raimund

新・今でもしぶとく聴いてます

2010年05月

31 5月

フィナーレ2種と解説付 マーラー第6番/ザンダー・PO

マーラー 交響曲第6番 イ短調 「悲劇的」

ベンジャミン=ザンダー 指揮 フィルハーモニア管弦楽団  (2001年5月録音 Telarc)

 これは国内盤では出たことはなかったはずで、音楽学者でもあるベンジャミン・ザンダーはどうも日本での人気、知名度は低いままです。ザンダーとフィルハーモニア管弦楽団のマーラー・チクルスは他に1,3,4,5,9が出ていました。以後の録音は中断しているようですが、最近ブルックナーの第5交響曲の録音が出ています。ブルックナーの方も録音計画があるのかは不明です。

M6z1_2   このCDは近年多く見られるライブ録音ではなくセッション録音で、マルチチャンネルのSACDです。この10年程の録音の中でも非常に優秀な音質で、その点で特に終楽章が聴きどころです。Telarcレーベルは、ドボナーニやプレヴィン等のアメリカのオーケストラとの録音が多く、優秀な録音という評判です。ただ、ジャズ等他のジャンルも出すレーベルです。また、終楽章がorijinal versionと、revised versionの2種類の版が収録されています。したがって、トラックで再生する順序を変えれば初演時の版を聴くことができます。また、ザンダー自身による第六交響曲の解説CDも付いています。

M6z2  演奏も精緻で、楽譜に刻まれた音を余すことなく克明に再現しようとするような印象で素晴らしいと思いました。ただ、家の梁というか、船体の通し柱のように、この曲に対する根本、強い意志のようなものがあまり感じられないような気もしました。抽象的な表現ですが、例えばバーンスタインのマーラーは大変評判ですが、その理由の一つにそうした根本的な姿勢というのが貫かれているかのようなスタイルの統一があるのかもしれないと思えます。と言っているものの私筆者は、あまりバーンスタインのマーラーは聴いていない(特に再録音)のでいいかげんなものです。そうは言っても、このザンダーの演奏は、自分の好みとしてはかなり好きな部類で、ベルティーニ、ギーレン、テンシュテッド等に並びます。

 1980年代に、作家の名前は忘れましたが、誰かのエッセイでマーラーの交響曲を題材にしたものがあり、マーラーは演奏スタイルの許容の幅が広く、ほとんど無制限で、こんなマーラーは駄目だと決めつけるのはナンセンスだという趣旨だったと記憶しています。違う性格の、方針の演奏が複数あればそれだけ曲を楽しめるというのはマーラーに限った話ではないと思いますが、確かにマーラーの場合は最初少し聴いただけでこれはダメだと思えるような演奏は滅多に無いのではいかと思えます(実は鈍感さが関係しているのかもしれませんが)。以前、マタイ受難曲で「ベスト4とか五指に入る録音」というテーマで投稿したことがありましたが、マーラーの場合は自分が特に好きな第6番でもそれだけの数に絞るのは困難です。

 5月のマーラー第6交響曲シリーズは今日で終わりになります。通常、1か月で同曲異演を取り上げる時は4種類紹介しているはずですが、今月は1回多くなってしまいました。5月31日は、先日のマリアの祝日の内、「聖母の訪問」で、バッハの有名な教会カンタータBWV147「口と心と行いと生きざまもて」(コラールが超有名な「主よ人の望みの喜びよ」)がタイムリーでしたが、個人的にあまり好きな曲ではなく、マーラー第6番を持ってきました。ブログタイトル通り、ちょっとしぶとい選曲でした。

30 5月

個人教授は留守中に予習する ドビュッシー:映像第1,2集

クロウド=ドビュッシー 作曲 映像第1集、第2集 

併録 ~ 喜びの島,スケッチ帳より,ピアノのために,英雄の子守歌,アルバムの1ページ,舞曲(スティリー風のタランテラ),ハイドンを讃えて,夢 

 パスカル=ロジェ ~ ピアノ (2007年11月16‐18日録音 Onyx)

Ei  パスカル・ロジェは1951年生まれのフランス人ピアニストで、ドビュッシーの主要なピアノ曲を1977年にも録音していますので、これはおそらく2回目の録音になるはずです。ドビュッシーの映像や前奏曲といえば、DGから出ていたミケランジェリの録音が圧倒的に有名で、CD再発売後に聴いてみましたが、ピアノの音色の美しさが究極的に素晴らしくて、蝶の羽化や深夜に咲く月下美人の開花の瞬間を見守るような気持ちにさせられました。記憶は美化されるものですが、そういう名演が既にある中で最新録音でこの曲を聴いてみたくなり、昨年見つけたCDです。ちなみに旧録音の方は聴いていません。

530b  ドビュッシーの映像(第1集、第2集)は、のだめカンタービレの作品中ではパリ篇の後半、千秋がソン・リュイとラベルのピアノ協奏曲を共演することが決まり、演奏会直前までのだめの部屋へ泊まり込んで、のだめの課題曲練習に付き合っている時期に登場しています。ちょうどベートーベンのピアノソナタ31番が完成に近づき、次にやる曲としてのだめが登校中の留守に千秋が予習している場面です。また、教室でアシスタント・マジノ先生がベートーベンはオクレール先生に聴いてもらうとして、次にやるドビュッシーの映像を弾くように促している場面も描かれています。のだめ自身は、ベートーベンの31番がもう少しで完成(オクレール先生に全楽章OKをもらう)というところで、曲にどっぷり浸っている頃なのでドビュッシーの映像のような曲を弾く気分ではない、と苦情を言いながらしぶしぶ弾きます。

530a  かけだしとはいえプロの指揮者に料理まで作ってもらって、家事の合間にこれからやる曲の準備までしてもらっている場面に直面して、のだめは単純には喜べない様子で、もう日本時代の調子(『ぎゃぼ』、だの、『あへ~』だの)ではなく音楽家としての苦しみを背負い始めたように描かれています。話はラベルのコンサート後にのだめがスランプになり、千秋はイタリアへ出発して長い長いすれ違いの時期に突入してしまいます。結果的に、ドビュッシーの映像が二人が疎遠になって苦しむ事態を予兆するような格好になりました。教室でマジノ先生にこの曲を弾けと言われた時に、のだめは「こんなキラキラした曲」は今の気分ではないと言いましたが、ベートーベンのピアノソナタ31番の終盤は、キラキラどころか天高く舞い上がるような高揚感の曲なのに、それに比べてドビュッシーの映像、特に1集の1,2曲等は曇天の日のようなくすんだ曲調なので、そんなに落差はあるのか?と思います。キャラに似合わない繊細さだと感心させられます。

 ドビュッシー 映像は以下のように各集3曲ずつから構成されたピアノ独奏曲です。 

第1集 ~ 1:水の反映 ,2:ラモーをたたえて ,3:運動

第2集 ~ 1:葉ずえを渡る鐘の音 ,2:そして月は廃寺に落ちる ,3:金色の魚

 ドビュッシーの「映像」は、ピアノ曲である今回の1,2集と、オーケストラ用の3集がありますが、他に若い頃の作品でピアノ用の「忘れられた映像」(1894年)があります。第1集の3曲目・運動は確かにのだめが言うようにキラキラしたというイメージに近いかもしれません。19世紀後半、パリでは5回も万博があり、その中で日本の美術工芸品等も出展して、フランスの芸術家にも影響を与えたと言われます。ドビュッシーの交響詩海や、この曲の「金色の魚」等のその例だと言われます。後者は蒔絵の図柄がヒントになっているというのが定説のようです。

                        530

 今回のロジェの演奏は、「キラキラした」という性格が際立つものではないと思いました。そういう演奏はどちらかと言えばミケランジェリに近いかもしれません。むしろ自分が曲に対して持つ「くすんだような色」という性格を浮かび上がらせるものでした。これはロジェのドビュッシーピアノ独奏曲全集の第3集ですが、評判の方はどうなのかまだ分かりません。個人的にはかなり好感が持てる演奏です。

 写真の2番目からはいずれも宇治市内、平等院周辺。CD写真の次は、県(あがた)神社前のお茶屋(飲む茶葉を売る店で、舞妓はんを呼ぶ座敷でもなく、ましてや・・・略)、次はその県神社本殿、最後は宇治橋から上流側を望む。6月5日が、この神社の「あがたまつり」でいよいよ夏を迎えます。昼頃から露店が並び深夜には「梵天」と呼ばれる神輿に相当するものが渡行します。平等院のすぐ近いこともあり、古くは藤原氏の繁栄を祈願するという役目もあった神社ですが、この祭りは別名「深夜の奇祭」と呼ばれ、子供向きではない部分もありました。最後の写真の山の色のように、この祭りの頃になると、連休前の淡い緑の、芽吹いたばかりのような山の色から比べ、だいぶ落ち着いてきました。

26 5月

クレンペラー:歌劇「ゴール」から陽気なワルツ

アラン・フランシス 指揮 ラインラント・プファルツ・フィルハーモニー

 オットー=クレンペラー作曲 「陽気なワルツ( メリー・ワルツ )」~歌劇・ゴール( Das Ziel ) から

( 併録・交響曲第1番、第2番、葬送行進曲~歌劇・タマーラ から、交響曲第2番第2版から「回想」、「スケルツォ」 ) (2003年6月録音 CPO)

 二十年くらい前か、洋酒メーカーのTVCMにマーラーの音楽が使われ「私の時代が来る」というマーラーの言葉が引用されていました。実際、CD売場のマーラー交響曲コーナーのスペースは、下手をするとベートーベンよりも広いくらいで、マーラーの時代が継続中だと言えます。マーラーがかつては指揮者として活動していたことの方が忘れられつつあるくらいです。

Mew  一方、1885年生まれのオットー=クレンペラーは専ら指揮者として記憶されていますが、プフィッツナーに師事して作曲も学び、6曲の交響曲を筆頭に室内楽、歌曲、オペラ、ミサ曲等多数の作品を残しています。演奏される頻度は限りなく低い状態ではありますが。クレンペラーは1915年に自身2作目(1作目は未完)のオペラ「 Das Ziel 」を完成させています(1970年には第二版)。陽気なワルツ・メリーワルツはそのオペラからの管弦楽曲です。これまでクレンペラー自身の録音の他、ストコフスキーがカットした演奏や日本の大植の録音があるようです。

 「クレンペラーとの対話」の中でこのオペラについてクレンペラー自身が語っていますが、ゴール( Das Ziel )とは死で、人間は「死=ゴール・終着」が何かを知らない、ゴールに向かって進むけれど、それがどこにあるか知らない、ゴールがあるかのように振る舞う、というテーマを扱っている作品です。観念的、哲学的、神学的な事柄を扱っていて興味深いものですが、初演は済んでいないようです。作曲者自身は演奏されるのを聴いてみたいが、そのオペラには永遠の命は無いと評価して諦めています。原曲のオペラはさておき、陽気なワルツ・メリーワルツはなかなか上品で、どこか皮肉な香りがする作品です。ゴール(死)が直前に迫っているのにそれと知らず踊りに興じているすれば、それは喜劇的であり根源的には悲劇的でもあります。しかし、あまり「陽気な」という題名が相応しいとは思えません。それでも、言葉は悪いですが、十分健全は範囲の作品で、1911年頃にクレンペラーが躁鬱病の症状が悪化して療養した時のサナトリウムでの生活も下敷きになっているというオペラから取られているとは思い難いものです。

 作曲をしない大指揮者は、ニキシュ、メンゲルベルク、トスカニーニ、カラヤンと沢山いますが、それに対して例えばR.シュトラウスがモーツアルトのオペラを指揮した公演を聴いたクレンペラーは、モーツアルトの作品の中にシュトラウスが現れる「創造的な」演奏であったと述懐し、自分自身もその後に続く、作曲=創造的な指揮者と位置づけているようでした。もっとも、作曲家として名を残したヒンデミットは指揮者としてはパッとしなかったようですが。

 メリー・ワルツだけでも、複数の指揮者によって録音されている現代の様子を知ればクレンペラーも少しは喜ぶことだろうと思えます。 

25 5月

ヴェーグ四重奏団旧録音 バルトーク第2番

Ba2  昨夜はブログをアップする頃に激しい腰痛(腰痛だろうと思っていた)に見舞われ、いつもより早く寝ることにしました。帰る途中の整形外科で痛みどめをもらっていたので少しは助けになりました。その激しい痛みの時にかかっていたCDが今日のヴェーグ四重奏団のバルトーク第2番でした。余談ながら後にも脂汗が出る程痛み出し、総合病院へ行くと尿管結石と分かりました(文字にするとあっけないのですが、この間の苦痛はかなりのもの)。痛みの割に深刻な状態では無く、水分をたくさんとって暇な時に泌尿器科へ行けと言われました。そんなわけで、第一次世界大戦中に作曲されたこの曲の刺激的な音楽は今後、結石の疝痛発作の記憶を甦らせることになり、同時に食生活等健康への留意も喚起してくれることでしょう。

バルトーク 弦楽四重奏曲第2番 イ単調 Sz67(Op17)

 ・ ヴェーグ四重奏団(1954年録音 MUSIC&ARTS復刻発売)

 ヴェーグ四重奏団は後年1970年代にもバルトークの弦楽四重奏曲の全曲録音を手掛けていて、そちらの方がメジャーな存在かもしれません。その頃から指揮活動へ重点を置き始めますが、今回の録音・旧盤はヴェーグが46歳の頃の演奏で、カルテットの技術面では上り調子で最盛期へさしかかった頃かもしれません。

 シャーンドル・ヴェーグは、ハンガリー四重奏団の第一ヴァイオリンをつとめ、その後同四重奏団にセーケイが加入してから第二ヴァイオリンになり、その後独立してヴェーグ四重奏団を結成しました。ハンガリー四重奏団は確か第5番の初演をしていたり、セーケイが作曲を委嘱する等作曲者バルトークと親しい間柄だったので、そのメンバーであったヴェーグが率いる四重奏団も、バルトーク直伝の演奏と言えるでしょう。ところで、何故ヴェーグはハンガリーQを退団して自身の四重奏団を作ろうとしたのか、その辺の事情は読んだことがありません。しかし、このCDを聴いていますとおぼろげながらヴェーグが目ざした表現というものがあったのだろうと思えてきます。新即物主義的という言葉が演奏スタイルを形容する言葉でしばしば用いられます。その定義等は厳密に規定し難いところですが、客観的時には機械的な演奏という方向を意味することは間違いないと思います。そうした要素はどんな演奏にも念頭に置かれていますが、その傾倒の程度の差、現れ方の違いなのだろうと思います。ヴェーグ四重奏団は、ヴェーグの指揮やソロの表現にも共通する、腕自慢ではなく陰影のある丁寧な表現(と言えば平凡に見えますが)を志向しているのではないかと思えてきます。バルトークの作品でもそうした演奏は非常に味わい深くきこえます。

 *尿管結石も胆石と同様に油っぽい食習慣が良くないと今日はじめて知りました。若い頃のように呑んで、その後でラーメンというパターンは無くなっていたのですが、全くいつ災いが降りかかるか分からないものです。 

24 5月

9.11,8.9,8.6 ベルティーニのマーラー第6・新盤

・ マーラー 交響曲第6番イ短調 「悲劇的」

  ガリー=ベルティーニ指揮 東京都交響楽団(2002年6月30日録音フォンテック)

  * 第三楽章はアンダンテモデラート

 ベルティーニは2005年3月に急逝したイスラエルの指揮者で、母国を除けばあるいは日本が一番尊敬を集めた活動場所かもしれません。このCDは、埼玉会館とみなとみらいホールと東京都交響楽団が提携して始めたプロジェクト「マーラー・シリーズ2000-2004」の中の演奏会ライブ録音(みなとみらいホール)です。各楽章の演奏時間は以下の通りです。

 ①22分08、②13分12、③15分18、④29分06 ~ 2002年

 ちなみに、1984年9月に録音したケルン放送交響楽団との演奏は次の通りです。

 ①24分04、②13分33、③16分16、④29分22 ~ 1984年

                 Be6

  終楽章のハンマー打撃は広島、長崎、そしてニューヨーク ~ 実は、84年録音のケルン放送交響楽団との演奏は、この曲のCDで初めて購入したもので、今まで聴いたマーラ6番の中で一番素晴らしいと思っている愛聴盤ですが、その18年後の演奏では全体的に速くなっていてCD1枚に収録されています。2002年のフォンテック盤の解説にベルティーニのインタビューが掲載されていて、その中で興味深い話が出ていました。第四楽章の例のハンマー打撃について、ベルティーニは普及している2回の版を採用しているのですが、曲中のハンマーの1撃目は「8.6、広島の原爆」、2撃目は「8.9長崎の原爆」を念頭に置いて演奏して来たが、「9.11のテロ」以来、2回のハンマー打撃がニューヨークのワルドトレードセンタービルに突入した2機の飛行機の映像にたぶって見える(聴こえる)と述べていました。全く思いもよらない話に驚きました。

 作曲者マーラー自身もこの第六交響曲には自信があったようで、初演後の関係者に与えた影響は大変大きかったようです。ただ、R.シュトラウスはその初演直後の控室の空気が分からずに居たと言われます。そういう逸話もあり、悲劇的なのかどうかはともかく、この曲はマーラーの個人的な領域を扱った作品というイメージが強かったので、ベルティーニの作品観は意表を突くものでした。また、ベルティーニはマーラーの交響曲、歌曲集全体で一つの大交響曲、完全な作品を構成しているとも述べていました。これも斬新に思え、その考えで順番に聴いて行けば、7番、8番等も違って聴こえるかもしれないと思いました。

 今回、ベルティーニの新旧録音を連続して聴くという集中力、精神力が無いので新録音だけを反復して(分割して)聴きましたが、旧録音の凄絶な美しさという印象とは異なりますが、代わりに各楽章が緊密に結合しているような切迫感のある演奏だと思えました。終楽章に向かって、足取りの速さを変えながら行軍する隊列の姿を連想させます。ベルティーニがはじめてこの曲を振ったのが1973年年、ベルリンでのことだそうですが、これはベルティーニのマーラー演奏の到達となりました。

23 5月

聴くと会うとで大違い マーラー・千人の交響曲/ノイマン

・ マーラー作曲 交響曲第8番変ホ長調 (千人の交響曲)

 ヴァツラフ=ノイマン 指揮 チェコフィルハーモニー管弦楽団、合唱団 他 (1982年録音 SAPRAPHON原盤)

* グレゴリオ聖歌 hymnus  ~Veni, creator spiritus” (来たり給え、創造主なる聖霊よ)

  FULVIO RAMPI  指揮CANTORI  GREGORIANI

Seir  マーラーの交響曲第8番は声楽付の交響曲で、作曲者自身が付けたのでもない通称で知られる通り、演奏するのに800名以上必要な大曲です。漫画「のだめカンタービレ」の中では、巨匠フランツ・フォン・シュトレーゼマンが登場して正体がばれた時に、千秋真一がシュトレーゼマン指揮の「千人の交響曲」のCDを聴いて知っていたので、「あんな美しいマーラーを演奏する人が 『こんな人』とは・・・」と、演奏と演奏者の性格、人物の品性(表面的なという意味か)のギャップに驚きと失望混じりの感想を述べている場面で使われます。また、ライジング☆オケの公演で何をやるかもめている時に、峰と三木がこの曲を希望します。というわけで、小道具的な扱われ方ですが、今日はキリスト教の三大祝日の最後を飾る「聖霊降臨の主日」であり、マーラーの第8交響曲の第一部とも関連があるので取り上げました。

Sei  マーラーの第8交響曲は、妻アルマに奉げられた作品で、1部:来たれ、創造の主なる聖霊よ、2部:「ファウスト」からの最終場面、から構成され、前者が25分程度、後者が60分前後程の演奏時間です。ほとんど全部に独唱、合唱の声楽を伴います。1部は、グレゴリオ聖歌の中で、おもに聖霊降臨主日用のhymnus・賛歌の歌詞に作曲されています。グレゴリオ聖歌の方の「Veni, creator spiritus」を念頭に置いてこの曲を聴きますと、冒頭のオルガンと合唱でのけぞりそうになります。ドイツ表現主義とはこれか、と圧倒されます。しかし、古い聖歌や2部のゲーテのファウストのテクストを用いて、本当のところどのような事柄を表現したかったかの、よく分かりません。

 シュトレーゼマンのモデルとは ~  のだめ作品中の重要人物シュトレーゼマンのジャケット写真や、自家用ジェット等の描写はかつてのカラヤンを念頭に置いているだろうと想像できます。しかし、セクハラ等の軽い行動、エロ至上的行動はさすがに現実の巨匠とはかぶりにくいと思われます(表向きは)。19世紀生まれの指揮者クレンペラーは共演者と駆け落ちしたり、オペラのリハーサル中にいちゃついて支配人にして「この劇場は売春宿ではありません」と言おうとさせたり、恥ずかしい逸話だらけと言われます。その劇場の事件は、支配人が怒りのあまりか気が高ぶって「この売春宿は歌劇場ではありません」と言ってしまい、クレンペラーが「その通りだ」と平然と言ってのけたというオチがついています。クレンペラーは作曲家でもあり、ジキルとハイド的な両極端な面を持ち、それが隠しきれませんでした。何とかは紙一重で、芸術家にそうした奇人的行動の人は時おり見られます。古今の巨匠のエピソードと、演奏、芸風とその演奏家の表面的な性格、行動等とは一致しない、という事を表現するために形成されたのがシュトレーゼマンということではないかと想像できます。

 ヴァーツラフ・ノイマンは、プラハの春政変以降クーベリック、マーツァルの亡命等チェコの音楽界も困難な時期を迎えた時からチェコフィルを支えた指揮者で、70~80年代にマーラーの交響曲全曲録音(大地の歌は除外されている)を完成しています。後に90年代に再録音にかかりましたが、7、8、大地の歌を残して世を去りました。今回は全集の中からの演奏です。マーラーと言えばドイツオーストリア系の作曲家というイメージが強いですが、生まれたのは現在のチェコなので、ノイマンとチェコPOにとっても本場モノの作曲家ということもできます。演奏は、過敏、濃厚、分裂等マーラーの作品演奏に付いてまわるイメージとは遠く、チェコ・ボヘミア圏の他の作曲家作品を演奏するのと同じような感覚で臨んでいるかのような美しい演奏です。ちなみに、ヴァツラフ=ノイマンとシュトレーゼマンの繋がりはおそらく無いだとうと思いますが、同じくチェコ出身の指揮者マーツァルが映画かドラマ版ののだめカンタービレでビエラ先生の役をしたそうなので、先輩格のノイマン盤を持ってきました。ノイマンについてセクハラだのそういう話は聞いたことはありません。マーツァルも現在チェコフィルとマーラー交響曲の録音が進行中で、8、大地の歌を残すのみです。

 この曲の始まりの部分は、オルガンが鳴り、「ヴェーニッ ヴェーニッ クレアトール スピリトス~ 」という大合唱です。古い聖歌の歌詞と歌唱に親しみ、その歌詞が使われていると知っていて何となく同じような音楽を想定して聴きますと、読むと聴くとでは大違いだと実感させられます。のだめ作品のストーリーでは、千人の交響曲それ自体は前面には出てきませんが、千秋が本格的に指揮者に向けて歩き出すきっかけになった、シュトーレーゼマンとの関わりを象徴しているように思えてきます。あまり模範的な教育者、指導者でもなく、高潔な人物とも言えないシュトレーゼマンが、千秋真一の手に負えない寄せ集めオケを初顔合わせ同然でまとめて、美しく(それなりに)弾かせる場面は、何かとても大切な事柄が表現されているようにも見えます。

 最後になりましたが、グレゴリオ聖歌の方は、修道院や教会の聖歌隊ではなくイタリアのプロのアンサンブルです。大廉売で一枚辺り200円以下だったので、入手したものです。年間を通じて主な祝日固有の聖歌が収められています。   

22 5月

史上最大の侵略 シューマンのピアノ協奏曲

 シューマン ピアノ協奏曲イ短調作品54

 ディヌ=リパッティ~ピアノ

 カラヤン 指揮 フィルハーモニア管弦楽団 (1948年録音 EMI)

Shu1  今年はショパンイヤーだけでなくシューマンイヤーでもあり、FMの海外コンサートもショパン、シューマンを取り上げたプログラムが増えています。一昨日木曜の夜、雨降りの中、車で走行中に思い出したようにNHK・FMに合わせますと、アルゲリチ・デュトワのシューマン・ピアノ協奏曲の演奏が始まる直前でした。それでこのグリークやショパン、リストとカップリングされる協奏曲の事と、これが使われたTV番組のことを思い出しました。円谷プロによる空想特撮シリーズの3作目「ウルトラセブン」の最終回で、これは既に有名な話です。主人公が自分の正体(M78星雲の宇宙人・通称ウルトラセブン)を同僚の女性に明かして、最後のお勤めに出発する場面で、主人公が「ぼくはウルトラセブンなんだ」と言った瞬間、この曲の冒頭が流れ出し、画面が影絵のような映像になります。写真は、多分その直前の場面でしょう。確か1楽章が終わったタイミングで敵を始末して、飛び立ちます。

Shu2  ただそれだけの話題なのですが、それに使われたのがリパッティとカラヤンの古いLPだと言われています。製作者ならともかく、視聴者が探り当てたのなら大したものだと思っていました。しかし、セブンが放映されたのは1968年・昭和43年なので、最低でも1年前には制作にかかっているはずです。その頃入手し易いシューマンのピアノ協奏曲のレコードなら当然国内盤が出ているメジャー級のものだと思われ、そうするとかなり限定されてくるはずです。というわけで1948録音のこの録音も早いうちに網にかかっても不思議ではありません。

 リパッティ(1917-1950)は、ルーマニア生まれでコルトーにフランスへ招かれ活躍しましたが、33歳の若さで白血病かリンパ腫で亡くなりました。17歳の時のウィーン国際コンクールで2位になりましたが、その評価・結果にコルトーが猛抗議して審査員を辞任するという、ポゴレリッチとアルゲリチの時のような事態になりました。解説によりますと、リパッティは極端な完全主義者で、やり直すことが出来る録音という仕事が好きだったそうです。これはカラヤンと相性がいいかもしれません。このCDは同じくリパッティのピアノによるグリークのピアノ協奏曲が収録されています。こちらは指揮がアルチェオ=ガリエラです。LPの時代は、どちらかと言えばグリークの方が決定盤的な地位だったように覚えています。

Shu3  今このシューマンのピアノ協奏曲の録音を聴いてみますと、念入りなリハーサルや録り直しの成果なのか、とにかくリパッティのピアノの存在感に圧倒されます。カラヤンそこのけと言えば言いすぎかもしれませんが、ピアノが目だっています。さすがにもう古い録音だとは思いますが、それでもまだ色あせない魅力があります。この2年後にリパッティが世を去るとは残酷な現実です。横の写真は、主人公が積年の疲労と負傷の痛みをおしてウルトラセブンに変身しようとしている場面です。リパッティは、この録音の頃ゆっくり休暇でもとっていれば、あるいは発病しなくて済んだかもしれないと想像できます。せめて、スレレオ録音の頃まで活躍できていたら、ショパン、リスト等をもっと録音出来たのにと残念に思えます。

 余談ながら、最初の写真のアンヌ隊員=菱見百合子は後年R18映画等で脱ぎまくり、大幅なイメージチェンジでした。当時当然それは予測できませんでした。ちなみに、モロボシ ダン=森次 晃嗣は大河ドラマ「太平記」で足利尊氏の家臣(細川何某?)役で出ているのに気がつきました。ウルトラセブンの作品中に2000年という表記が出たことがありましたが、現在は番組作製当時、遠い将来と思われた21世紀に突入してしまっているわけです。東西冷戦だけは終わりましたが、いろいろな事柄は未解決で、昭和43年頃というのが遠い過去とまでは思えない気がします。

20 5月

意外なところで大公トリオ カザルストリオ、スークトリオ

ベートーベン ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調「大公」 作品97

 ・ カザルストリオ~チェロ:パブロ=カザルス、ヴァイオリン:ジャック=ティボー、ピアノ:アルフレッド=コルトー (1928年11月録音 EMI)

                                  Za

 ・ スークトリオ~ヴァイオリン:ヨゼフ=スーク、チェロ:ヨゼフ=フッフロ、ピアノ:ヤン=パネンカ (1975年6月録音 スプラフォン、デノン)

                                 Su

 三すくみというものがあります。蛇は蛙の天敵、蛙はなめくじの天敵、なめくじは蛇の天敵(自然科学的真理はともかくとして)という、ちょうどじゃんけんのような関係のことで、3者それぞれの弱点、利点があって均衡する様子と言うことができます。室内楽のピアノ3重奏曲は、ピアノ、ヴァイオリン、チェロの三人のアンサンブルです。ベートーベンもこのジャンルに作品を残していますが、その最後の第7番が特に有名です。オーストリア皇帝レオポルドⅡ世の皇子であるルドルフ大公に献呈されたので大公トリオと呼びならわされています。ピアノ三重奏曲は他にドヴォルザークやチャイコフスキーの作品が有名で、シューベルト、ブラームスをはじめ多数の作曲家が作品を残しています。それらの中でも大公トリオは断トツの知名度だと思います。第一楽章の冒頭の主題が明朗で印象的で、これなら何度か聴いていればすぐに曲名が分かるだろうと思えます。

 「海辺のカフカ」という小説の中にベートーベンの大公トリオが登場します。しかも、ルビンシュタインのピアノ、ハイフェッツのヴァイオリン、フォイアマンのチェロによる百万ドルトリオの録音、スークトリオ(何度めの録音かは不詳)まで明記されています。村上春樹作品には、車や酒、食料品、音楽等に細かい記述がされえいる場合が多く、これもそのうちの一つです。登場人物が喫茶店で偶然耳にして、以後車の中で聴いたりもし、その後その星野くんがベートーベンの伝記を読んだりしています。小説の世界とはかなり遠い作品のように思え、意外な起用ですが小説の中では重要な意味を持っているようです。同じくベートーベンのヴァイオリンソナタ「クロイツェルソナタ」がトルストイの同名作品を誘発?し、またヤナーチェックの弦楽四重奏曲にも絡んで来る等、文学作品と音楽作品の繋がりは従来から見られます。

Ka  大公トリオのルドルフ大公は、15歳の時ベートベンからピアノ、音楽を教わる弟子になりそれ以後ベートベンが亡くなるまで年金を給付する等の支援者的役割を果たしています。最後のピアノソナタ第32番、ハンマークラビールソナタ、告別ソナタ、ピアノ協奏曲第4番、ミサ・ソレムニス等重要な作品を作曲者はルドルフ大公に献呈していることからも、緊密な関係が続いていたことが察せられます。大公はベートーベンの死後数年で30歳で世を去ります。

 ピアノ三重奏を演奏するタイプは、室内楽をメインに活動する演奏者、スークトリオやボザールトリオのような常設のトリオと、ソロの活動がメインにする名手が集まって演奏する100万ドルトリオやカザルストリオのようなケースの2つのタイプがあります。前者がアンサンブル重視、後者が腕自慢・個性的な表現ということになるかもしれませんが、現実は複雑です。

 個人的には、まずカザルストリオのSPからの復刻を忘れることができません。1905年にパリで当時20代後半の個性が強い3人が集まって結成したこのトリオは3名がソロとしてのキャリアを重ね、名をあげて行き、40代の終わりにさしかかった円熟期にこの録音を行いました。ワグネリアンで指揮もしたコルトー、繊細なティヴォーを剛直な理想主義者カザルスがまとめているという構図で、全体的にはカザルス色かもしれませんが、何とも溌剌として風と通しが良い演奏です。ちなみに、さだまさしの歌に「カザルスとティヴォー」という名が登場する程なので、この3名は単に演奏家に留まらない活動ともあいまって、非常に有名です。小説に登場する100万ドルトリオの録音は手元にありませんが、同じようにソリストの名人が集まった演奏ですが、カザルストリオとは大分違うだろうと想像できます。テクニックはハイフェッツ等の方が上だろうとも思えます。また、余談ながら小説の中の星野さんのイメージからカザルスというのは違和感を覚えてしまいます。

 スークトリオは1951年にチェコで、ドヴォルザークの末裔であるヴァイオリンのスークを中心に結成され、80年代終わり頃まで活動しています。途中でピアノがパネンカからハーラに交代しています。少なくとも大公トリオを3度(60年代、70年代、80年代前半)は録音しているヴェテランというか権威とも言える演奏家です。録音も新しく、この1975年録音の演奏もカザルストリオの古い録音と同じく外せないCDだろうと思います。

 曲を献呈されたルドルフ大公は若くして世を去ってしまいましたが、この曲自体はフィナーレもハッピーエンド的に結ばれています。ベートーベンの創作期では中期から後期へさしかかる頃で、弦楽四重奏ならセリーソ・第11番の頃に当る作品です。

19 5月

オファーの契機はジュピター交響曲 クレンペラー・モノラル盤

モーツアルト 交響曲第41番K.551「ジュピター」
(併録は交響曲第29番~54年、セレナーデ第13番~56年)

オットー=クレンペラー 指揮 
フィルハーモニア管弦楽団


(1954年10月録音 当初EMI、TESTAMENT復刻)

 

 戦後、EMIから出たフィルハーモニア管弦楽団とクレンペラーのモーツアルト交響曲のスタジオ録音は、25、29、31、33、34、35、36、38、39、40、41の11曲がステレオLPで日本でも発売されました。80年代では1枚当たり1500円の廉価盤が大半でしたが、40番、41番「ジュピター」のカップリングの1枚は、1800円のシリーズでした。この中で、29番、38番、39番、40番、41番はモノラル期とステレオ期で7、8年空けて2度録音されています。有名なのは概ねステレオ・再録音の方ですが、第40番だけは1962年録音の方がお蔵入りのような格好で、今でもCDで入手できるのは1956年録音の旧盤の方です。余談ながら、手元に40番の1962年新録音はLP、CDともに無く、非常に残念です。あるいは一度もCD化されていないかもしれません。生誕125年の今年辺り、記念して発売されることを期待します。

 それはさて置きまして、1954年録音のジュピター交響曲は逆に新録音が出てからは忘れられたような扱いでした。CDの時代になってTESTAMENT社からようやくまとまって再発売されて再び日の目を見ました。クレンペラーが戦後EMIのプロデューサーのレッグがロンドンを拠点に設立したフィルハーモニア管弦楽団を指揮したコンサートで、プログラムのジュピター交響曲をそのレッグが聴き、特に終楽章が気に入り、以後この楽団と多数録音を残す端緒となりました。ジュピター交響曲は文字通り因縁の曲でした。ウオルター・レッグは、元祖レコードプロデューサーとも言える人物で、戦後間もない頃ドイツを追われた名手等を集めてフィルハーモニア管弦楽団を作り、ナチスとの関連で困難な立場にあったカラヤンやフルトヴェングラーを起用して録音もしました。まさに良い音楽のためなら政治的危険もかえりみない一途さです。
 

 クレンペラーは1920年代にもロンドンで指揮をしていますが、戦後1951年のイギリス音楽祭で初めてフィルハーモニア管弦楽団を指揮しました。その2回目のコンサートに上記の通りレッグが聴きに来ていました。「クレンペラーとの対話」によりますと、コンサート後にレッグ邸のディナーにクレンペラーは夫妻で招待された書かれてありました。クレンペラーとレッグはその夜、明け方の4時頃まで話込んだそうで、それが契機となってか今日フアンが聴くことができる数々のレコードが生まれることになります。クレンペラーは、その後病気やビザ(アメリカに亡命していたため)の都合で、1954年までヨーロッパに来ることが出来ませんでした。この1954年録音のジュピター交響曲は、クレンペラーがヨーロッパに戻りフィルハーモニア管弦楽団とレコードを継続してレコードを作ることが決まったその年のものです。再出発の門出の演奏とも言える記録です。
 

 ジュピター交響曲は、モーツアルト最晩年の3つの交響曲の一つであまりにも有名な曲です。第1楽章: Allegro Vivace、 ハ長調ソナタ形式で威風堂々とした曲調 、第2楽章: Andante Cantabile ヘ長調 ソナタ形式の甘美な旋律が目立ちます。第3楽章 :Menuetto (Allegretto) ハ長調  、第4楽章: Molto Allegro ハ長調 ソナタ形式という構成で、特に第4楽章が神話の最高神ジュピターの名に相応しく、颯爽としながら広大で深遠な世界です。HMVのサイトのレビューでは、クレンペラーのモーツアルトは全てのパートを聴かさなくては気が済まなかったのではないかと評されていましたが、フーガ的要素を取り入れた第4楽章はそうした特性を反映して精緻かつ壮大に仕上がっています。レッグが気に入ったというのもさもあろうと思わされます。
 

 上記の2枚目の写真はクレンペラー(パイプの方)とレッグ(タバコの方)が並んでいますが、どちらも頑固で気難しそうな 風貌でよく1964年までこのコンビが続いたと思えてきます。(お茶うけの四角いのは何の菓子だろうと思います。バウンドケーキのようにも見えます。「クレンペラーとの対話」によると、戦前の20年代のロンドンはオーケストラの技術水準も、食事も酷かったと書かれてあります。)

17 5月

久々のフィラデルフィア エッシェンバッハのマーラー第六

・ マーラー交響曲第6番イ短調「悲劇的」 クリストフ・エッシェンバッハ 指揮 フィラデルフィア管弦楽団(2005年11月ライブ録音 ONDINE) *第三楽章はアンダンテ・モデラート

 同時収録、ピアノ四重奏曲楽章イ短調(1876年)

  先日スバルカードの会員向け季刊誌のサ・エ・ラの最新号が届きましたが本号で休刊となっていました。軽自動車・プレオのモデルチェンジの案内もその前に届いていまして、よく見ればダイハツミラのOEM供給でした。外堀を埋められていくように見えてしまいますが、健在であってほしいものです。

Fi1  アメリカの五大オーケストラと言えば、ニューヨークPO、シカゴSO、ボストンSO、フィラデルフィアO、クリーブランドOです。トスカニーニ、バーンスタイン、ライナー、ミュンシュ、ストコフスキー、セルら君臨した伝統ある実力オケですが、録音、CDの面ではここ10年程は寂しい状態です。フィラデルフィア管弦楽団は、ムーティーの次は2003年までサバリッシュが首席でしたが、その後を引き継いだのがエッシェンバッハです。今はシャルル・デュトワが就任しています。このCDは、メジャー・レーベルではなくフィンランドのレーベルから発売されています。全米一の高給取りだったマゼールはNYPO時代には目立った録音は残していなかったはずで、クリーブランドのフランツ・ウェルザー・メストも同様です。アメリカのメジャーオーケストラではシカゴ交響楽団の自主制作CDが新譜を連続して出しているのが目立つくらいで、どうも低調です。マーラーの作品ならアメリカのオケに期待するところも大なので少々さびしいところです。

 エッシェンバッハは、クレンペラーと同郷で1940年ブレスラウ生まれです。元々はピアニストとしての活動がメインでした。メンデルスゾーンの無言歌やモーツアルトのピアノソナタの録音は有名でした。徐々に指揮の活動に重点を置くようになり、北ドイツ放送SOの音楽監督を経て、フィラデルフィアO、パリOの首席をつとめました。また、ヒューストンSOとのCDが国内盤で出ていた記憶があります。エッシェンバッハとフィラデリフィア管弦楽団のマーラーは他に第2交響曲が出ています。同楽団の主席は既に退任しているので、これから連続録音するのかは分かりません。2010年のシーズンからワシントン・ナショナル交響楽団の首席に就任するので、オーケストラを変えてもマーラーチクルスは継続してほしいところです。

    

                Fi2

 このマーラーの第六番は、爆演的ではありませんが、ロマンティックかつ精緻な表現で特に第一、第三楽章が美しく、際立っています。カウベルの音が鋭角的にきこえるので、どういう物を使っているのだろうと思えます。趣旨からすればガランという音の丸い音色が普通だったのではないかと思います。葬送行進曲風の第一楽章、スケルツオの第二楽章は意外にあっさりと進められていました。しかし、1楽章のアルマの主題も美しく扱われていました。第三楽章は録音も優秀なため、細部までよく聴こえ特に素晴らしいと思いました。こうして聴いてみますと、長い第四楽章の前の第三楽章はアンダンテ・モデラートの方が聴き易いと思えます。スケルツオが4楽章の直前に来た場合、第二楽章で曲が切れたような感じがします。と言っても、第三:スケルツオによる演奏はアバド新盤くらいしか聴いたことはないのですが。

 下の写真はエッシェンバッハの肖像画です。無言歌のレコードの頃の肖像とはがらりとイメージが変わっています。頭だけを見ればまさに風雪三十年といったところです。

16 5月

ピアノは女流 ラベル・ピアノ協奏曲ト長調/アース、パレー

・ ラベル ピアノ協奏曲ト長調 ピアノ:モニク=アース、ポール=パレー指揮 フランス国立放送管弦楽団 (1966年録音 DG)

  音楽を聴いて感動すると言う場合、聴くことによって個人的告白やあるいは普遍的な愛等そうしたものに触れて情緒的、感情的に高揚されるという場合が分かり易い例です。または言葉では表現できないひたすら美しいものに触れて、感激すると言うのもありうるものです。のだめカンタービレ作品中で、ヒロイン・のだめがラベルのピアノ協奏曲ト長調を聴いた後のはしゃぎ方は尋常ではなく、情緒的な感動のパターンではとらえられないようです。楽器を演奏する人の「この曲を弾いてみたい」という欲求というのは想像するだけの世界です。

 ポール・パレー(Paul Paray)は、デトロイト交響楽団との幻想交響曲、ラベルやドビュッシーの管弦楽曲等一連の録音がマーキュリーから出ているので、かなり有名で、ノルマンディー地方出身のフランス人の作曲家、指揮者です。個人的にもかなり好きな演奏家です。モニク・アース(Monique Haas)はパリ音楽院出身の女流ピアニストで、ドビュッシー、ラベルのピアノ曲集の録音で有名です。フランス国立放送管弦楽団は、1934年設立のオーケストラで現在は「フランス国立管弦楽団」と改称しています。現在のパリ管弦楽団(旧パリ音楽院管弦楽団)やフランス放送フィルと紛らわしい名前です。レコード等では、ジャン・マルティノン指揮のドビュッシー、ラベルの管弦楽曲集が有名でした。今回は、フランス人ピアニスト、指揮者、オーケストラの組み合わせ、本場もののCDです。

Sakurayama  ラベルのピアノ協奏曲ト長調は、のだめカンタービレの作品中、後半パリ篇でライジング☆オケのメンバーでもあったヴァイオリンの三木きよらもチェレンジしたコンクールのピアノ部門本選で、のだめがこの曲を聴いて、まるで天からの啓示のように感銘を受け、この曲を千秋と共演する妄想?に取りつかれる回に登場します。ストーリーでは、運命のいたずらか、その後千秋が別の女流ピアニスト、ソン・リュイと共演してしまい、しかもその演奏が、小さい頃からピアノの練習や音楽の勉強に打ち込んでいた彼ら優等生の演奏ではこのピアノ協奏曲の魅力を充分に表現できないだろうという、のだめの自負、予想をはるかに超えた面白い、素敵な演奏なのでショックを受けてしまいます。のだめは自分の土俵で相撲をとられて、完敗したような気分になり、スランプに陥ります。余計なお世話ですが、マラドーナ国際コンクールの時もそうですが、少ない挫折で落ち込み過ぎではないかと、話の展開上やむを得ないにせよ、凡人から見ますとそう思えてきます。

 今回のCDの演奏は、勝手な想像ですが、のだめ的な演奏ではなく、ストイックなタイプの演奏で、特に第二楽章が魅力的です。ピアノと指揮の両名も、派手な表現で注目されるタイプではないので当然そうなります。のだめ作品中では、リュイと千秋の演奏で「はっちゃけた演奏」と評されていますが、アースとパレーのCDの演奏はその逆で、のだめが「あの二人」がやるであろうと予想したタイプの方向だろうと思えます。では、実際の演奏家でそんな自由で奔放なラベルの演奏をするのは誰かということになりますが、どうも思い当たりません。製作者側にはモデルがあるのでしょうが、コルトーや古いフランスの女流ピアニスト、マルグリット・ロン(ロン・ティヴォーコンクールに名を残す)等は、面白い演奏だったかもしれない記録もありますが、新しい演奏家では分かりません。この曲はフランソワとクリュイタンスの共演による古い録音やアルゲリッチのピアノによるものが定評がありました。筆者の好みでは、このアース・パレー盤が筆頭に好きです。

 このCDは、カップリングが同じくラベルの左手のためのピアノ協奏曲ニ長調、ピアノ独奏でソナチネ、高雅にして感傷的なワルツ(ソロは1955年録音のモノラル)が入っています。アースのピアノはむしろ左手のための協奏曲の方が際立っているかもしれません。ト長調の方のピアノ協奏曲は、ピアニストにとっても魅せる演奏をするのは難しいのだろうと思えてきます。シャルル・ ド・ゴール大統領以前のフランス製自動車は現在日本の街中でも見かけるプジョーやシトロエン等の外見とはかなり違い、個性的なデザインの車が沢山あったと言われます。このCDの協奏曲録音の時期は第五共和政の頃ですが、文化芸術面も転換期にあったのかもしれません。

 余談ながら、ラベルのピアノ協奏曲がストーリーの中でこれほど大きく扱われたので、話も続いてのだめが演奏する回も来るだろうと思って期待していました。

15 5月

民族的とは バルトーク弦楽四重奏曲第1番/ハンガリーQ

・ バルトーク 弦楽四重奏曲第1番(op.7) Sz40 ハンガリー弦楽四重奏団 (1961年録音DG)

Hangaria  ハンガリー四重奏団は、ベートベンの弦楽四重奏曲の全曲録音を2度完成させる等の実力派ですが、現在その全集は廃盤状態で、特に日本ではブタペストQ等の陰に隠れた格好で地味な扱いです。第一ヴァイオリンにセーケイ・ゾルターンを迎えた後の1940年以降メンバーが固まり、1972年まで活動しています。セーケイは、作曲者のバルトークの友人でもあり、ヴァイオリン協奏曲第2番、弦楽四重奏曲第6番の作曲にも委嘱等の形で関わっています。なお、シャーンドル・ヴェーグはこの四重奏団の結成時の第二ヴァイオリンでした。後に彼自身の名を冠した弦楽四重奏団を結成しています。

 今日は昼過ぎになって、そういえば葵祭だったと思いだしました。御所から下鴨神社、上賀茂神社へと牛車を交えた平安装束の行列がゆっくりと行進します。車の排ガスは無いものの、牛車を引く牛の排出は固形で、なかなかのボリュームです。現代の日常生活の服装やらとかけ離れていて、「日本的なもの」とは何かと、あらためて思わされます。なお、見に行ったわけではなく、二度寝で、行列が上賀茂神社へ付く頃にようやく起きました。 

 この曲はバルトークが最初に完成させた(1908年)弦楽四重奏曲で、Lento, Allegretto, Allegro vivace と、3つの部分からなり、切れ目なく演奏されます。これは作曲者が結婚する以前で、それまで親しかった女流ヴァイオリニストのゲイエル・シュテフィ(姓・名)と疎遠になっていく頃に作られました。

 そのあたりの葛藤が、第一楽章に相当する部分、Lentoに表現されていると言われます。バルトークが後に破局を迎えるシュテフィに贈ったヴァイオリン協奏曲第1番の主要な主題から作った「シュテフィのライトモティーフ」が重要な位置を占め、自身でこれを葬送の音楽と呼んでいます。この第一楽章、第二楽章に相当する部分が、シェーンベルク等新ウィーン楽派の音楽の先駆のように説明されています。

 バルトークやコダーイはハンガリーの民謡、民族音楽を収集研究したことでも知られています。この曲の第三楽章に相当する部分の変奏曲にその成果を取り入れています。と言ってもベートーベンのラズモフスキーのように、旋律を取り入れたというものではなく、聴いていてどの辺がそれなのか分かりません。しかし、後年の3、4番に比べてメロディが何となく素朴でとっつき易い気がします。バルトークが次の第2番の弦楽四重奏曲を完成させるのは、この後20年くらい経てからになります。

 十代の頃、同級生が日本のクラシックは民謡だとか言い出しましたが、それはバルトークやヤナーチェック等にかぶれてのことかもしれません。明治以降、日本でも西洋芸術音楽の分野で作曲家が登場していますが、国民的な作曲家と言えば誰になるのだろうと思えます。荒城の月や花等の唱歌や、筝曲の春の海等は聴けば日本を連想させます。しかし、サッカー代表のサポーターが、アイーダの大行進曲のメロディーを歌う等、未だ手探りの状態だと思えます。イタリア代表は、確かヴェルディの「ナブッコ」の合唱曲「行け、我が想いよ 黄金の翼に乗って」が応援歌のようになっていたはずです。もっともそれは第二の国家的な人気なので当然かもしれません。

 * 当ブログは今回で100回目を迎えました。毎日投稿するつもりではありませんでしたが、今まで続けられました。とりとめもない内容の記事にお付き合い下さった皆様方に厚く御礼を申し上げます。

12 5月

1885年5月14日 クレンペラーの第九/POその①

・ OTTO KLEMPERER 指揮 Phlharmonia Orchestra  , Philharmonia Chorus(Wilhelm Pitz 合唱指揮)  、ハンス=ホッター:バス、ワルデマール=クメント:テノール、クリスタ=ルートビヒ:メゾソプラノ、オーセ・ノルドモ=レーヴベリ:ソプラノ (1957年10月30日、31日、11月21~23日 キングスウェイホール・ロンドンで録音)

                K1

 5月14日はクレンペラーの誕生日であり、今年は生誕125年にあたります。1885年に当時ドイツ領のブレスラウで生まれています。しかし、その父ナータンはプラハ生まれでした。正確には、クレンペラーはドイツ系よりオーストリア系ということになります。ナータンは芸術の方に関心が強かったにもかかわらず、家計が貧しく兄の人形制作の仕事を手伝いました。祖父はユダヤ教のラビ・教師で、プラハに葬られました。クレンペラーの母はハンブルクのピアノ教師であり、ブレスラウの人形市で知り合って結婚しました。クレンペラーの父方は、アシュケナジウム(ロシア系ユダヤ人)、母方はセファルディム(スペイン・ポルトガル系ユダヤ人)であったと、「クレンペラーとの対話(白水社 刊)」に書かれていました。

 昔アイドル全盛の頃、好きな歌手の誕生日や個人データ(本当かどうかも定かではないのだが)を詳細に覚えている友人がまわりに居ました。親や祖父母の誕生日、あるいは命日等はおそらく覚えてないだろうと思えるのに、岡田奈々や山口百恵は入念に覚えている様子は、今から思えばそれなりに健全だったのかもしれないと感じられます。

 上記の写真は、クレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団のベートーベン第九交響曲が最初にCD化された時の輸入盤表紙です。1957年にはクレンペラーは、ロンドンにおいてベートーベンの全交響曲を連続演奏した絶好調の年でした。この録音は、その演奏会の間をぬって収録されたものです。同年の11月の公演のライブ録音(独唱も同じメンバー)もテスタメント社から出ています。演奏については、クレンペラー流が貫かれています。牛乳を飲むと下痢したり、卵で湿疹が出る等相性や好みでどうしようもないものあり、クレンペラーの第九の演奏が同曲の一番手に挙げる人はあまり多いとは言えませんでした。そういうわけで、くどくどしいこと賛辞は省きますが、余人をもって替え難いものであることは確かです。

                K2

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 マスターテープが経年による劣化から免れ得ないため、発売されたLPやSPからCDを作製する「盤起こし」のCDも近年ではじめています。今回のクレンペラーのベートーベン第九もその方式でのCDも発売されました。左写真がそれで、グランドスラム レコーヅ(復刻には英コロンビアのSAX2276/7を使用)。

 このCDにはクレンペラーにまつわる記述が3つ書かれています。一つには、第九交響曲のリハーサルでの出来事についてです。バス独唱が歌い始める前の、不協和音のパッセージで合唱団員が一斉に立ち上がると、クレンペラーが演奏を止めて怒鳴ったという。「座れ!いいか、バス歌手が『おお友よ このような音ではない!』と先に歌う。それから一緒に歌ってくれと頼むのだ。お前たちはまだ何ひとつ頼まれていないではないか。座れ。さあ、もう一度!」と。そして楽章の冒頭からやり直した。バス歌手の独唱をしめくくる「もっと喜びに満ちたものを」という歌詞を、合唱団は不安げに待ち受けている。それが終わってから合唱団が歌い始めるまでには、わずか2小節しかない。「さあ!」とクレンペラーは一喝すると、いまだかつてない速さで合唱団員が起立して歌いだした、ということでした。

 老人特有の些細な事柄への固執と思ってしまいますが、この演奏の中では意義のあることだったのでしょう。クレンペラーは誇張や大言壮語を忌み嫌い、誰かがそういう類の言葉を口にすると、「そうかね!(So!)」という言葉を辛らつな語調で発したとも書かれています。その段階になってようやく、素早く立つということが不可避だったのでしょう。

①16分54、②15分35、③14分56、④24分21という、各楽章の演奏時間がこのクレンペラーの第九交響曲の演奏を物語っています。第二楽章と第三楽章の時間が特徴的です。

 ちなみにクレンペラーの命日は1973年の7月6日(於チューリヒ)です。この続きは、再来月の7月に、書けたなら投稿することにします。

11 5月

チェロ2本 シューベルトの弦楽五重奏新旧

・ シューベルト 弦楽五重奏曲 ハ長調 作品163 D956

 ① ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団、ギュンター・ヴァイス(1950年録音)

 ② ハーゲン弦楽四重奏団、ハインリヒ・シフ(1991年録音)

Shu5a  フランツ・シューベルト(1797~1828年)は、音楽室に肖像が並べて貼ってある場合には必須な作曲家で、古典派の次の時代に分類されます。確かに、1770年生まれのベートーベンよりも、27歳若いわけですが、ベートベンは1827年3月に世を去っているので、二人の創作活動の時期はほぼ重なっていることになります。また、「魔弾の射手」等の作品で有名な作曲家であるウェーバー(1786~1826年)とも同じくらいの活動時期になります。31歳で世を去ったシューベルトですが、歌曲、ピアノ曲、室内楽曲、交響曲等の有名曲なら特に、きけばシューベルトの作品だと気付かせる個性を備えています。

 この弦楽五重奏曲は、ベートーベン没後、作曲者自身が亡くなる1、2か月前に完成されています。従前の弦楽五重奏は、弦楽四重奏にビオラを一人加えた編成が普通でしたが、この作品はチェロを一人加えてヴァイオリン2人、ビオラ1人、チェロ2人になっています。低音が厚くなっている例は、同じくシューベルトのピアノ五重奏曲で、チェロの代わりにコントラバスを用いている例が思い浮かびます。なぜこのような編成にしたのかは不明ですが、聴いてみますとチェロが増えたおかげで曲に陰影が濃くなり、魅力を深めていると思えます。

Shu5b  シューベルトはウィーン近郊で生まれ育ち、ウィーンで生涯を終えている生粋のウィーン人ということになります。ただ、江戸っ子なら3代経なければ生粋の江戸っ子とは言えないそうなので、シューベルトの場合にその基準を適用すれば、生粋とは言えなくなるでしょう。ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団も、生粋のウィーン人ばかりかどうかは分かりませんが、ウィーン交響楽団、ウィーンフィルで活躍した奏者で結成された四重奏団です。一方、ハーゲン弦楽四重奏団はザルツブルクの音楽院の教授を父に持つ4人の兄弟姉妹で結成された団体です。ただ、このCDの頃は第2ヴァイオリンがライナー・シュミットに交代しています。ジャケット写真で見れば、3人の顔が成るほどそっくりです。最近のハーゲン弦楽四重奏団の活動はどうなっているのか、ベートベンの録音もストップしているようで少々残念です。

 この2枚のCDは演奏録音された時期が40年近く隔たりのある新旧の録音で、ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団の方はモノラル録音です。聴いた演奏を言葉で説明するのは本当に難しく、ほとんどあきらめています。どちらも時代を代表する名手等によるものですが、今あらためて聴いてみて自然と音楽が染入って来るのはむしろ古い方の演奏かもしれないと感じられます。ゆったりと歌うような演奏で、妙なアクセントや癖というものが感じられず、本当に自然です。所々音が貧弱で録音の古さを感じる場面もありますが、それでも魅力的です。

 この曲は4楽章から成り、①アレグロ・マ・ノン・トロッポ、②アダージョ、③スケルツォ:プレスト、トリオ:アンダンテ・ソステヌート、④アレグレットで、第三楽章以降を聴いていますと、もし未完成交響曲の作曲作業が続いていたらこの弦楽五重奏曲のようになったかもしれないという想像は容易だと思えてきます。弦楽五重奏曲は、グレイト交響曲を完成させた後に着手しているので、時期的にも交響曲に関心が向いていたら本当にこんな風になったかもしれないと思えます。ハーゲン弦楽四重奏団の演奏で聴いていますと、例えばクリストフ・フォン・ドヴォナーニとウィーンフィルあたりの演奏をダウンサイジングしたようなイメージになってきます。

 作曲者のシューベルトはこれを書いている時、自身の十年後や三十年後という時間が念頭にあったのだろうかと、ふと思えてきます。

10 5月

若杉/都響/六番  若杉弘・マーラー交響曲第6番

Live recording on 26 January 1989

Gustav Mahler   Symphonie Nr.6 a-moll "Tragische"

若杉弘 指揮 東京都交響楽団(第三楽章はアンダンテ・モデラート、終楽章のハンマーは2回)

Wm6  タイトルが全部漢字のこのCDを見ますと、マーラーの音楽も日本に浸透していることが象徴されていると思えます。1989年は平成元年で、プラザ合意後の低金利時代に突入し、ワンレン・ボディコンでイケイケのバブル時代だったはずです。そのちょっと前までは、定期預金の利子が年7%とか嘘のような時代が続いていました。そうした世相とは関係なく、何か切迫したようなマーラー第6番です。若杉弘は、1966年の31歳の時に読売響の定期で既にマーラーの大の歌を振っています。40代でマーラー、50代でブルックナーをしっかり演奏したいと生前語っていたそうです。マーラーの方はフォンテックから東京都交響楽団との全曲録音がCDで出そろっていますが、ブルックナーの録音は宙に浮いたままになっています。

 ①22分43、②12分02、③13分38、④30分43、という各楽章の演奏時間です。若杉のマーラー演奏について次のような記述があります。~ 衝撃的なこともあった。例えば、東京都交響楽団とのマーラー交響曲連続演奏会も終わりに近づいた1991年のある夜の終演後、若杉弘を丁寧に聴いてきた人と立ち話になった。『怖いような美しさというか、凄味、というか』と私が言うと、相手は『ええ、怖いような、です』。あとはお互いに、言葉が続かなくなってしまった。このように、言葉を失わせてしまうような演奏に出会うことは、年に何回もない。また、そういう演奏を聴かせてくれる指揮者も、世界を見渡して、そう多くはない。 ~

 これは若杉・N響のブルックナー第7のCDの解説の中の富永壮彦氏の文章です。「丁寧に聴いてきた人」というのが何とも良心的な響きです。富永氏によると、「凄く耽美的なもの」と「何かに訴えずにはいられないもの」の二つに若杉弘は引っ張られていると、1970年代に若杉にインタビューした時に聞いたということです。その二つの言葉に象徴される要素は、マーラーの交響曲にとっても不可欠ではないかと思えます。

 世界的に、マーラーの交響曲をよく演奏して定評のある人で、ブルックナーも同じくらい得意にしている人は多くはないはずです。バーンスタイン、テンシュテッド、ベルティーニ、ノイマン、シノーポリ等はマーラーの交響曲全集は録音していますが、ブルックナーは数曲だけです。同じく、ヨッフム、ヴァント、カラヤン、スクロバチェフスキ等はブルックナーだけ全曲録音を完結しています。両方とも全集を録音しているのは、ショルティ、インバル、シャイーくらいですが、彼らもブルックナーとマーラーの両方で絶賛されるまでには至っていません。ブルックナーとマーラーでは演奏する側も聴く方も、両方を熱愛して愛好するのは無理があるような現状です。しかし、上記の文章では「耽美的なもの」と「何かに訴えずにははいられないもの」がブルックナー、ワーグナー、マーラーにも必要であると語られています。それを見てマーラーもブルックナーどちらも適当に好きな筆者はちょっと気を良くしています。

 このCDは音量を上げて聴かなければ演奏の細部まできこえず、そういう方針で録音したのかもしれませんが、少し損をしていると思いました。この第6番は、「何かに訴えずにはいられないもの」の方により強く突き動かされているかのような演奏です。ちなみに、富永氏等が聴いた1991年の若杉・都響のマーラー・チクルスは、1月が第8番、5月が第9番、10月が最終で大地の歌と第10番のアダージョです。話の内容と時期からして、おそらく第9番の演奏会の後での出来事ではないかと想像できます。このCD中の、第三楽章のアンダンテ・モデラートも、怖いような美しさに近いものだと思います。

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 「千利休 本覺坊遺文」という邦画がこの演奏会と同じ1989年に公開されました。男性しか登場しない映画ですが、映像自体が独特の美しさで、ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を獲得していました。もっとも、現実はその作品のようなきれいごとだけで成り立っているわけではないだろうと、内心思って独り鼻白んでいました。ともかく、その映画の中で、利休が京都を追放され、船で淀川を下るところを古田織部と細川三斎が見送るシーンがあり、そのバックで流れる音楽がマーラーの第6交響曲のアンダンテ・モデラートを連想させる寂しくも美しい音楽でした(多分マーラーではないと思いますが)。今、このCDを聴いていますと、あのシーンにこれを流してもピッタリふさわしいだろうと思えてきます。

  昭和50年代前半、TVコマーシャルでも関西限定かもしれませんが、詩吟調の節回しで「たかすぎぃ~~いぃ~」と連呼する声のバックで、命綱を付けて杉の枝うちをしている映像が流れるシンプルなものがありました。そのおかげで、タカスギという語だけは今でも覚えています。若杉弘も売り込んでくれるスポークスマンかセールスマンのような人が居ればもうちょっと人気が出たかもしれないと思えてきます。

9 5月

父子鷹も様々 C.クライバー/ベートーベン第4交響曲

・ カルロス=クライバー(父親は有名な指揮者 エーリヒ=クライバー) 指揮 バイエルン・シュターツオーケストラ ベートベン 交響曲第4番 (1982年5月3日 録音)

 のだめカンタービレの千秋真一は、天から二物も三物も与えられた人間(という設定)ですが、飛行機・船恐怖症、泳げないこと、小学生の頃離婚により離別したきり会っていない実父(世界的ピアニスト千秋雅之)への屈折した感情を弱点としてかかえています。現実の世界でも親子で音楽家として成功している例は、指揮者のエーリヒ=クライバーとカルロス=クライバー父子、同じく指揮者のネーメ=ヤルヴィ、パーヴォ=ヤルヴィ、クリスチャン=ヤルヴィ父子等が思い浮かびます。音楽界以外では、昔高校野球で東海大相模高校の原貢監督と辰徳父子が脚光を浴びました。プロ野球の球場でのヤジを集めた「おもしろプロ野球大百科」というLPがあり、その中で「万年刈り上げナーカハタ」、「ホワイト トイレット ピコレット」という屈託のないヤジに混じって、「おやじがでしゃばるターツノリ!」という辛らつなヤジがあり、印象に残っています。親子で同じ業界を生きるというのはなかなかむつかしいものがありあそうです。                   

                  Kuraiba

  カルロス・クライバー指揮によるベートーベンの第4番は、出た頃からこの曲の決定盤的、又は指揮者の天才的な能力を示す代表盤的なあつかいで、ことあるごと上記のジャケット写真が掲載され、内心苦々しく(全く個人的な好み)思っていました。クライバーは、この曲をウィーンフィルと演奏する際に意見が衝突して、以後長らく袂を分かったそうで、曲に対する思い入れも尋常でないのでしょう。また、クライバーは、特定のオーケストラの常任等のポストには付かないで、指揮するレパートリーも絞ってフリーランスの形で演奏していました。当然残されたレコードも多くはなく、その点はチェリビダッケに通じるとも考えられます。しかし、チェリビダッケが同業者をこきおろす批判(悪口)に対して、天国のトスカニーニからという体裁で、反論する文章を出版社へ送ったという逸話も残っています。

Kayabuki  千秋真一が、常任をつとめるオーケストラの定期で、チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、バッハ「チェンバロ協奏曲(ピアノで演奏)第1番BWV.1052」に続く3曲目として、ベートーベンの交響曲第4をプログラムに入れています。一曲目がベルク等ならクレンペラーの公演かと思える曲目です。のだめ作品中では、3曲目を振る前に、客席に十年以上会っていない父雅之の姿を発見し、動揺したまま演奏を始めて、途中でどこを演奏しているのか見失うという失態を演じ、コンマス等オケの力で表面上はとりつくろえて無事演奏を終える、という物語になっています。指揮者とオケの実力を示すはずの大曲で、千秋は初歩的な失敗をしてしまったのですが、父が聴きに来たからといってそんなに動揺するのは尋常ではない関係でしょう。

 カルロス=クライバーの父エーリヒは、妻(カルロスの母)がユダヤ系ということもあってかナチスと対立して、やがてアルゼンチンへ亡命します。カルロス=クライバーは、それ以降にドイツ語読みのカールからスペイン語読みのカルロスへ改名し、南米のパリ・ブエノスアイレスで音楽を勉強を始めます。その後、ドイツの劇場でオペレッタを指揮してデビューを果たしますが本名ではなく「カール=ケラー」という芸名を使ったそうです。父親が指揮者になることに反対だったからと言われていますが、父のエーリヒにはしっかり見つかり、公演後に電報が届いたそうです。普通に「勝手にしろ!」ではなく、とても迂遠で屈折したものがうかがえます。エーリヒは息子デビュー後しばらくして、1956年1月に他界します。しかし、その後のカルロス=クライバーの特徴ある活動ぶりを思えば、父親の呪縛のようなものがあったようにも見えます。同じ指揮者の父子でもネーメ=ヤルヴィの場合は、長男にフィンランドの有名な指揮者であるパーヴォ=ベルグルントの名から、パーヴォ=ヤルヴィと名づけているので、おそらく息子が音楽の道へ進むことは大賛成だったのでしょう。のだめの登場人物では中華料理の裏軒父子のような関係に近いかもしれません。(それかスパルタ式の英才教育でしごきまくったかも。)

 筆者は十代の頃、学校行事でクラス対抗の音楽大会のようなものがあり、それの指揮者をやったことがありました。実際、せーのーで、と演奏し始めれば済むことで指揮者は不要だと思うのですが、決まり事でしたので舞台に立っていました。ところが、本番では指揮者である私が棒を振る前に演奏が始まり、結果、あわあわと慌てながら指揮棒の方がピアノと歌の後を追う格好になり、面白い見世物になってしまいました。そら見たことか、ですが思えばその場で演奏を止めれば良かったのです。プロのオーケストラの世界でも、昨年末のN響とクルト・マズアの第九演奏会では、いったん演奏を止めてもう一度やり直すという珍しい出来事がありました。未熟もミスを犯しますが年にも勝てないところです。

 千秋真一も、いったん演奏を止めてもう一度最初からやり直せば伝説になったかもしれないと思えます。しかし、しまったという自覚、焦りや、ごまかそうという意識でそういうことはやはり無理なのだと思います。結論としては、偉大な父を持った者の苦悩ははかり知れないものがあるということでしょう。

 余談ながら、のだめの後半で父との再会で関係に変化が見られたので、以後の展開に期待が持てましたが、あっけなく連載が完結してしまいました。製作者サイドの都合であっけなく終わるのが常とは言え、少々残念でした。

  ( 写真は、京都府南丹市美山町のかやぶき屋根の集落。美山町で生産される緑茶が、道の駅で直販されているのですが、400グラムで955円という格安で、ついでがあれな買うようにしています。葉の大きさがそろっていない等値段からしますと当然ですが、100グラム当たり500円くらいは当然なので、この値段はたいしたものです。 )

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昭和40年代生まれ、オットー=クレンペラーの大フアンです。クレンペラーが録音を残したジャンルに加え、教会音楽、歌曲、オペラが好きなレパートリーです。

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