんまりしていますが(曲目が第2番であるので当然か)素晴らしいものです。1912年生まれのヴァントが特別に人気が高くなったのは80年代後半以降で、特に80歳を超えてからは顕著でした。この点は4歳年長のクルト=アイヒホルンのブルックナーと少し似ていました。ただヴァントのブルックナー演奏は、老荘系ブルクナーではなく今回のケルン放送交響楽団との全集の頃と基本的には変わらない、輪郭が鮮明で明晰さが身上の演奏だったと思います。


 ブルックナーはミサやモテット等の宗教作品も作曲していることから、ミサ曲のような交響曲、交響曲のようなミサ曲と便宜的に理解しようとします。ヴァントは前者のような考えに批判的だったようです。北ドイツ放送SOとのブルックナー第8、9の録音は会場の残響の違いもあって、短期に2度録音されていますが、ヴァントのこだわりをうかがわせます。

 私は温泉の湯を飲んだり、温泉につかるような気分でブルックナーの作品に接しているので、どの曲はどの版が優れている等の見識は持てる程ではありません。この第2交響曲はスケルツオは第2楽章に置かれる方が魅力的だと思えます(今のところ)。

3 1月

クレンペラー・NPO フィガロの結婚

モーツアルト 歌劇「フィガロの結婚」K.492


オットー=クレンペラー 指揮
 
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

ジョン・オールディス合唱団


フィガロ:ジェレイント・エヴァンス
スザンナ:レリ・グリスト
ケルビーノ:テレサ・ベルガンサ
アルマヴィーア伯爵:ガブリエル・バキエ
伯爵夫人:エリーザベト・ゼーターシュトレーム
マルチェリーナ:アンネリーズ・ブルマイスター
ドン・バジリオ:ヴェルナー・ホルヴェーク
ドン・クルツィオ:ヴィリー・ブロックマイア
バルトロ:マイケル・ランドン
ルバリーナ:マーガレット・プライス
アントニオ:クリフォード・グラント
2人の少女:テレサ・カヒルキリ・テ・カナワ


(1970年1月 録音 EMI)

 これはクレンペラーの姿勢について、基本的に好感が持てるかの踏み絵的なものとも言える録音で、彼の最晩年の記録です。この全曲盤は、60年代に録音されたモーツアルトの序曲集の中の「フィガロの結婚序曲」よりも遅いテンポで開始する個性的な演奏として良くも悪くも有名です。私筆者はこのCDを発売当時の輸入盤(独盤)で持っていてカーナビのHDに録音して聴いています。クレンペラーのモーツアルト録音は基本的に好きで、他のどの指揮者よりも愛聴してきました。このフィガロは、オーケストラの演奏は魅力的ですが、歌手は必ずしもクレンペラーの音楽にマッチしているとは思えません。特にフィガロ、バルトロのアリアはギクシャクして歌手がこのテンポを苦にしているように聞こえます。それに比べてグリストをはじめ女声は対応しています。オペラ録音の場合は歌手、キャスティングがレコード会社の意向(売れる企画)が影響して全部が指揮者の意向通りはいかないのが通常です。
 

 オペラ作品ごとの対訳・解説を集めた本の日本語訳が音楽ノ友社から出ていたことがあり、それの「フィガロの結婚」 の中にクレンペラーのこの録音について言及しています。「一般にモーツァルトの音楽と結びつけて考えられる全てを徹底的に排除している。」全体的に否定的なコメントでしたが、それこそがこのクレンペラー盤の魅力であり、存在価値だと思います。となると、キャスティング的にセールスポイントであるスザンナ役のグリストはクレンペラーの音楽とかなり遠い声質ということになると思います。ただ、その役をマイナーな歌手にしていたら廃盤期間がさらに長くなっていたかもしれません。


 無礼講の正月なので理屈を捏ねれば、ただ「徹底的に排除」すること自体が目的ではないはずで、クレンペラー自身が言う「舞台上で起こる事に音楽の構成が絶対に妨げられないため」、「実験的、前衛的ではなく、よいオペラを上演する」等のベルリン時代からの理念により、排除した結果モーツアルト的なものの濃度、純度が上がることが本旨のはずです。「歌詞は常に音楽の従順な娘であるべき」というモーツアルトの言葉もクレンペラーは好んで引用していますが、結果的にモツアルト的なものはどうであったかは、なかなか難しいところです。


 メニューインはクレンペラーの指揮について「クレンペラーのテンポ」というものは無いと証言しています。またクレンペラーのLPレコードの解説(翻訳されたもの)には、演奏会場の音響によってテンポを変えていたという証言もありました。さらに「テンポは感じるもの、確かにその通りだと思わせるもの」というクレンペラー本人の言葉もあります。別にクレンペラーに限った話ではないでしょうが、テンポは手段であり、ここでは「一般にモーツァルトの音楽と結びつけて考えられる全てを徹底的に排除」するための一環としてこういうテンポをとっているということでしょう。違う機会では全くではないにせよ、異なったテンポで演奏しているかもしれません。


 クレンペラーは「さまよえるオランダ人」、「フィガロの結婚」、「コシファントゥッテ」等を最晩年に、劇場上演ではなく演奏会形式で演奏しているそうなので、このフィガロもそうした機会の放送用音源等の記録が出てくれば再び脚光を浴びるかもしれません。これは1991年のモーツアルト・イヤーの際に久々に再発売されたものです。コシ・ファン・トゥッテ他は国内盤で購入してフィガロだけは輸入盤にしました。


 「フィガロの結婚」は親しみやすく美しい旋律が沢山あって、個人的には1幕の冒頭とかはそこだけ取り出して聴いたりします。このクレンペラーの録音はエンターテイメント的、娯楽的な魅力の点ではやはりさびしいものです。例えば「フィデリオ」はクレンペラーの録音だけ持っていればそれで十分と思うくらい満足していますが、いくらクレンペラーを偏愛していてもさすがにフィガロの結婚はそうはなりません(ルチア・ポップがスザンナを歌って成功していたらあるいは)。先ほど、これを書く前に第2幕途中から第4幕フィナーレまで聴いていますと、時にはベツレヘムの馬小屋に向かう羊飼いの姿を歌うオラトリオのようにも(場違いと言えばそうである)聴こえ、クレンペラー度が高い録音だと思いました。

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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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